2024-01-01から1年間の記事一覧
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)294 幕末の庶民社会慶應三年(1867年) 慶応三年の正月は、将軍家茂が昨年七月に 亡くなり新たな将軍は不在、暮れには孝明天皇も崩御、と江戸城では正月を祝うどころではなかったはずだ。四日には鳴り物停止、松飾りを取り…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)293 幕末の庶民社会慶應二年(1866年) 慶応年間に入って、諸物価の値上がりや町会所の窮民への施しがあり、世情は必ずしも安定していないが、江戸の数多くの縁日は多分、行われていたのだろう。慶應元年の正月には浅草奥山…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)292 幕末の庶民社会慶應元年(1865年) 幕末から明治は、第二次世界大戦から戦後にかけての時期とならぶ日本の大変革期である。 幕末・維新期の江戸は、政治的な空白によって治安だけでなく経済的にも混乱していたことは確…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)291昭和二十年を見るにあたって 1945年は今から約80年前である。その80年前は1865年(慶應元年)、幕末をむかえ、1867年に大政奉還が布告された。翌年は明治元年、日本の大変換が進められた。幕末維新の大きな節目となった…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)290昭和二十年のレジャーが始まる これまで、昭和初期、二十年戦前までのレジャー関連について示してきた。このブログは続いて戦後に入るのですが、昭和20年(1945年)の社会変化は、かつてないものなので、その変化を確認…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)289東京からレジャーが消えるまで 戦前の東京市民は、どれくらい遊んでいただろうか。新聞に記された数字を見ると、最も多い日で、250万人もの人出があったらしい。そしてそれは、昭和五年四月六日の花見時、十五年十…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)288上野動物園等に見る庶民の行楽 花見といえば上野、上野といえば動物園を連想するほど、上野公園の利用と動物園の利用は密接である。上野動物園はわが国最初の動物園で、明治十五年(1882)に開園、大正元年(1912)で…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)287上野動物園に見る庶民のレジャー 上野動物園のある上野公園は、東京市民最大の憩いの場であった。市内の行楽状況は、必ずといって良いほど上野公園や上野動物園(以下動物園)とともに取り上げられた。特に動物園は、…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)286オリンピックの代用品、東亜競技大会 「東亜競技大会」を知っている人、どのくらいるでしょうか。激動の太平洋戦争の最中、東京と大阪で開催された。敗戦とともに、忘れられてしまった、オリンピックの代用品である。 …
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)285オリンピックと万国博覧会の同時開催 さて、昭和十五年は、実は万国博覧会とオリンピックとの二つのビックイベントが東京で同時に開催される予定になっていた。もし同時開催が実現していたら、お祭り好きの日本人のこ…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)284大戦を前にした大衆最後の楽しみ 神話に始まるわが国の紀元、二千六百年にあたるその日は、昭和十五年(1940)の十一月十三日である。当時の日本政府は、紀元二千六百年の祝いを国家行事として設定した。そうなると、…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)283紀元二千六百年を祝うまで 昭和十年(1935)のメーデーについて五月二日付の新聞に「労働運動衰へたり 警備陣の縮小」(東朝)とある。この時点で、警察の弾圧によって労働運動がかなり衰退していたことは、同日より、…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)282本当の参加者が分からない祝賀行事 警察は、大衆が集まることに神経をとがらしており、たとえレジャーであっても容易に許可しなかった。祭りでさえ、必ず警察に届けなければならなかったし、通行の混乱や喧嘩などの騒…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)281昭和初期のスポーツ 昭和初期、東京市民にとってスポーツと言えば、野球と相撲であった。野球は、大正十四年 (1925)に六大学リーグが成立、昭和二年の神宮球場完成にラジオ放送の開始もあいまって、人気が高まった。…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)280 大衆演劇を考える 演劇は、昭和十三年頃から観客増が停滞しはじめた。十六年以降は資料がないため断定できないが、おそらく減少していると思われる。