戦中の大衆娯楽・寄席(演芸場)

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)274
戦中の大衆娯楽・寄席(演芸場)
 寄席(演芸場)については、大正時代からの経緯と共に昭和前期を紹介したい。江戸時代から明治時代の大衆娯楽といえば、寄席であった。まだ東京の人口が200万人に達してもいない時期に、ピーク時は年間約500万人もの観客を動員していたという。しかし、この盛況ぶりも長くはつづかず明治の末頃(1909年)からは徐々に観客が減少し、四十五年には前年より約50万人も減って324万人になってしまった。
  その後も寄席の観客数は、30万人程度ずつ減り続け、大正四年(1915)には約250万人と最盛期の半分近くになってしまった。東京の人口は、明治三十年(1897)に比べ100万人近く増加したにもかかわらず、寄席の入場者数は減少してしまったのである。
 そのため、寄席数(寄せ場)も減少し、明治の末には、まだ160近かったのが大正六年(1917)にはとうとう100を割っている。特に、大衆のメッカともいえる存在であった浅草の寄席も、最盛期の半分以下に減少した。このことからもわかるように、寄席はなんとか続いているという状況だった。
 大正時代になって観客が少なくなり、入りが悪くなったのは、演劇と同様、活動写真(映画)に客を奪われたためであろう。大正初期の寄席は、明治時代と同じように、講談、落語、浪花節義太夫、奇術、音曲など様々な芸が演じられていた。観客は座敷に座って見る(聞く)というスタイルで、観客が少なければ、横になっている人もいた。
  その頃、低下する観客の寄席を支えていたのは、一重に浪花節の人気であった。浪花節は、明治末頃から大衆の心を次第に捕らえ始め、大正元年には、桃中軒雲右衛門という浪曲師は、歌舞伎座で独演会を興行するほどの人気を得た。浪花節は、七五調の節回しによって義理人情話や義士伝などを唸るように歌いながら語るものである。浪花節が流行し、大正五年(1916)、寄席の観客が底を打つなか、浪花節の人気は以後も続き、これによって寄席の観客数もようやく持ち直し、大正八年(1919)には年間300万人程度に回復した。
  関東大震災の後、先頭を切って興行されたのが寄席であった。大正十一年(1922)の入場者数は286万人と下降気味だったので、震災後は観客の増加が期待された。が、実際には十三年(1919)の観客数は、それまでの最低を20万人も下回る233万人であった。昭和に入ると、さらに減少して200万人を割り、昭和五年(1920)には188万人にまで落ち込んだ。
 大正時代に寄席の入りが減ったのは、大衆レジャーの変化と共に生活形態が変化したためであろう。寄席演芸ならでは出し物に、大衆の日常性や感覚などに、かなりズレが生じてきた。大正時代から昭和になると、大衆の関心が西洋の新しい音楽や演劇などに向かい、旧来の寄席芸には限界が見えてきたことも確かだろう。
 しかし、演芸場へ足を運ばなくなったのは、決して寄席芸や芸人たちにだけ責任があるわけではない。それより、むしろ大衆における労働形態の変化が、寄席を楽しむ余暇時間を奪ったという事実に注目したい。
 江戸・明治時代に寄席が楽しまれたのは、夕方からで、昼間ではなかった。寄席は、仕事が終わってからでも、ちょっと歩いていけば開いているというまことに手軽なレジャーであった。江戸の町人が50万人程度しかいなかった安政年間に、なんと400近い寄席場(演芸場)があったということから、江戸時代には、演芸場は風呂(銭湯)に次ぐほどの人気であり、普及率であった。こうした気楽に出かけられる寄席というものは、明治になっても続いたと見え、夏目漱石は『硝子戸の中』(大正四年・1915朝日新聞連載)に、高田の馬場の“辺鄙”な所にも、近所の豆腐屋の隣に一軒あったと書き記している。
