大正九年前期 不景気であるが庶民は遊ぶ

江戸・東京庶民の楽しみ 164

大正九年前期 不景気であるが庶民は遊ぶ
 戦争による好景気も九年までで、三月の株式の大暴落と、不況が始まった。不況による労働争議は多発し、官憲による弾圧が厳しさを増していった。「平民宰相」原は、普通選挙法案審議を拒否し、衆議院を解散した。結果、政界はまた元の政友会に握られてしまった。この年、第一回のメーデー、「繰出した三千余名」と参加者は市民のほんの一部であった。十一月に催された明治神宮鎮座祭の参拝客の人数とは比べようもない。
 市内のレジャーは、不景気ではあるが必ずしも低調ではない。成金の姿は影をひそめたが、映画や寄席等の安価なレジャーは健在であった。この年の流行した歌は、「鴨緑江節」「安来節」等。靴下の値段、7・80銭~3・4円。上野の茶屋のお休み料、桜餅四つ付いて20銭だが、四月には値上げの予定。
・一月「二年振りで蓋を開けた国技館」十七日付讀賣
 元日の市内は、好天に誘われてどこも活況。なかでも上野公園から田原町・雷門まではまるで「人の海」というような状態。六区の活動写真館から歌劇、劇場などの好景気は言うまでもなく、元旦の飲食店は軍人や店員連中が店一杯に占拠して大騒ぎという有様。また、川崎大師には30万余人もの参詣者が殺到、その混雑で2名の死者を出し、電車に飛び乗り損なうなどの事故も起きている。
 四日付(万朝)には「六十一年目庚申の年の庚申の日の柴又帝釈天の凄まじい人出」と長い見出しが出ている。もよりの押上駅では押し寄せる人で臨時切符売り場や手摺りが破壊され、数百人が線路内に落ちるという騒ぎ。やむを得ず、婦人子供や年寄は他の駅に向かった。この日は、午前十時頃までに開運守り2万・御供物50万・開帳札2万・風封お守り30万を売り尽くすという。帝釈天始まって以来の人出であった。
 昨今、紳士学生の乗馬が盛んになり、婦人や令嬢達も内緒で練習という。その記事によると漱石の息子たちも練習中だとか。
 火事騒ぎのあと、二年五場所ぶりでもとの両国に戻り、周辺の商人たちの喜びは一通りではなかった。注目の十五日の初日は、満員の盛況で相撲協会は万歳。ところが七日目に事件が起こった。番狂わせの度に茶碗やミカンが投げられ、他の観客に当たり頭部打裂症、ビール瓶で頭を七針も縫う重傷を負った。
 二十三日の新聞(讀賣)には、神田青年会館に普通選挙無産者大演説会が開かれ、時節から満員の盛況とある。もっとも開始直後、50名の警官を引き連れた所長が中止を命令、「決議も演説も悉く禁止」という。これを無視した労働者は連行されたが、その時「巡査四名に咬付き警部を殴る」というような滅茶滅茶な騒ぎとなった。
・二月「壇上相次いで熱弁を揮う 普選の叫び」二日付万朝
 この頃になると普通選挙権の獲得のための運動が盛んになっていった。一日の国技館は土間も二階も悉く人で埋まり、その数2万余人。さらに演説終了後は大示威運動として提灯行列を行い、旗を先頭に楽隊の演奏につれて両国橋を渡り須田町・日比谷・二重橋前へ。主催者は、この日の催しを「模範的の示威運動 更に静粛に熱烈に二回三回挙行する」と語った。十二日付の新聞(万朝)には「普選促進大示威運動 人に埋まった上野の集合場」「示威行列数十町 芝公園から繰り出した」と書かれた。上野には50団体、芝に12団体と、警視庁は千人もの警官を出動させ警戒したが、大した混乱はなかった。二十三日付でも「芝公園を埋める68団体普選促進全国連合大懇親会」と連日のように関連記事が紙面を賑わした。
・三月「梅日和、人出に賑わう各公園」八日付万朝
 三月、株式市場の大暴落に始まり、米や生糸相場なども下落、工場の廃業が続発、第一次世界大戦による好景気もこの頃まで。しかし、市民の行楽はまだ影響はないようで、七日の日曜には、市内や郊外も梅見の人が出た。彼岸には祭日(春季皇霊際)と日曜日が重なって、麗らかな春日和に行楽の人がどっと繰り出した。また同じ日に六十八団体が芝公園に集まって普選連合大会を行い、日比谷公園や上野公園でも集会や宣伝活動が行われていた。また、芝浦では埋立地で罷工の示威行列が芝公園から以下蔵方面へと流れた。市内は緊張とくつろいだムードが同居していた。
 上野界隈の宿は、宿泊料を前年より三割以上も値上げしたにもかかわらず、三月の末でも宿泊の申し込みが続いた。まだ地方の景気は良く、東京見物に続々と人々が押し寄せ、花が咲く四月上旬から中旬頃の市内の旅館はすべて満員になった。事実、四月四日付(讀賣)の新聞に「雨の祭日、地方の観光団 活動芝居大当」と、地方の景気は悪化していないらしい。
・四月「花浮れた満都の人」「青菜に塩の株屋町」十二日付讀賣
 三月の末から花見の記事が出ている。上野公園のヒガンザクラは蕾が赤くなっている程度、飛鳥山のサクラはまだ芽が出始めたくらいだというのに、ポカポカとした花見日和に誘われてたくさんの人出があったという。その上、上野行きの電車は鈴なりで、家族連れは1・2台待っても乗れないありさまだった。飛鳥山でも、花見茶屋は2軒ほどしか開いていないのに、遊山の人はかなりいたらしい。飛鳥山の花の見は、一重のサクラが終わると八重ザクラが続くようになった。そのため新聞は、10軒ある茶店には、花見の期間に45万円のお金が落ちるだろうと予測している。
 四月に入ると相も変わらず新聞紙上は、「花浮れた満都の人」「仮装と乱舞の飛鳥山」「隅田川は錦絵の様な鴎と花見船」・・・と。お花見関連の記事が満載。中でも人気の飛鳥山への電車の利用客は、12・3万人という。市電車に乗った人も24万人。一方、同じ紙面に、株の大暴落を報じ、さらに下がれば縊死や夜逃で花見どころではないような、先行きの暗い記事も。中旬には飛鳥山で、花火に楽隊650人もの仮装、踊りの師匠連が弟子の芸比べ・・・と非常に盛り上がった。この年の花見は、「喧嘩の仕方題」と書かれるなど警察はいたって寛大であったとか。
 さて、サクラの次は、市民は一斉に潮干狩り、大師の縁日へ参詣方々、品川や羽田の海岸へ船や電車でたくさん繰出した。もっとも、人出の多い割りには事故がなかった。同じ紙面に「期米続いて激落」、「綿糸も同様底知らずの形勢」と景気の後退は続いている。また、総選挙が始まり(五月十一日投票)、市民の関心を集めようと新聞も報道に力を入れはじめた。
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大正九年(1920年)前期のレジャー関連事象・・・一月国際連盟発足
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1月2読 元旦の市中、初詣で賑わう         
  2読 川崎大師、30万余人の大混雑で死者2名  
    3永 市中電車雑踏甚しく容易に乗るべからず  
  4万 庚申の日の柴又帝釈天凄まじい人出、御供物50万、風封じお守り30万
  4読 紳士間に乗馬熱、漱石の令息も練習
  17読 二年ぶりの国技館、初日満員の盛況
  18万 三友館「梅咲く宿」大入り満員
  21万 浅草吾妻座隣地のローヤル・イタリアンサーカス連日満員の盛況 
  24時 劇場・寄席での喫煙禁止を警視庁通達
  23読 神田青年館で普通選挙無産者大演説会満員
  29読 深川初不動、雑踏を極む
2月2万 国技館で普選の叫び、2万余人       
    4万 明治座「生命の冠」他満員御礼       
  5万 追儺式、深川不動・成田不動・川崎大師などは賑わう 
  5万 新富座曽我廼家五郎初日以来満員
  12万 上野公園で普選促進大示威運動2~3万人  
  13読 箱根駅伝日比谷公園から14日スタート  
  23万 芝公園を埋めた68団体普選促進全国連合大懇親会 
  24読 上野みやこ座「若き血潮」他大好評
  24読 高島屋の売出しに入場14万人
  29永 荷風、午後雪解の町散歩す
3月2万 一高三十年記念祭、夜は寮庭に一大不夜城
    5万 明治座「国光」他好評満員   
  8万 梅日和、人出に賑わう各公園、京浜電車は満員続き
  11万 御国座「伽羅千代萩」他連日満員御礼        
  14万 本郷座「白鳥の歌」他初日満員御礼
  17万 新富座で当彌生興行連日大入り、23日に荷風、立見 
  20万 公園劇場「野崎村」他連日大満員日延べ
  21万 演技座「引貫筒真田入場」他満員御礼
  21森 鴎外、杏奴・類と伊豆栄で昼食、動物園へ
  22万 芝公園に普選連合大会、日比谷公園等でも集会
  22万 麗らかな春日和、上野も浅草も人の山
  29都 花見日和に上野・飛鳥山に人出
4月4読 雨の祭日、地方の観光団、活動芝居大当り
  8万 明治座「遠山桜天保日記」他満員御礼    
  9読 日比谷の花祭り 好晴の賑わい       
  11万 本郷座若手歌舞伎「新古劇八番内佐倉宗吾」他連日満員
  11森 鴎外、桜花盛開、妻子と出門、至日暮里   
  12読 花に浮かれた満都の人、仮装と乱舞の飛鳥山    
    18永 荷風、日曜日なり、快晴、夜銀座を歩む
  19万 飛鳥山底抜騒ぎ、警官は寛大喧嘩の仕方題
  22万 品川羽田の海岸は潮干狩で大賑わい

