東京庶民が始まる

江戸・東京庶民の楽しみ 97
東京庶民が始まる
・江戸が東京となる
 慶應4年7月、江戸が東京となる。明治1年9月年号が変わる。この違いの経緯、江戸庶民には理解しがたいというか、考えもしなかったであろう。
 明治になって、それまで幕府によって制約を受けていたものが緩和されたり、制限が緩やかになったりした。その典型的ものは、祭と開帳で、万延年間(1860)までは延期や直前になってからの中止はあるもののそれでも数としてはけっこう催されていたが、文久三年(1863)以降は許可が降りず、めっきり少なくなった。幕府が崩壊し、新政府の体制がまだ十分に整っていない維新期に、再び、数多くの祭と開帳が催され、それに伴う見世物や市が賑わったことが伝えられている。
 上野の山の戦争が終わったからといって、庶民の生活が急に良くなるはずはないが、それでもやはり、安堵感は広がっていったのだろう。新政府の方でも庶民の懐柔策として、明治元年には天皇の東幸を祝し酒やスルメなどを下賜し、翌年春には皇居吹上御苑の参観を許すなど、以前より社会が良くなるようなムードを盛り上げた。また、両国川開きの際の花火が許され、上野の山は自由に花見ができるようになった。それになんといっても、それまで人々が自由に出歩くことを制限していた、町々の木戸が廃止された。その上、刀を差して威張って歩いていた武士が町から姿を消し、庶民は解放感に浸っていたと言えるだろう。
天皇の到着を祝う
 江戸が東京となった、明治(九月に改元)になってから最初の祭は、天皇が10月東京に着いたことを祝って行われた、11月の御東行御祝であった。町々に酒などが下賜され、運ぶ時には、幟旗を新調して竿の先に色々な飾り物を付けたりして、車に酒を積み込んで太鼓や鉦を鳴らしながら曳いていった。途中から行列に人々が混じって大通りを一緒に歩いたりもした。また、翌日には頂戴した酒の御酒開きだといって、多くの店が家業を休んで山車伎踊などを催した。中には獅子舞を舞う人もいたという。昼夜を問わず飲んで騒いだので、夜が明けたのに気づかず驚く人も多かった。こうしたまるで祭礼のような町の賑わいは三、四日間続き、江戸時代の祭を思わせるような賑わいだったという。
・瓦版から新聞へ
 新聞のなかった江戸時代において、瓦版は、世の中の情報を知る手頃な媒体として、庶民の間で人気のある読み物だった。それも、現代の写真週刊誌のように、興味本位な卑俗な内容が多く、それをわかりやすく記述しているのが特徴だった。瓦版(かわらばん)という呼び名は、幕末の文久三年ごろから使われたもので、それまでは「絵双紙」、「読売」などと呼ばれていた。
 スイス遣日大使アンベールは、町で売られていた瓦版に注目し、「瓦版売りは、鼻にかかった声を出す、人のよさそうな爺さんで、つい先日、執行された獄門〔処刑〕の顛末を節をつけて機械的に繰り返す。そして、たえず、おもむろに、客が差し出す金と引替えに、瓦版を一枚一枚手渡しているが、彼は印刷物の包を肩から左腕にかけて背負っている。江戸の瓦版や新聞には、市中の珍しい出来事は申すまでもなく、短いお触書〔告示〕もあり、挿絵入りで、もっとも興味のあるヨーロッパの事件まで掲載されている。」(『アンベール幕末日本図絵 下』高橋邦太郎訳 雄松堂出版)と書いている。
 また、アンベールは、瓦版が政治問題を扱っていないことや、国史に関するものでさえ、編集した年代を示していないことを挙げている。このように瓦版が、欧米の新聞とは違うことを指摘してはいるものの、定期刊行物の発行の萌芽として認めている。特に、瓦版の中に、アメリカのリンカーン大統領や南北戦争、マリメック号とモニター号の戦闘を扱った記事などがあることを指摘し、この種の情報が入ることは、時がたつにつれて、日本の庶民が政治的に啓蒙されるということを予測している。
 瓦版は、ニュースだけでなく、庶民の趣向に応じた娯楽読み物という面を持っていた。内容は、パロディーや機知に富む読み物から世間で評判になっている事柄など多種多様であったようだ。形式は大半は一枚刷りであるが、時に手書きの瓦版や写本もあったらしい。瓦版は、火事や心中、仇討ちなどの話が多く。特に、心中や仇討ちは面白おかしく脚色された。瓦版の情報は必ずしも正確とは言えず、客観性に疑問のあるものも多い。そのため、内容が低俗で、下賤な河原者たちの刷り物、という意味から瓦版という名前になったとも言われている。
