レジャーたけなわに向かっての九年秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)216
レジャーたけなわに向かっての九年秋
 渡満する東京部隊の初年兵○○○○名・・・東京駅発不定期一〇〇五列車、見送り三万人、まるでオリンピック選手見送りのような熱気を伝えている。もちろん、見送りの人々が全てそのような気持ちではなかったと思われる。戦争は、泥沼に進んでいるが、市民は不安や恐怖を感じていないのだろうか。まだ戦争の実感はなく、遠くの戦いを応援する感覚だろう。市民のレジャーを見ていると、何ら関係ないような生活を呈している。

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昭和八年(1933年)十月、早慶戦の球場内で乱闘(22)、市内は秋を楽しむ市民で雑踏
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10月1日ka 烏森神社の縁日を見る
  3日a 小学校先生の運動競技、神宮外苑競技場に一万二千
  6日Y 日比谷新音楽堂で「声楽と舞踏の夕」1万数千の観衆
  12日ka 会式にて省線電車は終夜運転す。一同は会式の光景を観んと烏森停車場に赴きしが余は老体なれば独家にかへる
  13日Y お会式、人出四十四万、万灯百の淋しさ
  18日y 神嘗祭の人出、上野駅から十万をはじめ、市内も秋を楽しむ群れで雑踏
  23日Y 早慶戦、六万人の観衆の中、「早大応援団の暴状」・「林檎事件」起きる
  28日y 明治神宮体育大会開幕、全国一万の選手
                                                
 十二日のお会式(池上本門寺)は、午前中に雨が振っていたことから、例年より少し淋しい「四十四万」人の人出。この年は、「非常時のお会式」と特別警備隊が初出動のためか、事件は賽銭泥棒11件、不良5件、酔っ払い3件、スリ2件、迷子2件と少なかった。ただ夕方、「死のう」団14名が本堂脇でパンフレットを配布しようとして捕まる。また、お題目を忘れたのか、「ヨイヨイ」と東京音頭を歌う組が幾つかあったとか。児童虐待防止法の施行で名物の物貰いに子供の姿がなかったなど、話題にことを欠かなかった。
 十七日は「爽冷の旗日」、十五日が日曜であったことから市内はもとより郊外へと市民が出かけた。市内では、上野動物園に「十一万」、帝展に「一万」の大入り、スポーツは明立野球戦をはじめラグビーやテニスなどが行われた。郊外へ向かう臨時列車は、上野駅から日光・塩原・軽井沢・水上・筑波・長瀞へ、東京駅から熱海へ、新宿駅から中央線が増発された。
 二十二日、「一進一退、六万の観衆は興奮の最高調に息づまるような早慶第三回の最終回を一点の差で迎えた慶應軍、井川の一撃はカーンと左翼に飛んで劇的凱歌・・・刹那 三塁側スタンドから飛び出した早大生」と慶大生らの小競り合いがはじまった。ことは、8回に審判に抗議した水原に三塁側がリンゴを投げつけ、それを早大応援団側に投げ返されたのに立腹、早大応援団が慶応側に謝罪を要求。乱闘は「夜の銀座・血の早慶戦」に続き、「両大学生百数十人検束」という事態にまで発展した。
 なお、銀座の「此の騒ぎのおこりは学生泥酔して私服巡査を常人と見誤り、多勢にてなぐり掛けし処に制服の巡査駆せ付け」と聞く。さらに「余の親しく目撃せし処を記さむに、慶応義塾の学生七八人英国海軍士官二人を取巻き、無理に其手を捉え、覚束なき英語にて何やら叫び立つる有様に弥次馬追々集り来る。英国士官は遂に学生の手を振払いほうほうの体にて土橋巡査派出所の方へ逃げ去りたり」と、荷風は記している。

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昭和八年(1933年)十一月、東京競馬場開設⑱、芝浦アイススケート場開場(25)、スポーツは盛んになっているが、演劇には弾圧がはじまった
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11月9日Y 明治神宮体育大会、三日に終了し五万五千円の収入、内入場料五万二千円
  13日y 故朝香宮妃殿下御葬儀、市内の興行自粛
  19日y 府中、東洋一の東京競馬場で初競馬
  20日ka 過日舞踏場検挙ありてより市中いづこの舞踏場も客足落ちたりと
  22日a 帝都座等「丹下左膳」他満員御礼
  23日Y 歌舞伎座の「源氏物語」突如上演禁止
  26日y 芝浦、東洋一の室内スケートリンク開場
  27日A 田園調布グランドの拳闘試合入場者三万、歌舞伎なみの料金

 十一月に入っても市民レジャーは活発である。三日に終了した明治神宮体育大会は、前年より2万3千円も多い5万2千円(73%が野球)の入場料収入。前年の経費不足額が3千円であったことから、この年の利益はかなりあっただろうと書かれている。なお、総観客数は記されていないが、有料入場者は10~20万人程度と推測される。
 二十二日、警視庁は、歌舞伎座での『源氏物語』公演を禁止。理由は「禁中生活がそのまま出ていること・・・登場人物が皇族であること・・・右翼方面の抗議運動が想像・・・」、それに「当局の気に病むのは 有閑階級の腐敗」。それに対し、坪内逍遥などが顧問となり、一年もの準備した「苦心の研究も闇へ」、「死んでも上演したい 坂東簑助氏泣いて語る」。ちなみに、前売り切符1万枚は、ほとんど売り切れていた。
 同じ二十二日、東京駅では満州へ向かう初年兵を見送る「三万人の大群集が押掛け」た。入場券を1万5百枚売った時点で発売停止とともに改札停止、見送り人は「改札口を破り助役らを袋叩き」。「渡満兵輸送に大醜態」ということになった。また渋谷駅では、「世界の名犬に」なったハチ公のために「晩餐会」が開かれた。

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昭和八年(1933年)十二月、京成電車上野駅乗り入れ⑩、皇太子誕生(23)、有楽町に日本劇場が開場(24)、師走の市内は皇太子誕生奉祝も加わり賑わいをさらに増した
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12月4日A 七大学ラクビー戦、早大対明治は競技場満員
  5日Y 上野動物園にバイソン入り、入園料割引
  5日ka 水天宮の賽日にて電車通雑遝甚し
  9日ka 入谷の町の夜店を見、鬼子母神に賽す
  11日y 日比谷に三劇場近く開場
  16日a 浅草歳の市
  25日y 皇太子誕生「宮城前の人波」
  25日Y ダンスホール税二百円、倍額決定
  25日y 春場所を控え 力士争奪戦 東西協会雲行き急
  30日Y 奉祝の人出「実に四十万」宮城に向けて提灯行列など賑わう
                                                