大正八年後期、庶民の遊びは続いている

江戸・東京庶民の楽しみ 163

大正八年後期、庶民の遊びは続く
 景気の落ち込みを目前にした大正八年の後期、景気の良いのは上流階級を相手とするもの。ただ、庶民の遊びは景気の後退、生活苦になっても直ちに減ることはないようだ。  

・九月「罠に引掛った観劇客」七日付讀賣
 この年は九月に入っても暑かったらしい。永井荷風は一日の日記に、「この日より十五日間帝国劇場にてオペラを演奏する・・・この夜の演奏は伊太利亜歌劇アイダなり。余は日本の劇場にて、且はかゝる炎暑の夕、オペラを聴き得べしとは曽て想像せざりし所なり。」と。二日の夕方「トラヰヤタ」の演奏を聞いたと書いているが、その時の劇場は温室にいるようだったとある。かってニューヨークで聞いた時は雪の中だったので、何だか別の曲を聞いたような気がするとも書いている。三日は「フオースト」を聞いたのだが、残暑ますます甚だしと。四日に「カルメン」。五日には「ボリスゴトノフ」の演奏を聞いて、厳しい暑さに疲れ、翌日は寝込んでしまった。
 この年の春に、帝劇で「イントレランス」を特等5円・四等50銭という破格の料金で興行し大当たり。そこで五月にも支那から名優・梅蘭芳を呼び、特等10円という驚くばかりの見物料を吹っ掛けた。ところが、観劇客は、高ければ素晴らしいものだという罠にまんまと引っ掛かり、巨額の利益を得た。これに味をしめた興行主は、九月はロシアから大歌劇団を招いて十五日間の興行。料金も特等12円・一等10円・二等7円・三等3円・四等1円と設定したので連日満員だと15万円を超える収入になる。当時、日本より遥かに物価の高かったロンドンでも最高で5円50銭程であり、ベルリンでは4円、米国ならさらに安いはず。いくら遠い国から招いて高級ホテルに泊めたとしても、物価が高騰するなか10円以上の観劇料を喜んで払う上流社会・成金社会の贅沢趣味・虚栄心には全く驚かざるを得ない、これは社会問題であると、結んでいる。
 永井荷風は、十五日に再び帝国劇場へ出かけ「ボリスゴトノフ」の演奏を聞いた。二十一日の日記は、「我国亡命の歌劇団、この日午後トスカを演奏す。余帰朝以来十年、一度も西洋音楽を聴く機会なかりしが、今回図らずオペラを聴き得てより、再び三味線を手にする興も全く消失せたり。此日晩間有楽座に清元会あるを知りし徃かず」と。西洋音楽に圧倒された様子、邦楽にはないスケールの大きな魅力にとりつかれたのは荷風だけでないだろう。
 彼岸の入りが日曜ということで、子供連れで外出する人が多く青山・谷中・染井・雑司ヶ谷などをはじめ市内各所に参詣の人が賑わった。上野や浅草はいつもの通り人出が多かった。また、川崎大師や西新井大師は、正五九の二十一日ということでというわけで人出が多く、混雑を極めた。
・十月「大繁盛の日曜 帝展とべったら市」二十日付讀賣
 十二日のお会式は、空前の人出だった。あまりにも混雑したため、大森駅では信徒たちが院線の線路に押し出され、そこへ電車が進入するという事故。死傷者十数名という惨事が起きた。
 十九日の日曜日は晴天で、日比谷公園や浅草、近郊はどこも大変な賑わい。わけても帝展は、朝早くから上野界隈の人出を吸い込んでいた。帝展の入場者数は1万5千余、前年より2千人少ないというものの大混雑。午後二時から早大グランドで、早稲田対満州倶楽部の試合が行われ10対1で早軍の大勝。新聞に観衆2万と書かれているが、帝展の入場者数よりおおかったとは思えず、実際には1万人にも満たなかっただろう。夕方からはベッタラ市が開かれた。非常な人出で堀留署は付近各署に応援を求め往来の安全に力を尽くしていた。日本橋小伝馬町一帯に並んだ露店には、数万の人が押し寄せて賑わった。
・十一月「帝展の入場者は二万人から減少」七日付讀賣
 この年の帝展の開催より二十四日間で16万6千人余、入場者数は前年に比べて2万人も減少した。最高記録が十月十九日の約1万5千人、最も少なかった日が1,945人であった。入場者が減ったのは、雨が多かったのももちろんだが、何といっても不景気の影響だろうと。もっとも、期間中の作品の売上額は4万3千円と前年より6千円多くなっている。これはつまり、作品を購入する層の所得は伸びたが、見物する層の生活は確実に苦しくなっているものと推測される。なおその後は、多少持ち直したと見えて、会期末の二十日までの層には約23万人に快復した。
・十二月「押詰った歳暮の街 景気の良いのは料理屋と芸妓許り」二十五日付報知
 例年、新聞紙上を賑わせる酉の市や歳の市に関する記事は、この年はなぜか減少気味。これに変わって、歳暮や百貨店に関する記事が目立ってきたようだ。例えば、三越白木屋高島屋などの店頭が、歳暮を買うために来た小口切手を持った人々で賑わっているとか、百円もする羽子板が例年なら浅草だろうが、この年は日本橋白木屋で四枚売れたとのこと。また、二十五日、上野精養軒が1円50銭の会費で開いた聖誕祭(クリスマス)には、着飾った令息令嬢で立錐の余地もないほど。築地精養軒も同様。霊南坂教会・九段教会・富士見教会などの少年少女の合唱や芝居、唱歌劇、映画など各々趣向を凝らしていた。むろん、デパートに行ったり、クリスマスとはいえ、教会に足を運んだ人などは、市民の1%にも満たないごくわずかな人々であることは言うまでもない。
 産業界の景気は良いものの、その恩恵を受けたのは中流以上の人々、下層階級の人々の多くは諸物価の値上がりに苦しめられていた。歳末の買い物は、公設市場にたよる人が多く、それも年の瀬のギリギリまで待っていた。三十日の新聞(万朝)に、低所得者向けの公設市場(州崎・富岡門前等19ヶ所)が大晦日は徹夜で営業すると。また、31ヶ所の公設市場は、年内一杯の十二時まで営業。翌年の二日に売り初め、三日は休業するが四日からは平常通りの営業になると。下層階級の人々は正月の用意は三日までしか持たなかった。

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大正八年(1919年)後期のレジャー関連事象・・・                     ────────────────────────────────────────────
9月4永 荷風、帝国劇場でカルメンを聴く
  7読 帝国劇場、特等12円の大歌劇        
  9万 新富座曽我廼家五郎「うっかりもの」三日間大満員御礼
  15万 明治座明智光秀」他四日間満員御礼
  22読 彼岸、川崎大師や西新井大師なども賑わう
  25読 コレラの流行に付取締り厳重で、寂しい魚釣り 
  29読 観楓列車、一等客車十月末日まで連結
  29読 帝国劇場、自由劇場の「信仰」他6・7分の入り
10月5読 蜂須賀候邸の園遊会
  10永 荷風、歩みて目黒不動の祠に詣づ
  12森 鴎外、妻子と目黒植物園・芝公園で遊ぶ
  13万 お会式空前の人出、鉄道事故死傷十数名    
  18読 帝展三日目祭日で賑わう14,439人入場
  20読 大繁盛の日曜、帝展とベッタラ市が賑わう
  20読 早稲田対満州倶楽部野球戦、観衆2万
  20読 三友館「牡丹のお蝶」初日満員
  24万 葵館「復活」他連日満員御礼
11月5永 荷風、帝国劇場に立ち寄る。是夜初酉なり
  7読 明治座「傀儡船」二日目満員
  8万 富士館「柳生十兵衛」他連日満員
  16万 歌舞伎座「鎌倉図鑑」他満員続き
  16読 翌月1日より活動写真の甲種乙種制度撤廃
  19読 菊花拝観者範囲広まる
  20万 彌生座「忠臣蔵」初日以来満員
  21万 帝展の入場者数、十九日迄で22万7千人
12月2読 生活改善展覧会に入場者1万人
  11万 歌舞伎座の竹本越路太夫大入御礼で日延べ
  15万 深川八幡の歳の市
  15読 白木屋高島屋、下足番が汗だくだく
  20万 明治座の奈良丸満員御礼
  23読 白木屋で百円の羽子板が四枚売れる
  25報 景気の良いのは料理屋と芸妓許り 
  27万 相撲の観覧料を春から値上げ
  31永 表通には下駄の音猶歇まず。酔漢の歌いつつ行く声も聞ゆ

