戦前世相の解説2

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)272
戦前世相の解説2

 第三段階は、軍需産業の発展が軌道に乗った十年頃から十五年まで軍需産業は、まるで十二年の中国との全面戦争を予定していたような勢いで発達した。国内の景気は、軍事予算の増大とインフレで金回りがよくなったと見えて、東京市民は遊びに夢中。あたかも軍需インフレに酔うかのように、市内から不景気の様相が消えていった。
 戦争がその後十年、昭和二十年まで続くとは想定していなかっただろう。と言うより、十年先どころか三年先すら予測できなかったと言いたい。国政、国を担う人であれば当然のことで、たとえ予測通りにならなかったら、すぐ是正しなければならない。中国での戦争は、当初「事変」と称していた。それが泥沼の戦いになり、負けはしないが先行きの見えない状況が続いた。その間、政府・軍は局部の勝利を国民に誇示し、あたかも完全な勝利は目の前という情報を発信し続けた。
 戦いは、どのような経緯で進め、どのような形で収束させるかいう展望を示さなかった。と言うより、展望を持っていなかったのではなかろうか。詳細な作戦を示せというのではなく、国民に理解できるようなプログラムがなかった。先ず、敵の状態を把握できていなかったこと、敵国の国力、民衆の力などを日本の国民に正確に伝えず、「敵は悪」と言うようなプロパガンダで誤魔化していた。そして、中国や朝鮮、さらにはアメリカを侮るように仕向けた。

                             

 また十年頃から、軍需景気で市民がレジャーに熱中することを見据えていたかのように、警視庁は花見の大騒ぎにブレーキをかけはじめた。さらに、支那事変以降は、戦時下という理由でレジャーの自粛が叫ばれた。が、これはむしろ逆効果の様相。まだこの頃は、市民が自由に遊ぶことのできる余地が残っており、川開きやお会式に最高の人出。映画・演劇、相撲・野球などすべてが前年を上回る勢いで観客数を増加させた。
 そして、昭和十五年には、劇場・映画館の早朝興行が廃止された。他にも六大学野球は試合数の削減、ダンスホールの閉鎖など、国民精神総動員運動などによりレジャーの自粛が進むなか、紀元二千六百年奉祝の行事だけは逆に、盛大に催された。この頃の市民の行動を見ると、その先さらに遊べなくなることを肌で感じたのか、食いだめならぬ遊びだめをしているかのように見える。市民の間で遊ぼうという気運が続くのは、十七年頃まで。
  戦争に勝っているうちは遊べても、負け出したら遊べなくなる。それは分かりきった話、だから、いっそ遊べるうちに遊んでおこうと思ったとしても不思議ではない。また、苦しい生活を忘れる、戦争の重圧をたとえ一時でも避けるためにも遊びが必要だったのだろう。市民は、軍部推薦の武装大競争などより享楽的な娯楽である、映画や演劇を貪るように楽しんだ。芸能よりもさらに享楽的なカフェーも、十七年まで増加し続けている。なお、当時のカフェー(喫茶店)というのは、女給さんがいて、お客の接待もするし、酒も置いてある洋風酒場のような趣であった。

 

 四段階は十六年頃から。太平洋戦争へ突入する頃には、華やかなイベントはなく、花見や避暑まで制限され、市民が心置きなく羽を伸ばせる機会は少なかった。街行く人の服装もモンペやゲートルなどを身につけた非常時服が多く世の中全体が暗いイメージになった。それでも、十七年までは市民のレジャー気運はまだ持続していた。
        

 それは、実際の戦況は悪化していたが、市民にはその事実は知らされず、日本は勝ち続けていると信じていたからである。しかし、十八年に入ると、市民の耐久生活は限界に達し、レジャーどころではなくなった。映画や演劇の観客数が減少しはじめ、上野動物園ですら入園者数の減少しはじめた。
 さらに十九年には、その日の生活どころか、空襲で生きるか死ぬかという事態に陥った。政府は、相変わらずレジャーの自粛を訴えていたが、市民自体は窮乏生活に疲れ果て、遊びどころではなく、戦意すら低下していた。それでも、日々の生活を少しでも楽しく過ごそうとする気持ちは消えなかった。ラジオから流れる娯楽番組や映画・演劇などに生活の潤いを求め、数少ないレジャーで心の空白を埋めようとした。また、食料にしても、空腹感を紛らわせるには、配給よりも依存する闇や買い出しの方がはるかに役立つような状況であった。
 二十年になると、東京は空襲で焼け野が原。本土決戦での勝利を信じた市民は、一体どのくらいいたのであろうか。政府は、意気消沈した市民に戦意を向上させようと試みた。が、それは、叱咤激励ではなく、娯楽の自粛解除であった。その頃の市民は、すでに一歩先んじて、焼け残った映画館に長蛇の列をなし、祭りを催し、安堵感に浸っていた。
 さらに、古川ロッパが五月に記しているように、映画・演劇などの開放は、「此の前も、乳の見えるような衣裳を着ていたが、今日は背中まる出し、露出狂なのか。それで若い客はワーワー喜ぶ」とうような、かつては見られなかった情景を出現させていた。娯楽には気ままな自由がある。最悪な状況にあっても希望をもたらし、生きる力を生み出す助けとなってくれることを証明しているようだ。
 敗戦間際、娯楽が、市民の心を支える大きな力になっていたことは間違いない。二十年八月十五日以降、東京で最も先に復興に向かったのは、闇市(買い出し)とレジャーである。

