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戦前世相の解説2

…競争などより享楽的な娯楽である、映画や演劇を貪るように楽しんだ。芸能よりもさらに享楽的なカフェーも、十七年まで増加し続けている。なお、当時のカフェー(喫茶店)というのは、女給さんがいて、お客の接待もするし、酒も置いてある洋風酒場のような趣であった。 四段階は十六年頃から。太平洋戦争へ突入する頃には、華やかなイベントはなく、花見や避暑まで制限され、市民が心置きなく羽を伸ばせる機会は少なかった。街行く人の服装もモンペやゲートルなどを身につけた非常時服が多く世の中全体が暗いイメージ…

戦前世相の解説1

…金になっているようだ。 八年頃から「東京音頭」流行、競馬や拳闘観戦などに熱狂する市民が増えている。また、正月、花見、海水浴、秋の行楽など季節ごとにドッと人が出かける傾向も強くなった。日々の重圧から逃れようと、ストレスを解消するためのレジャーが顕著になった。つまり、現実の苦しさにどのように対処するかという時に、耐えきれなくなって死を選ぶか、あるいは上手に忘れたり、気をまぎらわすために娯楽に走るかという違いであろう。 注) グラフに十五年までしか無いのは、データが無いためである。

娯楽再建も始まる昭和二十年六月

…み(昭和時代)268娯楽再建も始まる昭和二十年六月 六月は、沖縄が日本軍10万人、一般人15万人もの犠牲を出し占領された。それでも戦争を続けようとしたのは、地方都市が残っていたからではなかろうか。東京は壊滅的な状況であったが、古川ロッパが六月に慰問で訪れた青森(一日)、弘前(三日)、秋田(四日)、鶴岡(五日)、新潟(八日)、加茂(十日)、松本(十一日)、富山松本(十四日)、高岡(十六日)、金沢(十七日)、福井(十九日)、敦賀(二十一日)、小松(二十二日)、大野(二十三日)、片…

市民の動揺を抑える昭和二十年五月

…ことで、その意味でも娯楽・レジャーの効果が期待される。 ───────────────────────────────────────────────昭和二十年(1945年)・五月、ドイツ無条件降伏⑦、B29約250機による大空襲(24)、市民に落着きを取り戻さすためレジャーの締めつけが緩和する。─────────────────────────────────────────────── 五月に入ると、浅草では電気館、常盤館、千代田館、木馬演芸場など14館が開館。ロッパは二…

空襲に麻痺し始める昭和二十年四月

…われらの滑稽芝居は、娯楽本来の姿に立ち返ることを許された。もはや、国策を説く教訓の書は、要求されずに、お子様の喜ぶポンチ絵本を、提供することを許されたのである。かくて、われらアチャラカ芝居、と蔑称され、低級喜劇(もっとも高級と呼ばれたことも一度ある。それは高級娯楽追放の日だ) と嘲称されたところの、われらポンチ絵本は、今こそ都民の前に、本来の姿で、まみえることが出来るのだ--」とある。 ─────────────────────────────────────────────…

空襲の恐怖でも娯楽を求める昭和二十年二月

…264空襲の恐怖でも娯楽を求める昭和二十年二月 この年の冬は室内の水が凍るという寒さ、食料だけでなく燃料も不足、清沢洌は八日、「三十年の東京生活で知らない。炭はなく、本年の寒さは誰にもこたえる。本年の冬を通じ、先頃、一俵の木炭の配給があっただけである」と、当時の状況を記している。 二月には、東京への空襲が本格的になる。とうとう豆撒きもなくなり、出かけるところがなくなっている中、一日から二十日まで、日比谷公園で「B29機体展覧会」があった。十一日の祭日、古川ロッパは「B29の巨…