 ところで、嘉永六年の黒船来航の際には、「異国船の儀に付妄説等致間敷」という布令が出たので、瓦版を売り出せなかったというが、それは表向きの話で、ペリー来航の年、「嘉永六年」を「文永七年」などとでたらめの年号にかえて、出したものもあったらしい。黒船の来航以降、幕府の禁令にもかかわらず、瓦版ブームが起こり、嘉永安政年間に発行されたものだけで、四百種近くにのぼったと言われている。その後も、地震や火事、「和宮の江戸下向」「英米仏蘭連合艦隊の下関砲撃」「禁門の変」「長州征伐」「鳥羽・伏見の戦い」などニュースの材料になるような大きな事件が相次ぎ、瓦版の人気はますます高まっていった。
・新聞の講読
 しかし、この瓦版も明治維新とともに次第に姿を消し、新聞に領域を奪われた。これは新政府が出した出版物取り締まりの法律によって刊行が難しくなったためでもある。新聞の発行は、文久二年(1862)、「官板バタヒヤ新聞」として江戸御用書店、萬屋兵四郎方から発売された。このバタヒヤ新聞は、幕府が広く世界の情勢を一般に認識させるために発行した。つまり、外国との通商を開くに至った幕府の立場を釈明して、攘夷論を抑えこもうともくろんだものと考えられる。
 また、新聞は、長崎や横浜での刊行が盛んで、特に長崎では英字新聞が早くから発行されていた。なお、江戸に近い横浜の外人居留地でも、元治2年に日本語で書かれた海外新聞と題した新聞が、また、慶応3年にはイギリス人ベリーが萬国新聞紙を発行した。
 海外新聞は、ジョセフ・ヒコ(子供の頃、乗っていた船が遭難し、アメリカ船に救出され、かの地で教育を受けた播州彦蔵のこと)によって発行された。彼が新聞を発行しようと思ったのは、神奈川の役人たちがさかんにヒコを訪ね、外国のことを知りたがったからであった。発行すれば彼らはまっさきに購読してくれるだろうと期待していた。新聞の内容は、国内外で発行された英字新聞の中から関心がありそうなことを翻訳して記事にした。発行部数は百部程度で、海外新聞の値段は、一部五百文、年間購読料は前金で一両二百文であった。
 ちなみに、この海外新聞が売れたかと言えば、定期購読者はたった2名だったという。買い手のつかない新聞は結局は無料提供ということになり、経営は成り立たなかった。当時、米、味噌、塩などが値上がりする一方で、日雇い生活者の賃金は一日十四、五文で、米を一升ほど買えばすっかり消えてなくなるという状況だった。したがって、一部五百文もする新聞など、庶民はもちろん武士でさえ購入をためらい、まして一両二百文もの金を前払いするような人はほとんどいなかった。
 前述の「官板バタヒヤ新聞」も、幕府要人や大名を対象としていたため、市販されても、一般の日本人の目に触れることはなかった。そのため、発行部数も少なく、採算を考慮したものではなかった。また、萬国新聞も、国内の生のニュースは扱ったが、紙面の中ではごく一部でしかなかったので発行部数は少なかった。しかし、それまで新聞というものを知らなかった日本人に、読んだ者から口伝えで広まり、新聞というものの存在を徐々に認識させたという功績は大きかった。たとえば、八丈島民の遭難事件(救出された36名のうち、35名がイギリス船で無事に横浜に送られた)や、兵庫の開港(幕府の布告より二ヵ月前に報道)など、速さと正確さが示された。なお、萬国新聞紙は、結局、明治2年に廃刊になってしまった。廃刊に至った最大の原因は、印刷方法と高い料金であったのだろう。印刷は板木に文章を彫っていくやり方だったため、刷る部数が限定されてしまった。当然のことながら、講読料金は高くなり、米の値段から概算すると、新聞一部につき、大体三升くらいの米が買える値段がついたらしい。
・中外新聞と太政官日誌
 国内ニュースを日本語で出版した最初の民間新聞は、中外新聞である。なお、京都においては、中外新聞の創刊と同じ慶応四年二月に、新政府が政策や布令などを一般に知らせることを目的として「太政官日誌」という一種の新聞形式の印刷物を発行している。これは、和紙に木活字で刷り、二つ折りにして表紙をつけたもので、後の官報である。太政官日誌は、本屋を通じて売りに出されたが、実際には中々手に入らなかったようだ。