大正八年中期の庶民、まだ自由な感覚がある

江戸・東京庶民の楽しみ 162

大正八年中期の庶民、まだ自由な感覚がある
 江戸時代から50年、半世紀となる。奠都五十年の祝祭は盛大に模様され、東京市民は祝宴を自分達の祝いとして楽しんでいた。まだ世界大戦後の好景気の余韻が残っているが、その一方でじわじわと不況の波は確実に押し寄せていた。       
 読売新聞5月15日に、「五百の工場労働者 一萬二千人の為に 慰安会を開催する」本所の十九ヶ町連合会の計画があると。「労働問題は今や論議の時代を越えて実行の期に及んで居る・・・」と大正時代の中頃の自由な世情を伝えるものである。7月15日には「職工の値上運動に「御催促では恐入る」と笑って応じた鉄道院被服廠。8月12日には「労働慰安の園遊会、精養軒の催し従業員ら1,500人」とある。
 「避暑外人の分布図 四千名の軽井沢が其筆頭 温泉村や松島等も怡ばれる」等と、当時の外国人の様子を伝える記事がある。(読売新聞7月27日)
・五月「晴の奠都祭 江戸錦絵を今様の構図 行幸啓を仰奉りて」十日付讀賣
 五月は靖国神社五十年祭から始まり、一日、九段坂上には凄まじいほどの人出があった。翌週は、奠都五十年の祝祭。会場となった上野公園には、早朝から羽織袴やモーニングの吏員などが続々と詰めかけ、山下から万世橋にかけての沿道は人波が十重二十重となった。市民の式場入場者は約5万人。また、芝公園から新橋・銀座・日本橋などの御成道にも人垣が連なり、「市民沿道に跪坐して天顔に咫尺し奉る」という状況。式後の奉送も沿道に市民の万歳の声が響きわたった。夜は夜で、上野を中心に人波の渦をなし、不忍池畔にはアイスクリームや卵売りなどの露天が続き大繁盛、祝賀提灯・紅白の幔幕・飾り物・活人形などに人が集中して神田辺りまで市電が通れぬという有様。日比谷公園での余興等も大人気だった。市内の神社も一斉に奉祝大祭を開き、小学生の旗行列、山車に神輿、提灯行列、そして一番人気の大名行列・・・と、数えきれないほどの余興に市民は大喜びであった。
・六月「漁客三千名、玉川電車大繁盛」二日東朝
 六月一日は鮎の解禁、日曜ということもあって多摩川太公望が繰り出した。同じ紙面に、織物問屋が率先して、雇人酷使の旧習を打破する日曜休日の実行へ、という記事がある。日曜日に休める人々は、まだ当時は少数であった。
 月半ばには月島三号地の水泳場17軒が市から許可された。前年より5軒も増え、七月一日からの開場が待たれているとのこと。水泳場の大きさは、従来のものは間口九間半(約17m)奥行六間(約11m)であったが、新規は間口五間一尺奥行六間となる。これまで水泳場内で飲食物の販売ができたが、飲食店が4軒できたので今後は絶対に売れない。また、水面に櫓を建てることも禁止され、飛び込みの楽しみが奪われた。その上、月島は護岸工事のため翌年から水泳場の使用ができなくなる。従って、東京の遊泳場は芝浦に移るほかないが、芝浦とて安全な遊泳地でないから市内の遊泳はこの年が最後だろうと新聞は悲観的に報じている。
・七月「家庭博開る」十一日付讀賣

   「日本晴れの藪入り遠出連中の激増」十六日付讀賣
 一日、代々木原で平和観兵式、そして帝国ホテルで市主催の平和祝賀会が催された。記念のハガキ・切手(約11万枚)は午前中にすっかり売り切れ。観兵式には数万の観衆が出かけた。代々木界隈の人出だけでなく、上野や浅草公園も朔日を兼ねた祝日だけに人出が多く、六区の興行物は満員の盛況。夜には、日比谷公園で海軍軍楽隊の演奏、青山練兵場で救世軍の催しと提灯行列があった。
 上野公園不忍池畔で平和記念家庭博覧会が十日から六十三日間の予定でスタート。呼び物はヴエルサィュ宮殿(八百畳敷きの休憩所)、余興として喜劇・魔術曲芸・浪花節等の他に南洋産のドラゴン・ガラガラヘビその他珍動物などの姿も。さらに、盆には飛び入り勝手相撲、大噴水瀑布・数百の花壇等もこしらえて、納涼にもってこいと好評判。
 十四日付(東朝)には、一週間後の川開きについて好景気を反映して混雑を予想。二十一日付の新聞には、「米や豆や砂糖大盡が太平楽の煙花見物」という見出しで、川沿いの茶屋が繁盛している写真までつけて、派手に遊ぶ成金たちの話を書きたてている。ちなみに水上署の調べによれば、観覧船四千艘で、観客は1万3千人なりと。この数値は、例年適当に発表されていた数値とは異なり、かなり信頼できるものと思われる。
 この年の藪入りは、小僧さんたちが市内から外に出かける傾向が増してきたらしい。家庭博覧会や飲食店などもさほどの入りではなく、この日一番混雑したのは上野・東京・両国の各駅で、これからはどうやら世間に増えてきた成金の振舞いをまねての遠出が増えているかららしい。
・八月「婦人の水泳者 近頃滅切殖えて来た」九日付讀賣
 一日から四日間、賃上げのストライキで東京の16の新聞が休刊。二十八日には、小石川砲兵工廠の職工6千人が賃上げと九時間労働制の要求スト。この年は、あちこちで賃上げと労働時間短縮を要求する動きが多く、ストライキが多発している。その一方で、従業員への慰安の催しも目につき、十二日付の新聞(讀賣)には、精養軒で労働者千5百人もの園遊会が催された。
 この夏、婦人の水泳者が増えてきたらしい。泳いでいる場所は、銀座から五六町離れた月島の先の三号地。浜に軒を並べた水泳場の一つ、荒谷水泳教場には、小学校の生徒が百人余り泳いでいて、そこの水泳教師から婦人の水泳について聴いたところ、教場の婦人会員は十人余り。実際に泳いでいたのは十代半ばの女子学生数人。泳ぐといっても、紫や青の大きな海水帽子を被って水の中にいるという程度、スポーツというよりは水遊びのようなものであった。女性が泳いでいるのが新聞記事となるくらいだから、これはまだほんの一部の人たちのレジャーにすぎない。
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大正八年(1919年)中期のレジャー関連事象・・・5月中国で五・四運動/6月ベルサイユ講和条約調印
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5月2読 靖国神社の五十年記念祭、余興も盛ん人出は凄まじい
  10読 浅草帝国館「イントレランス」連日満員日延べ
  10読 奠都祭 上野を中心に人波の渦巻き
  12永 荷風、帝国劇場で梅蘭芳楊貴妃を聴く
  18読 夏祭り気分の浅草三社祭り         
  19読 三友館合同特別興行、馬・ダンス・独唱等連日満員
  20読 大相撲夏場所、日曜日に負けぬ大人気八日目 
  24読 客足思わしからぬ夏場所十日目
  27読 蔵前名物高工記念祭の素敵な人出
6月1読 三越で江戸風俗展覧会  
  2朝 漁客三千名、玉川電車大繁盛         
  2朝 「織物問屋が率先して、雇人酷使の旧習を打破する日曜休日の実行へ」
  2読 遊楽館「稲生武太夫」大好評の盛況
  2芥 龍之介、弟と電気館で「呪いの家」を見る
  5芥 龍之介、菊池寛と小柳で伯山の講談を聴く
  16朝 賑やかな安全日、初日の市中は何処も彼処も御祭り騒ぎのよう
  19読 浅草公園の芝居は紀伊国屋の全盛
  21読 演技座「中堂焼討ち」大当たり
  21読 準備成った水泳場 月島は五軒を増す 然も今年が最後
  23朝 歌舞伎座「一谷嫩軍記」満員御礼
7月1森 鴎外、妻子と小石川植物園に往く                         
  2読 代々木原頭で平和観兵式、帝国ホテルで市主催平和祝賀会
  2読 帝国劇場の女優劇、初日満員
  5読 玉川の花火、数百本
  11読 上野不忍池畔で平和記念家庭博覧会開催    
  15読 両国駅の乗客、日を追って激増        
  16読 晴れの藪入り遠出の激増 飲食店の不景気
  20読 暑劇化にいたる各所の水泳場盛んに賑わう
  21読 両国の川開き、観覧船4千艘
  28永 荷風、再び有楽座で浄瑠璃人形を聴く
8月1永 荷風、帝国劇場で牡丹燈籠を看る

  7読 避暑列車(夜行列車)土曜毎に日光へ                                   
  7読 帝国館「曲馬団の囮」大受
  9読 玉川の大花火、数千発の打上げ花火      
  10読 百花園の虫放会、文人ら5百余名
  10読 王子名主の滝、日々千人余行くが大部分は幼児の水遊び
  12読 労働慰安の園遊会、精養軒の催し従業員ら1,500人
  15読 月島の伊藤水泳場で水上大運動会
  17読 百花園の江戸趣味納涼会、九月十五日まで                        

