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『尺素往来』に記された植物その1

…いる。さらに、『日本庭園の植栽史』(飛田範夫 京都大学学術出版会)に記された「『尺素往来』(15世紀)の庭園植栽」での解析も踏まえている。 『尺素往来』には、庭に植えられた(庭上之景)植物だけでなく、「名香」「茶子」「菓子」などの項目にも植物名が記されている。たとえば、「青梅。黄梅。枇杷。楊梅。瓜。茄。覆盆子。岩棠子。桃。杏。棗。李。林檎。石榴。梨。柰。柿。(ホシカキ)。栗。椎。金柑。蜜柑。橙橘。鬼橘。柑子。鬼柑子。雲州橘」などがある。これらは、「前栽植物」に記されなくても、…

『山科家礼記』に登場する植物・その2

…は、十五世紀の立花や庭園で使われていた植物の種類と考えてよいだろう。 そして、『山科家礼記』を取り上げた大きな理由、植物名の出現頻度を検討できることに注目したい。花伝書は、花材の種類については示されているが、使用頻度については触れていない。そのため、どのような植物がどのくらい使われたかについては、推測しようがなかった。ところが『山科家礼記』のおかげで、十五世紀の花材の使用頻度を知る手がかりとなりそうだ。そこで、『山科家礼記』に記された植物名がどの程度出現するか、その頻度を調べ…

『山科家礼記』に登場する植物・その1

…以上あろうが、立花や庭園などで使用されたと思われるデータは約160である。 記されている植物名が食べ物なのか、建築用材などを指すのか、それとも立花などに関連する植物なのか判断に迷うものがある。たとえば、文明十二年(1480)六月に「さゝけ」が3回出てくる。それも「一鉢」とあり、ササゲの鉢植を連想させるが、ササゲはつる性植物であり、立花や庭の修景に使用するとは考えにくい。そのなかには「禅宗さゝけ」と書かれているように、インゲンマメである可能性もあり、「さゝけ」は食べ物と判断した…

和のガーデニング 9

…た環境を取り戻せば、庭園や公園でも、案外簡単に様々な野草を鑑賞することができる。 (以上は、環境緑化新聞http://www.interaction.co.jp/publication/news/ 4月15日号掲載) ○クマガイソウの群落ができるまで クマガイソウ植栽の具体的な経緯を示す。場所は佐倉市の南東部、宅地化する以前は、丘と丘の間の水田であった。宅地として造成され、取得した当時は、セイタカアワダチソウが一部に生育し、ススキ、アズマネザサの薮、ヌルデが何本か生えているよ…

和のガーデニング 4

…けだろうか。日本風の庭園に花を植える際も、色とりどりの外来種を平気で植えてしまう。花を飾るなら満艦飾の花束とでもいうような形態、そんなガーデニングが幅を効かせている。このようなガーデニングを、これからも推し進めることが果たして望ましいことだろうか。もちろん、花の美しさを追求することに異論はないが、そうした風潮にはやはり違和感を感じる。 こうした傾向に疑問を持ったのは、私だけではなさそうだ。それも、百年も前の明治時代に、外国人が苦言を呈していた。それは作家の小泉八雲である。八雲…

和のガーデニング 3

…した植栽) 日本庭園と盆栽、スケールはまったく異なるものの共通する部分は多い。さらに言えば、鑑賞に求める本質は同じではないだろうか。というのは、日本庭園も盆栽も、三次元の造形に留まらない時間の芸術だからであろ。双方とも、四季の変化はもちろん、時代を超えて存続することを前提に作られている。 なかでも注目したいのは、年間を通して観賞に堪えるという事。日本人なら当前のことと思うだろうが、四季折々に植物を楽しむということは、日本の気候を前提に成立している。ヨーロッパの人たちは、冬に植…

江戸時代の椿 その22

…戸では二月と三月に、庭園用の八重咲きのはもっと早く咲く。しかしこの樹は、庭師の手を煩わすには数が多すぎる。わが国の温室育ちの均整のとれた完全な八重咲きは日本では見られない」と言外に驚きを込めて『オイレンブルク日本遠征記 上』(中井晶夫訳)に書き記している。 ・『草木図説』 『草木図説』は、リンネの分類法による日本最初の植物図鑑である。図鑑は、飯沼慾斎によって執筆され、草部20巻が1856年(安政3)から62年(文久2)にかけて刊行された。木部10巻は未刊行であったが1977年…

茶庭 26 小堀遠州 その11

…いる。それに対し、「庭園と露地」は、図面が少ないこともあって踏み込みが弱いようである。それでも、「作庭家・小堀遠州」というイメージが強く感じるのは、私の中に「庭づくりの遠州」という思い込みがあったからだろう。そしておそらくは、森蘊の頭の中にも、「庭づくりの遠州」という思い込みが少なからずあったと思われる。 『小堀遠州の作事』には、「小堀遠州は立派な建築計画家であると同時に、庭園の意匠の方でも抜群のものを持っていた」と書いてある。これは現代でも同じで、優れた建築家は作庭について…