 上野動物園に入ったバイソンが公開され、六日から五日間入園料割引(大人15銭が10銭・小人10銭が5銭)となった。もっとも、話題性はあったが季節がら大勢の人が押し寄せるには至らなかった。それより、荷風の見た水天宮の祭の方が賑わっていただろう。
 十一日の読売新聞夕刊の「日曜娯楽」には、「映画とレヴユウのファンへの大きなお年玉は、近く開場される東京寳塚劇場、日本劇場、日比谷劇場の三館だらう。この三館に入場し得る人数を合計すると約一万近くになり、これらが揃つて、日比谷公園近くに並び立つといふことは、最近の興行界の偉観である。」と当時の娯楽の情況を記している。演劇には弾圧が始まったが、映画とレヴユウには、本格的な引締めがまだ始まっていない。
 その情況は、日本劇場・・東洋一の偉観、詰めれば 優に五千人収容。日比谷劇場は工専費卅万円、収容人員二千人の映画(専?)門の小屋。寳塚劇場の定員は三千名、階下から三階まで全指定、ボックス四円・一階二階二円と一円五十銭・三階一円と五十銭、約五百人が働く。
 松竹も黙つてゐられなくなつたので、歌舞伎座でレヴユウ興行、引き続き浅草松竹座に渡して、がつちり。観劇料は二円八十銭・一円八十銭・八十銭。なお、「松竹桃色争議」謹慎者も、スター争奪戦に加われたようだ。
 二十三日に皇太子誕生。翌日は「宮城前の人波」、「中学校、女学校、小学校の生徒が校旗を、青年団が団旗を捧げ 万歳を三唱しては入れ替わり出てゆく」。二十九日の夕方には、提灯行列をはじめとする奉祝の人出実に「四十万」、靖国神社芝公園明治神宮外苑・上野公園・深川猿江公園の五ヶ所から「計七万余名」の奉祝提灯行列隊が宮城を目指した。銀座は歳末のグランド・セールと重なり、押し寄せる人のため「夜店をのぞくことも何も出来ない」混雑であった。
 

『東京音頭』が流行る八年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)215
東京音頭』が流行る八年夏
 「東京音頭」は、有楽町の商店街によって不景気を吹き飛ばすため、前年に「丸の内音頭」という名で作られた。それまでなかった都会風の盆踊りとして、日比谷公園での盆踊り大会で披露された。なお、この盆踊り大会は美松百貨店の広告で、百貨店で売られている浴衣を購入しなければ参加できなかったと、『墨東綺譚』(永井荷風)に記されている。
 翌年年七月、「東京音頭」と改題して発売された。発売にあたっては、市民が誰でも歌えるように改詞された。「東京音頭」は替え歌がつくりやすいこと、また歌詞は卑猥さを連想させることもあって爆発的に流行した。その後も、秋になっても人気が後を引き、十月の早慶戦の入場券を徹夜で求める観客が、「東京音頭」で夜を明かしたという話しもあるくらいだ。
 「東京音頭」は盆踊の流行と共に全国的に広がっていった。翌年も、「東京音頭」は夏の東京で踊られ、日比谷の盆踊りに見物人が3000人集まったという。「谷津海岸の空陸実弾応酬演習見物に三十万」「横浜の大観艦式、海岸はお花畑「無慮百万」の拝観者」「満州事変二周年記念日、靖国神社の慰霊祭、日比谷で盛大な慰安会」などの戦時色のイベントが催されるなか、「夕涼み興行取締り、出演者許可も厳重」となるが、盆踊りは抜け穴になっていたようだ。

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昭和八年(1933年)七月、戸塚早大グランドで初ナイター⑩、暑さに負けず市民レジャーは盛況
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7月4日Y 戸塚球場に、拳闘界未曽有三万の大観衆
  8日y 夕涼み興行取締り、出演者許可も厳重
  9日ka 浅草寺四万六千日の賽日を看る
  11日Y 戸塚早大グランドで初ナイター
  11日Y 深川八幡の盆踊り
  13日ka 夜銀座通草市賑かなり
  16日Y 藪入りの国技館、超満員の盛況
  17日A 日曜日とかさなり藪入りの浅草賑わう
  22日Y 「うだる暑さ 川開き人出百万」
  24日A 「海もうだる」と逗子海岸の賑わい
  26日Y 銀座で防空演習、「見物人で一ぱい」
  26日Y アッパッパ全滅
  27日ka 竈河岸辺防空演習にて賑かなり
  31日y 明治天皇祭、映画・花火などで神宮賑わう
                                                
 三日、戸塚球場での日仏拳闘戦は、拳闘界未曽有の「三万」人の観客。その一週間後、野球の初ナイターが行われた。試合は早大二軍対早大新人ということで、団扇を持った観客でスタンドが埋められた。同日、横浜で日仏拳闘最終戦が行われ「一万五千人」も集まっている。
 この年の藪入りは、「日曜日とかさなり」浅草が賑わいを取り戻した。二十一日の川開きは、「人出百万」とある。なお、警視庁警戒線内に64万人(陸上51万人・水上13万人)と発表されている。事件・事故は、「案外に少なく」救護者30人・迷子1・窃盗6・泥酔1・スリ1であった。七月は、非常暑かったので市民レジャーは月初めから活発、海水浴はもちろん、防空演習まで納涼気分で多くの人が出た。