 この年(明治元年)は四月から五月にかけて江戸や横浜では急に新聞の発行熱が高まり、発行紙数は、十数種にのぼった。その先鞭をつけたのが、慶応4年2月創刊の中外新聞であった。中外新聞も翻訳記事が少なくなかったが、次第に国内の記事が多くなり、各地からの通信や投書をもとに紙面を構成するようになった。中外新聞は佐幕色を帯び、佐幕派の読者が多数ついたこともあって、最盛期には千五百部もの部数を数えたという。もっとも、中外新聞の報道は、他紙に較べて迅速ではあったが、佐幕派の寄稿を風説やデマにすぎないとわかっていて掲載することもあった。そうした一種いい加減さにもかかわらず、一号から八号までが全て売り切れ、再版どころか合冊して出版するほどの好評を得た。中外新聞が世間から注目されるようになったきっかけは、上野の山にたてこもった彰義隊と官軍の戦いについて、総攻撃を加えた翌日、早くも中外新聞別段新聞という号外を発行し、戦いの状況を詳細に伝えたことによった。
 また、中外新聞に続いて発行された新聞には、「内外新報」「公私雑報」「諷歌新聞」「江湖新聞」「遠近新聞」「横浜新報もしほ草」「日々新聞」「新聞事略」「そよふく風」「東西新聞」「此花新聞」「外国新聞」「海陸新聞」「渡航新聞のりあひばなし」などがある。
 このように多くの新聞が発行されたのは、戊辰戦争に続いて上野戦争という恰好の報道材料があり、大衆も戦況の展開に興味を持っていたからであろう。
 が、これらの新聞は、戦争関係の国内ニュースが多かったこともあって、日本の治安が安定し、新政府が全国を支配した明治2年には、大半の新聞が消滅した。中外新聞などごく一部の新聞が再刊されたものの、もはや読者から歓迎される状況にはなかった。二つの勢力の睨み合いが続き、その勢力が拮抗していると思われたからこそ佐幕系新聞の人気も高まったのであって、幕府勢の完敗の後は新聞への関心は急速にさめていった。では、なぜ明治のはじめに出た新聞が一時で消え、広がりを持てなかったのだうか。おそらくそれは、新聞は瓦版の亜流という認識が抜けきれず、知識階級からは下種なものと軽んじられ、庶民が毎日のように買うには値段が高すぎたためだろう。
 もっとも、一時的なもので、また、大多数とはいえなかったが、人々が新聞という新しいメディアの出現を知ったことは、大きな意義があった。読者が抱いた新聞への関心と興味は、新聞がその後発展していく土壌を培養した。

明治1年1868年 
7月○江戸を東京と改称
7月B歌舞妓芝居見物僅少/武江年表
7月B生活苦の武士、骨董屋や露天商等を開く
7月B湯島天神下自性院で元三大師の画像を拝ませる
8月E五代目菊五郎が「梅照葉錦伊達織」を襲名上演する/日本演劇史年表
9月○改元明治元年となる
9月B堀内妙法寺祖師開帳、参詣人多数
9月E歌舞伎界不況打開に、中村座守田座が合併興業を行う
9月○市村座の策師参謀・河原崎権之助が惨殺
10月B御鳳輦(ホウレン)東京に着き、貴賤老稚児道路に輻輳して拝し奉る
11月Ⅹ興行場内の帯刀禁止/太政官日誌
11月B天皇、東幸を祝し東京市民に酒・鯣など下賜
11月B山下御門内薩摩侯陣営の稲荷社で祭礼、相撲見物もあって町人参詣し、酒下賜される
11月B南八丁堀で西洋の歌舞妓狂言に相当する芝居あり
11月○菊の御紋を器物等につけることが禁止
12月B写真鏡の技術が広がり、場を構えて客を撮るようになる
12月Ⅹ富興行の禁制
上記の月に続く記号は、以下に示す出典名の略。出典が複数ある場合は、代表的な資料をあげる。
A東京朝日新聞   武江年表  C朝野新聞    Dそよふく風  日本演劇史年表  F国民新聞  G時事新報  H郵便報知新聞  I万朝報  J日本(日本新聞)
K仮名読新聞(カナヨミ)  L東京絵入新聞  M都新聞    Nあけぼの東京曙新聞 O東京横浜毎日新聞  P花の都女新聞新聞  Q新聞雑誌   R東京日日新聞 
上野動物園百年史  Tいろは新聞  U中外商業新報   V二六新聞  
W読売新聞   太政官日誌