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「観潮樓」の庭づくり・その1

…、下つてゐた。 南の茶庭は長く続いた垣根を距てて殆ど家の半面を巡つてゐる酒井(子爵)家と隣り合ひ、西は花畑とこれも垣根を距てて野村酒店に隣り合つてゐた。 洋室から表玄関に出る廊下の左側に、二階へ上る階段の真暗な入口があり、二階は十畳の一間で、この部屋を北から西へ廻る廊下の行きどまりの壁には小さな窓があつた。」(『父の帽子』「幼い日々」より) 鷗外一家が住んでいた頃、観潮樓の風格を増すように蔦が覆い繁っていた。この蔦については、於菟が『父親としての森鷗外』「観潮楼始末記」に、 …

茶庭 26 小堀遠州 その11

茶庭 26 小堀遠州 その11 遠州の露地への関心 森蘊の『小堀遠州の作事』を読んで改めて感じたこと、それは、遠州は建築家であるということ。おそらく、建物に関わる史料は豊富にあるのに対し、庭に関する史料が少ないためであろう。事実、記述の中心となるテーマは、数寄屋(茶室)を含む建築であり、建設の経緯を示し、図面付きで詳細な解説をしている。それに対し、「庭園と露地」は、図面が少ないこともあって踏み込みが弱いようである。それでも、「作庭家・小堀遠州」というイメージが強く感じるのは、…

茶庭 25 小堀遠州 その10

茶庭 25 小堀遠州 その10 大徳寺方丈庭園の石組 遠州の作か否かという論争は昔からいくつもあって、たぶん未来永劫結論は出ないだろう。何を根拠に遠州作と主張するのかという点から始めても、同じだろう。身も蓋もない言い方かもしれないが、そのほとんどは最初から結論があって、それに都合のよい資料だけを揃えて、論駁しているように思える。かなり公正な立場から研究した森蘊の『小堀遠州の作事』にしても、やはり若干の思い込みがあったのではなかろうか。 森蘊は、『小堀遠州の作事』で、遠州が作庭…

茶庭 24 小堀遠州その9

茶庭 24 小堀遠州その9 遠州好みのディテール 遠州らしさを形容する言葉に「きれいさび(綺麗寂)」がある。織部の作風を示す言葉に「ヘウゲモノ」がある。織部の場合は、まだ生存中の慶長四年(1599)、二月二十八日の『宗湛日記』に記されている。それに対して、遠州の「きれいさび」は、没後に生まれた言葉である。ちなみに「きれいさび」は、『大辞林』には「さびの中に優しさ・華やかさのある、明るく静かな風情。小堀遠州の茶風を示す言葉」とある。また、『骨董の知識百科』では「小堀遠州の茶の湯…

茶庭 23 小堀遠州その8

茶庭 23 小堀遠州その8 桂離宮と小堀遠州 森蘊は、遠州が桂離宮の作者である可能性について、a記録上、b意匠上、c政治的背景、d時問的余裕、e親王自作の公算、という視点から考察している。 a記録上 記録には、「親王白身の現場指導であることを暗示している。」と述べている。 b意匠上 「如何にもよく出来ている桂離宮の外腰掛前延段も、遠州の作意から見れぼ、まだまだだと言われはすまいか。」と、かなりきびしい評価で、「遠州が桂離宮の作者だとは断定できないように感じられる。」とある。 …

茶庭 22 小堀遠州その7

茶庭 22 小堀遠州その7 小堀遠州と茶花 その2 ・遠州の好みの茶花 小堀遠州茶会記に登場した花は、38種ほどある。現在使われている茶花に比べると意外に少ないと感じた。最も多く使われたのがスイセン(78回)、次いでウメ(56回)、ツバキ(30回)、サザンカ(23回)、ハス(19回)、コウホネ(15回)、ボケ(11回)、フクジュソウ(11回)の順である。これらの花は、寛永二年(1625)から正保三年(1646)まであまり変化していない。そのため記載のない、寛永六年から十二年ま…

茶庭 21 小堀遠州その6

茶庭 21 小堀遠州その6 小堀遠州と茶花 ・『小堀遠州茶会記集成』 小堀遠州の茶会の詳細についてまとめたものに、『小堀遠州茶会記集成』(小掘宗慶編集)がある。この本は、「二十三本の小堀遠州茶会記中より、重複を省いた三百九十二会の茶会記を日付ごとに編年体に編集した」ものである。これらの茶会記には、当然、数多くの茶花が記されており、遠州の好む花を知る手がかりになるのではないかと考えた。 これから紹介する茶花は、慶長年間の2回(以後の茶会と25年ほど離れているため)、及び年月日の…