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昭和八年(1933年)八月、第一回防空演習⑨、盆踊りの東京音頭大流行
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8月5日y 歌舞伎座弥次喜多金比羅道中記」連日満員御礼
  8日y 日比谷で武藤元帥葬送
  8日Y 谷津海岸の空陸実弾応酬演習見物に三十万
  10日ka 銀座、人出おびたゞしく、在郷軍人青年団其他弥次馬いづれもお祭騒ぎの景気なり
  16日a 深川八幡の祭礼、神輿六十二基永代橋を渡る
  17日Y 納涼大会で花火の事故多発
  26日y 横浜の大観艦式、海岸はお花畑「無慮百万」の拝観者
  28日Y 国技館の納涼園、日曜で超満員
                                                 戦争を身近に感じはじめたこともあって、七日の谷津海岸の空陸実弾応酬演習は、三十万人もの「観衆」があった。昼前にはじまった演習は、夜になると「光りの交叉の只中に 銀色・空襲の敵機」「物凄い火焔を吐いて」の砲弾、歓呼の声と拍手に迎えられた。京成電車は、9万人を輸送し10万円の収入となった。
 荷風の十四日の日記に、「飯倉八幡宮祭礼にて馬鹿囃子の音夜ふけまで聞ゆ」とあるように、盆踊が盛ん。特に、東京音頭がこの夏からものすごい勢いで流行、広場があればやぐらを建て、夕方から浴衣がけの老若男女が踊り狂った。また、八月に入っても納涼大会で花火があちこちで催され、十六日には事故が起きた。品川では、海中仕掛け花火「水中金魚」を打ち揚げに失敗、炸裂し重傷者一名。京王閣では「早打ち煙火」打ち揚げ中炸裂し、20数名の死傷者を出す。
 二十五日、横浜で大観艦式、「展開する海の行進」を見ようと、山下公園から山手の高台にかけて、「赤、青、黄、白のパラソル」のお花畑を形成した。水上は「二十数艘の内外大汽船、千数百艘の艀船や伝馬船に至るまで満船飾を施して港内は目も覚むるばかり」、そこへ161隻の「海国日本の縮図を描き出」すパレード。この日の横浜は、「百万の観衆湧く」。

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昭和八年(1933年)九月、市民のレジャー気運は高く、秋の行楽は盛ん
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9月2日y 震災記念堂へ参拝の人、六十万
  2日ka 三十軒堀河岸通の縁日を見歩き
  3日y 五大学リーグ戦開幕
  4日y 院展・二科・版画の三展蓋あけ
  10日y 踊り子争議めでたく大団円
  10日y 東京六大学リーグ戦開幕
  19日y 満州事変二周年記念日、靖国神社の慰霊祭、日比谷で盛大な慰安会
  25日A 「けふ郊外の人出」池上電車、一万五千など
  26日y 三日の黒字二十万円、押し出した人百九十万
  28日y 「東京音頭」封切り
  28日y 浅草松竹館「刺青判官大会」満員日延べ 

 九月は関東大震災の追憶からはじまる。本所被服厰跡には「六十万」人もの人が参拝。盛大な記念式典が行われ、一日の賽銭は5千4百円、震災記念館の入場者は2万2千人。また一日から、読売新聞社は八月中に何度か掲載していた、「海底写真」の「展覧会」を開催。
 十八日は満州事変二周年記念日、靖国神社で慰霊祭が営まれ、日比谷で盛大な慰安会が催された。市民の行楽活動は盛んで、秋季皇霊祭に日曜と出かけた人は「百九十万」人、秋になって最高の人出となった。おかげで鉄道は20万円もの黒字となった。
 三十日の新聞広告欄は、栗拾い・梨もぎ・いもほり・茸狩、ハゼ釣り・ボラ釣りなど、秋の行楽たけなわ。ちなみに、追浜園の芋堀りは30人以上の団体は無料とし、豊島園では栗が拾い放題、武蔵嵐山の栗拾い・茸狩は往復乗車券付で2円(池袋から往復1円50銭)、芝浦の乗合船ハゼ釣り80銭(餌付)。

前年より活発な市民レジャー八年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)214
前年より活発な市民レジャー八年春
 東京は、インフレの恩恵を受けて市民レジャーが活発化、官製のイベントがなくても、映画館観客数は3,800万人と前年より250万人も増加、劇場観客数も800万人と100万人増加。花見や花火などの行楽活動も前年より賑わいを増した。
 新聞が盛りたてるスポーツ、あたかも誰もが関心を持っているように感じさせる。実際に観戦する女性はあまりいない。それでも紙面を賑わす材料として欠かせないので、載せ続けている。そのような中、松竹少女歌劇団の争議が注目された。少女歌劇団と言うように、十代の少女が中心、水の江以下少女部員230名は、神奈川県にある湯河原温泉郷の大旅館に立てこもった。現代でも未成年(二十歳以下)のアイドルグループがあるが、このような徒党を組むことができるであろうか。

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昭和八年(1933年)四月、浅草常盤座で「笑いの王国」旗揚げ①、新国定教科書の使用開始①、関東軍華北に侵入⑩、市内に催し物が多く花見からの人出は月末まで続く
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4月1日ka 人形町の夜店を見る
  2日a 浅草観音の開帳
  2日y 「快晴!春に酔う 流出た大行楽群」
  5日a 三日間の人出二百三十万「鉄道はホクホク」
  10日y 明治座「母三人」他、満員御礼、入場料3円70銭~70銭
  12日y 昭憲皇太后祭、明治神宮で花火・映画等
  17日y 「花・花・花へ殺到」浮かれ出た二百万 三十三年人出の新記録
  17日A 新制度の野球リーグ戦開幕
  26日a 靖国神社臨時大祭
  29日A 「ハクランカイ大好評」五月三十一日まで日延
  29日ka 銀座通に出るに五月人形の露店出で人の出盛ること夥し・・三十軒堀河岸通の縁日を見る
  30日y 「日本晴れの天長節」、日比谷に会集三万、愛国労働祭の行進に約一万人
                                                
 二日の新聞y2は、「けふの人出」から始まり、東京の人出を面々と綴っている。四月に入り連休初日、快晴、「流出た大行楽群」と、省線と私鉄の乗客は軽く100万人を超えた。八日の銀座は、「土曜日にて街上の雑遝殊に甚し」と荷風は賑わいを見ている。十六日の日曜は、「大東京の屋根の下は空ッぽ!」になるくらいの行楽日和。「浮かれ出た二百万」とこの年最高の人出を記録したもよう。
 東京市統計書の「労働賃金指数」を見ると、インフレのためか前年より2%改善している。景気が目に見えて改善したわけではないが、市民レジャーは確かに活発になっている。芝居や映画は前年同月よりいずれも入りが多く、また、イベントも浅草観音開帳、上野動物園の夜間開園、昭憲皇太后祭、靖国神社の日本一の鳥居落成式、関東陸上競技選手権大会など盛況のようだ。
 二十七日の荷風の日記に、「招魂社祭礼の由銀座通の人出いつもより少し」とある。二十九日には、日比谷公園で「三万人」を集め「連盟脱退詔書奉戴式」。観兵式の終わった代々木練兵場で「日本主義愛国労働祭」が催され、芝公園まで長蛇の行進が続いた。なお、二日後のメーデーは、分裂し、参加者7千5百人と精彩を欠いた。