戦前世相の解説1

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)271
戦前世相の解説1
 終戦までの昭和初期については、数多くの本が出されている。その多くは、当時の国際関係からはじまり、政治体制、軍内部の抗争、事変の発端から戦争の経緯などが書かれている。国が激動した様子は詳しく書かれているが、国民の心情についていたかはあまり触れていない。あるのは困窮生活の実情でくらいで、「苦しく大変であった」という健気な庶民の訴えである。
 と言うより、昭和初期の歴史は、国家、国という視点から書かれ、国民、それも大衆からの視点は無視されていると言っても良いだろう。国民の大多数を占める大衆は、確かに過酷な生活を強いられた。が、戦時中でも楽しいことや面白いこと、生き甲斐がまったくなかったはずはない。東京は東京の、大阪は大阪の、地方によって様々な生活があった。しかし、記録として残される重要な歴史には、その日一日を楽しく過ごした大衆の営みなど無用なようである。
 かなり昔ではあるが息子の歴史の教科書を見たときも、奈良時代の庶民は貧しく、苦しい生活をしていたと書かれていた。しかし、当時の人々も、ただ苦しいだけの毎日ではなかったはずだ。また、自分たちのことを、わずか一言で語ってほしくはないだろう。歴史とは、往々にして大多数を占める大衆を軽視する傾向がある。
 常識的に考えれば、「民」あっての「国」であり、「国」あっての「民」ではないだろう。ところが、「国」が「民」を無視することがあるから問題が起きる。たとえば、「国を愛する」という文言についても言えそうだ。「国を愛する」ことは、国民として当然のことであると思える。が、残念ながら国を愛しても、民を愛することに結びつかないことがあるからだ。
 国を愛するという前に、国民を愛することが前提としてなければならないだろう。しかし、国民を愛することが抜け、国を愛することだけが一人歩きをする危うさがある。それは、まさに昭和初期、軍部や政府が国のためを考えて進めた施策である。指示した人たちは、国を愛し、国のためを思って行ったかもしれない。が、戦局が悪化してくると、「一億玉砕」を国民に押しつけた。国を守るためには、民はすべてを犠牲にしろと。事実、沖縄では、犠牲者は軍人より島民の方が多かった。
 昭和初期は、まさに国家を最重要視する時代であった。民は、国に奉仕するもので、レジャーを楽しむなどもっての外と規制した。そして、政府・軍部は、大衆レジャーをどこまで制限できるかを追求しているようであった。現代でも、レジャーを厳しく制限している国は、レジャーに伴って流入する自由な情報を制限するためである。
 レジャーを制限する理由は、国民、大衆の低俗化や怠惰防止などを掲げている。一見、制限を正当化しており、国民にあたかも善政のごとく信じさせているようだ。しかし、レジャーの可否について、それを判断するのは誰であろうか、政府や軍部の一部で決めるべきではないと思う。確かに、レジャーには行き過ぎた流行や浪費などはあるものの、いずれ収束するものである。
 それでも制限するのは、レジャーが巻き起こす大衆の勢いをコントロールできないことに起因している。大衆の勢いは、レジャー以外にも波及することを政府・軍部が恐れているのである。花見の茶番を始めとする、政府批判の芽になるものを事前に摘むため、レジャーは戦争の妨げとなる可能性が少しでもあれば取り締まられたのである。
 ここで総括するのは、レジャーが昭和初期の大衆社会でどのように展開していたか、大衆レジャーを通して庶民の生活での重要性を確認するためである。大衆は、昭和初期という特異な時代の中でも、思い思いのレジャーを楽しんでいた。どのくらいの人々がどのように楽しんでいたか、できるだけ正確に後世に伝えたい。レジャーとはいえど、数量的に把握すれば、そこには一定の規則性や法則性を見いだすことがきでる。戦争に翻弄されたもの、時代を超えて共通するもの、レジャーならではのものを、大衆の社会行動として示したい。

・世相の変化と大衆レジャー
 昭和初頭から敗戦までの、たかだか二十年にも満たない間に大衆レジャーは激変した。ふつう、変化といえば、進歩したとか、世の中が豊かになったとか、良いほうに変わったと考えがちであるが、この間の変化は、どう見ても衰退としかいえない。特に東京では、最も大衆レジャーらしい花見や花火、海水浴までなくなってしまった。
 レジャーが激変したのは、社会が大きく変わったからである。そこで、五年くらいのスパンで、社会の推移とそれに伴うレジャーの変化について見てみよう。
 最初の期間は、昭和五年(1930)の「帝都復興祭」くらいまで。その頃までのレジャーには、まだ自由で闊達な大正時代の名残が漂っていた。東京は、昭和に入っても、関東大震災からの復興に追われていた。とはいえ市内は、不景気ながら帝都復興事業が着々と進められ、地下鉄の開通など発展への新たな動きもあった。したがって、帝都復興というスローガンのもとに、市民は日々の生活に追われながらも将来への希望を抱くことができた。

 次の段階は、昭和十年頃まで。1929年(昭和四)にニューヨーク株式市場の大暴落にはじまった世界恐慌が起き、東京にも不況の波が押し寄せてきた。労働争議の激化、失業者の増大など、市民生活にも不況の影響が出てきた。昭和六年(1931)には「救済法」が成立し、老人や子供などの貧困者の救済をはじめたが焼け石に水。市民の所得は、賃金指数が示すように、実質は二割近く減少。デフレによる収入減は、低所得者ほど激しかった。  

 六年の満州事変勃発で、市民は戦況の行方に一喜一憂するようになる。七年には、東京市は周辺町村を合併し、人口497万人の世界第二位の大都市となった。新聞には、満州国承認や中国での戦勝など晴れ晴れしい記事が多くなる一方、大島三原山での女子学生自殺をはじめ自殺記事も目立つ。こうした記事を見ると、家族を背負った働き盛りの人もいるが、若い人も多い。当時の自殺の原因は、経済的な困窮だけではなく、思想弾圧や社会の急変など社会的な重圧による、精神的な破綻が引き金になっているようだ。

 八年頃から「東京音頭」流行、競馬や拳闘観戦などに熱狂する市民が増えている。また、正月、花見、海水浴、秋の行楽など季節ごとにドッと人が出かける傾向も強くなった。日々の重圧から逃れようと、ストレスを解消するためのレジャーが顕著になった。つまり、現実の苦しさにどのように対処するかという時に、耐えきれなくなって死を選ぶか、あるいは上手に忘れたり、気をまぎらわすために娯楽に走るかという違いであろう。

