昭和初期のスポーツ

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)281
昭和初期のスポーツ
 昭和初期、東京市民にとってスポーツと言えば、野球と相撲であった。野球は、大正十四年 (1925)に六大学リーグが成立、昭和二年の神宮球場完成にラジオ放送の開始もあいまって、人気が高まった。
 相撲は、昭和二年、東京・大阪の両相撲協会が合併したが、角界の分裂騒ぎがあって、一時は野球人気に圧倒された。が、ヒーロー双葉山が出現し、彼の連勝記録が延びるにしたがって野球以上にファンの裾野を広げた。戦争がはじまっても、相撲は禁止されないので、唯一の大衆スポーツとして熱狂的な人気を保った。野球が昭和十九年九月に停止されたのに対し、相撲は二十年六月まで続いた。
 スポーツが市民に浸透したのは、新聞とラジオの影響が非常に大きかった。新聞は、採算のとれそうなスポーツ競技会を主催。宣伝するとともに宣伝、競技経過を記事にして購読者の拡大につとめた。ラジオも聴取者を増やすため、人気のあるスポーツを中継した。最も放送回数の多かったのは、ベルリン・オリンピックが開かれた昭和11年、全国放送の305回(93時間)と都市放送の212回(606時間)であった。

 新聞紙上は毎日のように、スポーツ記事で賑わっていた。が、実際に行っているのは学生が大半を占めていた。それは、学生や恵まれた階層のごく一部の人々を除くと、スポーツをする余暇時間が少なく、また、練習する場も限られていたからである。一般市民の使用できる運動場は、あることはあるが、いつでも自由に利用できるほどの数は整備されていなかった。

 スポーツが大衆娯楽になったとはいうものの、まだ当時はスポーツは観戦するものであった。さらにスポーツ記事を読んだり、放送を聴くという人の方が圧倒的に多かった。人気の高い野球や相撲でさえ、野球場や国技館にでかける人は、延べ数でも年間100万人を超えなかった。観客も水泳や野球は学生が最も多く、相撲は商人というように、観客層は暇かお金のある層に限られていた。特に、女性の観客は非常に少なく、スポーツとは無縁な人が多かった。
 したがって、スポーツは観戦のみなので、自分の技術レベルを向上させようとする視点は持ちえない。人々がスポーツに求めたのは、試合をおもしろく観賞するためのドラマ性であった。

 だから、たとえば野球放送では、試合前の情景描写「夕やみに迫る神宮球場、カラスが一羽、二羽、三羽……」というような、試合とはまったく無関係な常套句が誕生し、早慶戦を聞くにはそのイントロがないとはじまらないという仕儀になった。そして、この松内則三の名アナウンスは、レコード化され、よく売れたという。つまり、当時の聴取者にとってその試合がおもしろいかどうかは、解説者やアナウンサーの力量に大きく左右された。
 とりわけ、大相撲は、仕切り時間が10分(現代では3分)と長く、その間に力士や取り口の紹介はもちろん、解説者の久米正雄久保田万太郎が川柳を作って取り組みを盛り上げるというものであった。このようにスポーツ解説は、力士や選手の心理や日常さらにはゴシップにまで触れ、それらを勝敗に結び付けて興味を引かせた。
 政府は、ソフトボールを小中学校の教授要目に採用(大正15年)、翌年には健康優良児審査会を開催、昭和三年(1928)に「学校衛生課」を「体育課」に改称するなど、国民の体位と体力の向上に力を入れた。また、同年から始まったラジオ体操は、地域や学校、職場などの日課にされ、全国的に実施された。それによって、スポーツは、大衆レジャーとして普及するかと思われたが、それでも一部にしか浸透しなかった。
 また、昭和六年に中学・師範の男子に必修化された銃剣道なども、身近なものになったかといえば、そうではなかった。十七年に「明治神宮国民錬成大会」と名称の変わった「明治神宮国民体育大会」も、競技人口の広がりや技術の向上より、大会自体を盛況にする方に力が入った。そして皮肉にも、軍事化されたスポーツ競技大会が先に開催不能となり、相撲やプロ野球の方が最後まで観客を持ち続けた。
 昭和初期の労働者は、勤務時間が長く、スポーツをする時間も、用具を揃える収入も十分ではなかった。また、彼らの仕事は肉体労働が多かったので、スポーツのように体を動かすことによって疲れを取ろうとは考えもしなかった。それより、体をゆっくりと休め、たとえば一杯やりながら、浪曲を聞くのと同じような気分でスポーツ放送を聞いていた。
 また、あういうものは「暇な奴がやるのだ」というような、スポーツを多少小馬鹿にした人も少なくなかった。スポーツは見世物の一種、ととらえていた人が多かった。近年、日常的に運動、スポーツを行なう人が増えているが、その割合は一割を超えていないのでは。テレビの扱いを見ていると、スポーツをドラマとして楽しむという、日本人のスポーツ観は、今でもあまり変わらないような気がする。