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昭和八年(1933年)五月、塘沽停戦協定成立(31)、市内のレジャーは活発らしく、相撲・拳闘・野球などスポーツ観戦も人気沸騰
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5月6日Y 水天宮の賑わい、午前中に五万突破、午後十一時までに十万、人形町通りは身動きできぬ有様
  13日y 大相撲夏場所初日、民衆デーで四階を別にして大入り満員
  24日Y 日仏対抗日本代表選抜拳闘大決勝戦国技館超満員、午後五時の場内一万五千のファン
  25日a 大勝館「叫ぶアジア」他連日満員御礼
  25日a 浅草松竹館「天一坊と伊賀亮」他満員御礼                          

  25日ka 烏森神社の縁日を見る
  29日Y 早慶戦「球場は沸騰する」入場券売り切れ、ブローカー23名検挙
                                                
 五日の水天宮は、午後十一時までに「十万」もの人が出て、人形町通りは身動きできぬ有様。五月に入っても市内の賑わいが続いたようで、万国婦人子供博覧会の入場者にカルピス製品のプレゼントなど、レジャー関連の広告が多い。この年当たりから「苺摘み」が流行しはじめたことも、広告が沢山でていることから推測できる。
 スポーツ記事は、観客の多少にかかわらず掲載されている。そのためか読者のスポーツへの関心が高まり、観戦に出かける人も増えている。大相撲夏場所の初日は、恒例の民衆デーのため四階席を除けば満員。その後もそこそこの入りで、二十二日の千秋楽は雨が降っていたにもかかわらず大入り。
 拳闘の人気が高まっている、十一日の日仏対抗日本代表選抜戦は、準決勝なのに国技館に「一万一千余」の観客。そして二十三日の決勝戦には、午後五時に「一万五千のファン」という超満員で、大相撲よりも格段に入りが良かった。
 五月のスポーツで最も観客を集めたのは、六大学リーグの早慶戦。二十八日の試合は、入場券の発売と同時に売り切れる状態、そのためダフ屋が横行し、23人ものブローカーが検挙された。

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昭和八年(1933年)六月、山本有三共産党シンパで検挙③、松竹少女歌劇団ストライキ⑮、梅雨でレジャーが停滞するなかレビューガールのストが話題となる
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6月11日ka 日曜日なれば銀座通の雑遝最甚し
  12日A 日由比ヶ浜早くも賑わう
  13日Y 日仏拳闘第二回戦、国技館開設以来の大観衆二万の観衆を魅了する
  17日Y 浅草松竹座、レビューガールのストに対し突如興行を中止、浪曲大会に変更
  18日y 東京劇場「お夏清十郎」初日以来連日満員

 六月に入り、芝居の入りはもちろん、映画館も観客が減少するなか、日仏拳闘戦はなかなか好評。十二日の日仏拳闘第二回戦は、国技館開設以来の「二万の観衆を魅了する」ほどであった。
 十七日付で「突如 興行を中止し松竹座を釘づけ」の見出しで、松竹レビューガールの争議が記事になった。別名・桃色争議とも、ターキー・水の江滝子を争議委員長に、起した争議である。なお、ターキーは18歳のトップスターで、十三日にレビューガールが待遇改善の要求を出したが受け入れられず、逆にロックアウトされてしまった。それに対し、十六日には浅草公園六区の従業員達がレビューガール争議に支援を声明。レビューガールは湯河原に籠城して対決したが、二十五日に21名の解雇が言い渡された。結局、松竹のスト切り崩しに会い、七月になってレビューガール46名検挙されるという展開となり、格好の話題を市民に提供した。なお、レビューガールを求めている人々に、浪曲大会で埋め合わせをするという発想、なんとも言い難い。

戦果にレジャー気運が高まる八年冬

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)213
戦果にレジャー気運が高まる八年冬 
 中国での戦争は、一月に山海関で、二月には熱河省に侵入し省都承徳を三月占領、四月に華北へ侵入、そして五月に塘沽停戦協定成立で満州事変に一応の終止符がついた。国内の景気は、ダンピング輸出と軍需増大によって好転し、デフレからインフレへと一転した。なお、景気が改善されたからといって全ての国民が潤ったわけではなく、下層階級、特に小作農民と零細工場労働者の生活は苦しさを増した。
 レジャーも好景気につられて、前年の暮れから続いて盛り上がった。正月の人出は、近年にないような賑わい、明るいニュースが多い中で女学生の自殺事件が報道された。その現場を見ようと、伊豆大島三原山に見物者が殺到し、多い日には1500人も訪れた。三原山は自殺の名所となり、何と、この年に129人が火口で投身自殺をしている。当時の社会の一端を示すものであり、やはり社会の歪みを反映した現象であろう。
 二月、プロレタリア文学作家・小林多喜二は、街頭で検挙され、わずか7時間後に虐殺された。特高は、あまりにも無残な遺体を解剖させず、虐殺の実態が世間に知られるのを恐れ、葬儀に訪れた人を次々に検束した。事件の起きた当時は、真相に全く触れることなく、虐殺した特高の三人に叙勲が与えられた。さらに、新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と報じている。
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昭和八年(1933年)一月、山海関で日中衝突①、大島三原山で女学生自殺、自殺の名所に⑨、インフレで市民レジャーも景気づく
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1月3日Y 「天気に恵まれて何処も人・人・人 わけて浅草は百万」
  3日ka 銀座通は去年越しの露店その儘両側に立ちつづき散歩の男女雑沓す
  7日Y 春芝居大当り 型を破る徹夜の切符買いに仰天
  12日a 帝国劇場等「南海の劫火」他好評日延べ
  14日y 大相撲春場所初日、民衆デーで大入り
  16日y 「けさ藪入り」「浅草各館チョット朗か」
  20日y 松竹館「忠臣蔵」満員御礼
  23日y 大相撲十日目、雪の中「八十年来の大入」
  24日y 多門依田両将軍の凱旋、上野駅周辺に数万の群集
 
 正月は天候に恵まれ、浅草の「元旦の人出は約七十万、二日は・・・百万を突破しようと」。興行も、「雪洲、直江、傅明のトリオがガッチリ組んだ実演で人気をさらっている金竜館、千恵蔵の挨拶で・・・富士館、笑いの王者榎健が立籠る常盤座等々いづれも客止めの大入満員」。歌舞伎座を筆頭に、「春芝居大当り 型を破る徹夜の切符買いに仰天」するなど、収容しきれないほど客が押し寄せた。また初詣は、明治神宮が「ざっと六十万人で去年より五割方の増加」と、好景気の到来を期待するかのように市内は賑わった。
 人出はその後も続いたとみえ、大相撲春場所の初日は、恒例の民衆デーで大入り。藪入りは「浅草各館チョット朗か」。雪の降った春場所十日目は「八十年来の大入」など、市民のレジャー気運は高まっていた。
 
