2011-01-01から1年間の記事一覧
福寿草 新春の花といえば福寿草。特に江戸時代は、フクジュソウの人気が高かった。中国では、正月には華やかな牡丹の盆栽(はちうえ)を飾った。それ比べると、新春にふさわしい控えめな愛らしさを持つ花である。節分の頃に咲く花としては、セツブンソウ、ユ…
茶庭 9 千利休その5 利休と花 利休と花にまつわる話は、「朝顔の説話」などいくつもある。それらの話は、利休の巧妙譚を示すもので作為的な話が多い。また、それらは、茶道の心得を教授するための話としても、茶書などに記されている。ただし、茶書は、話…
江戸の盆栽 1 「ボンサイ」と「はちうゑ」 江戸のガーデニングとして、盆栽にふれないわけにはいかないだろう。江戸時代には、どのような盆栽が楽しまれたかと興味がそそられる。現代では、盆栽の種類を「松柏」「葉もの(雑木)」「花もの」「実もの」の4…
茶庭 8 千利休その4 利休の茶庭を構成する具体的なものを記した史料がないものかと探すと、「植栽樹種」と「手水鉢」に関する史料が見つかった。どこまで利休の茶庭に迫れるかを試みた。 利休が植えた樹木 茶庭について、具体的な形を求めた意欲的な研究が…
茶庭 7 千利休その3 利休の茶庭 利休自身が作庭という視点をどの程度持っていたかは、結局よくわからない。利休の茶庭に関する記述は、全体に凡庸なものである。意図を伝えようとするのはわかるが、具体的な形としては把握しきれていない。ほとんどが「い…
江戸のくだもの その6 蜜柑 元禄年間に紀伊国屋文左衛門が、当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬し富を得て豪商になったという話は有名である。そのミカンが紀州ミカンである。 紀州ミカンは、明治時代になって温州ミカンが登場するまでわが国の代…
茶庭 6 千利休その2 茶庭に関する用語と茶庭の成立 露地や蹲踞というのは、茶庭ならではの用語である。では、いつ頃から使われ始めたのであろうか。『南方録』や『露地聴書』などの書には、利休が「露地」という言葉をごくあたりまえに使い、露地(茶庭)…
茶庭 5 千利休(1522~1591年)その1 千利休の「わび茶」 千利休について書かれた本は、どのくらいあるかわからないくらい出ている。その大半は、茶の湯「わび茶」に関することである。では、利休自身が茶の湯について書いたものがあるのかといえば、実は…
江戸のくだもの その5 枇杷 ビワは、もともと日本あったという説がある。だが、現在栽培されているのは中国から渡来したビワである。ビワを最初に紹介したのは、天平宝字6年(762)正倉院の文書の記録で、その中に「枇杷子七文」とある。当時果実の中では…
茶庭 4 豊臣秀吉その2 秀吉と茶庭 それに対し茶庭については、具体的な資料にもとづいて、もう少し正確な推測ができそうだ。天正十年につくらせた山崎の茶室「待庵」(完成は十一年三月)は、躪口を含め利休の「わび茶」の様相をよく伝えるものであるが、…
茶庭 3 豊臣秀吉その1 豊臣秀吉(1537?~1598年)と千利休 秀吉は、本能寺の変後、天下統一を成し遂げた。太閤検地や刀狩などの政策を行い、結果的に幕藩体制の下地をつくった。秀吉に対する評価は、政治的な面だけではなく私的な面での人間的な魅力ある…
茶庭 2 武野紹鴎 武野紹鴎(1502~1555年)とガーデニング 紹鴎は、珠光のすぐ後に続くように語られているが、珠光の亡くなった年に紹鴎は生まれている。直接的な師弟関係はあり得ないのに、あたかも珠光を引き継ぐ愛弟子のような記述が目につく。紹鴎の人…
江戸のくだもの その4 ザボン(文旦) ザボンはブンタンとも呼ばれ、原生地は東南アジアとされ、日本には江戸時代初期に渡来した。ザボン、ブンタンの名前は、人命や地名など様々な由来や経緯がある。ザボンは約3メートルほどの木で、果実は直径15cmから25…
江戸のくだもの その3 九年母 今、クネンボと言っても、どのような果物だとわかる人はどのくらいいるだろう。江戸時代には普通の果物としてかなり流通していたようだ。たとえば、幕末近くに訪れた園芸学者・ロバート・フォーチュンは、道ばたの店でクネンボ…
茶庭 1 村田珠光 人倫訓蒙図彙より 意外と思われるかもしれないが、茶道や華道と作庭(日本のガーデニング)とは深い関係がある。お茶や生け花は、作庭よりも後に生まれてはいるが、その後、庭の発展に様々な影響を及ぼしている。特に茶の湯については、路…