娯楽禁止が緩む昭和二十年一月

…み(昭和時代)263娯楽禁止が緩む昭和二十年一月 昭和20年(1945年)に入ると、戦局の悪化は米軍に対してだけでなく、中国でも始まっていた。しかし、軍部はまだ「本土決戦」に望みを抱いていた。国民のすべてが死ぬまで戦うというスローガン、「一億玉砕」はそれを端的に表している。 空襲におびえる市民の心を支えていたのは、偽りの戦果、戦意向上の叱咤激励に加えて、ラジオから流れる娯楽番組や映画・演劇などであった。その日の食べ物にことを欠く毎日、着の身着のままの生活ではあるが、焼け残った…

空襲下のレジャー昭和十九年十一月十二月

…、一月中位に、もっと娯楽は明朗なるべしといふ方針になるだらうと、いふことであった。」 三十一日、「『では今年の放送を終ります。良年を迎へ下さい』。然し、間もなく『東部軍情報/\』と始まった。敵は京浜地区に侵入、と言ってる間に、ブルーンブルーンといふやうなB29の唸り、カン/\と退避の半鐘。高射砲ドン/\と響く。・・・ラヂオは、新年の祝詞のやうなことを喋ってゐる。それにダブって、ブーンブーンと飛行機の音だ。何たる大晦日、何たるお正月。・・・」 ─────────────────…

遊ぶ意欲が衰退する昭和十九年七月八月

…べし」とある。 「鎌倉で海水浴禁止」、これは軍事上からのもので、レジャーを禁止したわけではない。地元民及び地元の各種学校は、江の島を除いて警察の許可が必要である。夏休みや納涼など、夏のレジャーに関する記事は皆無。あるのは、新橋演舞場『逃げた鶯』が好評の為続映Y⑲、新宿第一劇場の『瞼の母』A好評など、広告だけ。二十七日、ロッパは「ドイツは、いよいよ娯楽を全面的に封鎖したとのニュース。日本は、そこ迄行っちゃいない。とは言うものゝ、又役人どもが、すぐにドイツの真似を」と心配した。

それでもレジャーを求める市民・昭和十九年五月六月

…) 19日A 「工場娯楽は裃を抜いて」「名指しを待つ芸能人」 24日Y 千秋楽、国技館時代より多い十日間で四十万 29日A 外苑競技場で航空体育大会、観覧席に輝く母の瞳、観戦部隊十万 七日、高見順は、「大森の疎開の様子を見に行く・・・惨憺たり。商店街へ出る。理髪店、古本屋、映画館のほかは、閉店。開けているところも、品物がなく閉店と同じ。惨憺たり」と。市内のかつての商店街は、疎開させられどこも廃墟のようになっていた。 七日は大相撲夏場所初日、後楽園は満員。十四日の日曜日は、5万…

花見どころではない昭和十九年三月四月の市民

…は、映画や演劇などの娯楽より強烈に欲するものである。その楽しみさえ、ままならない状態になった。酒については、配給が「一世帯に月二合(五合から) 家庭用麦酒は据え置き」A⑪となる。 料亭・待合など店閉め、歌舞伎座・帝劇・日劇等が閉鎖、新聞の夕刊廃止など、廃止できそうなものは廃止する。全国で店閉める料亭・待合が九千八百軒もある。ほぼ一万軒であり、よくそれまで営業していたものだと。それに伴って、芸妓・女給が約一万八千人も転職することになるそうだ。 四日の朝刊には、「歴史を飾る料亭も…

買い出しもレジャーの昭和十八年秋

…満たなかった。東京は娯楽がたくさんあって、金の使い道には困らない。 ───────────────────────────────────────────────昭和十八年(1943年)十二月、学徒出陣①、競馬開催中止を決定⑰、戦局の悪化を知らぬ市民は、生活の困窮度が増しているのに前年と変わらぬ新年を向かえようとしていた。───────────────────────────────────────────────12月8日a 「宮城前を埋む赤子の群」 8日y 靖国神社へ、玉…

