戦時色が濃くなる中での大衆演劇

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)278
戦時色が濃くなる中での大衆演劇
 昭和四年までの劇場観客数は、年間500から600万人へと年々増加していた。築地小劇場の観客も三年目までは増加していた。ただ、その程度の観客数では、劇場経営がなりたたなかったのに、少数の観客のための劇場として興行し続けた。日本の演劇史では、観客数の多寡について論じられることはあまりなく、観客数と演劇の評価とはほとんど関係がないようにみえる。だが、演劇において、本当に観客数を無視していいのか。そこで、大衆に人気があった榎本健一こと、エノケンが出演した演劇を検討してみたい。
  エノケンが注目されはじめたのは、「カジノ・フォーリー」に出演した昭和四年頃からである。「カジノ・フォーリー」とは、「馬鹿騒ぎをする劇場」という意味で、最初の公演はレビュー「青春行進曲」とバラエティー「水族館」であった。興行した劇場は、浅草の水族館の二階に作られた演芸場であった。カジノ・フォーリーは、そろそろ日本でも受けるだろうと、レビューとバラエティーの要素をミックスしたものを企画し、興行にかけた。が、そのねらいは見事に外れて、二ヵ月目には、一座は解散となった。
 エノケンの最初の作品「カジノ・フォーリー」は、公演費用が月三千五百円から四千円であった。この興行、四十銭の入場料で始まったものだが、客の入りが悪いので、築地小劇場の四分の一、三十銭に値下げしている。もっとも、入場料を取るのであればこれは当然の措置で、「カジノ・フォーリー」も当初人気がなかったので、経営はかなりきびしかった。


 確かに昭和五~七年頃は、大学を卒業しても就職できないほどの不景気、劇場観客は減少気味であった。特に築地小劇場に通うインテリ層が打撃を受け、また、左翼思想の弾圧が厳しくなり、劇場への足が遠退いた。観客の減少に、演劇関係者は、演劇の芸術性や社会性を重んじる演劇至上主義へと進んだ。演劇の思想性や表現力が高まれば、大衆に受け入れられるという幻想を信じていたのでは。

