遊びにも不景気浸透か五年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)202
遊びにも不景気浸透か五年春
 東京市統計書にスポーツ関連の資料がある。昭和五年の「スポーツ観衆人員職業別」を見ると、当時の動向が数値でわかる。陸上競技(日独対抗)の観衆は8,639人、最も多いのもは学生で44%、次いで銀行会社員19%である。ラクビー蹴玉(京大対明大)の観衆は4,577人、最も多いのは学生で51%、次いで銀行会社員15%である。大相撲春場所の観衆は7,515人、最も多いのは商人で25%、次いで学生で15%、銀行会社員13%である。これらが一般的な傾向と断言できないものの、大きく異なるものではないだろう。
 これらの数値から想定すると、新聞に取り上げられているスポーツ関連の記事表現とかなりの差異を感じる。スポーツが盛況になっていることは確かであろうが、職工労働者や店員などへの浸透は控えめに判断しなければならないだろう。なお、この職業分類に、軍人の項目があるものの、その割合は低い。
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昭和五年(1930年)四月、ロンドン条約締結⑳、市電ストライキ⑳、復興祭を上回る花見の人出
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4月7日A 「きのうの花見 人出二百五十万」
  7日ki 新宿の電車終点まで散歩。ここらは夜店が出て非常に賑わっていた
  9日A 花祭行列、浅草公園から賑わう日比谷へ
  12日a 神宮外苑の体育運動大会に「花と入り乱れた 三万の女子 春のスポーツを飾る」
  12日a 演劇・映画「暗い世相と反対に 独占的の繁昌振り」
  14日A 六大学野球「春のリーグ戦 きのう序幕」満員で入場できない人夥し
  20日y 今春人出の新記録「押し出した二百万」
  20日A 絶好の運動日和に陸上庭球水泳の人気素晴らしく、野球は満員の盛況
  21日A 「市電一万の従業員 整然たる総罷業」
  28日Y 上野の名宝展、雪舟デー入場者一万五千人」
                                                
 四月に入って花冷え、神武天皇祭の日は雨。市民も一息ついたのか六日の日曜には「人出二百五十万」と、ドッと外に出た。上野駅の乗降客は30万人、新宿駅が22万人など、復興祭を凌ぐ人出となった。ことに、「上野の山は五十万」人、飛鳥山は「三十五万人(迷子129人)」の人出は過大と思われるが、動物園の入場者3万7千人、海と空の博覧会に4万人、豊島園2万人など、行楽の人出はこの年の最高となった。その翌日も人出があり、綺堂は、新宿の夜店が非常に賑わっていたと日記に書いている。
 十二日の東京朝日新聞に、長谷川如是閑(大正デモクラシー期の代表的論客)は、演劇・映画「暗い世相と反対に 独占的の繁昌振り」に「不思議ではない理由」を次にように述べている。
「暗い世相に反比例して劇場が異常な繁盛繁昌ぶりをみせてゐるのは決して不思議でない、今日の如き社会状態は一種の過渡期であって、この過渡期において民衆は過去の手工業時代の娯楽を失ひつゝある、場所とか根気とか長い時問を必要とする娯楽たとへば謡曲とかびわとかさうしたものの次第に隔絶して自ら大衆的な娯楽に走る結果となる、自然劇場が非常な勢ひをもって人々を集めてくるのだ、近頃の劇場狂景気時代の根源は大きくいへばそこにあると思ふ、それと同時に近年の失業地獄が劇場を賑かにしてゐることをいはなくてはならない、最近家には一人や二人の失業者を抱へてゐない家はないといっていゝ、然るに我國の社会状態はいまだに家族制度を保有してゐる、だから失業者は親とか兄弟とか親類といふやうなものから多少に拘らす補助を受けてゐる、早くいへば小遣銭がある、いくら就職運動に忙がしいといったところが、やはり暇があって身をもてあし、気分がいらいらして家にに落ついてゐることもできないからまづ活動でも見よう、といふことになるのだらう、この点家族制度の無い欧米諸国では失業即ちあすの寝床にも困る、いふわけだから、同じ失業でもその深酷さが違ふ、先年日露戦當時の好況に続く不景気から非常に失業者が殖えた、その際は書物が非常に売れたさうだ、失業状態が今日ほどではなかったので家にこもって本でも読んでゐればその中にはどうにかなっていったものらしい、要するに家族制度といふ崩れかゝった支柱が僅かに極端なる失業地獄の現出を食いとめてゐる、その結果が劇場の狂景気となって現れたのであると私は説明する」とある。
 春の人出は続き、映画館だけでなく、六大学野球「春のリーグ戦」も満員で入場できないほどであった。二十日は、市電のストライキにもかかわらず、市内は賑わいを失わず、「絶好の運動日和に陸上庭球水泳の人気素晴らしく、野球は満員の盛況」であった。
 永井荷風の二十八日の日記に「四時頃となれば毎日のように紙芝居というもの門外の小径に来り拍子木鳴して近隣の子供をあつめて飴を売る」と。自転車の上に大きな菓子箱を乗せ、それを「芝居の舞台のように見せ」「人物立木など描きし」紙を使って「台詞を述るなり」。前年あたりから来るようになったと書いている。この頃、最初の平絵式紙芝居が作成され、年末には『黄金バット』が登場し、大人気となる

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昭和五年(1930年)五月、映画演劇の客は減ったが、スポーツ観戦は盛況
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5月2日a メーデーの大示威 一万五千の労働者
  14日a 「人気遂に沸騰した きょうの慶明決勝戦 十一時早くもすし詰めの入場者」
  15日Y 上野の名宝展、美術館最高記録の入場者
  16日a 相撲夏場所初日、朝から満員の民衆デー
  18日a 早慶戦火ぶたを切る、ギッシリ満員の神宮球場
  19日T 日本橋街頭でボール投げの百二十人引致
  23日A 「驚くべき鉄道の減収、昨年に較べて一日十一万円減、生々しい不況反映」
  25日A 極東選手権大会開催
  25日A 大相撲十日目、朝来大入り
  27日A 極東選手権大会二日目、日華野球試合はスタンド満員の盛況
  28日a 大海戦二十五周年、陸上軍艦などが昭和通り行進
  29日A 極東選手権大会五日目、神宮プールは開会前に 一万人のスタンド満員
  31日A 神田日活等「嘘から嘘」他満員御礼

 四月までは市民の行楽気運は高く出歩いていたが、五月は映画の入りも捗々しくない。活気のあるのは、新聞紙上を賑わす学生野球などのスポーツくらい。スポーツへの市民の関心が高まった理由は、入場料金が安いことにありそうだ。二十五日からの極東選手権大会は、六日間にわたって行われ、野球試合や神宮プールは満員になるなどの盛況。大会の総観客数は「五十万人」で、12万円の収入があった。これから一人当たりの入場料を単純に計算すると24銭、大相撲初日の民衆デーより安い。
 「驚くべき鉄道の減収、昨年に較べて一日十一万円減、生々しい不況反映」と、市内で過ごす人が多く、郊外へ出かける人が減少した。大相撲夏場所では初日の民衆デーを楽しむように、市民はなるべくお金を使わないように遊んでいる。