まだ残っている東京の楽しみ  昭和十八年夏

…俳優も待避、藪入りの娯楽街緊張 23日ro 有楽座「今夜も大満員」『芋と官軍』他 26日Y 学徒航空蹶起大会、後楽園に十万を集める。 31日Y 年中行事を止めよう、官庁の催し物も五分の一に調整 「旅客自粛まづまづ まだ耐えない不心得者」A③と、さらに旅行を制限しようとしている。まだ、「温泉巡り、聖地参拝」と称して観光客を募集し、団体旅行の世話をする旅行会社があった。「旅行会に大鉄槌」と、解散が命じられた。また、「お盆の帰省も制限」、「生徒の団体旅行に制限」A⑭。修学旅行でも正…

レジャーの制約が進む  昭和十八年冬

…日のように報道され、娯楽の制限されるなか大勢の人が関心を持ち、学生たちを中心にあちこちで観測された。 「威勢良く海軍省へ神輿獻納」と、東京市荒川区町屋の若衆一同は、春祭りを前に神輿の応召を決意。そこで、奉納を前に、決別を込めて威勢よく担いだとある。このほかにも、市内各地で神輿獻納が続いた。 ───────────────────────────────────────────────昭和十八年(1943年)三月、ダンビール海峡で日本輸送船全滅①、第一回防空服装日⑩、「撃ちてし…

欲しがりません勝つまでは、レジャー自粛の昭和十七年秋

…物相応の入なり」と、娯楽を求める市民が大勢いたことを荷風は記している。八日初日の日劇も「ついに日劇新体制以来のレコードを破った由」と、ロッパは気をよくした。演し物は、『歌うロッパ』『園芸百科事典』で、二十一日の千秋楽まで満員が続いた。特に十六日は、「靖国神社祭礼で世間は三日休みが続く由。日劇も九時開場でもう大満員」。十八日は「靖国祭で日曜、人出は大変。日劇、一回目からは大満員・・・今日は又レコード破りの大満員らしい」。 郊外での行楽を制限された市民は、市内で過ごさざるを得なく…

変わらぬ行楽の人出、昭和十六年春

…されているが、市民の娯楽に選択肢がなくなっている。制限はレジャーだけではなく、食べ物も厳しくなってきた。ロッパは十八日、銀座のモナミの二階で「ビフシチウとライスカレー。客は満員。みなシーンとして、学校の教室にいるように元気がない。運ばれる皿を、文句も言わずに待っている・・・この光景、時世の姿」と。 ───────────────────────────────────────────────昭和十六年(1941年)六月、迷信記載の暦を発禁①、独ソ開戦(22)。────────…

紀元二千六百年祝賀に躍らされる十五年秋

…はいずこも雑沓すること甚し。餓鬼道の浅間しさがを見るが如し。町の角角には年賀状を廃止せよ、国債を買え、健全なる娯楽をつくれなど勝手放題出放題の事かきたる立札を出したり。電車バスとも混雑して乗ること難し」と、荷風は十三日の日記に、この頃の世相を記している。 ロッパは、二十六日の夕方、銀座へ出て「大した人込み、何だか景気はいいらしい」と。三十一日には、「門松がお粗末なのだが並んでいる以外は、何処にも大晦日の気分は無い。お正月の来る感じは少しも無い。味気ない世の中だ」と書いている。

厳しい制約に順応し、出歩く市民 十五年夏

…感じたように、市民は娯楽を求めていた。 ───────────────────────────────────────────────昭和十五年(1940年)九月、劇場・映画館など早朝興行廃止①、雑貨品の公定価格決定⑥、北白川宮殿下国葬で音曲停止⑱、東宝が移動奉仕部隊結成(27)、六大学リーグ戦の試合数減少と自粛が増えても市民のレジャー気運はまだ高い。───────────────────────────────────────────────9月1日a 東京劇場「民族の祭典…