「熱狂的好景気」の大正八年前期の庶民娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 161

「熱狂的好景気」の大正八年前期の庶民娯楽
 原内閣が有効な経済施策を打たない中、「熱狂的好景気」といわれる実体の伴わない、いわゆるバブル景気が始まった。東京市内の物価は上がり、例えば、かけそばやもりうどんが日を追って7銭・8銭・9銭・10銭と値上がりした。そのため、下層階級の生活は苦しくなり、労働運動や労働争議が増えていった。
 市民レジャーは、好景気の余韻を受けて盛況である。特に演劇は、史上最高ともいえる観客数になった。まだ世相に暗さがないためか、「東京節(パイノパイ)」「デモクラシー節」「浜千鳥」などが流行した。
・一月「須磨子自殺す」六日付東朝
 上野動物園の新しい門が元旦から開かれた。元旦の夜は土砂降りであったが明けた二日、森鴎外は子供等を引き連れて、動物園を訪れている。新聞は、年始の挨拶まわりや初荷など目出たい記事で埋めていた。まだ、正月気分の六日、超人気スター松井須磨子の自殺の記事が紙面を大きく裂いた。あまりにも突然なので、多くの市民が驚いた。驚くと言えば、六日未明、市内に六ヶ所ある消防署から一斉に警鐘が打たれ、突如、眠りを破られた市民は驚いた。この日は、上野不忍池畔で恒例の消防出初式。開場には、手押ポンプ120余台・蒸気ポンプなどに加え外国から新たに購入した自動車ポンプ12台がお目見え、1600人の消防夫らも整列した。江戸の面影を残す威勢のよい梯子乗りを見ようとする人で、寒風吹く上野の山は身動きもできぬ盛況であった。消火演習を行い、木遣行列を最後に各消防署ごとに纏を打ち振り管内をまわって、梯子乗りの芸当は市中を賑わせた。
 藪入り、景気はまだ良いようで新聞(報知)には、小僧さんたちは懐が暖かいと見えて、浅草をはじめ、東京から江の島・鎌倉へ、また女中さんたちも穴守や川崎大師、鶴見へと向かった様子が書かれている。
・二月「きのう紀元節の佳き日に春光の下、憲法発布三十年の祝賀会は挙げらる」十二日付讀賣
 二月に入り二日から四日まで雪が降る。風邪が流行っていた、市内の全校が休校かといわれる中、この年の節分は「泥濘の為か例年よりは淋しかりき」とある。それでも、川崎大師の豆撒きは、午後九時の三番鐘を合図に始まり、豆を拾う参詣者人のどよめきが全山に響きわたるほどであったとか。境内には花火・活動・太神楽等の余興があって中々の賑やかさであった。このような記事から推測すると、各所の豆撒きはそれなりに賑わったであろう。
 十一日、憲法発布三十年の祝賀会が催された。十年前の憲法発布二十年祝賀会は盛大を極め、日比谷公園に十万人余、山車や仮装行列、住吉踊りや娘手踊りなどが出て非常に賑わった。それに対し、三十年記念祝賀会は青山権田原の憲法記念館で、国会議員など一千余名による式典と規模がかなり縮小された。一般市民にいたっては、「午前九時ごろから早くも残んの雪に彩られた権田原を三々五々老若男女が泥濘を蹴って今日の盛儀を見んと会場目掛けて詰め掛ける」というように、会場周辺で参加者を出迎えるだけであった。一方日比谷公園では、十時過ぎから帝大・早大・明大、その他大学生が続々と押しかけて、日本最初の普通選挙示威運動を起こそうと意気軒昂であった。警視庁からは数十人の警官が万一を警戒し音楽堂内に集まった。集まった2千人近い学生たちは、宣言後は、静粛に行列運動を開始。全群集は、隊を整えて衆議院に向かった。
・三月「畜産工芸博いよいよ開場」十九日付讀賣
 一日、奇抜なことで有名な一高の向陵祭。呼び物は仮装行列、風邪退治には風呂敷を背負った青鬼をかついだ万年床男、これに対するアンチビリン将軍はボール紙製のシルクハットに燕尾服を着け、赤銅眼鏡、付け髭、山高帽子のドクトル等を引き連れて意気揚々と行進、これに“百鬼夜行”などが続く。場内は立錐の余地なき有様で、入場者は3万人以上もあったと。また同じ日、神田駅の横の空き地で、東海道線と中央線の連絡運転開始を祝して、開通祝賀会が催された。式場界隈は万国旗などで飾られ、掛小屋での海老一大神楽剣舞・滑稽劇など集まった観客を喜ばせた。式が終わると芸者連による越後獅子や元禄花見踊りが催され、余興は夕方まで続いた。
 三日、朝鮮の李太王葬儀に対し敬弔の意を表すため休日、市内は桃の節句にもかかわらず人出はさして多くない。ただし、浅草だけは別格で、興行者も節句を当て込み、楽隊も一層の景気を付けて人を呼んでいた。活動写真はもちろん歌劇や芝居もすべて満員。
 陽気が春めいて来ると、東北地方の米成金などが続々と上野駅へ。一日の乗降客が3万人を超えた。駅周辺の宿屋・下宿屋70軒が満員客止めのうれしい悲鳴。雨上がりの九日、水戸の観梅列車は振るわなかったが市内の日比谷・芝・上野公園にはかなり人出があり、浅草は押すな押すなの騒ぎ。十七日付「梅の日曜」の記事(讀賣)には、市川付近の国府台や中山、花月園や穴守などへと、行楽の人がさらに増加している様子を伝えている。
 我が国初の試み、畜産工芸博覧会は、上野不忍池畔で三月十八日から五月末日まで催された。ハンブルグ門を真似た正門の会場には大仕掛けの牧場や十万点以上の畜産工芸品が展示された。牧場は二つに分かれ、左手に牛馬、右手に綿羊、背後には牧場の絵が描かれていた。また、約11mの櫓に風車を仕掛け、飲料水を吸い上げる池にはガチョウやシャモなどを放ち、リスや黒狐なども展示。余興館はもちろん、羊などの料理を味わう店もあった。
・四月「三日の汐干狩 二十年来の盛観」四日付讀賣

   「花見姿の品定め」四日付東朝
 三月の末から“気早連のお花見”というわけで、満開を待てない市民のお花見騒ぎが始まった。四日付(東朝)で、上野の「花見姿の品定め」を特集している。「出たり出たり春の老若男女、鳥打帽子に桜の花を差して萬筋の着物に角帯キチンとしめた小僧さん、友禅メリンスの対の着物に羽織お下げ姿の姉妹、可愛げ盛りの洋服着せた兄弟の手を引いたお父さん、遉(さすが)に皆春らしく垢のつかないものに更へて足はまづ上野に向ふ」と、混雑した花見客の服装について、春の流行を競っていると記している。また飛鳥山では、ばい煙で花の色がどうなろうと、そんなことはおかまいなしに、1枚10銭~15銭の筵を借り、サクラの下で手弁当を開いて楽しむ連中が多いことを紹介。
 六日付(以下東朝)には、同日、上野公園と飛鳥山で大演説会、また、向島から荒川迄が花の見頃という案内。七日付の見出しは「花に最後の日曜」、昨日の飛鳥山は16万人もの人出、迷子63人、喧嘩117件、怪我人20人、泥酔保護者が19人と、賑わいの総決算ともいえる報告をしている。もっも花見は、上野や飛鳥山をはじめ、江戸時代から続く名所や近所の寺社などでも広く行われていた。市民にとって花見は、自分の懐具合と余暇時間に応じて、気兼ねなく楽しめる格好のレジャーであった。そして花見がこのような東京の春の一大イベントになったのは、新聞による連日の報道が功を奏したのと同時に、警察の取締りが非常に緩やかだったからであろう。
 春の行楽は花見だけでなく、潮干狩りも盛んだった。四日付(讀賣)で「八千の舟に埋まる品川沖 三日の汐干狩 二十年来の盛観」と紹介されている。午前九時には神田・深川方面から五色の旗を翻して、鐘や太鼓の鳴り物入りで繰り出す団体もあった。品川沖だけでも8千余隻の船が出て大変な人出となり、泥酔して溺死した人が1名・迷子52名・喧嘩20組、それでもこのくらいのことは珍しくないものか、“さしたる出来事はなかった”と書いている。なお、貸船の相場(三月十五日付讀賣)は、船頭二人付大伝馬船が10~12円、中伝馬船が9~10円、一人付大荷足り船が5・6円、中荷足り船が4・5円見当だった。
  十九日付の新聞(東朝)に「職工の休日を改めよ」という見出しがある。これは東京府下の一流企業(石川島造船、森永製菓、鐘ケ淵紡績、大日本麦酒など)の代表者四十余名と府知事等の間で、共済組合の普及と従業員の生活状況調査や保育所の設置などについて協議会が初めて持たれたもの。そのなかで、休日を「一日十五日の旧習を破って以後日曜日に」しようという提案がだされた。詳細を読むと、それまでのように一日と十五日の休みでは子供の学校の休日と一致せず、家族そろっての楽しめない、これは家庭の団らんを軽視したものであると書いてある。そのため、月の第一日曜日と第三日曜日を休みにすることが必要。さらに、やがては毎週日曜日を休みにしてなどと、休日の決定権をもつ事業主にしてはまるで他人事のような調子で申し訳程度にに付け加えている。このように大正時代の半ばになっても、大企業の代表者は、労働者が月二回の休日を当然のことと考え、週一の割合で休日を取るのはかなり先のことと、悠長に構えていた。もっとも、八月十七日付(讀賣)「下駄屋の休日」の記事のように、京橋区内百余軒の下駄屋が他区に率先して第三日曜日を公休日として休業するというような動きも僅かながら出てきている。こうした労働者の休日への関心は、第一回国際労働会議(ILO)が開催されたことなどを反映したものであろう。
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大正八年(1919年)前期╶╴ジャー関連事象・・・三月朝鮮で三・一事件
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1月2森 鴎外、杏奴・類を率い動物園に往く
  3朝 元旦の市電客百十万、昨年より十五万人の増加 
    7読 出初式、山上山下は身動きならぬ盛況     
  9読 初庚申、電車増発し非常な賑わい       
  11万 三友館の東屋楽燕、空前の盛況        
  13朝 大相撲、客止めの初日            
  17万 日本晴れの藪入り日 前日に倍する雑踏    
  18万 大相撲、床屋の藪入りで六日目満員      
  23万 初大師雑踏を極め、川崎駅で死者2名     
2月4永 荷風、桜木に往き追儺の豆撒きをなす  
  5読 豆撒き、川崎大など各所ともに賑わう     
    6朝 有楽座の松旭斎天華一座連日満員大好評    
  9朝 新富座曽我廼家五郎一座「御前角力」連日満員
  12読 青山権田原で憲法発布三十年祝賀会      
    17万 明治座「路傍の花」他昨日満員御礼      
  27読 春のながれ 日に増さる市中の賑わい     
  28読 有楽座のベーリンデー「カルメン劇」     
3月2読 向陵祭、一高式飾り物、入場者3万人と
  2万 日比谷公園普通選挙促進の大示威運動参加者1万人を超え
    2読 有楽座「肉屋とカルメン」初日満員
  3読 東海道線と中央線の開通祝賀会、神田駅賑わう   
  4読 李太王葬儀、弔旗で市中寂し、浅草は別     
    10読 上野駅は一日乗降三万人、田舎客春の都へ   
  15読 明治座「羅馬の使者」他満員         
  17読 梅の日曜、初観梅列車など、行楽の人出    
  19万 上野で畜産工芸博覧会の開会式        
  28読 浅草寺開帳30日間(四月一日より)     
  30永 荷風築地本願寺の桜花を観る       
  31読 好晴れの日曜日 各所雑踏            
4月4読 花の旗日 満都浮かれて上野・浅草素晴らしい人出 
  4読 品川沖の潮干狩り、二十年来の盛観      
  5読 千代田館「八犬伝」大好評          
  6万 球界興味の一高対三高、観衆2万5千人    
  9読 盛大な花祭り                
  10読 御国座「博多仁輪賀」盛況           
  12森 鴎外、妻子を率い鶴見花月園に往く 
  13永 銀座に出でて見るに、花見帰りの男女雑踏
  14万 荒川堤と小金井、花も見頃人も出盛り
  18読 花見客の総勘定 次第に地味な気分が増す
  18読 新富座乳姉妹」満員盛況