江戸時代の椿 その15

…月六日、原の植松氏の庭園で「ここで私は、原に非常に有名な植物園があると聞いたので、ドクトル・ビュルガーと先発し、数時間後に原に着いた。日本風につくられたこの庭園は、私がこれまでにこの国で見たもののうちでいちばん美しく、観賞植物も非常に豊富である。入口には木製の台があり、いくつかの岩を配し、植木鉢には人工的に枝ぶりによく作ったマツの木がある。人に好かれているアンズ・サクラ・クサボケ・エゾノコリンゴ・カンアオイ╶╴ラン科の植物は地面にきちんと並べてあった。また近くにはツツジが群れ…

茶庭 25 小堀遠州 その10

…その10 大徳寺方丈庭園の石組 遠州の作か否かという論争は昔からいくつもあって、たぶん未来永劫結論は出ないだろう。何を根拠に遠州作と主張するのかという点から始めても、同じだろう。身も蓋もない言い方かもしれないが、そのほとんどは最初から結論があって、それに都合のよい資料だけを揃えて、論駁しているように思える。かなり公正な立場から研究した森蘊の『小堀遠州の作事』にしても、やはり若干の思い込みがあったのではなかろうか。 森蘊は、『小堀遠州の作事』で、遠州が作庭したと伝えられる庭の真…

茶庭 24 小堀遠州その9

… また、小堀遠州の庭園について美辞麗句で解説している本はあるものの、具体的な形を示すには至っていない。その点、森蘊の『小堀遠州の作事』は、「遠州好み」の要件を適切かつわかりやすく納得できるものだ。そのため、森蘊の指摘を正しいものだと信じて、流用しがちである。だが、現在、遠州作と伝えられている庭園は、『小堀遠州の作事』に示す「遠州好み」の要件を本当に満たしているのだろうか。 要件とは、これまでにも述べた「角度の知覚」「加工石の挿入」などである。が、そもそも遠州の関与した庭園がそ…

茶庭 23 小堀遠州その8

… 桂離宮のみならず、庭園の大半は設計者の断定が難しく、また特にその必要もなかったのだろう。末端で庭づくりする職人が同じ人たちであれば、ディテールが似てくるのが当然である。それは、当時の作風の特徴の一つとして理解すべきであろう。 小堀遠州の設計 17世紀になると、作事業務の複雑化から総指揮者・設計者という人が必要となり、設計図が記されるようになった。その結果、遠州の存在が明らかになり、遠州の力量を確認できるようになった。それまでは、設計図など作成すること稀であった。たとえば舟、…

江戸時代の椿 その10

… 廿一日 庭園海石榴折枝数種貰ふ 三月廿九日 海石榴さし樹を奥庭へ植る 四月廿七日 八過海石榴花壇にて又二尺余の虵を多治衛門とらへ殺す ・安永七年(1778)の日記 三月十七日 花壇のつはき見せる 六月六日 つはきの芽をさす 九日 杜鵠花・海石榴等の差芽を取 ・安永八年(1779)の日記 一月廿九日 つはき二株貰ふ 三月廿九日 海石榴花壇の縁を作らしむ 五月四日 海石榴の芽を取差す 六月三日 つはき差芽数十種貰ひ庭へ差す 八月十六日 つはきの花檀を植直す 九月廿四日 朝鮮つは…

茶庭 20 小堀遠州その5

…ら遠州作と認められる庭園は、10を越える程度だろうか。少ないように感じられるのは、絵画や陶器などの美術作品と比べるからであろう。構築物で、作者が明らかになっているものは、もともと意外に少ない。たとえば、金閣寺(正確には舎利殿)を造営したのは足利義満だが、では設計を担当したのは誰だろう。初層は寝殿造風、二層は書院造風、三層は禅宗様の仏殿風という異なる様式の構成。二層と三層だけに金箔を施しているが、初層は控えるという凝りよう、これなどは誰かが意図したことに違いない。このような素晴…

江戸時代の椿 その9

…でにマニラにある中国庭園で育てられていた植物で、その多くはロンドンの最先端の英国植物学者であるジョン・レイと薬用植物学者のジェームズ・ぺティヴァーに送られていたのだが、その結果は彼の著書"Herbs and Medicinal Plants in the island of Luzon,Philippines" (『フィリピン・ルソン島のハーブと薬用植物』)にまとめられた。 彼の最初の植物学の成果の積み荷は海賊の手で沈められて、失われた。東洋の植物に関するこの仕事の一部は、ジ…