 



大衆演劇を考える

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)280

大衆演劇を考える
 演劇は、昭和十三年頃から観客増が停滞しはじめた。十六年以降は資料がないため断定できないが、おそらく減少していると思われる。それは、十五年に東宝移動文化隊や松竹移動演劇隊などが結成され、地方公演へと俳優が狩りだされているからである。なお、移動演劇は、十六年から敗戦までに約1万回の公演で約1千2百万人の観客を動員したとされている。観客数から見ると多いように思うものの、国策興行なので、観客は自治体や企業などが動員したものであっただろう。
 戦前の演劇は、軍部などの弾圧を受け、人間の心理や社会の矛盾というような問題に踏み込むことができなかった。志のある演技者や制作者にとっては、暗黒の時代と言えよう。また、映画とは違う臨場感、舞台と観客が一体となって劇を展開させるということも、制限された。それでも、演劇の大衆化という点では、エノケンやロッパ、ターキーなどのスターを輩出し、その位置は次第に揺るぎないものになっていった。

昭和十年の演劇観客数

 さて、大衆演劇のあり方をもう一度考えてみたい。まず、歌舞伎、歌舞伎が一定の観客を集めてこれたのは、なぜだろうか。過去から現在にわたって多くの人々に楽しまれた、つまり「観賞」というフィルターを通っているためである。また、日本の演劇ファンには、歌舞伎役者という俳優を見にくる、極論に言えばストーリーなどどうでもいいというような人が少なくない。
 一方演じる側には観客の求めるものを提供するというサービス精神が、大正時代の演劇関係者には乏しかった。昭和に入っても、さし迫る戦争への恐怖や先行きの不安を取り除く、忘れさせてくれるような演劇を人々が求めていることを無視してしまった。戦時下にあって、さまざまな弾圧で思うような芝居ができなかったことは事実だが、その制約を乗り越えようとしただろうか。