忍び寄る制裁や弾圧前の大正七年後期の庶民

江戸・東京庶民の楽しみ 160

忍び寄る制裁や弾圧前の大正七年後期の庶民
 値上げの波が浸透し始めている。バブルも始まっているようだ。下層庶民の生活は、日に日に苦しくなっているようだが、金持ちはさらに豊かになり、貧富の差が広がりつつある。それでも、何かにつけて遊ぼうとする庶民の勢いは止まらないようだ。
 映画(活動)取締で一万人以上が制止・注意を受けている。思想的弾圧が広がる中、東京帝国大学学生を中心とした「新人会」が結成された。翌年二月に機関誌《デモクラシイ》を創刊し、思想運動団体の活動が展開することになる。政府のさらなる制裁や弾圧が進むことになる。
・九月「暴風雨の警報 浅草公園の活動や劇場は看板を外して早仕舞」十五日付讀賣
 九月には42道府県311の市町村に波及した米騒動も、東京ではその後それほど大きな騒ぎは起きず、演劇や映画など市民レジャーはもとのように盛況となった。帝国劇場の「露国舞踏」などが初日満員。婦人子供博覧会の最終日も混雑、早川雪州と青木つる子との共演映画「火の海」が連日大入りとなるなど、東京は他の地方とは情況が若干違っていたようだ。ただ、米価の高騰は下層階級の生活を直撃した。その上、二十四日の台風によって、本所や深川わ中心に市内は大洪水、その後も停電が何度か続いた。また、スペイン風邪が中旬より流行りはじめた。そのためか、行楽の人出は例年よりかなりすくなかった。
・十月「記録を破った文展初日 素晴らしい景気 午前中五千名」十六日付讀賣
 上野竹の台で開催中の文展は、小糸源太郎氏が出品洋画を切り裂いたというセンセーショナルな噂も逆に功を奏したのか、定刻前からすでに数百人もの観覧者が列をなすという人気。売約済の作品数は50点以上におよび、六曲屏風一双(題名牛)の4千円を最高額に合計2万1千円余に達した。これは、文展始まって以来の売上げ。記録を破ったのは、入場者数ではなく成金景気による作品の販売金額であったというわけだ。
 二十九日付の新聞(讀賣)には、「深川の細明町に実費共同浴場」という記事がある。これは下級労働者は生活苦で風呂にも満足に入れないことから、大人2銭小人1銭という安い風呂を新築するという話。安い風呂屋をつくるとなると方々から反対運動があるかもしれないが、成績がよければ深川区内にさらに二三軒作りたいとの意向らしい。このように諸物価高騰で1銭2銭の風呂代にも困窮している人々が大勢いる一方、同じ紙面に「恐ろしく贅沢な演奏会 成金の令嬢たちの大浚ひ」という対象的な記事も。これは数日間借り切りにされた大劇場を舞台に、成金令嬢たちによる大演奏会が催されたというもの。少女たちは、数百円もする豪華な衣装に金銀の鎖の下がった筥迫を押し込み、まるで役者のような化粧。劇場の廊下には、彼女らに送られた花輪や飾り物が足の踏み場もないくらいに並べられ、その絢爛さは全く目のくらむ程であった。親たちの出費は、幾百円千円にも上り音楽堂一軒がが建てられる位。つまりこの日の演奏会は、娘を種にした成金の豪奢比べであったと新聞は皮肉っぽく報じている。また同じ紙面に、浅草花屋敷の観覧料の値上げ広告(大人15銭小人10銭)もある。
・十一月「日本晴れの天長節 至る所大賑」一日付讀賣
 天長節の日、代々木が原での観兵式が中止になったのを知らない人々が、青山・原宿・代々木・新宿の入り口に早朝から十時頃まで押し寄せて、人で埋まった。観兵式の取り止めにがっかりした人たちの大半が浅草に流れたため、六区の映画館や見世物は満員客止めの凄まじい景気となり、仲見世から六区へは人が鮨詰状態であったと。上野公園は、動物園、文展や美術協会展工芸品発明品展覧会などがかなりの人気を集めた。
 十一日は快晴の日曜日、一の酉は成金景気に乗じて二尺物三尺物大熊手が威勢よく売られ、5円10円という馬鹿値もお構いなしの大繁盛。浅草をはじめ深川・四谷・品川・目黒の大鷲神社は大変な人出を見せた。酉の市の景気を受け、市内の各興行物は溢れるような入りであった。
 二十一日には第一次世界大戦の休戦大祝賀会が日比谷公園で開催された。朝から花火が盛んに打ち揚げられ、正午開門と共に6万人の入場者が雪崩を打って流れ込み、会場は人、人、人で埋めつくされた。会場の背後には、余興の掛小屋が建ち並び、喜劇・剣舞などが催された。夜になると、70あまりの組合の東京実業組合連合会10万人が馬場先門から二重橋前を一周して坂下門から宮城内に向かって提灯行列。勇ましい吹奏楽と万歳の声、五分おきに打ち上げられる花火、延々と続いた火龍は午後七時四十分に宮城参拝を終えた。人の波は、今まで運動場で露天余興が催される日比谷公園へと動き、その時の様子は「踊に歌に 日比谷の夜 二十万の人」(讀賣)という見出しで表現されている。この日は、馬場先門救護所では男女7人の迷子を保護。日比谷付近の救護所でも大人を含めて、17名が保護されている。この休戦大祝賀会の実況は、翌日、キネマ倶楽部と大勝館で上映された。
 大相撲は翌年の春場所から値上げが決まった。正面一坪六人詰12円(従来11円)・三方一坪11円・特等一人2円30銭・一等1円70銭・二等1円20銭・三等70銭・木戸60銭(従来50銭)となる。これと二十八日付の新聞(讀賣)に「慈善協会大会 渋沢邸の盛況」と、飛鳥山の渋沢邸の庭園にテントが張られ、陸軍軍楽隊の合奏が流れる中、約5百人の人が集まったと書いてある。同日の内容は、慈善についていくつかの講演と休憩時に寿司と甘酒の饗応・・・といったもので、午前十時に始まり午後四時まで催された。
・十二月「此の暮は 先づ上景気 中流以下の懐中にはまだ何の影響も無い」十一日付東朝
 十二月に入っても劇場は盛況だが、そんな中で一時は盛んであった日本橋中州の真砂座が閉鎖された。時と共に地の利が悪くなり、連鎖劇や活動写真に命脈をつなごうとしたが失敗が続いたらしい。ところで、この年の暮れの景気はというと、東京には、公設の歳の市で少しでも安いものを買おうとする人がいる一方で、成金とはいかないものの相応の収入を得た人がかなりいたようだ。二十五日付(万朝)には軍人に年末賞与がでたことが載っている。九月にも月給の四割という臨時手当を受け、今度の賞与は、給料の一カ月分。文官、陸軍省の給仕に対しても増額され13・4円の賞与がでた。景気を反映してか、諸物価の値上がりは歳の市でも顕著で、縁起物の羽子板は3~4割も、その他の品物も2~3割値上げされているとのこと。
 二十七日付(万朝)には「活動取締の効果」があって、映画の影響を受けた犯罪が減ったという記事。十五歳未満のため映画見物を制止・退場させた者が1万1千人以上。風俗を乱すような行為を見つけて説教した者が取締以前には211名あったのが20名に激減、退場させられた者も123名から13名に減った。さらに、映画に影響されて窃盗に及んだ事件も取締以前の42件から22件になったという。新聞は、フィルムの検閲と十五歳未満入場者制限の効果を強調している。このように映画の取締しまりは徐々に進んでいった。
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大正七年(1918年)後期のレジャー関連事象・・・十一月第一次世界大戦終結/十二月新人会結成
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9月1森 鴎外、妻子と植物園に往く  
  2万 帝国劇場女優劇「露国舞踏」初日満員 
  2読 涼しい博覧会数々の余興、入場者3万人と 
  9読 婦人博覧会最終日、場内至る所混雑 
  8森 鴎外、妻子と百花園で遊ぶ       
  9朝 三友館「乃木大将」初日以来連日満員
  12朝 院展初日、入場8千4百人
  14読 観音劇場新劇「残されし人」他大人気
  20読 月見、上野公園・愛宕山・九段・品川・向島百花園など賑わう
  23読 富士館、早川雪州・青木ツル子共演「火の海」他連日大入り御礼
10月5永 浅草観音に菊供養あり
  13読 池上お会式、観物小屋10軒・露店少ないが人出例年なみ
  16読 文展初日午前中に5千名、記録を更新     
  20朝 ベッタラ市賑わう、小一本10銭大30銭   
  25読 靖国神社大祭最終日、外苑の観覧物・飲食店・露店等賑わう
  29読 成金令嬢たちの恐ろしく贅沢な演奏会
  29読 浅草花屋敷値上げ、大人15銭・小人10銭
  31朝 キネマ倶楽部「護国の少女」連日満員    
11月1読 日本晴れの天長節、至る所大賑わい 
  4読 日比谷公園の菊大会、時ならぬ賑わい
  11読 日曜日の酉の市、市内各興行物は溢れるような入り
   11読 目黒競馬二日目、正午に千人を超える
  16読 慶応のカンテラ行列3千人、宮城前の壮観
  21永 欧州戦争平定の祝日なりとて、市中甚だ雑踏
  22読 日比谷で休戦大祝賀会、20万人の人
   28読 大相撲値上げ、正面一坪12円(従来11円)・特等一人2円30銭・一等  1円70銭・三等70銭・木戸銭60銭(従来50銭)