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昭和五年(1930年)六月、若槻全権入京に東京駅周辺歓迎の人々群衆⑱、「すごい野球狂時代」の到来
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6月1日A 極東選手権大会終わる、観衆五十万人、入場料十二万円
  7日A 「空き地という空き地へ 真夜中から争奪戦」すごい野球狂時代
  13日ka 山王の祭礼にてあたり賑なり
  15日ki 若い衆や子供が神輿をかつぎ廻っていた
  16日A 「山王さまのお祭り始まる」
  18日ki 麹町五丁目の稲荷の縁日で賑わっていた
  26日A 帝国劇場「曽我廼家五郎」日延べ、連日引続き売切れの大好評
                                                
 これまで野球は見るだけの人が圧倒的に多かったが、学生以外にも行う人が出てきた。ただ、市内に野球のできる場所が少ないこともあって、先月、日本橋の路上でキャッチボールをしていた店員が120名も引致され、内80人に2円もの罰金が課せられた。そのためか、場所探しが大変で、空き地を求めて、真夜中から激しい争奪戦が繰りひろげた。なお、野球とは言っても、「印半纏の連中がコンクリートの上でキャッチボール」という野球のまねごと、草野球であることは言うまでもない。
 「山王さまのお祭り始まる」。綺堂は、十八日、麹町五丁目の稲荷で草花一鉢を買い、賑わっていた由。十九日も往来がいつもより賑わっていたのを、四谷を散歩しながら見ている。
不景気は興行にも及んできたらしく「盆興行には各座とも値下げ」Y(24)、これは大正六年 以来のこと。「吹きすさぶ不況の大嵐」Y(25)との見出し、牛乳屋さんの廃業が日に5・6軒、牛肉も売れずなど、連日のように不景気の記事がある。
 

不景気浸透に遊びにも暗い陰の五年冬

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)201
不景気浸透に遊びにも暗い陰の五年冬

昭和五年(1930年)のレジャー関連事象 
 浜口内閣は、二月の衆議院議員選挙に圧勝し政権は安定していたが、ロンドン条約の対応に追われ、恐慌によるデフレをくい止めることができなかった。労働者の賃金の値下げ、解雇、ストライキ、不況はさらに悪化した。市内には「家財を売払って悲壮な甦生へ『露店時代』の出現早くも八十七ヶ所」Y(21)いう状況も生まれた。
 事件としては、四月に養育資金目当ての41人もの貰い子殺し発覚、七月から東洋モスリンのスト、十一月に浜口首相の狙撃などがあった。
 東京市内のラジオ聴取者は約12万、電話の単独加入者が約10万。市内の総世帯数が41万世帯、ラジオと電話のある程度の家庭を中流以上とすれば、約3割が該当する。残りの7割は下層。下層の中でも「細民」される人々は、読売新聞7月29日の朝刊によれば「4万1千世帯」あり、市民の一割を占めている。なお、上流を自家用車所有者とすれば、3%となる。
 市民レジャーは、三月末に「帝都復活祭」、十一月に「明治神宮鎮座十年祭」などのイベントがあったものの、市民の祭や行楽は全般的に低調であった。ただ、不景気を反映してか、入場料の安い映画は1,882万人と前年の一割を上回る観客増。スポーツ観戦も安いことから人気で、六大学野球リーグ戦は満員で入場できない試合がいくつも出た。
 流行したのは、『祇園小唄』『唐人お吉』など。

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昭和五年(1930年)一月、ロンドン海軍軍縮会議開会(21)、「こわごわ迎えた 緊縮二年の初景気 興行界の大繁盛に引きかえて引きたたぬ株屋街」A⑤
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1月3日Y 成田山初詣、京成電車一万七千名と参詣者減る
  5日a 「不景気を吹き飛ばした浅草公園のお正月」
  6日y 初水天宮、大に賑わう
  7日ka 溜池の舞踏場へ往く・・黙々として舞踏するのみ・・・女学校の体操場に似たり
  10日a 大角力春場所初日、民衆デーで朝からの盛況
  11日A 「さびしい国技館 二日目の勝負」
  16日a 「きょうは梅日和」盛り場は藪入りの前景気で賑わう
                                                
 昭和五年の正月は、申し分ない天候に恵まれて市内の盛り場はものすごい人出。特に、浅草興行街の三箇日は、「レコードを破った活動の入」と前年の三割以上も入りが多い。上野動物園も、3万4千人を超え前年より1万人以上も増加。もっとも、交通機関は、不景気を反映して遠出が減少したことで減収。七草まで天気だったので、市内の人出は続いた。
 九日の大相撲春場所初日は、恒例の「民衆デー」で早朝四時開場、十時には満員という盛況。二日目は恒例化した「さびしい国技館」。それでもこの年は、八日目が午前中から大入り満員、十日目満員、千秋楽は客止めという盛況だった。
 藪入りの十五日は天候に恵まれ、盛り場はどこも賑わった。その後も晴れが多く、綺堂は「今年は例に比して寒気が軽いようである」と書いている。一月の映画観客数が前年よりも多く、不景気にしては、市民のレジャーは活発であったらしいが、新聞には賑わいを伝える記事が減っているように感じる。                                       ───────────────────────────────────────────────
昭和五年(1930年)二月、第十七回衆議院議員総選挙民政党大勝⑳、共産党全国的大検挙(26)
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2月3日A 新橋演舞場淀君」他、初日二日満員御礼
  4日A 追儺式、太刀山など年男だけで五百人、芝増上寺に四万人の見物
  11日A 「どこも今が見頃です」梅見の案内
  12日a 建国祭、6会場に四万数千人の大衆
  17日Y 白蓮、銀座の露店で1枚3円で短冊売り選挙資金稼ぎ
  21日A 明治座「佐倉義民伝」大入り満員日延べ
  25日Y 浅草の福引大盛況、50銭以上の買物でタンス等の景品
                                                
 二月に入り雪が多い。それでも追儺式には多くの人が出かけ、浅草や川崎大師では前年の三倍の人出とか。芝増上寺は、太刀山などをはじめとして「年男だけで五百人」も並び、「見物四万人」という盛況であった。
 建国祭は、靖国神社などの6会場に青年団在郷軍人、学生、各種思想団体、神仏各派団体など「四万数千人」が参加して盛大に催された。集会後、各会場から「寒風吹き荒む中を 雄々しき大行進」が二重橋前へ。
 二回目の普通選挙が行われ、市内は選挙運動でうるさかったようだ。岡本綺堂の家の前にある麹町小学校でも、浜口首相の演説のトーキーが映写された。二十日の投票が終わると、不景気ということもあって市内はまた静かになった。

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昭和五年(1930年)三月、東京劇場開場式(29)、帝都復興祭で様々なイベント、市民は復興祭に沸き上がる
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3月1日A 国技館で北海道博覧会開催、二ヶ月間
  11日A 「帝都をあげてさながら戦時気分 九段に日比谷に朝来引きも切らぬ人出」
  10日A 日露戦争二十五周年記念音楽大行進
  10日ka 虎の門金比羅の賽日
  15日Y 「読売新聞」に「釣り欄」登場、20日には「競馬欄」
  17日A 聖徳太子奉賛美術展開会
  17日A 「春初めての人波」「浅草六区は殺人的混雑」
  20日A 春季野球序幕、三田対稲門戦かなり賑わう
  21日Y 「空と海の博覧会」20日から開催
  24日ka 荷風、銀座通りより上野広小路の賑いを看
  25日a 復興祭、御行幸の沿路に揚る奉拝市民実に百万
  26日a 帝都復興祭祝賀、小学生十万の旗行列、夜は二万人の提灯行列
  26日ki 午後一時ごろ麹町を散歩、下町方面へゆく電車はみな満員
  27日A 帝都復興祭「歓喜の乱舞の中に 沸立つた全帝都 昨日の人出実に二百万」
  31日A 飛鳥山は満開だが酔う客もなく至極閑散
 