注) グラフに十五年までしか無いのは、データが無いためである。  

昭和二十年八月終戦を迎え、空白の市民

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)270
昭和二十年八月終戦を迎え、空白の市民
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昭和二十年(1945年)・八月、広島に原子爆弾投下⑥、ソ連対日宣戦布告⑧、ポツダム宣言受諾⑭、戦争終結
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 八月に入り、八月一日付朝日新聞の一面見出しは、「敵空母十数隻 丗日の来襲二千機」「敵艦三膄撃沈破」「地雷で吹飛ぶ敵兵」など、まだ戦果を記し戦争の継続を促している。それに対し、毎日新聞には、「焦土に爆笑続く」日比谷公園で野外劇、吉右衛門真実の一幕と、街中のことを記している。
 朝日新聞は、二日付一面の見出し、「制空部隊、潜艦協力 来襲の敵を痛撃す」「わが陸海の戦備着々強化」「撃墜破千二十機 七月中の来襲敵機二万」。三日付一面見出しは「見えぬ縦深陣地で 敵接岸に手具脛」。四日付でも、「大鳥島を艦砲射撃 敵戦艦に直撃弾 わが陸上部隊猛然反撃」と、戦争続行を記している。そして、二面には「最後の連絡果して 局舎と運命共に 死してなほ手にバケツ」と、国民に戦意の持続を訴えている。
 それが、五日付朝日新聞の一面見出しは、「牛島中将・大将に」「沖縄血戦に善謀・・・」と讃えている。前日二面のような末端の人であるならば、その行動を讃えざるを得ないが、最高位の指揮官が多数の兵士や住民を死傷に追いやったのに「善謀」と評価している。
 これまでの強気の見出しは、六日付になると「敵、太平洋の作戦区域変更 米、本土戦に専念 南方受持つ老猵な英豪」と、敵の脅威を示している。そして翌日七日には、「沖縄周辺の敵艦隊に 壮烈なる突入作戦 伊藤大将以下大義に殉ず」と、言葉は壮絶でも、戦果は明らかに敗北である。
 七日付二面には、「敵中小都市爆撃の実相 "嗜虐"の本性発揮 殺傷の八割は婦人、幼少者」とある。泣き言のような見出し、これで国民の戦意を挙げようとしているのであろうか。さらに、「旅行者外食券 徹底せぬのか少ない利用者」と、戦いとは直接無関係な事柄に触れ始めた。
 八日付一面、「広島へ敵新型爆弾 B29小数機で来襲攻撃 相当の被害、詳細は目下調査中」。九日付一面、「敵の非人道、断乎報復」とある。この時点で、第三者が判断するのであればわかるが、特攻隊で戦闘を持続している日本軍は、「非人道」ではないのか。
 六日、情報局へ行った高見順は、乗った「車の破損のひどさ、車内の乗客の、半分はまるで乞食のような風態のひどさ」、「これらのひどさは、もっと増すであろう」と感じた。八日、新橋から田村町辺の様子を「人の様子はいつもと少しも変わっていない。恐ろしい原子爆弾が東京の私たちの頭上にもいつ炸裂するかわからないというのに・・・人々は、のんびりした、ぼんやりした顔をしている。これはどういうことか」と書いている。
 確かに、読売新聞には九日付に、銀座松竹・帝都座等「北の三人」封切りの公告。十日付にも、大勝館「夏風、伊太郎頑張る」上映の公告。明日にも原子爆弾が投下されるような雰囲気は無い。日本軍の威勢のよい戦勝記事は影をひそめ、原子爆弾ソ連対日宣戦布告、ポツダム宣言についても一部ではあるが触れるようになった。
 朝日新聞は、十日付朝刊に「ソ連 対日宣戦を布告」。十一日付朝刊に「一億、困苦を克服 国体を護持せん」。十二日付朝刊に「大御心奉載(旧字)し 赤子の本分達成 最悪の事態に一億団結」。十三日付朝刊に「ソ連軍を邀へ激戦」と続くが、戦果は書かれていない。
 高見順は十一日、「廃墟のなかの停留所に立った。焼跡はまた格別の暑さだ。大門の辺に電車が見える。とまったまま動かない。停電だ・・・日中の街の真中だというのに、気がつくと恐ろしいような静けさだ・・・トラックの疾駆が腹立たしかった・・・人の往来がないので、いくらでも疾駆できる。木の枝の偽装を施しているトラックもあった」。
 そして十四日、銀座のエビスビアホールで、「久しぶりのビール・・・一杯飲むと・・・また新来の客のような顔をして・・・三杯飲んだ。酩酊したのもいる。声高にみな喋っている。けれど、日本の運命について語っているものはない。・・・そういう言葉を慎んでいる」。「四国共同宣言の承諾の発表! 戦争終結の発表!」が翌日あることを知っても、「みな、ふーんというだけであった。溜息をつくだけであった」と。そして、「銀座は真暗だった。廃墟だった。汁粉など食わせるところは、どこもない」で、高見順の日記は結ばれている。
 十五日付朝日新聞の一面見出しは、「戦争終結の大詔渙発さる」「新爆弾の惨害に大御心」。敗戦という言葉はないものの、「国土の焦土化忍びず」とある。そして、「再生の道は苛烈」などの見出しもある中で、社説は「一億相哭(みんなで泣く)の秋」とある。毎日新聞の社説は「過去を肝に銘し前途を見よ」とあり、「一億総懺悔」に触れている。

 