治安維持法による件虚数

 反対思想を弾圧するという過酷な状況に、正面から挑んでも力で握りつぶされることがわかっているのだから、裏をかくようにしなければならない。さらに、その演劇が制作関係者にしかわからないようでは、大衆は理解できない。当時の大衆の観賞レベルが低いと居直ってなかっただろうか、確かに、大正から昭和前期という時代を生きた多くの人々は、西欧のオペラやオーケストラ、「オセロ」や「人形の家」などを観賞する心境にまで達していなかったし、大半の大衆には見る必然性がなかった。
  そもそも、当時の日本の演劇関係者は、西欧の演劇がどのように興行され、どのような人々によって観賞されているかを理解した上で、演劇の制作にあたったのか。わが国は明治以来、西欧の文化をそのまま受け入れることしかしなかった。西欧の演劇は、西欧社会の上に成立しているのだから、日本の社会が西洋と同じような社会形態にならなければ、同じような演劇を受け入れることはできない。昭和初期の東京がロンドンやパリなどとは全く異なる都市社会であったことは、当時の誰れもが認めている。それなのに、東京にも西欧のような国立劇場をつくることばかり夢見て、演劇の改良運動に取り組むような人が大多数というのでは、日本の演劇が大衆に根付くのは到底不可能であった。
 夏目漱石は、イギリス留学中にロンドンの演劇をしっかりと見ている。「英国現今の劇況」(漱石全集第十六巻)に記録されている。それによれば「……倫敦には芝居と名の付くものが五十ばかりあつて、その他にミウジツク、ホールといって歌舞曲の様な物を演る(日本で云う寄席のようなもの)処が、大小合わせて五百ばかりあります」と。また「……ウエスト、エンドには所謂ヴアラエテイと称して、純粋の劇場ではないけれども、曲馬、手品或いは道化芝居といふものを混ぜて興行して居る有名な、パラスとかエンパイヤーとかいうものが四五軒ありまして、これは皆大劇場と匹敵する位な、寧ろそれより内部の構造なぞは立派な建築なのです」と演劇や劇場の実態に関して、日本と英国とでは社会状況が根本的にの異なるということを前提に見ている。事実、ロンドンには常設の劇場が44もあり、総収容人員約5万8千人、その他にミュージック・ホールやバラエティー・シアターなどが153、総収容人員は約13万人という大規模なものであった。
  このように多くの劇場が成立し、大衆が演劇を楽しむことのできる都市社会が東京に存在しているかということを考えた演劇関係者がどのくらいいたか。彼らはパリやモスクワなどに出かけて演劇を見て、大いに感動しただろう。そして、これをぜひ東京でやってみたいという気持ちは演劇関係者なら、至極当然のことである。しかし、パリやロンドンが数多くの劇場を必要とする特有な社会状況が存在していたことや、そこで求められる演劇とはどのようなものなのかということを学んでこなかった。ロンドンでは、一日の仕事の終えた夕方から、約19万人もの大勢の人々が出かける劇場が分布していた、さらに言えば、大衆が観劇のできる西欧都市の余暇事情に注目しなければならない。
  日本の演劇論や舞台論などの知識の豊かな演劇関係者は、大衆が熱中する、お金のとれる演劇を公演しようという努力をしなかった。彼らの中には大衆から受け入れられていないことを認めようとせず、エノケンよりは自分たちの芝居の方がレベルが高尚だとか、演技もうまいと自惚れていた役者たちが多かったのだ。もし、当時の演劇関係者が結集して、エノケンよりもっと多くの人を引きつける演劇を作っていれば、時代を乗り越えるような新しいタイプの演劇ができたかもしれない。そうすれば、戦時中という時代の制約を逆手に取って、後世にも受け継がれ、楽しまれる演劇が生まれていたのではないか。
  それにひきかえ、江戸時代は、多くの町人が楽しんだ演劇、すなわち歌舞伎を産み、現代に引きつがれている。昔は、歌舞伎は、身分の低い河原者のやることとして、武士のなかには軽んじたり、侮蔑するものが多かったことは周知のとおりである。しかし、当時の役者をはじめ関係者は、どうしたら多くの観客を呼び入れられるか、収入を少しでも多くするために試行錯誤していた。そして、自分たちの社会的な地位を向上させるために、演技はもちろん、衣装や劇場のこしらえに至まで、観客のニーズに精一杯応えようとした。そのような努力があって歌舞伎があることを、明治から大正・昭和にかけての演劇関係者は、忘れてしまった。そして、こういった演劇に対する取り組みの違いは、現代でも是正されていないような気がする。しかも、悪いことに、江戸時代の歌舞伎は政府から一銭の援助ももらっていなかったのに対し、現代では、西欧諸国と同じように国の援助によつて劇場経営が行われるようになってしまった。
 