 三月に入り、新聞は、関東大震災からの復興祭関連の記事を書き立て、市民の関心を盛りあげている。十日、日露戦争二十五周年記念に因んだ陸軍軍楽隊の音楽大行進が、靖国神社から日本橋日比谷公園まで行われた。復興祭気運を受けてか、その日の賑わいは、「帝都をあげてさながら戦時気分 九段に日比谷に 朝来引きも切らぬ人出」と伝えている。
 十六日の人出はさらに多く、特に浅草六区は「殺人的混雑」で5銭のアイスクリームやラムネが飛ぶように売れた。新宿の人出もすごく、三越の食堂が二時に売り切れ、なお「蜜豆はお昼頃に売切」という。
 二十四日から三日間、関東大震災からの「帝都復興祭」。市内はお祭り気分に沸き立ち、「昼の人出二百万にも増して」復興第一夜は賑わった。復興祭の式典は二十六日、宮城前に「一万五千余の招待者に一般参列者を加えた五万八千余名」のもと、三十分足らずで終了。その後の祝賀会は、日比谷公園でこれもまた三十分足らず。市内の各小学校も祝賀式、式後、三年生以上「十万人」の生徒は各町内を小旗を振って行進。中等学校生徒、青年団などは夕方靖国神社など四ヶ所に集合、「二万人」が宮城に向かって提灯行列が行われた。
 市民の多くは、授業がなくて喜ぶ子供達に引きずられるかのように外出。その日の「人出実に二百万」。朝日新聞社主催の市民公徳運動大行進、復興祝賀広告祭の仮装行列もあって、「銀座街を中心に殺人的な大群衆」、まさに「人波」で街が埋まった。群衆がいかに多かったかは、上野公園近くで「群集に押しつぶされ」「二十余名の死傷」が発生する程。帝都復興祭に浮かれる市民は、「夜空を彩る花火に相和して」、またカフェーなどの深夜営業が許可されたことから、終日騒ぎ続けた。

大恐慌もまだ市民の遊びには影響少の四年の秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)200
大恐慌もまだ市民の遊びには影響少の四年の秋
 景気の悪化は、ニューヨーク株式市場が大暴落する前から始まっていたものであるが、暴落は日本を除くものであった。そのためか、国内の反応は遅く、大衆には感じなかったのではなかろうか。とは言っても不景気の浸透は徐々に現れており、市民の遊びにも影響を与えていた。
 ただ目に付くのは、国のスポーツ振興である。スポーツを本当に大衆のもの、遊びとして楽しむことを目的としていたのではないようだ。人々を動員する口実、スポーツに託つけて政府が人々を方向づける意図を感じる。十年後には、恒例の行事として催され、動員が義務づけられ、戦争を前提とすることが当たり前になっている。
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昭和四年(1929年)十月、日比谷公会堂開場⑳、ニューヨーク株式市場で大暴落(24)スポーツ観戦がふえる中、芝居は不景気のため値下げ
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10月2日A 紅葉見物の名所「今月中旬から」と案内
  2日A 朝日新聞社主催の発声漫画「とっくり漁」など、二夜満員
  3日A 遷宮祭のお休みでどこも人出で賑わう、明治神宮は午前中に五千人の参拝者
  13日Y 雨が祟ったお会式、でも人出二十万
  14日A 球場に入れず、日比谷公園早慶戦放送を聴くファン二万人が埋め尽くす
  15日a 早慶戦「応援団実に三万!」
  17日A 御遷宮奉祝運動会「神宮競技場に三万の乙女」都下51校の女学校生徒総出動
  18日ka 酒肆舞踏場の取締厳格となりしため銀座始め市内の酒舗はいづれも景況落寞たり
  22日Y 電灯五十年祭、銀座通りは身動きもできぬ人出
  23日a 「緊縮の不入りに 持ちきれぬ大劇場」
  24日ka 招魂社祭礼にて近巷雑沓甚し
  28日A 神宮体育大会開催、全国8千人の若人
                                                 二日は遷宮祭のため休み、市内はどこも賑わい、明治神宮は午前中に「五千人」の参拝者があった。十二日の御会式は、正午の時点で「二万人」もの人が出ており、800人の警官隊出動。雨天にもかかわらず「人出廿万」もあった。
 人気の早慶戦、切符は、二日間で早慶両校に3万枚、リーグ加盟校に800枚、球場前売りが2万枚となっている。十四日の試合は「応援団実に三万!」とあるように、観客の大半を学生が占め、一般のファンは入手しにくい。そこで、入場券が手に入らなかった人は、日比谷公園のフレヤー・ボールド前に集まり、実況放送を聞いた。なお、その数は「二万人」「ギッシリ集まる」とあるが実際は数千人程度であろう。
 十七日の日独対抗陸上競技は、観客8,639人の中44%が学生。スポーツは盛んになっているが、まだ学生が中心。明治神宮体育大会でさえ、開会式の中央スタンドを埋めたのは一千人足らず。三日目の大会呼び物の蹴球戦、「大人気を呼ぶ」Aとあるが、「冷雨」の中の観客は「一千五百人」。
 不景気のため観劇の観客が減っている。「緊縮の不入りに 持ちきれぬ大劇場」aという記事には、「帝劇先ず半額の大割引断行」、松竹も追随し一階席を50銭に値下げとある。減っているのは中等以下の客で、特等や一等の観客はあまり変わらないらしい。
 同じ紙面に、警視庁は儲かっている「湯屋」の料金を大人5銭から4銭に「値下げさせる魂胆」とある。また、「ふたを開けて 驚いた係員 知識階級失業者の登録に 押し寄せた人の波」との記事もある。

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昭和四年(1929年)十一月、浜町公園東洋一のプール開業⑰、市民レジャーは活発のなかデフレが進む
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11月1日ka 高尾稲荷前三菱倉庫の石垣に腰かけて釣するもの多し
  2日Y 神宮外苑周辺、陸上競技と野球で人出二十万
  3日Y 根岸競馬初日「二万九千人」売上げ45万円
  3日A 「トーキーの犠牲 弁士の失業続出」「生き延びるも もう数ヶ月」
  4日A 明治節「客止めの新宿駅」前日の客二十四万人と平日の二倍以上
  8日a 日比谷市政開館、関東大震災の復興展、一日平均四千六百人の連日盛況で十日まで日延べ
  17日A 「浅草の興行組合 近く一せい値下げ」全市興行物に影響
  20日A 十八日までの帝展入場者二十一万余人、前年より三万五千人増加
  22日A 「映画館入場料値下げ続出」10銭程度
 