敗戦も視野に入る昭和二十年七月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)269
敗戦も視野に入る昭和二十年七月
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昭和二十年(1945年)・七月、食料配給基準量一割削減⑪、対日ポツダム宣言発表(26)、空襲で投下された銅屑集めて国民酒場で酒を飲む
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 地方都市への空襲が本格化している中、古川ロッパの慰問公演は続いている。戦況の劣勢は肌身で感じているのだろう。さらに、戦後の話も出始めている。古川ロッパの四日の日記には「・・・鈴木氏の話では、東京の復興--家を建てるのは、早くてかかるだろう、震災時と違って資材が来ないから--といふことだ。僕は又、楽天主義なのだな、なアに、二三年で建つといふ気がする。さんざ、此のオプティミズムでは、馬鹿を見てゐるくせに、まだまだ此の根性は抜けない。鈴木氏、ドイツの負けてからの惨澹たる生活を話して呉れた。ベルリンの女は六割、ソ聯の兵隊に凌辱された。・・・」と、ロッパは暗に敗戦をも視野に入れているかもしれない。
 ロッパの日記、十日「午前五時二十分頃、ブーウ。敵小型艦載機は--といってる。大分数が多いらしい。母上と並んで寝たまゝきいてゐると、百五十機とか。六時頃起きる。空襲警報となり、遠く高射砲ひヾく。小型だから反って始末が悪く、ビクビク。飛行場狙ひらしく、茨城・千葉その他に大分入ったらしい。七時すぎ、空襲解除。七時半頃、警戒警報も解除。・・・又、ブザー。そのうち空Kとなり、又高射砲バンバン。八時すぎである。新聞読む。『毎日』徳富蘇峰が『国民に真実を報せよ』と、中々いゝ説を吐いてゐる。八時四十分頃関東各区に分散、各数十機宛で行動してゐる。後続編隊もまだあるらしい。『読売報知』の、ドイツから、敗けた後に帰った報道員の談あり、それを読むと心寒し。これが又間もなく解除となった。・・・十時頃に、又ブーブー、今度は、いきなり空Kである。これで三回目。やり切れたもんぢゃない。・・・一時半頃、・・・二時近くに、空K解除され、警戒も解けた。・・・二時十五分頃か、又ブーウ。今日四回目の警報。土浦・水戸・銚子と、今度も専ら飛行場を狙ってゐるらしい。・・・此の調子ぢやあ、今日は一日空襲かな。・・・敵小型機ますます大挙来襲、今回のだけでも三時五十分頃迄に二百八十機と言ってゐる。その主力は飛行場狙ひで、各地区に拡がってゐる様子。かう毎日プープーつづきでは、もはや芝居は勿論、ラヂオさへも出来なくなってしまふではないか。・・・敵は、後から後から入り、大分近くで、ドンドンやってゐたが、こっちには来なかった。五時、まだ新なる敵、何十機と言ってゐる。呆れた、全く。・・・」
 十六日付朝日新聞、「予約の前景気も上々 勝札いよいよきょうから発売」、富籤が発売されている。
 十六日月曜、ロッパは市電で渋谷へ、駅前の空き地で街頭慰問。“戦力増強隊芸能隊”の旗が掲げられ、土を盛った舞台の前には何千人もの人々が集まっていた。二十日も新橋駅前で街頭演奏、「今にも降り出しそうな空の下、約一万人位╶─╴ぢゃなかろうか、人の海」。盛況であったのだろう、ロッパは「歌ってゝも気持よく、何だか馬鹿に愉快だった」と。二十三日、ロッパは、邦楽座の『姿三四郎』を覗き、「舞台も飾り、衣装も先づ昔のまゝやっている、不思議な感じ」と日記に書いている。
 ロッパの日記、十八日「夜半、夢うつゝで、ラヂオきいてたら、水戸が今、艦砲射撃を受けてゐると、言ってゐた。水戸と言へば、すぐ近くではないか、冗談ぢやない・・・十二時七分前、ブーウー。『敵は伊豆北部より小田原へ』、B29一機B24一機の由。・・・今度は鹿島灘方面から小型艦載機編隊が、又続々と入って来る。やがて空K出づ。ドヾーンドヾーン高射砲の音、『既に百八十機』尚続々と後続目標があると言ってゐる。然し、近隣何の騒ぎもなし。子供の嬉々として戯れる声がするし、家の中も、平常通りである。東京都民は落着いたもんだな、一寸考へると呆れることである。一時十五分、まだ後続編隊云々とやっている。・・・」
 ロッパの日記、十九日「すべてが狂ってしまった。お盆も藪入りもなく、その代り金もちっとも要らず。水戸の艦砲射撃は、やっぱり夢ではなく、新聞を見ると、『日立・水戸方面に艦砲射撃』と出てゐる。もはや、敵の上陸も近いといふ気がする。何たる日本。・・・ラヂオ、ブザー鳴り、敵機京浜に近しと言ふ。十一時半、広場の仮設舞台、野天である。工員数百。しまひの『強く明るく』にかゝると、大空に爆音、工員たちも空を見上げる、B29が頭上通過、高射砲ドヾンドヾンと撃ち出す。それでも歌ふ、面白いって気がしてた。『あせらずに元気でいつも明るく強く進まう! 」と歌ひ乍ら、僕も空を見る。工員たち、空を半分、こっちを半分、拍手する。終って、事務所へ歩く時、空からヒラヒラ、謀略ビラが落ちて来る。拾って貰ふと、『マリアナ時報』。事務所の人たち、『いやア実に印象的で反ってよかった』と言ってる。・・・」
 ロッパの日記、二十日「・・・北海道は中止のこと、むろん満州行も止めにして、在京のことゝ定める。・・・」と、記している。戦況の悪化を鑑みてのことであろう、開き直った心境を示すものでもあろう。
 二十二日付、「焦土を潤す文化の涼風 麹町に壕舎の本屋さん店開き」とある。
 二十二日付Aの記事で「怖しい悪性インフレ」と、闇市場では急激なインフレが進んでいる。「“お金が紙屑”では敗戦」と闇の自粛を訴えているが、逆効果にならないか。二十五日には、「特攻機へ、ヨイコが懸命」と、針葉油の増産に子供たちが奮闘している写真。子供の懸命な態度が感じられるだけに、何とも言いようのない先の暗さを示している。
 それに対し、銅屑集めの話には笑うに笑えないものがある。国民酒場は一本のビールを飲むために二時間以上も行列する。その無駄な労力を解消するため、銅屑一貫目を持参すれば「特飲予約券」がもらえることになった。「銅屑集めに国民酒場『特飲予約券』活用」Y(25)。当初一日二千貫程度集まればと踏んでいたところ、三日目には二万貫も集まり、さらに五日目には不渡りの特約券を六万枚も出すことになった。やむなく、不足分に対しては「葡萄酒を取り寄せて解決するからといっているから先ず安心と見て差支えあるまい」とある。銅屑は交換を打ち切っても運び込まれ続けた。なお、その銅屑は、敵の空襲で投下されたもので、市民の犠牲の代償とも言えるものであった。
 市民の不安は、ロッパの日記、二十二日「・・・プ-。又すぐ解除。と又プ ー。今度 は、中々解除されず、・・・ドドーンと遠くで地響きのやうな音がする。さては、艦砲射撃が始まったか。ラヂオは、それ迄、B29一機のことばかり言ってゐたが、急に『房総南端及相模湾に砲声あるも、陸岸には特異なる事象を認めず』と言った。又続いて『房総南端及相模湾の砲声は、我軍の敵艦船に対する彼我の砲声にして陸岸には依然特異なる事象を認めず』と来た。・・・」と、この記述は敵の上陸を意識してのことであろう。
 ロッパの日記、二十二日「・・・一寝入りした頃、ブーウと鳴ってゐる、なあに又大したことではあるまいと思ってると、空襲警報。ラヂオは、B29の数目標と言ってゐる、起きる気にならず、床の中にゐると、ズシーン!ドドーン、爆弾の音だ。ビリビリッと硝子にひヾける。しようがない、起きる。・・・僕も庭へ。月明、今宵満月か、昼をあざむく明るさ。月の下を、B29幾つも飛ぶ、川崎方面!とラヂオ言ふ。その辺りに、爆弾の音、盛。アッ、火の玉だ。B29一機、火を吹いて落ちる。思はず、ワーツと叫ぶ。・・・一しきり、川崎辺がうるさかったが、友軍機、頻りに飛び出し、静かになる。・・・解除は、一時近くでもあったらうか。再び床に就く。いやもう大変な東京なるかな。・・・」と、先行きが分からないまま、慣れだけが定着している。
 永井荷風は、二十六日の日記に「銀座へ出た。六時ちょっとすぎ。人通りはもうほとんどない」とある。