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昭和八年(1933年)二月、小林多喜二検束・虐殺⑳、「インフレ景気を撒く」勢いの追儺式、建国祭と市内の人出は活発
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2月3ka水天宮社殿にて追儺の式あり。看者群をなす
 4日Y「華かな各所の豆撒き」、成田の人出「ざっと十五万」
 6T新遊戯「ヨーヨー」旋風のような流行
 11y明治座「八陣守護城」他、満員御礼
 12日y建国祭、「熱気の大行進」二十万人
 17y東京劇場「大菩薩峠」連日昼夜の大満員
 22日y九段で在郷軍人大会、日比谷公園の国民大会に数万、場外の群集湧く
 23ka銀座通雛人形の夜店賑なり

 二月になっても市内に活気があったことは、三日の節分、寺社の豆撒きからわかる。浅草では賽銭が例年の二倍、「千二百円」。深川不動は近年にない景気。特に成田山は、京成電車が用意した成田までの往復切符2万5千枚が売り切れ、賽銭は2万円、「人出ざっと十五万」に達しそうな賑わいであった。川崎大師は「ザット二十万」で、付近の飲食店はホクホクと、どこも景気のよい話が伝えられた。
 五日、赤坂溜池で「ヨーヨー競技大会」が開かれた。「やってきた!ヨーヨー旋風」と、市内で急激に「ヨーヨー」が大流行。また、二十七日の国民新聞にも「ヨーヨー持たないと恥、小学生ら夢中」と、子供から大人までヨーヨーに熱を揚げたという。
 建国祭は、式場が7ヶ所になり、「二十万人」の大行進と前年より盛大となった。その日、荷風は銀座を歩き、「祭日なれば街上雑遝すること甚し」、「店悉く店頭に建国祭の掲示」、「タイガアの店口に楠正成とも見ゆる鎧武者の画看板を出し、また店内には大なる乗馬武者人形」を見ている。
 中国河南省で戦闘が進められ、新聞に“国家非常時”の文字が度々現われ、九段で在郷軍人大会、日比谷公園の国民大会などの記事が大きく取り上げられるようになった。

 

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昭和八年(1933年)三月、日本軍河南省都承徳を占領④、国際連盟脱退(27)、戦勝ムードで市民のレジャー気運は高揚
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3月7日a 地久節、都下一万の女性群、宮城前で万歳唱和
  11日y 陸軍記念日、空陸模範戦や音楽隊の市内行進
  17日Y 婦人子供博覧会開会、五月十日まで
  18日A 浅草観音落慶式、盛大に執行
  20日A 「春ドッと押し出した人波」
  24日Y 日比谷公会堂の拳闘試合、入場しきれぬ程の盛況
  26日y 浅草電気館等「山を守る兄弟」満員御礼
                                                
 十日の陸軍記念日は、「聖上・九段に行幸」と、盛大なイベントとなった。代々木練兵場では空陸対抗演習に「数万の観衆」。参加の防空婦人会は、カレーライスを食べ、「エプロン姿で」射撃練習。市内では、軍楽隊等の市内行進など、「軍国日本の豪華版を各所に繰り広げた」。
 新東京市になって初めての統一市議選、騒がしく、新聞紙上を賑わしたが、投票率は低く約40%。市民の関心は、選挙よりも十七日からの万国婦人子供博覧会へ。ただし、開会式の日になっても未完成、見ごろは四月になってから。開場は三つに分かれ、上野の竹之台と池之畔、それに連絡バス(運賃10銭)で行く芝浦。面白そうなのは、サーカス(5円~50銭)やお伽の国のある芝浦会場。豆汽車(10銭)、子供自動車、水族館など、家族連れの遊園地。場内を一巡りするには一日半かかり、入場料は三会場通じて大人60銭・子供25銭。
 

オリンピックと満州国に沸く七年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)211
オリンピックと満州国に沸く七年夏
 七年の夏は梅雨空が続いた、湿ったムードはレジャーにも及び、七月の人出は少なく、特に浅草は寄席をはじめ沈滞したままであった。市内は、これといったイベントもなく、あるのは国技館満州博覧会と川開きの花火くらいである。満州博覧会、所詮官製の宣伝イベント、この時点での入りはあまり多くはなかった。雨が降り、藪入りに行く場所のない人が博覧会に蘆を運んだ。
 川開きは、数字の上では百万人の人出。しかし、「事故調べ」などの数値からは、そのまま信じられないような気がする。そして、「呼物は野村提督、植田将軍-頭のいゝのは省線から、ビルの上から」に加えて、それのキャプションに「昭和川開きの新風景」と付け加えている。「呼物」とは、提督や将軍などの仕掛け花火である。それを「時局物」と形容する記事、花火大会にまで軍を意識する新聞、それが当時世相なのであろう。
 市民の行楽への活動が顕著になるのは、暑くなり、海へ繰り出してからである。そして、ロサンゼルスオリンピックが始まり、実況放送に耳を傾け、市内はオリンピックに湧いた。だが、市内の人出は変わらず、地域の行事も盛んとは言いがたい。そんなムードを払拭するためか、市民の関心をオリンピックから満州国へと向ける、「日満デー」や「満州事変一周年、靖国神社慰霊祭」などの官製のイベントを仕掛け、動員して盛り上がりを演出した。
 荷風は、「近年人心の殺伐になりたるはこれにても思知らるるなり」と当時の東京を観察している。

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昭和七年(1932年)七月、御茶ノ水駅・両国駅間が開通①、月初めは雨で人出は藪入りまで少なかったが、以後は暑さを逃れて凄い人出が海へ向かった
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7月2日A 寄席のSOS、5銭でも入りがない
  7日Y 仲見世 江戸名物の一つ、沒落の悲運へ 全てを語る お盆装飾の中止
  11日y 湘南海岸大賑わい、海開きで鎌倉二万五千、逗子葉山一万二千、片瀬、三万の人出
  16日y 雨でどこも「淋しい藪入り」
  17日y 雨の藪入り「どっと満州博へ」国技館
  18日A 浜町の盆踊り大会、賑やかに
  18日y 前日の日曜、湘南へ一万五千人
  20日ka 銀座の表通はいつもよりも賑なる
  24日Y 川開き「押出たり・百万人」(遊覧船三千五百艘、水上十二万人、陸上八十九万人)
  25日y 凄い人出、臨時電車は横須賀線四十往復、東海道線も十六、房総方面へ七と増結。大森・羽田海岸は正午で十万人、鎌倉・逗子等は六万五千人、稲毛・千葉に十万人など
  27日y 新橋演舞場アル・カポネ」他、好評日延べ、一円均一奉仕デー
  31日ka 桜田本郷町電車通に鰻を水桶に泳がせ釣堀の看板出したる露店十箇処ほどあり
 