 不景気になると金のかからないレジャーが盛んになる。荷風は、一日、中洲を訪れた時、大勢の人が高尾稲荷前三菱倉庫の石垣に腰掛けて釣りをしている光景を見ている。二日には、庭を掃き「菊花紅葉正に佳なり」と日記に書いている。この頃具合がすぐれなかった岡本綺堂は、植木屋を入れたり、花壇の整理をさせるなど、荷風よりもガーデニングに熱を入れた。愛好者が多いのだろう、釣りや園芸はしばしば新聞に紹介されている。
 三日の明治節は日曜と重なり、秋晴れ、市内から日光、筑波、箱根、房総、奥多摩、湘南方面に数万の人々が出かけた。市内は、明治神宮参拝者が「三十数万」や「体育競技最終日の外苑に十万近い観覧者」A④などの人出で賑わった。そのため、新宿駅は夕方に乗降客が集中し、前代未聞の改札口を三回も閉鎖。新宿駅の乗降客は24万人に上り、代々木駅は5万人、原宿駅は14万人、「こんな人出は一昨年諒あん明け後の明治神宮祭以来の事です」と駅長が語った。
 14日付Yで、浅草観音の十月の賽銭が1万6千円、お札と籤で5千円、前年より一割以上増加。増えたのは、苦しい時の神頼み。安価な公衆食堂も市直営11店で6万9千円の売上げ、前年より9%も増加。十七日付で「浅草の興行組合 近く一せい値下げ」の記事。浅草の興行が値下げされれば、全市の興行物に影響が出るのは必然で、「映画館入場料値下げ続出」となった。また、デフレは総てのものにまで進んでいると見え、駅弁までも「いよいよ五銭値下げ」A⑲と35銭が30銭になったと。

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昭和四年(1929年)十二月、東京市電争議おこる③、東京駅八重洲口完成⑯、値下げで前年より活況な映画
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12月7日A 「市電、円太郎罷業で、散々の活動写真街」3~7割減の浅草
  20日A ダグラス入京、警官250名と駅臨時係員100人などを無視し、東京駅は歓迎の群衆で大混乱
  22日A 「雪をめがけて押出すスキー連」で鉄道は大まごつき
  31日A 「いもを洗う 銀座通りの人出」                             31日ka 銀座通夜市雑沓例年の如く酒館は暁二時まで酒を売る                      
 六日、市電とバスがストライキ、そのため浅草への足がなくなり、映画街の観客は3~7割も減少。値下げによって観客を呼ばなければならない時に、興行主は大弱りであった。なお、市内の映画館観客数は、値下げの効果があったためか、前年より2割以上も増加している。
 外国映画の人気を裏付けるかのように、米国スター・ダグラスを出迎えたファンの熱気はすごかった。東京駅構内は、警官や駅臨時係員などで制止していたが、ダグラスが夫人を連れて現われると大混乱となった。このような映画俳優を東京駅で熱狂的に歓迎することは、二月三日付Aの「映画時事」にも書かれている。それには、「何かに熱情を注入したくてたまらない眠らされているところの大衆もまた、いつかは違う意味において動員されるだろう」とある。
 銀座の歳末の状況は、緊縮も不景気もここばかりは影を潜め、いもを洗うような人出。山の手銀座といわれる新宿は、東京で一番の人出。二十九日には12万人もの買い物客、露天商と小売小人が客引きに声をからしていた。浅草は、「商店は例年と変わりないがうす気味悪いこよみ売りが例年になくふえた」。「雷門から田原町通りの夜はカフェーより電気ブランに焼鳥ののれんの方が客が多い」。「流行歌『摩天楼』『恐やサタンの目が光る』がヤケにひびく」と。また、浅草の興行状況は、「安い喜劇館ばかりが満員の盛況だが玉乗りも安来節も無くなった江川はすっかり寄席となって喜劇は『全部精神異常なし』と来た」となっている。
 そのような浅草の変化を象徴したのが、カジノ・フォーリーの爆発的な人気である。川端康成の小説『浅草紅団』が東京朝日新聞夕刊に連載され、浅草が注目されたことに加えて、「ズロース事件」をきっかけに人気を集めた。ズロース事件とは、当時の踊り子は、オペラ以来の習慣で、西洋ダンスといえば金髪の鬘をつけ、晒木綿(さらしもめん)で作った手製の乳当て、膝まで隠れるだぶだぶのズロースというスタイルであった。ある日たまたま、踊っている最中に胸の晒が緩んで落ちかかった。その踊り子は前かがみのまま顔を赤らめて引っ込んだ。それに気づいた観客が、おもしろおかしく話しているうちに、「踊り子がズロースを落とす」という噂が広まった。こうしたこともあって、カジノ・フォーリーの観客は一躍に増加した。  

不景気で市民の遊びも萎縮する四年の夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)199
不景気で市民の遊びも萎縮する四年の夏
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昭和四年(1929年)七月、浜口内閣成立②、浅草水族館でカジノ・フォーリー発足⑩、ハエ取りデー⑳、夏のレジャーは海水浴へと向かう
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 不景気の波は、少しずつ押し寄せている。遊びにも影響し、貧富の差が出始めているが、まだ市民は感じていないようだ。新聞は、お金のかかる遊び(避暑を兼ねた山登り)を、電車賃の安い近郊の海水浴と同列に扱っている。
 大衆は不景気になる前から、いかにお金を使わずに遊ぶかと、四苦八苦している。それでいて、信心をともなった遊び(閻魔参りや草市)が衰退し、憂さ晴らしを求めた海水浴へと向かった。確かに、この年の暑さは異常で、八月の初めに36℃を超えた。戦前でも、こんな猛暑の年があったのかと驚く。今から約百年前、冷房が当たり前の現代とは比べられないが、やはり室内では耐えられず涼を求めたのだろう。
 九月に入ると、不景気感がじわじわと浸透する記事(共同基金募集、酒無しデー)が目に着くようになり、遊びも萎縮気味になる。

7月6日A 逗子の「海の家」十日から開き九月十五日まで、大人20銭小人10銭
  10日ka 浅草寺四万六千日の賽日なり
  15日A 鎌倉駅の乗降客二万、海の人出「三万五千」、千五百人収容の海の家に三千人
  16日a お盆の施餓鬼、だんだん減る御参詣
  16日a 「海も山も大当たりの夏」この夏の新記録
  20日A 「涼味万斛」夏の熱海温泉
  21日A 雨の川開き、「呆気ない混雑」、人出陸上二十六万船九万
  22日A 山の賑わい記録破り、上高地八百余人、房総の海一万等
  29日A 逗子・鎌倉へ九万人、無料入場者で海の家大混乱、房総へ二万人
                                                
 十日、日本初のレビュー劇場として浅草水族館の二階に作られた演芸場でカジノ・フォーリー(馬鹿騒ぎをする劇場)が入場料40銭でオープン。カジノ・フォーリーは、レビューとバラエティーの要素をミックスしたもので、エノケンこと榎本健一のデビューでもあった。なお、興行は30銭に値下げしても客には受けず、二ヶ月で解散。
 同じく十日から逗子に海水浴場客休憩所「海の家」がオープン。料金は、大人20銭・小人10銭。省電の乗車券と入場券のセット発売を企画。十四日の日曜は、1千5百人収容の海の家に、早速3千人も訪れて大混雑。ちなみにその日は、鎌倉駅の乗降客数が2万人、海の人出は「3万5千人」もあった。翌日の十五日は藪入り、人出はさらに多く、「海も山も大当たりの夏」とこの夏の新記録となった。
 一方市内ではどこも不景気で、浅草や上野公園の賑わいは例年より少なく、安価な芝公園のプールが混雑しているくらい。また、本所被服厰跡の大震災焼死者納骨堂では、お盆の参詣人が年々減る一方らしい。藪入りの閻魔参りも、草市も、新聞の紙面から消えつつある。なお、荷風は十日の日記に、「浅草寺四万六千日の賽日なり」と記している。
 二十八日には鎌倉・逗子へ「九万人」、房総へ「二万人」など、日曜毎に増えているようである。ただ、山の賑わいは、「記録破り」とはいうものの「上高地八百余人」と二桁も違っている。市民の夏のレジャーは、お金がかからない海が山より人気があった。