茶庭 19 小堀遠州その4

…4 小堀遠州作の庭園その2 ・明正院御所 小堀遠州ならではの庭園デザインは、明正院御所の庭に展開されていると思う。優雅な曲線ではなく、直線をふんだんに駆使する造形である。日本の庭園といえば築山泉水、というパターンが今でも浸透しているが、それが左図(図は、宮内庁書陵部所蔵の明正院御所指図に花壇や芝を着色したものである。)のような形態であった。これは、当時の常識では思いもよらぬ斬新なデザインであったに違いない。 庭園は、常御殿の正面に展開され、あらすな(粗砂か)の先に芝の広場、堀…

茶庭 18 小堀遠州その3

…3 小堀遠州作の庭園 遠州ならではの独創性が発揮されたのは、建築より庭においてである。その理由としては、建物をデザインする際に行事や儀式に使われるため、また以前からの伝統や様式もあり、デザインの自由度は制限さることが考えられる。そのため、強烈な自己主張は控えざるを得ないのではなかろうか。それでも、遠州らしさが発揮されていると思えるのは、数寄屋であろう。詳しい形態については、茶書等に茶人の作品ならではという特徴が記されているので、ここでは触れないことにする。なお、この作風も織部…

茶庭 17 小堀遠州その2

… 南禅寺方丈庭園 遠州は、彼の父と同様、武芸では出世できないと考え、作事奉行として頭角を現そうとしたのだろう。茶の湯にも関心は高かったものの、30代からは、公務・作事に主眼をおいていたと考えられ、その力量は幕府の認めるところであった。そして、この頃から遠州に関する資料が数多く残されることになる。だが、遠州に関する資料は、千利休や古田織部に比べはるかに多いにもかかわらず、不明な部分が少なくない。それも、建築より庭園に関する事柄の方がよくわかっていないのでは。そのため、桂離宮や南…

茶庭16 小堀遠州 その1

…州の作事 日本の庭園作家で最初に思い浮かぶのは、小堀遠州だろう。庭づくりの名人というイメージは、広く浸透し疑う余地もない。ただし、茶の利休、庭の遠州は、共に後世の人々に伝説的なまでに信奉され、幾多の伝承や虚実入り混じった逸話の上にイメージが創られていると言ってもよいだろう。後世の人々は、これが遠州の庭だと言われれば、その通説を信じ、最初からその先入観で鑑賞し感動している。 遠州の名がよく知られているのは、彼の作だと伝えられる庭があちこちに存在するからである。だが、実を言うと、…

茶庭 15 古田織部その6

…田中正大が、『日本の庭園』で「主に織部聞書を中心にして織部の路地の復元を試み」ているので、参照されたい。私はそれに加えて、残された茶書以外の資料から推測してみたい。織部は、元和元年(1615)切腹を命じられ屋敷を召しあげられた。その屋敷を賜ったのが、藤堂高虎(小堀遠州は 高虎の娘を娶っている)である。「その敷地には、西本願寺飛雲閣や三渓園聴秋閤とも相通ずる『外観二重数寄屋造風の楼閤』が建てられていたとしている。またここには露地もしつらえられており、『雍州府志』には『茶亭并露地…

茶庭 14 古田織部その5

…、田中正大が『日本の庭園』で詳しく述べている。田中は、織部らしい特徴、すなわち、敷松葉、切石、織部燈籠などをわかりやすく説明しているが、いずれについても織部が創作したとは断言していない。むしろ歯切れの悪い、「ただ何回も指摘したが、織部流と織部とは別に考えねばならぬ」という表現で、含みを持たせている。 特に織部燈籠については、「織部聞書には竿の上部の丸いふくらみについて書かれていない。織部燈籠として大切な特徴とされているが、この点に触れていないのは残念である」と述べている。さら…

江戸時代の椿 その2

…再建されたもの。方丈庭園には、後水尾天皇お手植えと伝えられる侘助椿があるが、何故か承章の日記には見当たらない。 ★1650年代(慶安~承応~明暦~万治年間) 椿の贈答・お手植え ・『隔蓂記』 慶安三年(1650)三月十四日 吉權三郎椿持参仕。飛入見事花驚目也 三月二十四日 宇佐椿・諫早椿両本投以錐公也 慶安四年(1651)十月二十八日 町椿を遣わす 明暦二年(1651)三月七日 仙洞、椿花十輪致拝領也 三月廿二日 仙洞、椿花十一輪拝領 鹿苑寺内でツバキが増えたからだろう、鳳林…