12月4万 常盤座「不如帰」素晴らしい景気  
  6万 水天宮、露店300余薄暗い頃から賑わう
  7万 新富座天一坊」他売切れ満員   
  10万 有楽座の天勝、大曲技滑稽奇術満員御礼
  15読 白木屋高島屋、下足番が汗だくだく
  15万 深川品調べ市、羽子板店22その他250~60軒、羽子板など3~4割高
  20読 軍旗祭、靖国神社に参拝するが余興なく極めて静粛
  21万 公設の歳の市、6ヶ所朝から非常な繁盛
  26永 荷風浅草寺に賽するや必ず御籤を引き

 

不景気が忍び寄る大正七年中期の庶民

江戸・東京庶民の楽しみ 159

不景気が忍び寄る大正七年中期の庶民
 大正七年中期の東京は、娯楽に浸る庶民が大勢いた。地方では徐々に不景気風が吹き始めていた。東京では、成金が金にまかせて謳歌しており、庶民もつられていたようだ。
 しかし、米騒動の情報が東京にも流れると、事態は一転した。
・五月「電気博覧会期延期」九日付讀賣
 森鴎外が家族連れで二十日に見物した電気博覧会は、会期を十日間延長した。この博覧会は名前から予想つくように、いたって地味な展示であったが、それでも入場者数は、十五日で96万人に達した。二十一日は、博覧会デーとして入場料を割引、余興館席料を半額にお土産などの特典を用意、他にも茶番大仮装行列が催された。
 国技館が火事で使えなくなった大相撲は、屋外興行のため、天候によって客の入りが大きく左右されることとなった。五月場所は、初日から入りが悪く、二日目は時々雨で場内は閑散とした光景。四日目少しは快復されたもののそれでも六分の入りで、結局、観客が満足に入ったのは、雨の降らなかった日曜日だけ。演劇界の好景気をよそに、相撲は十年ぶりの不況。入りの悪いのは、天気の具合にもよるがそれだけではないこと、やはり相撲界の内部のトラブルが遠因のようだと。
・六月、コンノート殿下奉迎「日本全国民の熱誠を代表した群集の列」十九日付讀賣
 十一日、厄除日蓮開運毘沙門の開帳に先立って、芝から浅草へ善男善女が一千名、行列揃えて開帳仏乗込みが催され混雑した。沿道には、見物人が押し寄せその華やかな光景を楽しんだ。十八・十九日付(讀賣)で、英国より来日したコンノート殿下の奉迎セレモニーの記事が出ている。警視庁からは、混み合って危険なので老人や子供は遠慮すべし、また、一般市民の奉迎は三菱ヶ原か宮城外苑が適当、服装もなるべく礼を失しないもので、とのお達しがあった。学校生徒の奉迎は、府立中学校1千2百名の生徒が宮城外苑に、また市内小学校1千8百名の生徒が馬場先門より堀側一帯などに割り振られていた。宮城前凱旋道路に集まった群集は、始めクローバーの芝生に立つことを日比谷署から許されていたが、憲兵隊は「道路へ降りろ」という。警察は「上がっていろ」というので四五遍も上がったり降りたりさせられた。そのため人々は、一時不平顔になったが、最後には憲兵隊も恐縮して、道路に立つよう指示した。そうなると人々もかえって恐縮し「よろしうございますとも」となり、その光景は「心地よき新日本の姿かな」と新聞記事になった。