戦中下の大衆演劇

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)279
戦中下の大衆演劇
凡例
新聞は発行日。日記は記載日
Aは東京朝日新聞朝刊・aは夕刊
Yは読売朝日新聞朝刊・yは夕刊
Hは東京日日新聞朝刊・hは夕刊
kiは岡本綺堂の日記  
taは高見順の日記
kaは永井荷風の日記
roは古川ロッパの日記
昭和十六年(1941年)の演劇関連事象
 2月11日 李香蘭日劇に初出演・観客が殺到して警官が出動
 4月19日 歌舞伎座、観客入口雑沓。劇場の混雑は数寄屋橋日本劇場のみにあらずka
  4月24日「髪のある天使」有楽座靖国神社臨時大祭の遺族招待マチネー。ro
 7月20日「上海のロッパ」など有楽座大入りro
 11月1日「あさくさの子供」「ロッパの軽音楽」など有楽座大満員ka
 12月23日 新橋演舞場千秋楽の文楽満員ro
 12月28日「吉本芸道大会」東宝劇場大入満員ro
 12月28日 柳家金語楼一座 日劇ro
昭和十七年(1942年)の演劇関連事象
 1月  「四十七分忠臣蔵」「わが家の幸福」有楽座正月中満員ro
 3月15日「お島千太郎」東宝劇場長谷川一夫山田五十鈴の新演伎座旗揚げ公演大入ro
 3月18日「東京踊り」国際劇場他連日盛況Y 
 4月17日「若サクラ散りぬ」「新婚歌日記」有楽座満員ro
 7月29日 東宝映画芸能音楽会第二日有楽座よく入っているro 
 7月  「フクちゃん」「戦争と音楽」有楽座
 8月  「新釈四谷怪談」常盤座
 8月15日「母子草」他明治座好評につき日延べy
 9月1日「叔父さん風呂へ行く他」金龍館
 9月2日「スラバヤの太鼓」「男の花道」有楽座初日からよく入っている
 10月2日 オペラ館の軍歌剣劇面白きところも無けれど見物相応の入ka
 10月8日「歌うロッパ」「園芸百科事典」日劇千秋楽まで満員ro
 12月8日 木挽町歌舞伎座で陸軍に感謝する会は超満員ki
 12月13日 芝居は超満員、食堂はどこも「売り切れ」ki
昭和十八年(1943年)の演劇関連事象
 1月2日「猿飛佐助など」有楽座大満員ro
 1月8日「水の江滝子公演」邦楽座連日満員御礼Y
 1月28日「汪精衛他」帝国劇場の新国劇連日満員y
 2月3日 東京府内の映画館劇場交代で月二回の節電休館を始める
 2月5日「愉快な音楽会他」邦楽座満員御礼Y 
 3月6日 この比公園の興行場午後より夕方近くいづこも満員大入ka
 3月11日「桃太郎」東宝劇場や「撃ちてし止まむ」帝国劇場陸軍記念日無料招待満員ro
 3月14日「桃太郎」東宝劇場入りは平均五十六パーセントro
 4月14日「南方だより」「父と大学生」「ロッパ捕物帳」有楽座大満員ro
 4月   四月市内の映画や演劇が大盛況ro、ka(七日)
 5月1日「僕の自叙伝他」浅草松竹座
 5月7日「交換船」「猿飛佐助」有楽座大満員ro
 6月20日 歌舞伎を見るki
 6月  「バランガ」「映画の世界へ」有楽座ほぼ大満員ro
 6月27日 有楽座六月が此の好成績は意外ro
 7月23日「芋と官軍他」有楽座今夜も大満員ro
 10月6日「都会の船」他帝国劇場好評絶賛y 
 10月7日「おばあさん」有楽座ro 
 10月27日 東宝劇場新国劇歌舞伎座六代目当たり、その他はよくなかったro
昭和十九年(1944年)の演劇関連事象
 1月   ムーラン・ルージュは作文館と改称
 1月2日「初笑五十三次」「歌う紙芝居」有楽座夜の部二十日まで売り切れro
 1月14日 歌舞伎座新春興行 東京劇場(水谷八重子明治座(天の綱島新橋演舞場曽我廼家五郎東京宝塚劇場雪組)帝国劇場(新国劇)広告a
 2月  「バリ島」日劇
 2月1日 寿劇場へ行く、満員na
 2月11日「義経の」の後藤米のところ歌舞伎座ki
 2月14日 広い歌舞伎座は満員だna 
 3月1日 各劇場は早くも閉鎖a高級劇場の閉鎖は五日からと決められていたが、松竹と東宝系の劇場は、一日から休業した。一日の新橋演舞場、『さんまと兵隊』『てのひら』初日八分の入り。明治座幸四郎仁左衛門)、邦楽座(新生新派)も開場するが、惨憺たる入り。宝塚劇団、休演のためファンが殺到する
 6月9日「突貫駅長・明日赤飯」浅草松竹A
 8月26日「瞼の母」新宿第一劇場好評A
 9月16日「日本の河童他」大勝館満員御礼A
 9月   検閲が進む演劇にマイクロホン禁止、楽屋のドアは鉄として回収
 9月19日「波止場」「宝船」江東劇場満員の連続ro
 9月23日「山雀物語」東横映画劇場榎本健一一座大好評A
 9月28日 「超高速でお芝居や音楽」移動演劇隊が作られるA
 10月4日「船弁慶新橋演舞場大好評A
 10月6日「女の子いる波止場」邦楽座大好評A
 10月7日 新宿第一劇場初日一時開演、軽く満員ro
 10月14日 ロッパ陸軍の慰問で歌舞伎座へ。新宿第一劇場に戻ると満員ro
 10月17日「歌と兵隊」新宿第一劇場大満員ro
 11月2日「親分子分他」浅草松竹新劇物大好評A
 11月27日 東宝現代劇を見に東横映画劇場へro
 12月29日 今日より東横の正月公演前売開始、中々成績よく、行列ro
昭和二十年(1945年)の演劇関連事象
 1月4日「初春一番手柄等」東横映画劇場九日まで大満員ro
 1月16日「鏡獅子、雪曙誉赤垣」新橋演舞場ta
 3月9日「突貫駅長」「歌と兵隊」東横映画劇場初日ro
 3月10日 東横映画劇場に出ると客が大分立っている、中止決定し払戻しro
 3月19日 東横映画劇場興行、所轄署の意向で十四日帰り初日、十九日月曜日大入満員ro
 3月30日 地獄の省線に乗って大満員の東横映画劇場、日劇が劇場として開くro
 4月1日 入場料に二倍の税(2円の芝居が6円)東横映画劇場はそれでも関係なしro
 4月12日 焼け残った電気館と帝国館が無料興行をはじめると満員ro
 5月2日「義経千本桜」新橋演舞場一等4円50銭に税9円ro
 5月   浅草では電気館、常盤館、千代田館、木馬演芸場など14館が開館ro
 5月7日 有楽町の邦楽座へ入ると、大満員ro
 5月7日 七日閉鎖した大劇場が低料金の大衆興行
 5月19日 日比谷公園野外音楽会に何千もの人々訪れたが放置されたA
 6月30日 映画や演劇どしどし再建 街や職場へうるおいの進出A
 6月16日「縁談十五分前」「無法松の一生花月劇場の前には行列、その他劇場では、大都座が小林千代子一座、常盤座が杉山昌三九、金竜劇場が木戸新太郎一座の興行
 7月16日 渋谷駅前の空き地で街頭慰問 何千人も集まっていたro
 7月20日 新橋駅前で街頭演奏約一万人位ro
 7月23日「姿三四郎」邦楽座ro
 8月1日「男の海」邦楽座
 