茶庭 20 小堀遠州その5

茶庭 20 小堀遠州その5 小堀遠州の作意 『小堀遠州の作事』から遠州作と認められる庭園は、10を越える程度だろうか。少ないように感じられるのは、絵画や陶器などの美術作品と比べるからであろう。構築物で、作者が明らかになっているものは、もともと意外に少ない。たとえば、金閣寺(正確には舎利殿)を造営したのは足利義満だが、では設計を担当したのは誰だろう。初層は寝殿造風、二層は書院造風、三層は禅宗様の仏殿風という異なる様式の構成。二層と三層だけに金箔を施しているが、初層は控えるという…

茶庭 19 小堀遠州その4

茶庭 19 小堀遠州その4 小堀遠州作の庭園その2 ・明正院御所 小堀遠州ならではの庭園デザインは、明正院御所の庭に展開されていると思う。優雅な曲線ではなく、直線をふんだんに駆使する造形である。日本の庭園といえば築山泉水、というパターンが今でも浸透しているが、それが左図(図は、宮内庁書陵部所蔵の明正院御所指図に花壇や芝を着色したものである。)のような形態であった。これは、当時の常識では思いもよらぬ斬新なデザインであったに違いない。 庭園は、常御殿の正面に展開され、あらすな(粗…

茶庭 18 小堀遠州その3

茶庭 18 小堀遠州その3 小堀遠州作の庭園 遠州ならではの独創性が発揮されたのは、建築より庭においてである。その理由としては、建物をデザインする際に行事や儀式に使われるため、また以前からの伝統や様式もあり、デザインの自由度は制限さることが考えられる。そのため、強烈な自己主張は控えざるを得ないのではなかろうか。それでも、遠州らしさが発揮されていると思えるのは、数寄屋であろう。詳しい形態については、茶書等に茶人の作品ならではという特徴が記されているので、ここでは触れないことにす…

茶庭 17 小堀遠州その2

茶庭 17 小堀遠州その2 遠州の人物像 南禅寺方丈庭園 遠州は、彼の父と同様、武芸では出世できないと考え、作事奉行として頭角を現そうとしたのだろう。茶の湯にも関心は高かったものの、30代からは、公務・作事に主眼をおいていたと考えられ、その力量は幕府の認めるところであった。そして、この頃から遠州に関する資料が数多く残されることになる。だが、遠州に関する資料は、千利休や古田織部に比べはるかに多いにもかかわらず、不明な部分が少なくない。それも、建築より庭園に関する事柄の方がよくわ…

茶庭16 小堀遠州 その1

茶庭 16 小堀遠州その1 小堀遠州の作事 日本の庭園作家で最初に思い浮かぶのは、小堀遠州だろう。庭づくりの名人というイメージは、広く浸透し疑う余地もない。ただし、茶の利休、庭の遠州は、共に後世の人々に伝説的なまでに信奉され、幾多の伝承や虚実入り混じった逸話の上にイメージが創られていると言ってもよいだろう。後世の人々は、これが遠州の庭だと言われれば、その通説を信じ、最初からその先入観で鑑賞し感動している。 遠州の名がよく知られているのは、彼の作だと伝えられる庭があちこちに存在…

茶庭 15 古田織部その6

茶庭 15 古田織部その6 路地は庭の一部 「織部はわたりを四分、景気を六分に居申候」という文から、織部の路地について具体的に何が把握できるのだろうか。また、『宗甫公古織へ御尋書』(慶長十四年正月)でも、「一 踏地より、山又ハ何れのけいを見候事、木々の間よりすこし見申候かよく候や、山なとおく見へ候か能候やと尋ね候へハ、山其外景ハ木々の間より少シ見たるか面白由、山なとおく見候へハぶしほなる(景しきならさる)よし、是ニ付て引事に、三井寺にて宗長之(柴屋軒宗長)発句に 夕月夜 海す…