レジャー引締めが続く昭和十四年春

…さあすすまう! 国民娯楽日も必要だ」である。アメリカ、フランス、イギリスは、「娯楽のための娯楽」「休養のための休養」と、純粋に楽しむことを推奨している。それに対し、国家主導のドイツ、イタリアでも、「収穫祭や家庭慰安日には民謡、バラエティー、キャバレー或いはラジオ、演劇を通じて集団的な勤勉の喜びをたたえている、旅行部など二万五千屯の大汽船を八艘持ち、オリンピックを機に日本を訪れる話が進められたほどである。」と紹介している。 どちらにしても、レジャー引締めを強化している日本とは、…

レジャー自粛で盛り上がりを欠く十三年の春

… 12日A 非常時故娯楽場は槍玉、映画館等新設禁止 12日a 大相撲夏場所初日、前日の朝から詰めかけ夜十時開場 24日a 大相撲夏場所、後半双葉山連勝で五連続優勝などで沸騰し大入りを続け千秋楽 28日a 海軍記念日、帝都大行進 30日A 上野の戦争美術展、18日間で約6万人 30日Y 多摩川園で軍国デー「轟く三万人の大合唱」 一日、市内の人出は、外苑競技場に「二万余の観衆」、国防博覧会や動物園など相当賑わっている。相撲の人気は頂点に達し、初日前日の夜から開場する羽目になった。…

戦捷祝いに託つけて遊ぶ十二年の夏

…日まで点灯禁止の令あり。市中到処騒しく住民其職を抛って徒に狂奔するが如し。銀座三越は夕五時に閉店し歌舞伎座は休みとなれり。銀座辺飲食店大概七八時頃戸をしめると云う」と、日記に記している。 ロッパは、「夜の部も大した入りで補助を出し切った、近処の日劇も、列をなしている。四日間のくらやみで娯楽に飢えた姿である」と十九日の日記に書いている。二十五日から「円タクの深夜の流しが禁止」a⑦。秋の行楽を中止して献金を求める記事が目につく。「銀翼へ捧げる赤誠」a(27)など自粛ムードが浸透。

好景気に釣られる十二年の冬市民レジャー

…休息日で、映画館など娯楽施設が満員であったことから推測できる。また新聞は、建国祭の盛り上がりを引き継ぐように、「征旅十カ月、勇姿竌爽と都入り」と、歓迎の様相を写真と共に報じている。征旅十カ月がどの様なものであったか、市民はその実態を伝えること無く、まるでオリンピック選手の凱旋を彷彿させる印象を操作している。 ───────────────────────────────────────────────昭和十二年(1937年)一月、広田内閣総辞職(21)、陸軍火工廠板橋火薬製造…

政況や戦争には無関心の春の市民レジャー

…日記から、二日「玉の井稲荷の縁日にて人出多し」、七日「夜物買いにと銀座に往く。日曜日にて街上書生の泥酔するもの甚多し」、など市内の人出は五月から続いている。映画も浅草電気館などが満員御礼の広告を数多く出しており、市民のレジャー気運は高い。 「国民歌謡」の放送がはじまるが、流行歌『忘れちゃいやよ』のレコードが発売禁止になり、レジャーの規制は進んでいる。また、落語家や講談師など250名が愛国演芸同盟を結成、カーキ色折襟、戦闘帽の制服を作ったりと娯楽にも軍事色が徐々に浸透している。

大事件とは無縁の十一年冬の市民レジャー

…行街に流れた。正月の娯楽は、映画と演劇と言って良いほど。また、相撲人気を反映するように、春場所前日から詰めかけ、午前十時に札止めの盛況。取組み内容は、横綱を狙う男女ノ川が2敗するなど盛り上がりを欠いていたが、客の入りは千秋楽まで満員。これは、他に見るべきものがなく、レジャーの選択肢が狭いためだろう。 二十一日の諏訪根自子“渡欧の夕”は日比谷公会堂を超満員にした。また、二十七日の「歌の帝王」シャリアピンのリサイタルも満席。新しいものが提供されれば、何でも飛びつくようで、十三日に…