戦時色が濃くなる中での大衆演劇

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)278
戦時色が濃くなる中での大衆演劇
 昭和四年までの劇場観客数は、年間500から600万人へと年々増加していた。築地小劇場の観客も三年目までは増加していた。ただ、その程度の観客数では、劇場経営がなりたたなかったのに、少数の観客のための劇場として興行し続けた。日本の演劇史では、観客数の多寡について論じられることはあまりなく、観客数と演劇の評価とはほとんど関係がないようにみえる。だが、演劇において、本当に観客数を無視していいのか。そこで、大衆に人気があった榎本健一こと、エノケンが出演した演劇を検討してみたい。
  エノケンが注目されはじめたのは、「カジノ・フォーリー」に出演した昭和四年頃からである。「カジノ・フォーリー」とは、「馬鹿騒ぎをする劇場」という意味で、最初の公演はレビュー「青春行進曲」とバラエティー「水族館」であった。興行した劇場は、浅草の水族館の二階に作られた演芸場であった。カジノ・フォーリーは、そろそろ日本でも受けるだろうと、レビューとバラエティーの要素をミックスしたものを企画し、興行にかけた。が、そのねらいは見事に外れて、二ヵ月目には、一座は解散となった。
 エノケンの最初の作品「カジノ・フォーリー」は、公演費用が月三千五百円から四千円であった。この興行、四十銭の入場料で始まったものだが、客の入りが悪いので、築地小劇場の四分の一、三十銭に値下げしている。もっとも、入場料を取るのであればこれは当然の措置で、「カジノ・フォーリー」も当初人気がなかったので、経営はかなりきびしかった。