茶庭 14 古田織部その5

茶庭 14 古田織部その5 織部の植栽について 織部が利休以後の茶の湯で、一世を風靡したことは確かである。そのことを含めて、織部の路地については、田中正大が『日本の庭園』で詳しく述べている。田中は、織部らしい特徴、すなわち、敷松葉、切石、織部燈籠などをわかりやすく説明しているが、いずれについても織部が創作したとは断言していない。むしろ歯切れの悪い、「ただ何回も指摘したが、織部流と織部とは別に考えねばならぬ」という表現で、含みを持たせている。 特に織部燈籠については、「織部聞書…

茶庭 13 古田織部その4

茶庭 13 古田織部その4 織部の路地とは 古田織部に関する本は、千利休に比べると多くはないが、10冊以上出版されている。その中で、織部の庭についてはもちろん、路地について書いている本は少ない。『風炉のままに―数奇大名・古田織部』(高橋和島)のような小説の場合は、物語の上で必要がなければ触れないだろう。だが、茶の湯に関する本であれば、路地について何らかの考察や見解があってしかるべきと思っていた。ところが、茶道の世界では大御所である桑田忠親(『古田織部 人と茶と芸術』『古田織部…

茶庭 12 古田織部その3

茶庭 12 古田織部その3 古田織部の作庭 織部がつくったと伝えられる庭が南宗寺にある。この庭は、森蘊が「戦災で荒れはてていた南宗寺本坊の方丈建築の復興に伴い、庭園の修理を依頼されたので、詳細に実測し、土砂が堆積し石組がかくれたところがあるので、地表を少し掘り下げたところ、桔山水の流れの末の方で、その両岸の石と、川底の玉石とが突如現われ出たのである。一見新しく設計し直したように見えるけれども、倒れかけた石を起したり、植栽をし直したりしただけのことである。」と、『日本の庭園』(…

茶庭 11 古田織部その2

茶庭 11 古田織部その2 茶の湯隆盛に伴う路地の発展 茶の湯が盛んになれば、当然、数寄屋(茶室)と路地の整備が増えてくる。十七世紀に入ると、路地が数多くつくられるとともに様々な形態の路地がつくられたものと思われる。多様な路地がつくられていたことについて、田中正大は「だいたい、二重路地でもこの鐘のことでもそうだが、織部が創案したと伝えられているものの中には、それ以前の無名の人が始めたものもあったと考えられる。当時は未だ型にはまったものでなく、多くの茶人たちはそれぞれに創意をし…

茶庭 10 古田織部その1

茶庭 10 古田織部(1544~1615年)その1 織部の茶の湯と茶書 吉田織部(重然)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武将である。重然(織部)の名が茶会記に初めて記録されるのは、四十歳の時である。若い頃は茶の湯に関心がなかったようだ。利休の死後、秀吉の御伽衆を務めた頃から、茶の湯で名声を得ている。それ以後は、目覚ましい武勲はなく、武将よりも茶人として認められ、家康に仕え、秀忠の茶の湯指南を務めている。それによって、織部は茶の湯を通じて朝廷や大名など幅広い人々とつなが…

茶庭 9 千利休その5

茶庭 9 千利休その5 利休と花 利休と花にまつわる話は、「朝顔の説話」などいくつもある。それらの話は、利休の巧妙譚を示すもので作為的な話が多い。また、それらは、茶道の心得を教授するための話としても、茶書などに記されている。ただし、茶書は、話の真偽に重きを置くものではなく、茶の湯の精神を解説するのに用いている。茶道を実践するために書かれたものであるから、利休なら花をそのように取り扱っただろうと、読む人がイメージしやすい話であればよい、ということだろう。 利休が路地にどのような…

茶庭 8 千利休その4

茶庭 8 千利休その4 利休の茶庭を構成する具体的なものを記した史料がないものかと探すと、「植栽樹種」と「手水鉢」に関する史料が見つかった。どこまで利休の茶庭に迫れるかを試みた。 利休が植えた樹木 茶庭について、具体的な形を求めた意欲的な研究がある。それは、『茶庭における植栽の変遷に関する史的考察』(浅野二郎他)である。茶書をもとに茶庭の植栽の変遷を研究したものである。その中に、利休が茶庭にどのような木を植えたかが示されている。 茶書には、茶庭に植栽する際の注意事項がいろいろ…