江戸のくだもの その2 無花果(仙桃、密果、青桃) イチジクは、西南アジア原産で、中国を経て渡来したという説、寛永年間(1624~1644)にポルトガル人によって伝えられたという説、宝永年間(1704~11)に種を得て長崎に植えられ、ここから全国各地に広ま…
山野草 その2 桜草 近年、フラワーショップの店先で、「サクラソウ」と書いてあるのは、そのほとんどが日本の野生のサクラソウではなく、外国産の園芸品種「プリムラ」である。 花色が派手で、葉や花弁の大きめのプリムラと比べると、日本の野生のサクラソ…
水琴窟 その2 水琴窟のルーツを「水琴」という言葉にルーツを求める “水琴”といえば、それに何やら関連がありそうな人物が存在した。それは女性、しかもその時代にしては、非常に珍しい十七才の若き「美人演説家」であったという。その名が公の場に初めて登…
水琴窟 その1 水琴窟の謎 『水琴窟』 (日本リゾートセンター)より転載 水琴窟の音、なんとも快い、霊妙なる不思議な音である。音の発生は、一般的には蹲踞(つくばい)や縁先手水鉢の鉢前(うみ)の地下に造られた甕(瓶・壺)から出てくる。水琴窟の構造…
朝顔 薬用植物として伝来したアサガオ アサガオは、今も昔も日本人に最も好まれる花の一つであろう。派手さはないが粋な感じのする色合い、姿形の清々しさ、日本的な花という表現がびったりのアサガオは、ジャパン・モーニング・グローリーという呼び名で世…
江戸のくだもの 1 果物の鉢栽培 庭先に果物を植えて楽しむということは、江戸時代でも行われていた。滝沢馬琴の庭には、カキ、ザクロ、スモモ、ウメ、リンゴ、ナシ、ブドウなどが植えられていた。果物の種類は現代より少なかったことを考えると、馬琴は果物…
ガーデニングを楽しむ 3 園芸書と作庭書 金生樹譜より 江戸時代には数多くの園芸書が書かれている。園芸書を書いた人は、実際に植物を栽培し、繁殖させ、その方法を研究した専門家である。なかでも『錦繍枕』『花壇地錦抄』などを記した伊藤伊兵衛は、園芸…
江戸時代の並木 松並木道は、江戸城「松の廊下」へと続く 江戸時代、東海道五十三次の松並木や日光の杉並木などをはじめとする並木は、世界でもっとも素晴らしかった。それは、途方もないくらいの長さや見た目の美しさという観点からだけではなく、保護や管…
ガーデニングを楽しむ 2 江戸時代に学ぶガーデニング 江戸名所図会より 江戸時代の園芸は、上は将軍から下は長屋住まいの庶民にいたるまで幅広い層によって楽しまれていた。日本人の植物好きという特徴は、何も江戸時代に限ったことではない。記録にはっき…
ガーデニングを楽しむ 1 世界に誇る江戸時代の園芸書 江戸の園芸文化は、日本の隅々まで出かけ珍しい花を手に入れたり、時間と労力を注ぎ込んで新しい品種を生み出したりする、大勢の好事家たちの手によって支えられていた。他方、園芸植物に関する情報を世…
馬琴のガーデニング 2 馬琴の花壇 このように馬琴の庭を見ていくと、果樹園や家庭菜園があったりして現代のガーデニングと似たようなものであったことがわかる。当時、自分の庭で果樹や野菜を作るのは、馬琴だけでなく下級武士なら誰もがやっていたことであ…
馬琴のガーデニング 1 (「江戸の有名人のお庭拝見 滝沢馬琴の庭を推測する」『歴史と旅』を編集) 江戸のガーデニング事情 江戸のお庭事情を紹介する時に、まず思い浮かぶのは大名庭園であろう。現代でも公園として残っている小石川後楽園、六義園、浜離宮…
ハナショウブ 幕末の花 花菖蒲 江戸近郊の堀切には、今から二百年以上も前の文化元年(1780)に、すでに花菖蒲園が存在していた。その花菖蒲園は、堀切村(現在の東京都葛飾区堀切町)の百姓、伊左衛門が奥州安積沼から野性のハナショウブの苗を移して、徐々…
ツツジ 元禄躑躅 元禄時代(1688~1703年) といえば、町人が台頭し、現世的、遊楽的なムードが支配した時代である。この時代にピークを極めたツツジは、それ以前に流行したツバキやボタンとは一味違って、庶民的な色合いが強かった。この時期のツツジの流行…
プラントハンター その2 シーボルトの日本植物誌 ツュンベリーの来日から48年後の1823年(文政六年)、ドイツ人・シーボルトがツュンベリーの『日本植物誌』を携えて日本を訪れた。彼の来日目的は、日本の豊かな自然、特に植物について調べ、西洋に持…