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昭和四年(1929年)八月、殺人的猛暑36.2℃⑧、暑さで花見に負けぬ海水浴場の賑わい
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8月5日A 「泳ぐ場所もない すし詰めの海水浴場 出たは出たは七十万」
  7日A 「不良狩りで暴露された 当世職業婦人の内幕軟派硬派の『悪』より恐しい 盛り場を毒す現代女」
  9日A お手軽な夕涼み電車、西武高田馬場より村山貯水池へ運賃半額の60銭
  12日A 「昨日の日曜もホクホクの鉄道」多少減ったが満員続き、人出六十万
  20日A 「全市を挙げてツェッペリン・デーと化す、三百万の瞳が大空を」
                                                
 四日は八月最初の日曜日、カラリと晴れて申し分のない海水浴日和。鎌倉・逗子は、泳ぐ場所もないほどの混みようで「十万を突破」、迷子が96名、ケガ人105名。それ以上の混雑は、手近な大森・羽田・子安で「十二万を下るまい」と。その他には、玉川方面、月島・お台場の水泳場、豊島園や井の頭などのプール、どこも混雑のピークを極めた。
 山の方へもこれまでにない人出。「記録破り富士登山」と、山開きから四日までの登山者は「二十三万人」、大正九年の十万人を幾倍増するほど。女性の登山者も増えて2割程度となり、その大部分は女学生。また、四日に北アルプスへ登山した人は千5百人、上高地でのキャンプは230人。登山者の大部分は東京や大阪など大都市のサラリーマンであったとしている。
 十一日の海水浴場は、前週より多少減ったが「六十万」、鉄道は満員続きであった。以後の人出は新聞に載っていないが、海の家が閉じるまであっただろう。市民の関心は、月半ば頃からツェッペリンの飛行船に向かった。十九日の東京は、飛行船を見ようと愛宕山やお台場をはじめ、屋上という屋上は鈴なりの人、さらにはプラットホームもすし詰めとなった。

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昭和四年(1929年)九月、新歌舞伎座開場⑤、関東大震災の盛大な追悼式に大勢の市民参拝
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9月2日A 「被服厰跡の参拝 夜をかけて六十万」、盛大な追悼式
  5日A 明治座「梅雨小袖昔八丈」果然大好評
  15日A 「カフェーに昨夜から禁札」
  15日ka 氷川明神祭礼なり・牛込築土明神の祭なり
  16日A 久しぶりの秋晴れ、日曜と十五日が重なったことから市内はすごい人出
  22日A 「タケ狩り 栗拾い 二日続きの遊び場案内」
 
 一日は関東大震災の追悼式、被服厰跡には「夜をかけて六十万人」が参拝した。東京府市主催の盛大な追悼式が被服厰跡で、その他、東西本願寺、回向院、浅草寺などでは法会が催された。本所公会堂、日本青年館、日比谷音楽堂等では講演会が開催された。また、街頭では震災共同基金募集、酒無しデーの宣伝、空からは緊縮のビラが撒かれるなど、様々な催しが行われた。少年団等6千人による募金は、一日で1万円を超える金額を集めた。
 台風一過の日曜、久しぶりの秋晴れと十五日が重なり、市内はもとより周辺も人出。神宮球場の早法戦に「三万五千人」、玉川プールの全国学生水上競技大会に4千人。上野の院展に6千2百余人、二科展に4千5百余人、その他に商業展などにも千人程度。スポーツや美術などの秋にふさわしい賑わいもあるが、職業紹介所では、長雨にたたられ仕事にあぶれた人々に食券が配られたA⑯。
 

徐々に減少する市民が遊ぶ記事、四年の春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)198
徐々に減少する市民が遊ぶ記事、四年の春
 春先はともかく、その後は市民の遊ぶ姿を記す記事が減少する。紙面を埋めるのは、相撲と野球の記事。話題とはなるものの、実際に観戦するのは市民のほんの一部。梅雨にかけてのこの時期は、行楽などの人出は減少するが、前年に比べてさらに低調なように感じる。
 メーデーの参加者については、昭和二年が5月2日A メーデー、芝の有馬ケ原に26団体62組合労働者約二万人、「平穏に」検束144人。
 昭和三年が5月2日a 「強風、空に鳴って メーデーの意気」と芝公園に「一万五千余の大衆」が集会。
 昭和四年が5月2日a 赤旗黒旗林立して、意気上がるメーデー 一万の大衆示威行列。
 この3年の参加者数は、実際はともかくとして新聞の数字は減少している。その一方で、前年の「代々木原頭の天長節観兵式、拝観者三十万」4月30日yに対し、昭和四年は「代々木原頭で観兵式、一万五千を御閲兵、市民は東西から群がり数十余万」4月30日a、と増加しているように感じられる。                                    ───────────────────────────────────────────────
昭和四年(1929年)四月、松坂屋上野店開店①、共産党弾圧⑯、前年にも増して郊外へと向かう行楽
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4月4日a 「鉄道先づギャフン 大祭日二十五万円の当て外れ 郊外は流石に賑わう」
  8日A 「恨めしい春雨で台なしのお花見」惨めな露店、茶屋
  12日a 満開の桜の下で上野の大騒ぎ、吉宗公合祭式、俳優の素顔出演等々
  14日A 飛鳥山、人出三十万人、昼から夜への底抜け騒ぎ
  15日A 「大うかれの花の日曜 桜に、海に、野外の行楽に 出も出たり人の波」、電車の客だけで百八十万人、どの会社も大ホクホク
  20日Y 日本名宝展終わる、記録破りの入場者
  25日A 靖国神社の大祭始まる
  30日a 代々木原頭で観兵式、一万五千を御閲兵、市民                        は東西から群がり数十余万
                                                
 最初の旗日、三日は前夜の雨に出端をくじかれだが、昼近くには郊外電車の客は増え、動物園や名宝展の開かれている上野、浅草は午後から旗日らしい賑わいとなった。本格的な賑わいは十一日からで、満開の上野で吉宗公合祭式やメートルデー、俳優の素顔出演などがあって春の騒ぎがはじまった。
 十四日は、上野公園に「約三十万人」、動物園に5万人(迷子30余人)。前日の夜桜見物から続く飛鳥山は足の踏み場もないほどで、「総計五十万」(迷子106余人)の人出。芝公園は、増上寺の縁日と重なって「人出まず十万人」。この日の電車の乗客は180万人、その内訳は、東京駅が18万、上野駅30万、新宿駅30万、両国駅5万、浅草駅5万、郊外電車の小田急が25万、京王30万、玉川13万、京成7万、目蒲10万などとなっている。
 二十五日からはじまった靖国神社の祭礼、永井荷風は見世物を見に出かけている。春の人出は続いおり、三十日の日記に「招魂社祭礼猶終らず、花火の響絶えず、近隣雑沓すること甚し」とある。二十九日、代々木原頭の観兵式を見ようと集まった人は「数十余万」。その日は薄曇りで風もなく、「市中到処午前の中より散歩の男女雑沓す」。荷風は「是亦世態変遷の一端を示す」と書いている。