それは、十五年に東宝移動文化隊や松竹移動演劇隊などが結成され、…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)279戦中下の大衆演劇凡例新聞は発行日。日記は記載日Aは東京朝日新聞朝刊・aは夕刊Yは読売朝日新聞朝刊・yは夕刊Hは東京日日新聞朝刊・hは夕刊kiは岡本綺堂の日記 taは高見順の日記kaは永井荷風の日記roは古川ロッ…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)278戦時色が濃くなる中での大衆演劇 昭和四年までの劇場観客数は、年間500から600万人へと年々増加していた。築地小劇場の観客も三年目までは増加していた。ただ、その程度の観客数では、劇場経営がなりたたなかっ…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)277 戦中の演劇を見ると 凡例新聞は発行日。日記は記載日Aは東京朝日新聞朝刊・aは夕刊Yは読売朝日新聞朝刊・yは夕刊Hは東京日日新聞朝刊・hは夕刊kiは岡本綺堂の日記 taは高見順の日記kaは永井荷風の日記roは古川…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)276 戦前の演劇を見る 大正時代は、劇場入場者数の増加とは関係なく、一時は50もの新劇団が並立するという演劇史上まれにみる劇団乱立時代であった。明治時代から声高に叫ばれてきた「演劇の改良」は、「淫風排除」に始ま…
江戸・東京市民の楽しみ275大衆レジャーとしての演劇 大衆レジャーであるとされる演劇も、その芸術性が問われ、論壇や新聞などでは盛んに言及されている。では、その芸術性とはどのようなものなのか、歌舞伎について見てみよう。歌舞伎は、当初から大衆を相…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)274戦中の大衆娯楽・寄席(演芸場) 寄席(演芸場)については、大正時代からの経緯と共に昭和前期を紹介したい。江戸時代から明治時代の大衆娯楽といえば、寄席であった。まだ東京の人口が200万人に達してもいない時期に、ピ…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)273映画は戦中の心のよりどころ 昭和のはじめは、映画というより活動写真(活動)という呼び方が一般的であった。国産映画のトーキーがはじまったのは昭和六年(1931)、それまでは楽士や弁士のいる無声映画が主流だった。…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)272戦前世相の解説2 第三段階は、軍需産業の発展が軌道に乗った十年頃から十五年まで。軍需産業は、まるで十二年の中国との全面戦争を予定していたような勢いで発達した。国内の景気は、軍事予算の増大とインフレで金回…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)271戦前世相の解説1 終戦までの昭和初期については、数多くの本が出されている。その多くは、当時の国際関係からはじまり、政治体制、軍内部の抗争、事変の発端から戦争の経緯などが書かれている。国が激動した様子は詳…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)270昭和二十年八月終戦を迎え、空白の市民───────────────────────────────────────────────昭和二十年(1945年)・八月、広島に原子爆弾投下⑥、ソ連対日宣戦布告⑧、ポツダム宣言受諾⑭、戦争終結⑮───────────────────────…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)269敗戦も視野に入る昭和二十年七月───────────────────────────────────────────────昭和二十年(1945年)・七月、食料配給基準量一割削減⑪、対日ポツダム宣言発表(26)、空襲で投下された銅屑集めて国民酒場で酒を飲む。…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)268娯楽再建も始まる昭和二十年六月 六月は、沖縄が日本軍10万人、一般人15万人もの犠牲を出し占領された。それでも戦争を続けようとしたのは、地方都市が残っていたからではなかろうか。東京は壊滅的な状況であった…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)267市民の動揺を抑える昭和二十年五月 七日にドイツが無条件降伏。これまでレジャーを押さえ込んできた新聞が、これまでの方針を変更した報道。戦災や疎開で人々が浮足立っているため、閉鎖した大劇場で低料金の大衆興行…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)266空襲に麻痺し始める昭和二十年四月 四月の東京は連日のように敵機襲来、空襲があり、米軍が沖縄本島に上陸するニュースが市民にも伝わる。人々は、もっと危機感を持って良いと思うのだが。ドイツの敗戦状況も入ってい…
江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)265アチャラカ結構となる昭和二十年三月 三月九日の夜、東京へは334機のB29による大空襲で、死者約10万人、焼失家屋23万戸にのぼった。罹災した市民は、田舎へ帰ろうと上野駅を目指し、また焼跡の後片付けなどに…