・七月「日曜の月島水泳場賑う」一日付讀賣

   第二回婦人子供博覧会開会(12日付讀賣
 七月に入ると月島の水泳場に関する記事が相ついだ。その内容は、水泳場が賑わいを増すにつれて、入場料以外に座布団や煙草盆代として金を取ったり、飲食物を高い値段で売りつけたりするというもの。また水泳関連では、「本年は溺死者が少い」と言う記事もでている。大森・羽田など53箇所の遊泳場での溺死者は、七月以降わずか7名しか出ていないと書かれている。しかし、八月に入ると様子は一変したのか、芝浦一帯の潮流の変化が激しいために毎日のように溺死者が出て260名以上となり、「芝浦一帯の遊泳禁止」と。せっかく出かけても、子供たちは泳げないことから、カニ取りに戯れていたと。この頃、水難事故が多かったことから、市民の水泳が一部の人が行うスポーツではなく、レジャーとなっていたことがわかる。
  前年、成金たちが川開きを買い取るという騒ぎが起きたためか、この年は見物のための川岸の桟敷が禁止された。十七日付(東日)によると「川開きは江戸の花だ。市民平等に観るべきものを市の所有地たる川岸に一般の目を遮る板囲などして料金を取って見せるものではない。此主旨で禁止した譯である」と、警視庁より粋な通達が出された。そのためか、当日の人出は少なく前年より寂しいと、全体的にはやや賑やかさに欠けていたようだ。さらに、本年は殊に好景気だから混雑するだろうと厳重に固めた浜町河岸は意外にも混雑を見ず、後の方は楽々と往来が出来た。警戒に当たった巡査は『例年の半分くらいしか人出ない』と言ってたと、かなり減少したように新聞に書いていた。しかし、前年、桟敷を買い漁った連中が減っただけで、それほど見物客が減るとは考えられない。
 七月から八月にかけて、上野で空中文明博覧会(七月十日~八月二十五日)と第二回婦人子供博覧会(一名涼しい博覧会、七月十一日~九月八日)が催されている。上野不忍池畔の涼しい博覧会は人気を呼び、ことに藪入りの日には博覧会会場を目指す人で電車が鈴なりになるようで、開場以来の大盛況。なかでも観覧料が無料の余興場は混雑し、夕刻からはライトで照らされさながら不夜城の美観と称えられた。
・八月、米騒動「市内の騒然 日比谷の群衆」十三日付東朝
 八月の最初の日曜日は、時折薄曇りとまずまずの天気。涼を求めて江ノ島や鎌倉、近くは大森・羽田・新子安などへ出かける人も多いく、市内では月島の海水浴場が大繁盛。上野の空中文明博覧会と涼しい博覧会も相当の客があり、浅草は真夏だけに映画館の入りは六七分、浅草界隈では花屋敷の大滝が込んでいたもよう。また、尾久や王子、目黒の滝もそれなりに賑わっていたようだ。
 富山の魚津に始まった米騒動は、八月になると徐々に他の地域にも拡大していった。神田青年館で開かれた“出兵問題演説会”が解散を命じられ警察官と衝突。この頃の新聞には「混乱を極めし銀座通り 投石しつつ米屋町を襲撃」「不穏な気満し水天宮前」「株式取引所襲撃 蠣殻町を追れし群衆 電車及自動車に暴行」などと、ものものしい表現の見出しが並んでいる。浅草公園米騒動の噂を聞くと、いち早く興行を終了させた。上野でも、森鴎外の日記に「夜市民聚于上野公園。園内皆滅灯火。」とあるように、折から開催中であった博覧会も夜間は中止しせざるを得なかった。
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大正七年(1918年)中期のレジャー関連事象・・・八月シベリア出兵、米騒動勃発
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5月2万 帝国劇場「新鏡山」他満員
  4読 浅草遊楽館「塩原太助」の大写真大盛況
  4永 荷風、麹町通りで台湾生蕃人の一行を見る6万歌舞伎座東京市江戸城明渡」初日満員
  4読 オペラ館「続金色夜叉」又々満員の大盛況
  9読 電気博覧会会期延長            
  12万 大相撲、日曜で雨振らず満員に近い      
  14万 新富座「黒髪物語」満員御礼         
  25万 大相撲、天気の都合もあるが十年振の不況
  27読 浅草遊楽館「猿飛佐助」他好評
6月6万 吾妻座「吉原の大火事の塲」大好評     
  6読 オペラ館の「父の涙」すこぶる好評      
   8万 有楽座の近代劇、大入り満員         
   9森 鴎外、杏奴・類を率い動物園に往く    
  11万 新富座「都歌舞伎」他引続き満員       
  12万 厄除日蓮開運毘沙門、芝から浅草へ練る    
  14万 公園劇場「四谷怪談」他連日満員       
  14万 電気館「世界の平和」他連日満員       
  19読 コンノート殿下歓迎に駅頭から霞ヶ関まで迎者で一杯
  22万 新富座「都歌舞伎」他連日満員
7月1読 日曜日の月島、水泳場賑わう
  12読 第二回婦人子供博覧会(涼しい博覧会)開会
  14永 荷風、有楽座にて文楽人形浄瑠璃始まる 
  16読 有楽座「盛衰記」他人形浄瑠璃大入り御礼
  16読 藪入り日の涼しい博覧会、鈴なりの電車が会場前で空明きになる
  17万 新富座、楽燕「大石の山鹿護送」他満員
  17読 小石川伝通院をはじめとする大黒天は参詣者多く賑わう
  18読 川竹で翫之助「勧進帳」大当たり
  24万 歌舞伎座児雷也豪傑物語」連日満員
  24万 本郷座大連鎖劇「仇波」大好評連日満員
  28万 海へ山へ各船車満員
8月1読 芝浦一帯の遊泳禁止、毎日のように溺死者
  5読 盛夏の日曜、涼を求めて人出                                8万 佃島住吉神社祭礼
  10万 歌舞伎座「深川波の鼓」他連日満員
  11森 鴎外、妻子と目黒植物園で遊ぶ
  14朝 米騒動が東京にも波及し、浅草公園の興行は早仕舞い 
  14森 夜市民聚于上野公園。園内皆滅灯火
  15読 鶴見花月園大花火、音楽・活動・手品等 
  18読 浅草の寂莫、劇場等午後四時で営業休止のため飲食店営業打撃
  21万 明治座「黄金魔」他連日満員
  27万 中央劇場、大入り続きで拡張大改修
  31万 新富座、曽我廼家一座初日満員

 