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昭和四年(1929年)五月、東京行進曲のレコード発売①、大相撲を圧倒する六大学リーグ野球人気
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5月2日a 赤旗黒旗林立して、意気上がるメーデー 一万の大衆示威行列
  2日ka 三番町、商舗人家いづれも紅燈国旗を掲ぐ英国皇族の来遊を迎えるがためなり
  6日A グロスター公殿下奉迎の日英ラクビー蹴球戦、共に観戦し四万余の学生団大歓呼
  6日y 目黒春競馬最終日「入場者三万」と
  8日t  トーキー試写会始まる、外国語が問題
  17日a 「国技館の大角力にぎやかな雨の初日」、民衆デー50銭
  19日A 「物すごい人気 早慶の第一戦大観衆外苑に溢れ、警官隊と乱闘す」
  20日A 大相撲は日曜日、早慶戦延期で大入り満員
  21日a 早慶戦第二戦、観衆は第一回戦より多い四万人で入場料も1万5千円を超える
                                                
 五月の人出は、一日のメーデーからはじまった。五日の日曜は、来訪中のグロスター公殿下奉迎の日英ラクビー蹴球戦が神宮外苑競技場で行われた。日比谷公園では朝日新聞社主催の「国際児童デー」が催され、約7千人が集まった。また、四日に番狂わせのあった目黒競馬、最終日ともあって入場者は「三万とも注せられた」。
 十六日から始まった大相撲、雨天のでも賑やかな初日、入場料50銭の民衆デーとあって大入り満員。十八日から早慶戦がはじまり、第一戦は観衆が外苑に溢れ、警官隊と乱闘する熱狂ぶり。この早慶戦人気の煽りを受け、夏場所三日目の観客は減少したが、四日目は早慶戦が延期となり大入り満員。
 早慶戦の人気は高く、二十一日の第三回戦も第一回戦より多く1万4千円の売上げ、三試合の総収入は4万円を超えた。なお、第三回戦の終わった後は、学生たちが銀座に繰り出し、乱暴を働くので、エビスビールやキリンビール等では夕方から「本日売切」の札を出し、露店でも早々、引揚げる者が少なくなかった。警察官2百人が出て警戒、紋付き袴の応援団が連行され、泥酔した慶應ボーイ10余名が検束されるなど、恒例の大騒ぎが繰りひろげられた。

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昭和四年(1929年)六月、東京市電スト(25)、市民はローカルな祭や見世物にも熱中
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6月2日t 解禁に躍太公望
  3日ka 外濠の汚水に舟を泛べて遊ぶもの多し
  15日ka 三番町、家々山王権現祭礼の挑灯を懸く
  21日a 「はやしに暮れる夏祭」四谷須賀神社例祭
  21日A 評判のサーカス団 新宿で珍事
  25日t ボール投げにお灸、日本橋で通行人に脅威と36名が過料処分
  25日ka 銀座、散歩の人群をなして蓄音機の奏する流行唄を聞く、沓掛時次郎
  27日A 二十六日より芝公園の市設プール開放、井之頭公園は三十日から
                                                
 六月に入り、大河内伝次郎の『沓掛時次郎』や阪東妻三郎の『闇』の映画案内が辛うじて掲載A⑬されるだけで、レジャーに関する記事が激減。二十一日付の新聞に「初夏の生活」シリーズで、四谷須賀神社の「夏祭」が紹介されている。祭は五日間にわたって催し、年寄の肝入りで各町が挙って催物を出したが、不景気を反映して、「屋台は世知辛くも屋根裏の出店の様だ」と。それでも、このようなローカル色豊かな夏祭は、市内のあちこちで催されていた。
 また同じ紙面に、新宿のサーカスで事故との記事がある。事故は、「高さ三間直径一間程度の大をけ(桶?)の中で(上で?)オートバイの曲乗り中、五六尺の上部より墜落」、弾みで「をけ」が観客に飛込み3人が重傷。事故を起こした曲芸師は、二月の遊楽館の広告に出ていた「大女テレル」の亭主であった。ということは、「大女テレル」の興行はかなりの人気があって四ヶ月以上続いていたことになる。

前年の奉祝余韻で遊んでいる四年の冬

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)197
前年の奉祝余韻で遊んでいる四年の冬
 昭和4年(1929年)は、一月から張作霖爆殺事件で追求されていた田中内閣、内外とも無策のまま総辞職。代わって浜口内閣が七月に成立するが、枢密院や貴族院の存在、財政の逼迫など前途多難であった。難問を抱える中、十月にニューヨーク株式市場の大暴落からはじまる世界恐慌、浜口内閣の経済政策は為す術を失った。
 不景気は、底辺の労働者だけでなく、大学卒業者の就職難。四月に「大学を出たけれど」という映画が話題となるくらい。ガス・家賃の値下げ運動が盛んになり、秋には芝居や映画の入場料も値下げとなり、不景気はレジャーにも大きな影響を示しはじめた。
 それでも東京は、帝都復興が進められており、カフェー(6,187軒)やバー(1,345軒)などがひしめき、盛り場は盛況であった。また街は、見切り品・特価品・蔵払いなどの名で特売・廉売が日常化して、賑わいを失わなかった。婦人の兎の襟巻きが流行し、『東京行進曲』『紅屋の娘』などが流行歌となった。

凡例
新聞は発行日。日記は記載日・○の数字は日にち。
Aは東京朝日新聞朝刊・aは夕刊
Yは読売朝日新聞朝刊・yは夕刊
Hは東京日日新聞朝刊・hは夕刊
・新聞以外の資料として、次の作家の日記を引用した。
kiは岡本綺堂の日記  
taは高見順の日記
kaは永井荷風の日記
fuは古川ロッパの日記

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昭和四年(1929年)一月、説教強盗に二千人の警官動員⑱、市民レジャーも不景気を反映して低調
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1月5日a 正月の市内の人出は素晴らしく、浅草公園の人出が元日に二十万人
  6日A 三箇日の鉄道での人の動き262万9千人
  7日A 出初式、宮城前広場に全国消防組代表者及び帝都消防隊2万8千2百余名参加し御親閲式。警視庁4日に今年限り廃止と決定
  9日A 「陸軍始観兵式 一万の精鋭御閲兵」
  11日A 「角力春場所 民衆デーに大入りの初日」
  14日A 「奥多摩スケートリンク開き」帝大、慶大等各学校学生生徒「三百余名来場」
  16日A 「暗黒の歓楽境 浅草を浄化せよ」「浮浪人は増加の一方」
  16日A 藪入りの十五日、陽気もよく大相撲六日目満員
  19日A 大相撲「しり上がりに続く大好景気」
  25日A 好評嘖々の公園劇場「月形半平太」果然満都の人気沸騰に大好評、連日満員
  31日A 多摩川原遊園地京王閣、二月の土日及び紀元節、福引デー金5円~10銭
 
 三箇日は天候に恵まれ、鉄道利用者が262万人、市電が325万人、バス(円太郎)が66万人、前年を上回る人出で市内は賑わった。なかでも浅草は元日に「二十万人」、公園内の興行には三箇日で50万円が落ちたと報じている。ただ、不景気を反映してか、浅草では近年にないほどのスリの被害が多かった。
 また、不景気で浅草公園内に浮浪者が増え、「浅草を浄化せよ」との声が上がる。その一方で、公園劇場の『月形半平太』が大好評で連日満員。興行を観客人員から見ると、演劇は前年一月より5%増えているが、映画は7%、寄席は14%も減少している。低所得者の生活は一段と厳しくなっているものと思われる。