 築地小劇場での共産党演説会が開会と同時に潰されたり、魚市場などの争議、失業保険の申し込み者が激増と、明るい話題に乏しい。藪入りは、雨で遠出する人が少ないだけでなく、浅草の興行街でさえ淋しいありさまであった。浅草は、仲見世が四万六千日の酸漿市はもちろん、お盆の装飾まで中止するという凋落ぶり。ただ、国技館ではじまった満州博覧会はそこそこの人出があったが、読売新聞社主催だから「どっと満州博へ」を、そのまま信じることはできない。
 それでも暑くなるにしたがって、十日の日曜は湘南海岸の海開きで、「五万人」を超える人出。次の日曜も「湘南へ一万五千」の賑わい。子供の夏休みに入った最初の日曜、「海へ海へ!山へ! 超満員の各列車」と、それまでの最高の人出となった。二十四日はさらに多く、横須賀線東海道線が臨時電車を運転した。大森・羽田方面に正午で10万人、鎌倉・逗子方面に6万5千人、稲毛・千葉方面に10万人など、この年最高の人出となった。
 また、二十三日の川開きは、天和二年(1682年)にはじまって以来二百五十年ということもあって、打ち上げ花火500発、仕掛花火34発が盛大に打ち揚げられた。人出は「百万人」、不景気のためか、酔っぱらって保護されたのは1名、迷子15名、検束15名とされている。

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昭和七年(1932年)八月、ロサンゼルスオリンピックの実況放送⑦、市内はオリンピックに湧いているが、人出はあまり多くない
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8月8日Y 羽田沖で海水浴客満載の伝馬船転覆して十数人溺死
  11日ka 烏森稲荷の縁日を歩む
  16日y 深川富岡八幡の祭礼「蔭祭りでもさすが夏祭りの豪華版」
  16日A 日比谷新音楽堂でオリンピック映画会、超満員

 魚市場の争議が解決しても、また日活の争議やガソリンの不買運動、だが、そのような暗い記事を吹き飛ばすようなニュースが入ってきた。七日からロサンゼルスオリンピックの実況放送がはじまり、水泳・陸上で日本選手の活躍、新聞でも大々的に取り上げ、国民につかの間の興奮をもたらした。
 市内は、荷風の九日の日記では、「神楽阪夜店の人出も今年は例年より早く途絶えがちとなり、十一時過には夜店も仕舞い」と。また、二十日には、「四五日前より毎夜日比谷公園にて富士見町芸者の盆踊りある」と。また、深川富岡八幡の祭礼は、「蔭祭りでもさすが夏祭りの豪華版」とあるように、夏のレジャーはそこそこ行われていた。

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昭和七年(1932年)九月、市電スト③、満州国承認⑮、市民の関心はオリンピックから満州国、関連イベントで市内は賑やか
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9月2日a 震災記念堂へ午前中に十七万人
  3日ka 銀座表通の夜市を看る
  4日Y 日比谷公園新音楽堂でオリンピック選手歓迎報告会
  5日Y 満州博、前日の日曜二万人を突破
  11日y オリンピック選手歓迎陸上競技、スタンド満員
  16日y 「日満デー」靖国神社で祝賀会、宮城へ四万人の旗行進
  18日y 浅草帝国・麻布松竹・新宿松竹・新富座 「不如帰」満員御礼
  19日y 満州事変一周年、靖国神社慰霊祭
  25日a 一年ぶりに六大学そろってリーグ戦開幕
  29日a 帝国劇場等「歓呼の涯」他好評続映

 オリンピックの興奮は九月に入っても冷めやらず、三日に日比谷公園新音楽堂でオリンピック選手歓迎報告会が行われた。十日には神宮競技場でオリンピック選手歓迎の陸上競技が催され、メインスタンドは都下小中・女学校生徒らで満員となった。
 四日の満州博覧会入場者が「二万人突破」したように、九月の話題は「満州国」。十五日に承認。靖国神社で帝国在郷軍人東京府連合会の主催による国民的祝賀会が催された。式後の「四万人の旗行進」は「勇壮な軍歌に足並そろえ」、三宅坂を経て「宮城前に至って万歳を三唱」して解散。なお、「旗行列の出発」写真は、ほとんどが動員されたと思われる女学生で占められていた。十八日は満州事変一周年、靖国神社で慰霊祭が盛大に行われた。
 荷風は、三日、銀座の夜市で「闘魚とよべる鮒の如き小魚を売るものあり。人多く集りて小魚の盆中に在りて噛合うを見て喜べり。近年人心の殺伐になりたるはこれにても思知らるるなり」と日記に記している。

首相暗殺も変わらぬレジャー気運の七年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)210
首相暗殺も変わらぬレジャー気運の七年春
 市民の話題となっている「爆弾三勇士」、その真相は明らかにされず、都合のよいように伝えられたものである。さらに、一月の第一次上海事変も、日本軍部が中国人を買収して、日蓮宗の日本人托鉢僧を襲わせ、それを口実にして始めた中国軍との軍事衝突だ。それも、前年の満州事変の批判を国際社会から目をそらすもので、中国人民の抗日運動を弾圧するのが狙いであった。そのような事実を知らない東京の人々は、勝利を信じて浮かれていたのが四月の人出である。
 五月には五・一五事件、なんと海軍将校の一団が現職の犬養首相を射殺する。市民は、ただならぬ事をわかってはいるが、抗議行動などできる情勢でない事もわかっていた。この事件は、大正時代から続いた政党内閣によるデモクラシーの可能性が無くなり、軍の独裁を認めさせることであった。政府は、議員達の汚職や疑獄、資本家の暴利を野放し、国民の生活苦に何の歯止めをかけられなかった政党内閣は幕を閉じ、軍国主義体制に入った。そして、マスコミも、批判的な記事はもちろん、真実や正確な記事を書くことに及び腰になった。
 さらに、戦争が今後拡大すること、市民の取り締まりが強化されること(警視庁に特高警察部設置)、そのような不安を感じさせないように仕向けているようだ。当時の新聞を見ていると、人々は何事もなかったように、行楽を楽しんでいるように記されている。