 三十日付読売新聞、「浅草六区は健在」とある。三十日付朝日新聞にも、市内の劇場や映画館等の興行状況が紹介されている。浅草は、六月に高見順の示した劇場や映画館に加えて、富士館・松竹劇場・電気館・千代田館・大勝館・松竹新劇場がある。新宿は、第一劇場・武蔵野館。新宿松竹館がベンチ掛けの演芸館として復旧中とのこと。渋谷や銀座なども復活したり、復旧中のところが増えている。なお、情報局は「演劇も音楽も映画もすべて移動公演へ組織的に」と、いまだに考えている。しかし、「映画を川崎の工場でやっても見ようともしないでわざわざ公休日を待って新宿や浅草へと見に往く工員が多い」ように、市民の要望とは大きな隔たりがあった。  

娯楽再建も始まる昭和二十年六月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)268
娯楽再建も始まる昭和二十年六月
 六月は、沖縄が日本軍10万人、一般人15万人もの犠牲を出し占領された。それでも戦争を続けようとしたのは、地方都市が残っていたからではなかろうか。東京は壊滅的な状況であったが、古川ロッパが六月に慰問で訪れた青森(一日)、弘前(三日)、秋田(四日)、鶴岡(五日)、新潟(八日)、加茂(十日)、松本(十一日)、富山松本(十四日)、高岡(十六日)、金沢(十七日)、福井(十九日)、敦賀(二十一日)、小松(二十二日)、大野(二十三日)、片山津温泉(二十四日)など、まだ空襲の大きな被害はない。戦時中であるため、物資不足はあるものの、東京のような食料難ではなく、人々の生活は豊かとはいえないが平穏な生活が保たれていたようだ。
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昭和二十年(1945年)・六月、あくまで本土決戦断行を決議⑥、沖縄守備隊全滅(23)、市民に潤いをと、レジャーの制限を緩和。
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 戦局の悪化は、もう否定しがたいものであった。それなのに、不利な戦況を隠す報告は、いつまで続けるのか。六月の朝日新聞一面最初の見出し、一日付に首里 那覇近郊激戦」と勇ましいが、戦いは敗れているのに、どのようになっているかを報告が無い。二日付は、「悪天候を冒し猛攻 五十一隻を撃沈確」と、日本軍が勝っているような印象を感じさせる。
 五日付は、「沖縄戦局いまや重要段階」の見出し、勝ち目が無い、負けているとの表現が無い。二面には「明るい壕舎生活へ 総合配給を強化」と、人々への不安を払拭させようとしている。
 七日付は、「泥濘の沖縄に血闘 山野埋む敵屍累々」とある。日本軍の被害はどうなのかについては、全く触れていない。
 八日付は、「戦災吹飛ぶワッショイ」、と、品川神社荏原神社で祭が催された。十五組の神輿がでて、海に飛び込む「渡御」の儀もあり、盛大な祭になったものと思われる。また、十五日も、山王日枝神社例祭「お神輿はポンプだ 縁起をかついで戦災地をねる」A⑯と、朝から夕方まで都心部を練り廻った。これまでも地域の祭は行われていたのだろうが、この時期になって新聞が取り上げるようになった。
 八日付の読売新聞には、「延期されていた奉納相撲初日」と、ガランとした国技館で開かれる。延期されていた大相撲夏場所が七日から国技館で開かれた。相撲は当初、五月二十五日初日、明治神宮奉納ということで、無料公開という話も合った。五月十五日付の新聞Aに「毎日一万人の行列がもしP51に狙われたらどうなる」とあった。そのような検討がなされたためか、一般公開されず、ラジオ放送もなく、六月十四日千秋楽を迎えた。
 沖縄での戦いは、勝てないことがハッキリしたのであろう。それを踏まえてだろう、朝日新聞九日付は、「強力政治を急展開 本土決戦即応の諸法案」と、今後の新たな展開を図ることが示された。また、「私事旅行お断り、あすからの列車時刻改正」と、人々の活動も制限が強化されそうだ。
 十日、十一日の一面には戦果が無い。
 十二日付「我戦線を整理敢闘、敵殺傷七万二千六百 二敵艦轟沈破 振武特攻隊猛攻」。沖縄での戦果を示しているが、わが軍の被害が推測できるのは、特攻隊員の死傷ぐらい。無謀な戦いが続けられていること、なんとも言いようがない。
 十四日付沖縄県民の血闘に学べ」と、沖縄の民間人が戦ったということを初めて言及したと思われる。県民の被害などについては、全く触れていない。その悲惨な状況が、もし本土の国民に伝わっていれば、十五日付の一面に「本土決戦こそ最好の戦機」などと書くことは出来ないと思うのだが。この日も戦果は記されず。
 十六日付には、「本土決戦一億の肩に懸かる 我に大陸作戦の利」とある。軍部の指示によって書いているものであろうが、国民はまだ勝利を信じさせられているのであろう。本土決戦とは言うものの、攻める戦いと守る戦い、その違いを軍部が分からないわけはないと思うが。
 では、都民はどのように生活していたのであろう。十六日に浅草を訪れた高見順は「仲店はまだ焼跡のままだった。けれど、人は出ていた。そして露店の物売り・・・観音様は、仮普請の準備中だった。この辺一帯、焼野原のままで、人は住んではいないのに、参詣人が出て来ているのは、異様だった・・・六区へ行ったが、ここではまた大変な人出に驚かされた。浅草の魅力!」と。
 花月劇場の前には行列ができており、灰田克彦(楽団、坊屋三郎の漫謡)と伴淳三郎(『縁談十五分前』『無法松の一生』)が出演し、入場料が大人3円60銭であった。その他劇場では、大都座が小林千代子一座、常盤座が杉山昌三九、金竜劇場が木戸新太郎一座の興行。映画は、松竹館・富士館(『還って来た男』上映)、電気館・東京倶楽部(地下では「お化け大会」もやっていた)が開いていた。高見順は「どこから来るのか、人がいっぱい集っている。浅草の不思議さ!」と書いている。
 また、十七日付の読売新聞には「日比谷旧音楽堂で慰問激励演奏会、大入満員」と、東京は至って平穏である。
 地方に出ている古川ロッパは、十六日の日記に「・・・新聞を見る、もう見ない方がいゝんだが、女が手榴弾の稽古してゐる写真あり、『笑って散らん大和撫子』とある。もういかん。九時前、人力来り、駅へ着いて、ホームへ。漸く列車が入ったら、大満員、窓から出入りしてる。二等、殆んど軍人で、皆腰掛けてるのが、何だか嫌だった。立ちんぼだが、三十分間だ、何のこともなく高岡着。」とある。
 朝日新聞は、十八日付では「荒鷲、沖縄へ反復猛攻」とある。十九日付、「捨てよ都会生活の垢、集団帰農にこの覚悟」と、前日の記事と同様、今後の方針や施策について場当たり的である。                    
 二十一日付、「B29の中小都市攻撃激化」とあり、これはもう本土決戦が始まっていると考えられないのであろうか。何を以て「本土決戦」とするのか、理解に苦しむ。二面には「代替配給 お米と抱合せて 玉蜀黍や高粱も登場」と、食糧事情の悪化を示している。
 二十三日付、「帝都義勇隊に 初出動指令 必ず耕せ・一坪以上」。これが「本土決戦」にどのくらい役に立つのであろうか。
 二十六日付、「沖縄陸上の主力最終段階 廿日敵主力に対し全員最後の攻勢 殺傷八万撃沈破六百隻」との見出し。戦いの成果が示されているものの、日本軍は敗れたのではないだろうか。
 二十九日付、「航空部隊 廿七日も沖縄敵艦連襲」とあるが、戦果に触れていない。そして、三十日付、「長参謀長と共に牛島中将自刃 沖縄海辺に従容の最期」。末期的な状況をこのような見出しで表現するのに、新聞は抵抗がないのであろう。
 三十日付には、「映画や演劇どしどし再建 街や職場へうるおいの進出」とある。「生活のきびしさに堪え、戦列に踏止って明るく戦い抜くためにはすさび勝ちの心をうるおす慰安機関の再建こそ第一であると」娯楽施設の復興をはかることとなった。映画や演劇などの娯楽を再建させて、街や職場に「うるおい」を取りもどそうとの掛け声である。これまでの禁止一辺倒ではなく、臨機応変に映画や演劇を行うことができそうになった。
 