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昭和四年(1929年)二月、説教強盗逮捕(23)、「豆まき」より賑わいを増す「建国祭」
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2月3日ka 節分なれば四鄰の妓家豆をまきて賑かなり
  4日a 「賑やかな豆まき きのうの芝増上寺
  10日T 「内閣倒壊民衆大会」、民衆上野を埋む
  11日y 連休で大賑わいの湘南地方、大繁昌な熱海
  12日a 靖国神社明治神宮外苑・上野・芝・浅草・深川の公園など六ヶ所で建国祭、式後「無慮十万の若人が」二重橋前へ大行進
  18日A 東京駅で一等寝台車が車止めを越えて路上に、日曜の人出に騒ぎ
  21日A 遊楽館「白象の如き巨女」の広告
 
 節分には成田に向けて、上野から13本、両国から12本も臨時列車運転の案内。また、川崎大師、穴守稲荷、総持寺などの豆まきの広告もあった。そのため、市内及び周辺の追儺式はさぞかし賑わうものと思われたが、新聞には「きのうの芝増上寺」の写真しか掲載されなかった。それは、故久邇元帥宮の喪儀と重なったためであろう。以後のレジャー関連の報道は少ない。
 行楽とは言えないが、十一日、靖国神社など市内6ヶ所の式場で建国祭。各会場に早朝から在郷軍人青年団、少年団、学生団等々「三百余団体人員実に十万」人が集まる。閉会後は宮城に向けて行進、「沿道を埋めた群衆も思わず行列に和して建国歌や万歳を唱和して、建国気分が都大路の次から次にとみなぎり到るところで電車が停まるような賑やかさ」であった。

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昭和四年(1929年)三月、東京市会選挙⑯、暖かさに誘われて市民レジャーも動きだす
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3月3日T 国技館で台湾博覧会開会
  4日T 健康増進運動で児童無料の多摩川園・豊島園・花月園が賑わう
  6日A 「倒閣の叫び」五日一時より上野動物園前広場に一万五千の集会
  9日A 澤田正二郎の「華やかな追悼告別」に万余の民衆、日比谷音楽堂に溢れる
  11日A 陸軍記念日、九段から日比谷へ日曜の人出の中一千五百名の音楽行進
  17日Y 帝国劇場伊太利歌劇「トルヴァトーレ」初日、半額で満員
  17日ka 市会議員選挙の当日なり、路上酔漢多し
  21日A 「春のモボ、モガ退治」日本橋ビル内のダンスホール手入れ、3名検挙
  22日a 郊外へ郊外へと人の波 午前中に三十万人
  23日A 「国技館の台湾博 益々人気を博す」
  24日A 横浜市公園グランドで早慶新人戦満員一万五千
  25日Y 上野の日本名宝展「実に一万八千」入場者
                                                
 五日、上野動物園前広場で1万5千人によるの倒閣を求める集会があった。八日、新国劇創立者澤田正二郎の「華やかな追悼告別」が日比谷音楽堂で催され、万余の民衆が集まった。十日の陸軍記念日東京市と陸軍音楽隊など1千5百名の音楽隊による音楽行進が、日曜の人出の中を九段から日比谷へと行われた。
 二十一日の朝刊Aに「気もそぞろな旗日のお中日、つみ草の珍品探し」の記事がある。その記事に誘われたかのように、朝から郊外へと向かう電車は何れも満員。省線は、湘南方面に午前中「約30万人」、房総方面へも大勢出かけた。
 郊外電車は、大師・花月園・穴守稲荷等へ向かう京浜電車が約2万人。目黒電車も1万人、多摩川土手はピクニックの親子連れで賑わう。武蔵野電車は飯能、豊島園等へ午前中に2万人、午後には5~6万人に達した。西武電車で村山貯水池等へ午前十時までに5千人の人出。小田原急行を利用して箱根方面、稲田多摩川べりや稲田上り戸の遊園地等へ2万人。京王電車は午前中に10万人、多摩川原に5万人、多摩墓地方面に4万人で、多摩御陵も珍しい賑わいを見せた。京成電車で成田詣りに5万人、国府台や市川などへの乗客は10万以上になるだろうと、書かれている。暖かくなるにしたがって、市民レジャーは活発になっていった。
 いつの間にか、「モボ、モガ」は摘発対象になった。時代の先端であった時もあったのに。この呼び名は、「モダンボーイ・モダンガール」を略したもので、大正時代を象徴するような言葉である。西欧文化に憧れた都会の若者が形成した風俗であり、自由な気風を示す流行現象でもあった。銀座通りを闊歩するモボ・モガは、以後徐々に消えてゆく。
 

盛り上げた人出がピークとなる三年の秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)196
盛り上げた人出がピークとなる三年の秋
 東京市民の生活は、大正時代より際立って良くなったわけではなく、企業の景気も決して良くなってはいない。にもかかわらず、新聞には人々が浮かれて遊んでいる様子を報道している。それも、制止したり、水を挿すような表現はない。首都東京は、前年より盛り上がり、意気消沈してはならない事情がある。
 この年のメインイベントは、天皇即位である。即位の祝賀は、何としても大盛況の中で催さなければならない。そのためには、市民の気運が低下してはならない。天皇即位を前に高めて置かなければという操作があったと考えられないだろうか。このような人々の行動を方向づけることは、現代でも少なからず行なわれている。昭和の初めから戦中へと、戦争を遂行するためにさらに強くなる。
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昭和三年(1928年)十月、東京府下四百二十三校で「御真影」伝達式②、東京松竹落劇部設立⑫、御大典奉祝を前にレジャーは活発
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10月1日  国際水上競技大会 第2日 1円券売り切、その他の切符も飛ぶような売行
  1日  雨の日曜を賑わった映画祭、ぬれながら観衆一万人
  2日A 熊野神社祭礼(9月20・21日)の露店の物を食べ、千駄ヶ谷の子供食中毒
  7日A あす日帰りのタケ狩り、栗ひろいの場所、郊外ご案内、牛久、手賀沼・・
  13日A お会式、電車輸送しきれぬ人出五十万
  14日A 国際水上競技大会は第一日、玉川プールの大スタンド立錐の余地無き盛況
  14日Y 築地小劇場「国姓爺合戦」連日満員
  14日Y 目黒競馬第一日、増築設備も間に合わぬほどの入場者
  14日ki 日曜といい、朝から快晴であったので、どこも人出が多かったらしい
  18日A 茸狩やクリ拾いで郊外の賑わい「ほくほくものの郊外電車」
  21日Y 早慶一回戦、十一時に内野席満員の盛況、夜は慶應ファンが銀座で大騒ぎ
                                                