 三月に発売の『影を慕いて』(古賀政男作詞・作曲)、藤山一郎が歌い、歴史的大ヒットを記録した。また、同月の銀座柳復活祭の際、『銀座の柳』(西條八十作詞・中山晋平作曲)、四家文子が歌う、などの歌が流行する。          
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昭和七年(1932年)四月、ラジオ聴取料値下げ(1円から75銭)①、靖国神社大祭日を休日に制定⑬、第1回日本ダービー(24)、名残の花見 押出した人波百万、靖国神社臨時大祭
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4月2日A 「賑う銀座 柳祭り」
  7日y 千余のチンドン屋さん組合誕生の大行進
  8日y 五大学リーグ戦幕開く
  11日A 「まさに花見戦場 春の行楽いも洗い」
  18日A 「昼夜を分たず名残の花見」押出した人波百万
  25日y 勅諭五十年大祝典、宮城前広場に参列七万人
  27日A 靖国神社大祭「三十日まで 奉納武道や余興」「花火打揚げ 両国川開き以上の壮観」
  28日ka 招魂社祭礼なれど色町は静なり
  29日A 靖国神社大祭「九段にわく 臨時大祭景気 興行物も超満員」
 
 四月に入り、十日の日曜は、上野動物園が「概算六万人を超え」る入場、飛鳥山は「身動きもならぬ人の山」で迷子が76件など、その日の人出は「凡五十万」人と言われた。なかでも、羽田穴守の潮干狩りは、電車で訪れた人は「二万に及び 電車に乗れないで歩いた人はその倍」も訪れた。そのため町全体が土産のハマグリ屋と化し、風呂屋は裏口を開けて3銭で足を洗わせ、海岸からハマグリを担いで帰る人でごった返した。
 十七日は、名残の花を求めて「押出した人波百万」と、さらに多くの人出。二十六日、靖国神社で花火が打ち揚げられ、靖国神社臨時大祭は前夜から「二十万」の賑わい。以後三十日まで、奉納武道や余興などが続き、二十七日の一時頃には「人出三十万!」(迷子60名)a(28)となった。戦争後の大祭だけに景気が良く、賽銭も多く、それにもまして「興行物も超満員」、曲馬の見世物が約3千円、レビューが1千5百円、オートバイが1千円など合わせて1万2~3千円にもおよんだ。5百軒の露店も、飲食店とゆで卵屋はたちまち売り切れ、人出が多すぎて仕入れができず儲け損なったほどだった。市内は、天長節の二十九日から水天宮大祭A(29)の五月二日まで花電車が運行され、市民のレジャー気運は高まった。

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昭和七年(1932年)五月、首相官邸犬養毅首相射殺される⑮、「熱狂の渦巻きの中」チャップリン来日
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5月2日A 「遂に検束メーデー 千二百余名に及ぶ 当局徹底的の弾圧」
  4日y 靖国神社で聯盟角力第一日
  15日y 協会相撲初日
  15日A チャップリン来日、東京駅は「熱狂の渦巻きの中」
  16日ka 水天宮神輿の行列と遇う
  19日Y 三社祭、神輿の下敷きでケガ
  29日A オリンピック最終予選、神宮外苑競技場はメインスタンドを埋めつくす盛況
                                                
 一日、銀座は「日曜日なれば街上雑沓すること甚し」。六日も銀座は「散歩の男女絡繹たること毎夜の如し」と荷風が見ているように、五月に入っても市民の行楽は続いた。
 その一方で、メーデー、反トーキー争議と市内の騒ぎは絶えない。十五日、海軍将校の一団が首相官邸犬養毅首相を射殺する、「五・一五事件」が起きた。市内は騒然として、重苦しい雰囲気が漂った。ただ、その前日に東京に訪れたチャップリンの話題があったことで、新聞の紙面は事件の深刻さを和らげていたようだ。十五日付の新聞は、東京駅に着いた米国の人気俳優チャプリンを大々的に取り扱い、熱狂するファンの様子が社会面の大半を飾った。
 首相暗殺によって社会がただならぬ事態で、市民はレジャーどころではないことを察ししている。しかし、映画や演劇などの観客が減るというような影響はなかった。また、スポーツ観戦の人気も衰えることなく、二十八日の陸上競技オリンピック最終予選は、神宮外苑競技場のメインスタンドが埋めつくす盛況であった。

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昭和七年(1932年)六月、オリンピック選手出発(23)、警視庁に特高警察部設置(29)
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6月2日y 公園利用調査、三日間で二十五万人
  5日Y 明治座新国劇丹下左膳」他満員御礼
  5日a シネマ銀座・武蔵野館「グレタ・カルポのロマンス」満員御礼
  6日A 新宿松竹・武蔵野館で「突如映写を止め 観衆に争議の挨拶」
  12日a 浅草帝国館等「天国に結ぶ恋」満員御礼
  18日ka 銀座、土曜日にて雑沓甚し
  24日y オリンピック選手出発、東京駅は見送りの人で埋まる
  25日y 凱旋九将星「東京駅から宮城まで数万の群衆万歳の包囲攻撃」
  27日y 日曜晴れて「海へ」、千葉稲毛の房総方面へ午前中数万

 鮎解禁、花菖蒲など恒例の行楽は続くなか、映画館の満員御礼広告がたびたび出ている。五日の日曜、書き入れ時にもかかわらず突然映写機を止め、観衆に争議の挨拶をするというストライキが新宿松竹と武蔵野館で行われた。映画界は、トーキー映画の普及や不況で争議が続いている。
 二日付で日比谷公園をはじめとする市内12ヶ所の公園の利用者数が発表された。五月末の三日間で約26万人の利用があり、「喜ばしい傾向」と書かれていた。なお、上野公園と浅草公園を除く市内の公園利用を推測すると109万人程度になり、いかに多くの市民が日常的に利用しているかがわかる。
 六月も末になると暑くなり、二十七日の日曜は晴れ、「千葉稲毛の房総方面へ午前中数万」もの人々が海へ出かけた。
 