市民の動揺を抑える昭和二十年五月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)267
市民の動揺を抑える昭和二十年五月
 七日にドイツが無条件降伏。これまでレジャーを押さえ込んできた新聞が、これまでの方針を変更した報道。戦災や疎開で人々が浮足立っているため、閉鎖した大劇場で低料金の大衆興行、休止映画館の全面復活、上映時間の制限撤廃などを示す。一刻も早く市民の落着きを取りもどそうとしているようだ。
 二十五日、二十六日と渋谷や青山などの山の手が大空襲となった。以後、東京には大規模な空襲はないが、と言うより主要な市街の大半が燃やされてしまったからだろう。これまでの対米戦や大陸での戦況、世界情勢を客観的に判断すれば、もう日本軍の勝利など考えられないはずである。軍部の一部を除いて、戦争継続の意欲は絶たれたと言ってよいのであろう。
 五月は、これまでの流れが変わり始める兆しがあり、その動向を察知し方向転換に動き始めたようだ。まず必要なのは、人々の動揺を防ぐことで、その意味でも娯楽・レジャーの効果が期待される。

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昭和二十年(1945年)・五月、ドイツ無条件降伏⑦、B29約250機による大空襲(24)、市民に落着きを取り戻さすためレジャーの締めつけが緩和する。
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 五月に入ると、浅草では電気館、常盤館、千代田館、木馬演芸場など14館が開館。ロッパは二日新橋演舞場で芝居を見ている。『義経千本桜』を一等4円50銭に税9円も払い、客席に入ると雨天というのに八九分の入りであった。
 新聞は、戦果について書き立てているが、読者は軍が瀕死の状況にあるとは感じないだろう。市民生活に関する記事が皆無のような中、五日付Aの朝刊には、一般疎開は当分中止。「『味噌』『醤油』配給はどうなる」とある。人々の動揺を静めるためと推測されるが、不安が浸透しつつあることを政府も軍も認めているからであろう。
 古川ロッパの日記七日は、「・・・有楽町迄。邦楽座、四円いくら出して入ったが大満員で、監事室へ入れて貰ふ。明朗新劇座といふ、妙な寄せ集め劇団、初めて見るが、何より此処の客の、低級とも田舎者とも、何ともつかぬ空気に呆れる、・・・」
 ロッパの日記八日「・・・ブーと来る。敵はp51小型機の編隊が京浜地区へ入った、と言ふ間に、ドドーン撃ち出した。十二時すぎから、一時頃迄続き、漸く解除。然し、慣れってものは全く恐ろしい。皆、何事もなかったやう。」
 十二日付の朝日新聞A見出しに「生活に潤いと落ち着きを・・・殖える映画封切館」とある。「日毎に戦場の姿を描き出す帝都に踏み止まり断乎職場を護り抜く勤労都民の生活が、戦災や疎開がめぐつてともすれば浮足立ち、寸時も絶やされない平気補給の流れを堰止めるやうなあつてはならない、変貌する都民生活に一刻も早く落着きをとり戻して、戦争一本に徹する不退転の態勢を確立したいといふ町村警視総監の抱負を実現するため、警視庁では決戦生活の刷新をとりあげ特に帝都の食生活と慰楽について再検討を加えてゐたが、乏しい中にも裕りと潤ひをといふ方針でこのほど次のやうな措置を決定、着々と実施することになつた。」としている。
 そして「大食堂を外食者に 工員食堂には料理人を配置」 「殖える映画封切館 罹災銭湯の復活も認める」との見出し。市民が浮足立っていることから、これまでの上からの命令ではなく、市民の要望に耳を傾けようとしている様子が伺える。
 十五日付の新聞Aに、大相撲夏場所関連の記事がある。相撲は、明治神宮への奉納で、無料公開を目論んでいるが、誰を入れるか。
 ロッパの日記十七日、「・・・公会堂(日比谷公会堂)へ行くと、大変な人だかり。かういうものに、飢えてゐるのだ。映画主題歌大会。第一部は、奥山彩子・宮下晴子・志村道夫、豊島珠江の四人が、三曲宛歌う。豊島珠江は、此の前も、乳の見えやような衣裳を着てゐたが、今日は背中まる出し、露出狂なのか。それで若い客はワーワー喜ぶ。」と。
 十九日付には、敵機が去り、空襲警報が解除され、日比谷公園の野外音楽会には何千という人々が嬉々として訪れた。ところが、音楽会をやるのかやらぬのかという説明すらなく、一枚の貼紙さえないまま放置された。ほどなく、集まったの人々は、がっかりして引き返しはじめた。
 二十日付の朝日新聞は、「ドイツ国民は敗戦に呻 ナチス思想を叩き出す弾圧」とある。また同じ紙面に、「涙の溢れる瞳から 大きな微笑 特攻隊を見送る大和撫子」とある。この記事が、どのような意図で載せているか困惑する。
 二十二日付には、「皇国の安危は正に 学徒の双肩に在り」とある。この頃の新聞には、負けている様子は記されず、戦果だけが取り上げられ、それも特攻による成果が多くを占めている。
 レジャー関連の記事が無い中で、二十五日に「奉納大相撲」の初日の取り組みが載っている。
 戦況の悪化を記す記事に、二十七日付で、「昨暁、B29約二百五十機 帝都を無差別爆撃」がある。その様子は、ロッパの日記二十八日、仙台駅「・・・罹災者らしいのが多勢下りて来る。その一人を捕まへて、星が『赤坂乃木坂あたりは』ときくと『ありませんよ、皆』と淡り言はれて、うわーと参る。『渋谷が一ばんひどくて、死人も沢山出た」ときいて、その近くの浪江輝子泣き出し、鼻血を出す。一等も満々員、トランクへ腰掛ける。軍人さんが『麹町は大分ひどいです。東郷坂も、番町幼稚園も』と言ふ。・・・二時間の汽車、石越といふえきで下車。鉱山(細倉鉱山)からのトラックが一台廻ってゐて、それへ三十人が乗るのだから、大変だ。僕は運転手台である。約一時間といふのだから相当である。・・・」と、慰問先でも東京の空襲を心配していた。
 三十日付の朝日新聞には、「B29五百機、P51百機 横浜市を白昼暴爆」とある。人々の動揺を静めようと、三十一日付には「空襲下、揺るがぬ備蓄 食料不安なし 末端の配給にも筋金」との記事が載せられている。