 七日付Aで、日帰りの茸狩や栗拾いの行楽案内。茸は牛久・手賀沼、高柳・初石・鎌ヶ谷、栗拾いは小机・菊名鴻巣・本宿・桶川など。ただ、日曜は雨になりせっかくの案内も役立たず。郊外の賑わいは次の日曜と十七日に延びた。
 十二日のお会式は賑わい、池上電車が輸送できぬくらいの「人出五十万」人。その日の事件は、賽銭泥棒35人、迷子25人、泥酔30人、風俗壊乱27人、スリ2人と、雑沓した様子が伝わってくる。十四日の日曜、綺堂は混雑した新宿の布袋百貨店を覗き、どこも人出が多かったらしいと、日記に書いている。
 東京朝日新聞主催の「国際水上競技大会」は、十三日の玉川プール大スタンドが立錐の余地無き盛況、翌日も早朝七時から開門を待つファンがならんだ。1円の前売り券は、二週間前に売り切れるほどの人気。オリンピックで日本人が活躍したことで市民のスポーツへの関心は高く、早慶戦の人気は「割れ返る神宮球場」A(21)と、スタンド一杯の盛況であった。その一方で、帝展の人気は落ちたようで「あてが外れて 帝展の失望 近年にない不景気」A(21)とある。

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昭和三年(1928年)十一月、ラジオ体操放送開始①、市内は御大典奉祝に湧き返る
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11月1日A 御大典奉祝の盛んな体育大会、神宮競技場で小学生ら三万人の参加
  4日A 「押し出した人波、郊外の秋色から近県の紅葉へ、市内も奉祝の賑わい」
  4日ki 妙義山は各団体その他でおびただしい人出
  5日A 根岸競馬第二日、売上げ62万円の賑わい
  5日Y お酉様、御守り5万枚、熊手張店130軒6ka銀座辺の酒肆雑沓甚しからん
  10日A ダンス取締、18歳未満の男女入場を禁止
  11日A 「奉祝の大うず巻」宮城前広場に五十万人
  18日A 二の酉
  20日A 帝展、雨に祟られ不成績、前年より六万人減
  28日a 還幸の御道筋両側に二十万人の参拝者
  28日Y 国技館の菊花大会、味の素デー大人60銭
                                                
 市内は、御大典奉祝一色。神宮競技場では市内の小学生たちの奉祝体育大会が行われ、三十一日から八日までに「三万人」も参加するとのこと。三日四日は連休、市内の賑わいはもちろん、郊外競馬や近県の紅葉を求めるて出かけるなど、市民は休日を楽しんだ。
 奉祝イベントは、即位のため京都へ向かう七日からはじまった。天皇のページェントを奉拝する人々は、午前四時に宮城外苑を埋めていた。「御発輦後の東京市内」は、奉祝門付近で記念写真を撮る人などで終日賑わいが続いた。荷風は「拝観せんとするもの昨夜より路傍に堵をなせし・・・銀座辺の酒肆雑沓甚しからん」と日記に書いている。
 十日に天皇即位、「宮城前広場に 五十万人」「明治神宮 参拝者で埋まる」など、夜になっても「灯の海、人の大波に 不夜城の東京全市 提灯行列に万歳とゞろいて わき返つた奉祝い」「街から街をねり歩く学生、青年団、町会等の提灯行列・・・帝都近年になき稀に見る人出であつた」。そして、「奉祝高潮」という写真は、「赤坂離宮前に集つた小学生の旗行列」によって埋められていた。市内の奉祝は、「正に街頭への市民総動員」であった。その一方で、奉祝に託つけて遊ぶ市民の姿は、「交通途絶の賑ひ 花火と昂奮の上野付近」の騒ぎや「花電車も立ち往生 浅草の賑ひ」などに見られた。
 二十七日、東京駅は十一時半頃からすべての列車が止まり、陛下の到着を待った。東京駅から二重橋までの道筋には、前夜七時頃から徹夜して二十時間も待っている人もいた。「御道筋の両側を 埋め尽くした二十万人」、これだけ多くの人々がいたことから、「御沿道の小話挿話」には事を欠かなかった。待つ間には、碁やトランプ、編み物、読書、お化粧や飲食など、さらに「だから止められない際物商売」などもあった。
 なお、即位礼のあった十日から、ダンスホールは、十八歳未満の男女の入場禁止、飲酒の禁止、午後十一時閉場となった。

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昭和三年(1928年)十二月、地下鉄乗務員初ストライキ③、新宿に武蔵野館開館⑭、十二月に入っても奉祝ムード、「奉祝気分に満ちて浮立つ暮の街々」
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12月3日y 代々木原頭で大礼大観兵式、七十余万人殺到
  5日a 「晴れの観艦式に 横浜の人出百万」
  7日A 「奉祝気分に満ちて浮立つ暮の街々」
  13日ki 祝賀会で強飯を焚いた
  13日ka 夕刻まで銀座より上野あたり又丸の内一帯電車通行留め
  14日a 「帝都繁華の中心街に 初めて御英姿を仰ぐ和やかな奉拝者の群れ」
  16日a 「聖上雨中の御親閲に 気負い立つ若人九万」二重橋前広場で分列行進
  26日A 帝国ホテルでクリスマスの夕べ「踊れ踊れ国際的乱舞、大食堂は一杯」
  28日ka 銀座通歳暮の露店例年の如し
  31日A 銀座通り、押し迫る年の暮れに狂奔
 
 二日、代々木原頭に「精鋭三万五千」を含む「十万」の正装礼服の官民、全国在郷軍人「二万余」が集い。大礼大観兵式は「七十余万人」もの観衆の中で盛大に催された。
 四日の観艦式は「人出百万」。横浜の海岸一帯は午前八時頃には身動きもとれないほど、また高台という高台にも拝観者の群れで埋められた。東京からは鉄道に加えて、船で行く人が多く、隅田川下流は、観艦式拝観のダルマ船が数珠つなぎ。船は八時頃にはすっかり出尽くし「ざっと五万人」、芝浦から繰り出した大型船で「海上拝観者十五万」。近来にない陸海の人出があった。なお、拝観船転覆の記事には、本牧沖・鶴見沖のダルマ船は「二百数十艘」と書かれている。
 十三日、東京市奉祝大会が催された。前夜、二重橋では提灯を持った人々、行幸道筋には莚などを敷いて座り込む人々で賑わった。「帝都繁華の中心街に 初めて御英姿を仰ぐ」市民が大勢いた、綺堂も麹町通りに人が続々と通るのを見ている。また、午後からの上野公園から二重橋までの音楽大行進も、道筋は身動きできないほどの人々で埋め尽くされた。
 さらに、十五日には東京府隣接4県の「九万人」による分列行進が二重橋前広場で行われた。「雨中の御親閲」が終了したのは午後三時二十分。生徒たちは何時から集合していたか分からないが、「若人のすばらしい元気は氷雨などものともしない」と書かれていた。日曜日の大イベントということもあって、市民が取り巻いていないとは思えないが、観衆の数は不明。
 二十五日、「踊れ踊れ国際的乱舞」と、帝国ホテルでは賑やかなクリスマスの夜が催された。市民のダンスは制約されていたが、帝国ホテルのパーティーは差つかえないらしく、大食堂は一杯の人で埋まっていた。
 二十五日、綺堂は、午後から混雑する新宿三越で買い物、歳末の景況を撮影しよう思っていたが、あまりにも混雑が激しいのであきらめた。三十日の銀座通りは歩けないほど、「押し迫る年の暮れに狂奔」。奉祝で市民は浮かれていたが、景気が改善されたわけではない。東京市は、1万人の労働者に食券を配り、困っている人々の救済をした。レジャーから見ると、映画は前年十二月より9%、10万8千人も観客が減少している。前月からの奉祝騒ぎにお金を使いすぎた人もあろうが、景気はじわじわと悪化している。