レジャーたけなわに向かっての八年秋

…読売新聞夕刊の「日曜娯楽」には、「映画とレヴユウのファンへの大きなお年玉は、近く開場される東京寳塚劇場、日本劇場、日比谷劇場の三館だらう。この三館に入場し得る人数を合計すると約一万近くになり、これらが揃つて、日比谷公園近くに並び立つといふことは、最近の興行界の偉観である。」と当時の娯楽の情況を記している。演劇には弾圧が始まったが、映画とレヴユウには、本格的な引締めがまだ始まっていない。 その情況は、日本劇場・・東洋一の偉観、詰めれば 優に五千人収容。日比谷劇場は工専費卅万円、…

一転してレジャー?の人出が増える六年秋

…はタブーとなった。 娯楽でも同様、闘争意志をもり立てるには、スポーツ観戦が最適である。勝ち負けに拘り、選手と一体となって応援する雰囲気、その興奮を伝える。スポーツならではの効果を、政府、軍は見逃すわけがない。野球くらいでは効果が薄いと思ったのか、神宮体育大会は、全国から一万人もの人々を集め、盛大になるように催している。 街中は、活気までとは言えないが、ザワザワするような動きが起きている。早慶戦で死傷者が出たり、招魂社祭礼の活況、明治節の盛り上がり、出兵兵士の見送りなど、人の動…

新聞のレジャーへの対応が変り始める六年春

…日比谷新音楽堂で家庭娯楽会に八千人 25日A 大相撲夏場所千秋楽、三四階席は鈴なりの満員 メーデーは、不景気を反映して「五万人」の大規模なデモと予想した。が、「物々しい警戒裏に メーデー大行進 一万五千の会衆に五千の警官」であった。これまで新聞は、どちらかといえば労働者側に立っていたが、この年から、「未曾有の大検束 八百五十名に上る」「象潟署長負傷す 石でなぐり付けられて」「松阪屋へ殺到 ガラス戸を破壊す」と書きはじめた。新聞は明らかに忖度をしている。 十日、装いを新たにした…

世知辛い遊び方が増えた五年秋

…び方が増えた五年秋 娯楽を求める人々の数はあまり減らないものの、世知辛い遊び方をする人たちが目に付く。十一月の初め頃までは、遊びの賑わいは前年と同じようであったが、浜口首相が東京駅で右翼に狙撃されると、一気に萎れてしまった。菓子やタクシー料金などの値下げが顕著になり、前年にも増してデフレムードが漂った。また、賭博や「エロ・グロ・ナンセンス」が流行するなど、社会の暗さが目に付く。その一方で、歳末の商売では高級品の売れ行きが増したとか。貧富の差が広がって行くようで、社会の不満は、…

遊びにも不景気浸透か五年春

…は過去の手工業時代の娯楽を失ひつゝある、場所とか根気とか長い時問を必要とする娯楽たとへば謡曲とかびわとかさうしたものの次第に隔絶して自ら大衆的な娯楽に走る結果となる、自然劇場が非常な勢ひをもって人々を集めてくるのだ、近頃の劇場狂景気時代の根源は大きくいへばそこにあると思ふ、それと同時に近年の失業地獄が劇場を賑かにしてゐることをいはなくてはならない、最近家には一人や二人の失業者を抱へてゐない家はないといっていゝ、然るに我國の社会状態はいまだに家族制度を保有してゐる、だから失業者…

変わりゆく大正時代の娯楽・レジャー

…変わりゆく大正時代の娯楽・レジャー・レジャーとしてのスポーツ 大正時代のスポーツと言えば、野球であろう。子供たちの間では、野球も相撲と同じように遊びの一つとして日常的に行われた。しかし、大人となるとまだ観戦が主で、実際にプレーする人は非常に少なかった。また、スポーツ観戦と言っても、球場や国技館にわざわざ出かけ行く人は少数で、市民の一割にも達しなかったと推測される。ナマで見ることが少ないわりに人気があったのは、新聞の存在が大きかった。シーズン中は毎日のように記事を掲載し、市民の…