江戸時代の椿 その1

…び入れたという三宝院庭園を、完成させた人である。 秀吉の残した庭園を綿々と手直しした准后、おそらく、機を見ることに敏な人物であったのであろう。家康がツバキが好きなのを察して、秀吉の好みとは異なる白椿を贈ったのであろう。白椿の木は、もちろん准后の目の届くところで、醍醐寺境内、あるいは三宝院に植えられていたものかもしれない。彼は、庭づくりや植物に非常に関心が高く、亡くなる元和十年(1624)までの二十七年間も、三宝院庭園にまつわることを日記に記している。もっとも、庭いじりが好きで…

茶庭 12 古田織部その3

…丈建築の復興に伴い、庭園の修理を依頼されたので、詳細に実測し、土砂が堆積し石組がかくれたところがあるので、地表を少し掘り下げたところ、桔山水の流れの末の方で、その両岸の石と、川底の玉石とが突如現われ出たのである。一見新しく設計し直したように見えるけれども、倒れかけた石を起したり、植栽をし直したりしただけのことである。」と、『日本の庭園』(森蘊)に書いたものである。修理前の庭園写真は、『日本の庭園』(森蘊)より転載したもの。修理後のものは、平成十一年(2011.11)に撮影した…

茶庭 11 古田織部その2

…らない。」と『日本の庭園』で述べている。 利休や織部が活躍していた時代には、路地の形態は、茶人にとって最重要な課題ではなかっただろう。茶室の置かれた環境に応じて、適宜に整備していたのではなかろうか。他所の路地を参考にして、飛石を据え直したり、灯籠や手水鉢を変えたりすることも少なからずあっただろう。特に、路地に松葉を敷いたり、砂を敷きつめたりする時には、不都合があれば石などは簡単に取りかえていただろう。 利休の弟子のなかでもとりわけ、織部と細川三斎は、利休の最後を淀の渡で見送っ…

江戸の盆栽 1

… 奇品盆栽は、江戸の庭園の大半が明治期になって、荒廃したのとほぼ同じ運命をたどった。多くの盆栽が置かれていた旗本屋敷は、大半が上地され盆栽の置き場は失われた。また、江戸に残った旗本も、経済的に困窮し、盆栽の栽培から手を引かざるを得なかった。 明治になり、武家屋敷は取り壊され、庭園は桑畑や茶畑にされた。庭園が廃棄されたことによって、江戸の植木屋の仕事は激減した。「江戸の三代植木師」として知られ、最も羽振りのよかった三河島の伊藤七郎兵衛でさえも没落する有様であったから、他は押して…

茶庭 7 千利休その3

… ・・・茶庭という庭園様式の形成を利休ひとりの創意に帰するわけには、無論、いかないだろう。しかし露地の敷石は、利休が大徳寺の門前に不審庵を建てたとき、西芳寺のそれを見て初めて露地に導入したといわれているし、自然石の蹲踞は利休好みと伝えられている。その他、石燈籠の露地への導入は利休の創始であり、中潜りにつける猿戸も彼の作為によるといわれている。・・・不均整な飛石の配置や、燈籠、蹲踞、植栽などによって構成される露地の凝縮された空間は、想念の世界における深山幽谷の象徴的再現であり、…

茶庭 6 千利休その2

…年、それに加えて主な庭園の作庭が開始された年を示すと以下のようになる。 ☆茶庭関係者 ☆茶書成立 ☆庭園の作庭 1580年~ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山上宗二記・・・・・・・・・・・・ 1590年~ 90山上宗二 91利休 93宗久 98秀吉没・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・98三宝院庭園 1600年~ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・03…

茶庭 4 豊臣秀吉その2

…通路という空間から、庭園としての様相を示すものである。 秀吉は利休の「わび茶」を押し進める一方で、天正十三年に大徳寺見院の茶会、天正十五年の北野大茶の湯という自由な発想の茶会を開かせている。このような俄か茶会では、茶室・茶席への通路(路地)は、臨機応変な対応を求められる。いくつもの茶室を結ぶ通路(路地)は、以後の数寄屋(茶屋)をつくる際に参考になったと思われる。 秀吉は数寄屋を舞台に、利休の目指す「わび茶」とは異なる茶屋遊びへと向う。北野大茶の湯に招かれたにもかかわらず遅れた…

茶庭 3 豊臣秀吉その1

…ようとする茶庭や大名庭園の成立、発展に結びつくのである。 茶会の花 そこで、ガーデニングということで花や庭に関連することを中心に見て行こう。秀吉が花や庭に本格的な関心を持ったのは、本能寺の変(天正十年1582)以降ではなかろうか。華やかな桃山文化のパトロン兼理解者として、文化活動を積極的に推進するのは、やはり天下を取ってからだと思える。前述のように、秀吉は芸術面の素養が深く、また若いころからの城づくりの経験から、造園の分野に対しても見識の高かったことは言うまでもない。ただ、墨…