茶庭 7 千利休その3

茶庭 7 千利休その3 利休の茶庭 利休自身が作庭という視点をどの程度持っていたかは、結局よくわからない。利休の茶庭に関する記述は、全体に凡庸なものである。意図を伝えようとするのはわかるが、具体的な形としては把握しきれていない。ほとんどが「いわれている」「伝えられている」などの表現で、あたかも利休が創作したように錯覚させる記述が多い。そこで、参考になると思える記述を少し紹介することにした。(但し、利休の茶庭に関する資料をすべて見たわけではないので、より的確な資料があればお教え…

茶庭 6 千利休その2

茶庭 6 千利休その2 茶庭に関する用語と茶庭の成立 露地や蹲踞というのは、茶庭ならではの用語である。では、いつ頃から使われ始めたのであろうか。『南方録』や『露地聴書』などの書には、利休が「露地」という言葉をごくあたりまえに使い、露地(茶庭)について様々なルールを定めていたかのような印象をあたえている。たとえば、茶庭の必需品とされる石灯籠、茶会記に記されたのは、利休が切腹した年(1591年)の松屋久好の茶会記が初見とされている。そこで、茶庭に関する用語について初見(『茶道学大…

茶庭 5 千利休(1522~1591年)その1

茶庭 5 千利休(1522~1591年)その1 千利休の「わび茶」 千利休について書かれた本は、どのくらいあるかわからないくらい出ている。その大半は、茶の湯「わび茶」に関することである。では、利休自身が茶の湯について書いたものがあるのかといえば、実は茶の湯について何も書き残していない。また、利休のことについても、何か書き残されているかといえば、秀吉と関わる以前(六十歳まで)は、史実としての資料はあまりない。現在語られている利休の足跡は、大半が伝承をもとにして語られたものである…

茶庭 4 豊臣秀吉その2

茶庭 4 豊臣秀吉その2 秀吉と茶庭 それに対し茶庭については、具体的な資料にもとづいて、もう少し正確な推測ができそうだ。天正十年につくらせた山崎の茶室「待庵」(完成は十一年三月)は、躪口を含め利休の「わび茶」の様相をよく伝えるものであるが、それだけではない。「待庵」は以後、書院の庭とは異なる小座敷の茶室をつくらせ、その茶室に対応する路地(茶庭)づくりを発展させる契機にもなった。ちなみに、現在妙喜庵にある「待庵」の路地は、当時の姿を再現したものではない。 秀吉が関わった茶室は…

茶庭 3 豊臣秀吉その1

茶庭 3 豊臣秀吉その1 豊臣秀吉(1537?~1598年)と千利休 秀吉は、本能寺の変後、天下統一を成し遂げた。太閤検地や刀狩などの政策を行い、結果的に幕藩体制の下地をつくった。秀吉に対する評価は、政治的な面だけではなく私的な面での人間的な魅力あるエピソードがたくさん残されていることもあって、今でも日本人が好む武将として絶大な人気を持っている。 秀吉は、一般に無学で教養がないと思われているが、それは誤りで、出世とともに文化的修養を積む努力をしている。古典文学や茶道に対する見…

茶庭 2 武野紹鴎

茶庭 2 武野紹鴎 武野紹鴎(1502~1555年)とガーデニング 紹鴎は、珠光のすぐ後に続くように語られているが、珠光の亡くなった年に紹鴎は生まれている。直接的な師弟関係はあり得ないのに、あたかも珠光を引き継ぐ愛弟子のような記述が目につく。紹鴎の人物像(例として『武野紹鴎』矢部良明、『利休の師 武野紹鴎』武野宗延など)は、珠光に比べれば多少わかっているが、それでも江戸期に書かれたものによってかなり歪められている。紹鴎は、はじめ連歌をめざすが途中、茶の湯に転向し、「冷・凍・寂…

茶庭 1 村田珠光

茶庭 1 村田珠光 人倫訓蒙図彙より 意外と思われるかもしれないが、茶道や華道と作庭(日本のガーデニング)とは深い関係がある。お茶や生け花は、作庭よりも後に生まれてはいるが、その後、庭の発展に様々な影響を及ぼしている。特に茶の湯については、路地が茶庭という、日本ならではの庭園様式となっている。 そこで、わび茶の成立から茶庭の誕生に関与した茶人について少し紹介してみたい。その始まりは室町時代の茶人である珠光、紹鴎、利休、織部、遠州という人物の流れに沿って進めることにするが、師弟…