  大正から昭和になると、大衆の労働形態が大きく変化し、夕方から寄席に出かけるというような時間的余裕はなくなってしまった。また、町々にあった寄席は、そうした変化に耐えて経営が成り立っていくところしか残らず、最盛期には200を超えたこともあったものの、明治四十三年の159箇所から昭和十一年の52箇所(東京旧15区)に減少している。これは、寄席自体が少なくなると、たとえ行きたいと思っても行けないわけで、入場者数は減少する。そして、入場者が減少すると経営が成り立たなくなり、やがて廃業せざるをえなくなるという悪循環を繰り返したためである。
 寄席芸の魅力が薄れたのは、社会の変化によって、生活時間の変化、価値観のずれから大衆に受けなくなってしまったこともある。明治までは、時代の先端をリードしていた寄席芸が懐古的なスタンスになったこともあげられる。この感覚的なずれが寄席離れを進め、昭和初期の不景気が拍車をかけた。失業者が増える中、暇はあっても交通費+入場料を払ってまで、演芸場へ行くことなどできるはずもなかった。
 最も観客数が少なかったのは、昭和六・七年頃であろう。朝日新聞の昭和七年(1922)七月二日には、「寄席のSOS、5銭でも入りがない」との記事がある。寄席に観客が行かなくなったのは確かであろうが、芸自体に全く魅力がなかったわけではない。それは、ラジオが普及するにしたがって、夕食後にちょっと浪花節や落語を聞いて楽しむという、江戸時代に似たスタイルが大衆生活に浸透している。寄席芸は、仕事をしながら、また家事をしながら気軽に聞けるという安易さから、徐々に評価され、見直され、ラジオ番組の中で人気を得た。
 したがって、寄席演芸自体が大衆からまったく見放されたというわけではなかったことを証明している。この頃を境に、それまでもじり貧を続ける寄席の観客数が、底を打った。なお、東京市の統計に示される演芸場入場人員は、新たな新市部(品川、渋谷、荒川等)の人数が加算されることで、急激に増加した。この新市部が加わったというプラス条件を差し引いてもなお余りあるほど演芸場の賑わいを増していた。
 一日当たりの観客数は、旧市部が102人、新市部が97人と、昭和五年当時と比べて明らかに多くなっている。昭和九年にはさらに増加し、年間481万人にも達している。そして、昭和十五年、一日当たりの観客数は、旧市部が306人、新市部が141人と明治末期の126人を超えるに至った。旧市部、特に盛り場の演芸場では観客が増加し、浅草(浅草区)の演芸場は一日に662人もの入場者があった。
  こういった演芸場入場者数の増加は、浪花節や落語などがラジオで放送されたことによって、寄席演芸の良さが再認識され、演芸場に足を運ぶ人が増えたからだと推測されている。当初は、ラジオに寄席の芸人が出演するようになれば、わざわざ演芸場に足を運ぶ客は減るに違いないと心配して、ラジオ出演に反対する意見が強かった。ラジオに出演した噺家が批判され、白い目で見られるといったようなこともあったが、ラジオが普及するにしたがって演芸場の入場者も、昭和の初年頃と比べて増えていった。ちなみに当時のラジオ放送で最も人気を集めた番組は、浪花節であった。
 このように大衆の生活スタイルが変化したために、演芸場の入場者数が減少したものと考えられる。次に、昭和十年頃以降、演芸場の入場者は増加するのは、漫才が加わることも注目したい。それによって、浪花節や落語、講談などがラジオで放送され、寄席演芸の露出度が高くなった。寄席演芸は大衆に受け入れられやすくなったと同時に、他の社会的な要因からも分析してみる必要がある。結論をいえば、当時の大衆の社会行動として、映画館や劇場などのある盛り場に集まるという風潮が高まり、その結果として演芸場にも足を運ぶ人が多くなったからと思われる。
 ただ、昭和十五年以後の演芸場は入場者数が減少し始めた。ではなぜ、かつてのように演芸場に足を運ぶ大衆が減ったのか。その理由として、寄席の出し物が映画と比べて、大衆の嗜好に対応していないこと、芸がマンネリ化して飽きられたなども挙げられる。しかし、それよりも全てのレジャーを制約するように、政府・軍部が画策したからである。芸自体が問題ではないことは、ラジオから流れる出る浪花節や落語などは、多くの人々に聞かれ、人気を得て相当数の聴取者を捕らえて離さなかったことは事実である。