不穏な空気の漂う中での七年冬のレジャー

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)209
不穏な空気の漂う中での七年冬のレジャー
 一月末上海事変勃発、一月の衆議院の解散を受けた二月の総選挙で政友会大勝、三月に満州国成立、七年の冬は、異常とでも言える事件や出来事が続いている。他にも、天皇の馬車が桜田門外で爆弾を投げつけられるという、72年前の桜田門外の変を思い出させるような桜田門事件がある。翌二月には、前蔵相井上準之助が本郷で射殺される。さらに三月、三井合名会社理事長団琢磨日本橋で射殺される。
 これだけの出来事の発生する中、市民は案外平静を保って過ごしているようだ。もう何事が起きても驚かない、麻痺しているのか、受け入れる世相ができているか、現代からは考えられない状況が浸透していた。そして、五月には首相が銃殺される。
 では、現代とどのくらい異なるのかを問われると、返答に窮する。安倍もと首相が銃殺された事件後の国葬論議されず既成の事実として浸透している。受け入れる世相ができているのではなかろうか。そのような現代から、昭和七年、90年前を批判や評価することができるのであろうか。強いて言えば、多少言論の自由が認められ、様々な意見を発言できるようになったことだろう。しかし、七年二月には、日比谷市政会館で立憲民政党の演説会があり、人数はわからないが「満員ハチ切れる」とある。当時でも、一部では自由な議論の場が残されており、追求されていたことは確かである。
 さて、当時の東京市民の一月の話題は相撲界の分裂、二月は爆弾三勇士である。街中の人出は、満州事変の不安が和らいだのか、馴れてしまったのか、前年より増えている感じである。

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昭和七年(1932年)一月、桜田門事件⑧、衆議院解散(21)、上海事変(28)、角界空前の大騒動!分裂騒ぎ発生
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1月1日A 「さびしいスキー場のお正月」
  3日Y 凄い人出、浅草は元日からの参拝者「二百万人を下りますまい」
  4日A 歌舞伎座・東京劇場・新橋演舞場新歌舞伎座明治座、揃って満員御礼広告
  5日a 東鉄管内の三箇日の乗客、三百三十三万人で前年より14%増、約市電も約3%増加
  7日a 二重橋前で消防出初式、消防組市部一千三百人郡部二千人、参観人四万人を突破 
  31日A 神宮外苑競技場で国民感謝の会、在郷軍人青年団・大学から小学校まで等二万五千人
 
 波乱の年がはじまった。例年なら市内の正月の賑わいが紹介されるのだが、東京朝日新聞から消えた。読売新聞を見ると、市民の初詣や正月の行楽が無くなったわけではない。四日付の新聞Yには、浅草観音参詣者は「元日五十万、二日二十万、三日三十万」、六区は「百五十万」を突破した。明治神宮の三箇日は「八十万人」、靖国神社は「三十二万人」であった。市内の省電や市電などの交通機関は、前年以上に乗客が増えた。歌舞伎座・東京劇場・新橋演舞場新歌舞伎座明治座が揃って、元日からの満員御礼の広告を異例とも言える三段抜きで出している。
 市民の話題は、「きょう晴れの錦州入城」a③などの中国での戦況と分裂した相撲界の行方。「角界空前の大騒動!」A⑦は、もとはといえば、部屋内の内紛や八百長などの問題を遠因にして起きた事件、「親方にひきかへ 生活苦の力士連 協会の台所は滅茶々々」とある。また、昇進の妨害や武蔵山の拳闘入りなどといった展開まであり、それ以後も度々記事になっている。
 新聞は、中国での戦況や将兵の近況を連日のように、しかもオリンピックで日本選手が活躍するかのように速報した。そのためか、大衆が楽しむ様子を伝える記事は激減、藪入りすら取り上げられなくなった。確かに、天皇の馬車が襲撃されたり、衆議院の解散や上海事変の勃発など、もはや市民がレジャーを心置きなく楽しんでいる状況ではないのかもしれない。

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昭和七年(1932年)二月、井上前蔵相暗殺⑨、肉弾三勇士への義金新記録(24)、建国祭六会場に二万三千人
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2月2日A 日比谷市政会館民政党演説会「満員ハチ切れる」
  5日a 新興力士団、根岸で初日90銭、五千人収容の桟敷は午前中に半分埋まる
  5日A 護国寺の節分会、次官と知事さんが年男
  11日ka 早朝より花火の響きこえ
  12日a 建国祭、六会場に二万三千人、代々木に五千の学生集う
  12日A 神宮外苑競技場でカナダ対全日本のラクビー試合、五万に近い観衆で盛況
  17日a 「大盤振舞い」で相撲を見せ「国技館満員、ロハの効果十分」
  23日y 春場所の初日、六分の入り
 
 二月に入りハルピン占領⑤、中国での戦況は景気がよいが、九日に井上前蔵相が暗殺され、二十日に衆議院議員選挙とレジャー気運は上がらない。二月に最も多くの市民が行ったレジャーは「豆まき」。しかし、新聞には、年男の次官と知事さんが護国寺で豆を撒いている記事だけ。他には、神宮外苑競技場でカナダ対全日本のラクビー試合、「五万に近い観衆」を集めた。
 注目された相撲界、四日から分裂した「新興力士団の旗揚興行」がはじまった。「選手権争奪戦」「ざんぎり頭」と「何もかも新味横溢」で、「勝手が違つて観客のみ込めず」と興行は捗々しくなかった。当日売れた切符が1919枚、収入が1727円。また、一日平均6千枚の予定で売った前売り切符の入場者がわずかに863名で、この方の切符代未納、他の入場者千余名は招待者だった。なおこの記事は、さらに興行状況やアナウンスの形態にまで触れるという異例な書き方であった。十六日、相撲協会は、対抗するように無料の相撲を見せ、国技館を満員にしたが、二十二日からの春場所初日は六分の入り。

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昭和七年(1932年)三月、満州国建国宣言①、停戦声明③、動物園や発明博覧会に人出
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3月9日a 「爆弾三勇士」劇、芝居も映画も人気
  13日ka 銀座に往く。日曜日の故にや街上雑遝殊に甚し
  21日A 神宮球場開き、メインスタンドは三分、外野はガラ空き
  22日y 「今春第一の人出 西新井大師は六万人に達する見込み」
  28日Y 「春に手招かれて」押出した人出三十万

 戦争は一段落したが、五日に団琢磨が暗殺されるなど、市内には不穏な空気が残っていた。それでも、彼岸になると、動物園や発明博覧会、犬の展覧会などを催している上野公園、浅草、神宮外苑などに市民は出かけた。そして二十七日には、暖かさに誘われ「三十万人」もの人出。
 市民の話題は、二月二十二日に戦死した「爆弾三勇士」。「爆弾三勇士」は美談化され、直後から義金が一日で2千5百円も集まるという、陸軍はじまって以来の記録となった。「爆弾三勇士」は、芝居や映画にもなり大変な人気、さらには「爆弾三勇士の歌」まで募集された。