 景気が回復して後、劇場の観客を増やしたのは、エノケンやロッパなどのわかりやすい大衆演劇であった。昭和八年正月に公演したエノケンの『続近藤勇』『ダンスシャンソン』は、なんと五万五千円もの興行収入があったという。演劇とは、製作者と観客の両者が存在して初めて成立するもので、当時大勢の人々が金を払ってまで見に行ったという事実の意味、重さを考える必要があると言える。
 エノケンの演技について言えば、「水族館」ではコックの姿で魚を捕まえようとする水泳踊りは、まことに珍無類で奇才ぶりが発揮されていたとの評価。続いて公演した「大進軍」というレビューでは、これから出征する楽長に扮したエノケンが、自転車を描いた絵を移動させて行進している感じを出すというウイットに富んだ演技を見せたが、観客に理解されず客の入りは悪かったという。エノケンの批評としては、かなり好意的な、それも演技について彼らしさを表すような表現で触れている。
 カジノ・フォーリーは興行的には完全な失敗であったが、再度の挑戦が試みられた。第二次カジノ・フォーリーは、音楽青年や文学青年などをプロデューサーにして、浅草オペラとは遺風なものを目指していた。しかし、実際に変わっていたのは、エノケンの顔や声、動きを除けば、以前に比べて女性ダンサーが若返ったくらいであるとかなり厳しい評価が下されている。もっとも、踊り子がどのように変わったかといえば、「薹がたった、古いガンモドキみたいな」踊り子が、十五・六歳の乳臭い少女ダンサーに変わった程度であった。それでも、公演は十日替わりで五本の出し物を演ずるという強行軍で、エノケン他メンバーたちの気の入れ方はそうとうのものであったこともわかる。入場料は三〇銭という大衆料金で開幕したが、団員らの意気込みとは裏腹に客はまばらで、客が少しでも多くなるのを期待して、開演時刻を常に遅らせるというような状況であった。
  ところが、そのうち二つの事をきっかけに爆発的な人気を得ることになった。ひとつは「ズロース事件」、もうひとつは川端康成の小説『浅草紅団』が新聞に連載され浅草に注目が集まったことである。この件でもそうだが、エノケンが大当たりを取った話には、彼の才能を評価するだけでなく、何かしら他の要素が必ずといっていいほど加えられている。昭和八年(1933)、浅草松竹で「ピエル・ブリアント」が好評を得た時、小さなオペラ館からいきなり大きなな松竹座へ進出して、そこでも大当たりをとることができたのは、曲がりなりにも本邦初の男女混成レビュー、つまり海外の新曲を絶えず取り入れ、古今東西の名作やポピュラーな素材を幅広く、音楽喜劇にしたためとある。またエノケンについては、男女レビューにつられた少女歌劇や音楽映画ファンも常連になるうちにエノケンのファンになったというような評価である。この年、エノケンは浅草松竹のほかに、金龍館にも出演しており、それぞれの劇場の年間観客数は、浅草松竹が35万人、金龍館が42万人となっている。
  エノケンの演劇を批評して、当時の文化人たちは「インテリは逃避的自嘲的笑いであり、未組織労働者には全然責任の残らない無批判的笑いである所の『朗らかさ』である」としたうえで、「見逃してならぬのは、役者の観衆に対する魅力の差」と意識的に演劇論を避けている。さらに「新築地左翼の役者にとって充分再吟味すべき問題である」と共演した築地小劇場の俳優(丸山定夫)は評している。また、エノケンの特質を、「エノケンはたまたまファーストで大当たりをしたため自分のなかの奇型を強調したが、内心ではダンディーな二枚目でドン・ホセみたいな役をやったり、客をホロリとさせる泣きの芝居をやりたかったらしい。“人間清水定吉”の大詰めで逮捕され、万感の思い入れで涙ぐみながら花道にかかったが、それを客が笑うのをとてもくやしがっていた。そういう欲求不満と小男で道化役というイメージに対するコンプレックスが、つねに酒気を帯びていなければ可笑しな役ばかり演じていられなくしたのではないか」と大町竜夫は、バスター・キートンを引き合いに出して論じている。しかし、こういったエノケンに対する評価には、彼の持つ多くの才能から何かを学びとろうとする視点が欠落している。エノケンの二番煎じでもよいから、どうしたら少しでも多くの観客を呼ぶことができるか考えるべきなのに、そうした気持ちが微塵もなかったようだ。
  また、エノケンが常に当たるのは、脚本が彼の良さをひきだしているからだと見る向きも少なくなかった。事実、エノケン自身、当時の座付作家であった菊谷栄を非常に大事にしていた。たとえば、日中戦争がはじまり、戦時色が強くなるなか、昭和十二年、新宿第一劇場での公演中に菊谷栄に赤紙がもたらされた。すると、エノケンは当日、舞台から客席に向かって、「菊谷栄が出征するので見送りに行ってまいります」と告げた。そして、観客の拍手に送られ一座全員が品川駅に向かうというようなことさえあった。これは実に、エノケンならではの巧みなスタンドプレーであったのに、素直に受けとってエノケンが菊谷栄を、杖とも柱とも頼りにしていたからに違いないと見る人もいた。当の菊谷栄はまもなく戦死、エノケン東宝に移って、新たな脚本をもとに芝居を続けていった。移籍後初の作品である「エノケンの突貫サーカス」は、和田五雄の作並びに演出で行われた。この日本劇場での公演は、大入りで、その状況について、劇場の周囲を観客が五重に取り巻くように並んでいたと報じられた。演劇には脚本が重要なのは言うまでもないが、エノケンには脚本のでき不出きに左右されない圧倒的な人気、魅力があったことを認めざるをえない。
 エノケン主催の演劇が大勢の観客を集めるたは、彼個人の魅力であり、もっといえば彼の演技力だろう。大衆が求めるものを提供するのは、役者として当然行わなければならないことである。ところが、新劇などを初め、演劇関係者には、演劇の芸術性、社会性という視点からばかり見て、エノケンの演劇を見下し、自分たちの方がエノケンよりも演技力がはるかに勝っていると自惚れていた人が多かったのでは。大衆を引きつけるような演劇を興行できなかった人たちは、自分らの芝居の演劇の基本的な要素が欠けていることに気づかななかった。また、大衆が簡単に理解できるような演劇をしていたのでは、芸術性において劣ってしまうと考えていなかったか。さらに、演劇関係者の多くは、社会や大衆が何を求めて生きているかを考えようとしなかったことだ。つまり、大衆の価値観や評価を率直に受け入れ、逆に大衆から学ぼうとする姿勢がなかった。演劇としての思想性や表現力を高めることは、あながち悪いことではないが、演劇至上主義に陥りやすく、現実社会との密接なかかわり合いを無視する傾向が強い。
 築地小劇場は創設の趣旨とは裏腹に、大衆に受け入れられられず衰退していく。それに対しエノケンは、大衆を大いに沸かせ、劇場を満員にした。日常のつらさを忘れさせ、戦時中の人々に生きる希望を与えたと言えないだろうか。