追、本日2月25日、中央公論新社から

『大名の「定年後」江戸の物見遊山』

発行しました。      
 

盛り上がりが続く大正七年前期の東京庶民

江戸・東京庶民の楽しみ 158

盛り上がりが続く大正七年前期の東京庶民
 大正七年、インフレは戦争が終結に向かってもおさまらず、特に米価の高騰は著しく、七月から全国で米騒動が発生した。このような国内の経済混乱に対し、政府は新聞報道を禁止して軍隊まで出して治めるという無策。米騒動で寺内内閣は総辞職し、原敬が首相となり政党内閣が誕生するが、物価の値上がりは止まらない。原内閣は経済施策にはまるで無関心のようで、不況から失業増加へと社会不安を導いた。
 全国的には不景気が始まっていたが、まだ東京では、成金の遊びにつられるように映画はもちろん観劇などもレジャーは活発であった。米騒動も一時的で戦争による好景気のムードが持続していた。そんな市民の気持ちを反映してか、「ノンキ節」「女心の唄(リゴレット)」などが流行った。もり・かけ蕎麦の値段、6銭に値上げ。かき氷3銭。
・一月「泰平の群れ 深川不動賑う 郊外では穴守」二日付讀賣
 大正七年の元日、宮中では、「除夜の鐘撞き納めて東の空暁を帯びる頃より宮中にては四方拝の御儀を初め各種の御儀式あり殊に午前十時頃より正殿并に鳳凰の間において拜賀式行はれたれば午前九時半前後より皇族方は申すに及ばず元帥国務大臣、大臣禮遇、樞密其他の文武百官何れも燦たる大禮服に威儀を正し……」(二日付東日)と、例年とほぼ同じく、しめやかにスタートを切った。なお、四方拝とは宮中の儀式で、元日に天皇が伊勢の内外宮、天神地祚、天地四方山陵を拝し、宝祚の無窮、天下太平、万民安全を祈る儀式である。
 そこで、今度は一転、正月の街の風景を見ると、都心の大店はみな戸を占めて閑散とした街に、市電は満員で走り、停留所には数えきれないほどの人が立っている。逆に店が開いているのは浅草で、観音様に詣でる人、劇場などに向かう人などでごった返していた。その他には、上野、宮城前、日比谷公園、川崎大師、深川不動なども賑わっている。その中で興味を引いたのが、宮中へ参内する皇族や大臣らの文武官を見物するための行列ができていることである。まるで大名や旗本たちが登城する江戸時代の情景、「東都歳事記の元旦」の絵と重なって見える。
 初日の出が二年ぶりに期待されるなか、薄い雲がたなびくなか昇った。吉例の初日を迎える場所は、品川八ツ山、芝の愛宕山、芝浦海岸、州崎、麹町の山王台、湯島天神、九段などが挙げられ、これは江戸時代と変わらない。この年の恵方は、羽田穴守・川崎大師などで、例年にまさる人出があった。市内では麹町方面より芝の愛宕さん・虎ノ門金比羅さま、京橋方面よりは築地の波除稲荷、日本橋以北神田方面よりは水天宮・深川八幡。特に深川は初不動にあたり格別の景気を見せた。境内から界隈にわたって繭玉屋などの露店が隙間なく軒を連ね、参詣人が未明から大勢押しかけて賑わった。
 藪入り。半年に一度、大ぴらにお金を持ってゆっくりと遊べる日とあって、お女中さんはお芝居に、大憎小僧さんは達は九段の相撲場へと流れ込んだもよう。九段は、焼けた国技館と違って二階三階がないので、小僧さんの中には一等席に陣取って得意気に収まっているものもある。三等席の後ろから眺めると張り幕の下から小さな足や大きな足がコンがらがって、それがまた藪入り気分を漂わせている。
 また、九段で相撲があっても浅草はかき入れ時の大繁盛、雷門口も田原町口も大混雑である。取締令の影響で少し参っていた活動写真も、電気館をはじめ富士館・キネマ倶楽部など多く、乙種興行の札を掲げて各館とも満艦飾に飾りたて、大憎・小僧・女中さんたちを吸い寄せていた。もっとも、公園境内のテント張りの露店飲食店は思ったほどの入りがなく、赤毛布に腰掛ける客もない寂れ方。ただ汁粉屋はかなり賑わっていた。これは、小僧さんたちの食べ物が贅沢になってきたこと、また衛生思想が進んだためだろう。また、時代後れの大道蓄音機から出ている管を耳にあてて聞いている光景は何とも浅草らしい。小僧さんらは花屋敷や映画を見物して、あちこち浮かれ歩き、中にはバーから真っ赤な顔をして出てくる不埒なものもある。景気の良い女中さんの中に、高嶋田などを艶艶しく結い上げ、花簪だの櫛だの買っている人もあった。
 藪入りは人通りが多く、18名の交通取り締まり巡査が出て、午後からはさらに1名増員し交通整理をする。銘酒店は取締公布当時の848戸2156名が、現在ではわずかに269戸407名に減じている。それでも店は、正月を当て込んでいるから、20名の臨時取締巡査に警戒させ、学生や小僧の踏み込む客があればこれを説諭している。映画館には昼夜4人の巡査を出した。近頃は藪入り連中も利口になって向こう見ずの遊びをするものが少なくなったとある。なお、下屋万年町の特別小学校(働きながら学ぶ)では、奉公している卒業生の藪入り慰問を催したようだ。
・二月「きのう日曜の梅日和 各所の賑い」二十五日付讀賣
 三日は節分会。浅草観音では十俵もの豆をまいて好景気。亀戸天神では赤鬼青鬼の問答で大いに笑わせた。豊川稲荷では河合武雄や釈迦ヶ獄、常ノ花の年男が人気を呼び、各地とも大いに賑わった。四日の初午、羽田穴守稲荷は早朝から参詣者がことに多く、境内では曽我の家の奉納芝居、里神楽などが演じられ、沿道の飲食店は大層な繁盛。その他、赤坂豊川・王子・笠守・鉄砲州などの各稲荷も参詣者が引きも切らず賑わいを極めた。
 十一日、「憲法発布三十年祝賀会」が上野精養軒で催された。会費50銭、参会随意というのに三木武吉ら約千人が集まる。終了後、二重橋に向かおうとしたが中止させられ、群集と警官隊とが衝突し重軽傷者十数名、17名が検束された。
 二十四日、梅の見頃には1週間も間があるものの、日曜の梅日和とあって各所が賑わった。大森・蒲田への電車は満員。向島百花園には浅草公園から足を延ばした連中が大勢訪れ、土産の梅干しが売り切れるほどの大繁盛であった。また上野公園は、動物園の呼び物であったライオンが死んだにもかかわらず、正午までに4千人が入園する有様。市民は、まさに行楽の春のまっただ中にいた。
・三月「浅草公園役者の鼻息 愈猛烈な争奪戦の事」四日付讀賣
 それまで長らく“まま子扱い”されてきたオペラダンスという演し物が日本館で大当たりをとり、学生たちが大勢公園に足を向けるようになった。前年の景気が良かった事もあって、浅草公園の劇場はどこも満員という状況。大劇場も二つ三つできたが、それでもまだ急にふくれ上がった観客を収容しきれない。そうした結果、浅草の興行界にかつてないいざこざが現出した。それは、芸術座を再び脱走した武田正憲一派の旗揚げにはじまり、本郷座による井上一派の引きぬきなど、激しい俳優争奪戦の様相となった。例えば、原信子の給料は月三千円という破格の待遇となり、“新劇万歳”となった。劇場が増えるたびに、芸役者はあちこちから引っ張られ、中にはとんでもない役者が千二千円という給料を踏んだ食ったという話もある。まあしかし、新劇俳優の争奪戦によって、それまで貧乏にあえいでいた新劇俳優たちもようやく人間らしい生活ができるようになったと喜んでいた。
 また、「新舊劇壇ホクホク」との記事(四月二十三日付讀賣)がある。米の値段を皮切りに諸物価が沸騰したため、生活が苦しくなったというのが大方の民衆の声。にもかかわらず、演劇・寄席・音楽会の類はこれと反して、どこもここも大入り満員であった。まだ、景気が良かった前年の秋、浅草の活動写真に5円札で払う職人がいるといって驚いたという話もあったが、景気が悪くなってもその傾向は止まらない。初春興行はむろんどこも盛況、三月あたりから客足が落ちるかと思われたが、ふたを開ければこれも満員。吾妻座や明治座ではあまりの混雑で二階席から人の落ちるという事故まで起きてしまった。
 また、一時下火になっていた新劇も芽を吹き返した。坪内逍遙の「ハムレット」が成功を修め、イプセンものも成功、さらに「ロメオとジュリエット」を企画、新作物舶来物の上演が次々に計画されている。この年は、演劇界が最も繁栄した年であろう。劇場入場人員も大正年間で最も多い653万人。興行一日平均が1032人、これは大正・昭和時代を通じても最高である。23ヶ所の劇場が6335日興行(一劇場は年間275日興行)した。そうすると年間一劇場あたりの平均入場数は、28万4千人となる。これだけ入ると経営効率は良く、収入もかなりの額になったと推測され、劇場経営者だけでなく俳優たちも潤ったことがわかる。なかでも浅草公園の吾妻座は、年間364日興行とほぼ年中無休、一日当たり2476人、年間90万人の入場者数となっている。ちなみに同座三月の演し物は、小山内薫作・喜劇「金儲の器械」、徳富蘆花作・悲劇「不如帰」などである。
 彼岸明けの日曜日は、格好の行楽日和で市内電車各線は朝からいずれも満員の札を揚げ、公園や盛り場は大変の人出だった。特に上野の電気博覧会は、ことのほか人が集まった。また上野では、太平洋画会・諸展覧会や博物館、動物園などが相変わらずの人気であった。浅草もかなりの人出で、映画館や各座劇場へなだれ込む人の群れで付近の飲食店なども賑わった。市民は郊外にも出かけて、松田(観梅)や江ノ島・鎌倉まで遠出した人も多かった。
・四月「飛鳥山は恐ろしい人気・・・まるで変装博覧会」八日付讀賣
 新聞は恒例のサクラ便り、七日の飛鳥山はまだ五六分の開花、春雨が降りだすという天気でも花見に押し寄せる人あまた。花見酒に酔って、変装してしまえば治外法権の世界、高歌乱舞にケンカ、まるで変装博覧会のようであったと。翌日は、朝の内は晴天で絶好の花見日和であったが午後に入り花曇り、サクラもちょうど見頃で、上野はその年一番の騒がしさであった。なかでも、博物館の前では、ある会社がきれいに着飾った雛妓に縄跳びをさせていて、その周辺は子犬も通れないほどの混雑だったという。
 また、十四日の飛鳥山は、春雨続きのためサクラは色あせたが、思い思いの仮装を凝らした男女が電車を下りた時から、酔ったような様相で次から次へと山に流れて行った。山はそれまでの花見客による狼藉で戦場跡のような無残な光景を残しているが、その上でまた箍を外した花宴が開かれた。荒川の花見は次の日曜。小台の渡しでは船頭が向こう(東側)に渡ろうとする人々を「押すな」と制止、土手には大勢の人々。千鳥足の大名、雲助、按摩、狐の嫁入りの輿をコンチキチと担いで行ききする仮装のグループなど多種多様だった。
 「活動も値上 浅草の興行主連の申合」(二十二日付讀賣)と、映画料金の値上げをしたらしい。その前に浅草公園内の劇場や映画館は、盛況で定員以上に客を入れているため、所轄の象潟署が取締を強化した。定員を守り収入額を維持するには、今まで10銭であった観覧料を15銭に、7銭を10銭に値上げすることを興行主らが申合を行ったと。東京の演劇と映画は、正月以降どこも近来にない入りで、四月も「金色夜叉」を上映しているオペラ館は、満員御礼の広告が続いている状態。五月もなお「続金色夜叉」(長田幹彦作)が「又々満員御礼」の広告を出している。六月に入ると特別写真「父の涙」がすこぶる好評だった。値上げといえば、芸者の玉代も五月から値上げ。
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大正七年(1918年)前期のレジャー関連事象 
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1月2読 泰平の群れ 深川不動賑わう 郊外は穴守
  6読 初水天宮、夜の明けぬ内から人絶えず開門と同時に幾万人
  6読 キネマ「マチステの義勇兵」大好評
  6読 初卯、繭玉屋50軒、柳島など混雑
  7読 出初式、梯子40台に池の周囲に人垣    
  15永 荷風、市中両国辺を散歩す
  16読 藪入り、小僧さんたちも景気が良い
  21読 九段の大相撲、千秋楽は客止めの盛況
  21読 富士館「日本一雲月」満員御礼        
  23読 遊楽館の三大写真「名古屋山三」他連日満員
  30読 九段招魂社、太刀山引退相撲3日間満員
2月4読 浅草観音では十俵の豆を撒く、各所賑わう
  5読 初午、恵方の穴守をはじめ各稲荷、参詣者引きも切らず
  8永 荷風、午後歌舞伎座に立ち寄る
  12読 探梅回遊ホーカーデー往復50銭
  12読 憲法発布三十年祝賀会、警官と衝突
  14読 富士館「乗合馬車」大入り続く
  20読 オペラ館「毒煙全編」他好評
  20読 吾妻座、中村福圓七役好評湧くが如し
  20読 遊楽館、松之助の「通力太郎」他盛況
  21読 梅日和、各所の賑わい
  24森 鴎外、杏奴・類と上野に往き伊豆栄で昼食
3月3読 府庁の野菜市、炭五千俵が一時間で売切れ
  4読 有楽座「十郎」満員御礼
  11読 陸軍記念日、九段の賑わい         
  12朝 歌舞伎座「不如帰」連日満員
  14読 オペラ館「二人娘」大好評日延べ
  20読 上野で電気博覧会開催            
  25読 彼岸明けの春の行楽、各公園・盛り場大変な人出、電気博に人気
  31森 鴎外、子供達を率い小石川植物園に往く                         4月4朝 銀座・上野・浅草の人出、花屋敷が一番人気
  8読 春雨の花見、飛鳥山はまるで変装博覧会
  13朝 飛鳥山人出8万人、学生連中の花見風俗悪し 

  15朝 新富座の喜劇楽天会一座、満員御礼
  20森 鴎外、妻・子供達と電気博覧会に往く
  20永 荷風采女町三笑亭で小さん等を聴く
  15読 雨上がりの日曜、花見客ドッと押し寄せる  
  21読 オペラ館「金色夜叉」連日連夜満員の大景気
  22朝 荒川の賑わい、土手一杯に続く人
  28読 靖国神社の春季大祭
  28森 鴎外、子供達を率い小石川植物園に往く