空襲に麻痺し始める昭和二十年四月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)266
空襲に麻痺し始める昭和二十年四月
 四月の東京は連日のように敵機襲来、空襲があり、米軍が沖縄本島に上陸するニュースが市民にも伝わる。人々は、もっと危機感を持って良いと思うのだが。ドイツの敗戦状況も入っているのに、我が身のことと考えず、困窮生活に甘んじている。東京は首都としての機能が麻痺しかけ始めているが、我慢を続けている。
 靖国神社春の臨時大祭は催されるにも関わらず、遺族の招待取り止めている。もう、遺族の招待が出来る状況ではなくなっているのであろう。
 古川ロッパは、昭和二十年四月二日の東京新聞に次の意見を掲載している。「われらチンドン屋古川緑波。こうなってから、実に、こうなってから、われらの滑稽芝居は、娯楽本来の姿に立ち返ることを許された。もはや、国策を説く教訓の書は、要求されずに、お子様の喜ぶポンチ絵本を、提供することを許されたのである。かくて、われらアチャラカ芝居、と蔑称され、低級喜劇(もっとも高級と呼ばれたことも一度ある。それは高級娯楽追放の日だ) と嘲称されたところの、われらポンチ絵本は、今こそ都民の前に、本来の姿で、まみえることが出来るのだ--」とある。                                    ───────────────────────────────────────────────
昭和二十年(1945年)・四月、米軍が沖縄本島に上陸①、小磯内閣総辞職⑦、数日おきに空襲がある中、映画や演劇を求める市民は少なからずいた。
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4月11日A 釘付けになった疎開輸送 いつまで続く、駅への日参と行列
  13日A 上野都美術館で「大東亜戦争作戦記録畫」十一日から展示
  16日A 焼けた銭湯で露天風呂の企て
  26日A 靖国神社春の臨時大祭、遺族の招待取り止め

 一日から、劇場の入場料に二倍の税がかかり、入場料2円の芝居は6円払わないと見れない。それでも、映画や演劇を求める市民が少なからずいる。新聞には、当時市民がどのような状況であったか、窺い知ることが出来ない。偏りがあるかもしれないが、古川ロッパの日記から見ることにする。
 ロッパの日記、四月一日「ブーと鳴ってゐる、午前七時。B29らしき、ブーンブーンといふ唸りがきこえ始めた。いかんなと思ってると、ドカーンといふ、よりは寧ろザザーッといふやうな音響、自身の如く、ゆらゆらゆらっとした。こんな地響き初めてである。七時四十分、解除。」
 二日の日記「九時、又プーウ。寝衣のまま、カバン掲げて壕に入る。ブーンブーンの唸り遠くなる。間もなく解除だろう。新聞を見れば、敵は沖縄本島へ上陸開始とある。そして、噂によれば、敵は九州と四国へ上陸するだらうから、それを迎えて、はじめて引き寄せ戦術の実を挙げるのだといふ話、実に心配なことである。・・・」
 三日の日記「・・・プーウ、来たな、時は十二時半、ラジオ『敵数機は』いかん、起きて壕に入る。今夜の敵は、時限爆弾を用ゐるらしく、敵機通過の後、ドゞドゞーンといふ爆発の音、その長いこと五六秒、何とも言へない不安。・・・火の手を見る、渋谷より近いな、新宿か。その他、所沢方面と神田方面に二個所と火が見える。空襲警報解除のサイレン。間もなく警報も解除。四時半だ。・・・」
 五日の日記「昨日は新聞も来なかった、今日は来た。・・・十二時すぎ、プーウーと鳴りにけり。一機の偵察で、間もなく解除となる。で、一時半頃か、開演の頃、突っかけ悪し、・・・四月に入ってからも芝居してることの宣伝が、まるでしてないので、無理もない。・・・」
 七日の日記「・・・立川辺の上空でB29が、ひらひらと落ちて行く、銀色の翼美しく、実に壮観であった。尚庭で見てると、ラヂオロケーターをくらます為であらう。錫箔のやうなもの、ピカピカ光り乍ら、空に漂ってゐたが、やがて、家の近くへ落ちた、人々集まり、奪い合ひである。・・・」
 八日の日記「東横千秋楽・・・一時半すぎ、プーと鳴っても客は出て行かなそうで、それじゃあ、やろうと始める。・・・」と、連日の警報に馴れてしまったのか。
 十二日の日記「・・・東中野駅、ホームに立ってゐると、『来襲』となり、電車は立往生で動かなくなっちまった。ホームの人々は皆外へ出されちまったが、・・・立川方面と、板橋方面の両方に、爆弾の音や、高射砲の音しきり。・・・」
 十二日から浅草で、焼け残った電気館と帝国館が無料興行をはじめると満員。十三・四日に再び大空襲、東京の山の手方面が焼かれた。
 ロッパの日記、十三日「・・・空襲警報が鳴ったので、壕へ入る。・・・ドドーン、シャシャシャズドーン、あれは爆弾、あれはと音をきゝ分けてゐると、上空には入れ代り立ち代りB29らしい音。そのうち、パパパと、電気消ゆ。龕燈を点けて、心細い。大庭が来て、火事が凄いと言ふ。壕から出ようにも、空でブーン 言ってるので恐くて出られない。つひに、すぐ近くが燃え出した様子。大庭があはて、飛び込んで来て、『こりやいけません、助かったら奇跡です』と言ふ。出て見ると、外は桃色に明るく、互に顔がハッキリ分かる。よし、と二階へ、もう、靴脱いでる余裕もなく、・・・燃えている燃えている、盛な火事だ。目白の山は日に包まれてゐる。・・・まだ空 には時々、敵機らしい音のする中を、壕から出て、出発した。僕・大庭松井と残った。神棚から、大神宮の御札を外して懐中する。小トランクに、抽斗のものを少し詰めた。さあ、これでもう焼けるなら焼けろだ。何とも言へない悲壮な、その悲の字が除れて、壮となり、何時の間にか快の一字が加はって、壮快な気持。ゲートル、鉄兜、そして懐には大神宮様がゐらっしゃる。・・・蒲団背負ったり、飯を焚く鍋のやうなものを持ったりした人々、焼けた方から逃げて来る人々。その中を、とっとと歩いて行く。浜田の家へ着くと、壕の中に、皆ゐるときいて、入る。・・・又、敵機来、ドー ン、ザゞザゞツといふ音。すぐ近くらしい、出てみると、かなり近いところ、日本閣の手前、国民学校の裏へ落ちたらしく、新な火がメラメラと来た。全く四方火に包まれてゐる。・・・家へ引帰すと、桜山の方の火が、ひどくなって、火の子が庭へふりかゝる。火たゝきで消して歩く。・・・家へ帰る、近くへ落ちた爆弾のあふりを食ったゝめか、家中、埃だらけ。神棚も壁土がバラバラ。掃除して、五時二十分前。床の中へ入り、ラヂオ(停電でも 二階のは、蓄電池だから大丈夫) を、五時のをきかうと思 ってゝねむくなり、寝てしまった。」                                      ロッパの日記、十五日「・・・焼跡を見ながら行きたいと言ひ、先づ高田馬場へ出て貰って吃驚、駅附近は全部やられてゐる。新宿の方へ廻る。大久保附近又ひどし、戸山ヶ原の陸軍技術本部やられてゐる。塩町交叉点の一角又やられ、四谷見附のあたりは、一望の焼野となり果てた。火は見附を越えて双葉女学校を焼いてゐる。町へ出ると安泰である。車は、竹橋へ出て、丸の内から、日本橋白木屋の附近もひどい。変り果てたる東京の姿である。深川を通る、この辺りは、もはや無である。やがて月島の豊洲、海軍施設本部へ近づく。・・・」
 帝国館は十九日から有料興行を開始。「東京新聞の芸能欄を見ると、小屋(劇場)が昔と比べて十分の一ぐらいになっている。それでも、東京の罹災から考えると、随分と沢山ある。不思議に焼けてないと思われるところがある」と、高見順は日記に書いている。空襲が続き、東京は焼け野が原、生活を建て直そうとする市民は食べるだけでなく、娯楽も求めていた。
 清沢洌は十二日、「どこに行っても戦争は、いつ終わるだろうかという点に話題が向けられて行っている」。十七日には「毎日、デマが盛んに飛ぶ・・・これは恐慌時代、不秩序時代の一歩手前だ・・・沖縄の戦争は、ほとんど絶望的であるのは何人にも明瞭だが、新聞は、まだ『神機』をいっている」と。さらに、二十日「沖縄戦が景気がいいというので各方面の楽観説続出。株もグッと高い。沖縄の敵が無条件降伏したという説を僕も聞き・・・中にはアメリカが講和を申込んだというのもある。民衆がいかに無知であるかが分る。新聞を鵜呑みにしている証拠だ」と。そして、空襲後を見れば想像に絶する被害、「しかし注意すべきことは、焼け出された人々が案外平気であることだ」と、二十一日の日記に書いている。
 ロッパの日記、二十四日「七時半頃か、ラヂオのブザーがきこえる・・・敵数目標では、寝てゐられない。八時半頃には、空襲警報が出た。鈴木氏鉄兜で来られ、・・・独逸は、市中へ侵入され、メチャメチャらしい。さうなると、こっちへ兵力を向けて来るだろうから、ますますいかん、といふ話。そのうち、爆弾の音がし出す、壕へ入る。高射砲盛に撃つ。ところが、あっけないほどの間に、空襲解除。」
 ロッパの日記、三十日「五時半に起こされ、・・・千葉駅に着くと、空襲警報ですと言ふ、駅員が敵は数編隊だと言って歩く。・・・九時近くに銚子行きの汽車が入ったので乗る。鎧戸を閉めさせられたまゝ、干潟駅着。十一時半頃である。下りてきくと、今解除になったところだと言ふ。やれやれ。軍のバスに乗り、鹿取航空基地へ。・・・格納庫である。急造舞台、マイクも悪く、やりにくい。大庭の司会から始まる。一時。・・・聴衆約二・三千名。三時半頃終る。・・・干潟駅、大した混雑だ。帰宅九時頃。