 確かに昭和五~七年頃は、大学を卒業しても就職できないほどの不景気、劇場観客は減少気味であった。特に築地小劇場に通うインテリ層が打撃を受け、また、左翼思想の弾圧が厳しくなり、劇場への足が遠退いた。観客の減少に、演劇関係者は、演劇の芸術性や社会性を重んじる演劇至上主義へと進んだ。演劇の思想性や表現力が高まれば、大衆に受け入れられるという幻想を信じていたのでは。

 景気が回復して後、劇場の観客を増やしたのは、エノケンやロッパなどのわかりやすい大衆演劇であった。昭和八年正月に公演したエノケンの『続近藤勇』『ダンスシャンソン』は、なんと五万五千円もの興行収入があったという。演劇とは、製作者と観客の両者が存在して初めて成立するもので、当時大勢の人々が金を払ってまで見に行ったという事実の意味、重さを考える必要があると言える。
 エノケンの演技について言えば、「水族館」ではコックの姿で魚を捕まえようとする水泳踊りは、まことに珍無類で奇才ぶりが発揮されていたとの評価。続いて公演した「大進軍」というレビューでは、これから出征する楽長に扮したエノケンが、自転車を描いた絵を移動させて行進している感じを出すというウイットに富んだ演技を見せたが、観客に理解されず客の入りは悪かったという。エノケンの批評としては、かなり好意的な、それも演技について彼らしさを表すような表現で触れている。
 カジノ・フォーリーは興行的には完全な失敗であったが、再度の挑戦が試みられた。第二次カジノ・フォーリーは、音楽青年や文学青年などをプロデューサーにして、浅草オペラとは遺風なものを目指していた。しかし、実際に変わっていたのは、エノケンの顔や声、動きを除けば、以前に比べて女性ダンサーが若返ったくらいであるとかなり厳しい評価が下されている。もっとも、踊り子がどのように変わったかといえば、「薹がたった、古いガンモドキみたいな」踊り子が、十五・六歳の乳臭い少女ダンサーに変わった程度であった。それでも、公演は十日替わりで五本の出し物を演ずるという強行軍で、エノケン他メンバーたちの気の入れ方はそうとうのものであったこともわかる。入場料は三〇銭という大衆料金で開幕したが、団員らの意気込みとは裏腹に客はまばらで、客が少しでも多くなるのを期待して、開演時刻を常に遅らせるというような状況であった。
  ところが、そのうち二つの事をきっかけに爆発的な人気を得ることになった。ひとつは「ズロース事件」、もうひとつは川端康成の小説『浅草紅団』が新聞に連載され浅草に注目が集まったことである。この件でもそうだが、エノケンが大当たりを取った話には、彼の才能を評価するだけでなく、何かしら他の要素が必ずといっていいほど加えられている。昭和八年(1933)、浅草松竹で「ピエル・ブリアント」が好評を得た時、小さなオペラ館からいきなり大きなな松竹座へ進出して、そこでも大当たりをとることができたのは、曲がりなりにも本邦初の男女混成レビュー、つまり海外の新曲を絶えず取り入れ、古今東西の名作やポピュラーな素材を幅広く、音楽喜劇にしたためとある。またエノケンについては、男女レビューにつられた少女歌劇や音楽映画ファンも常連になるうちにエノケンのファンになったというような評価である。この年、エノケンは浅草松竹のほかに、金龍館にも出演しており、それぞれの劇場の年間観客数は、浅草松竹が35万人、金龍館が42万人となっている。
  エノケンの演劇を批評して、当時の文化人たちは「インテリは逃避的自嘲的笑いであり、未組織労働者には全然責任の残らない無批判的笑いである所の『朗らかさ』である」としたうえで、「見逃してならぬのは、役者の観衆に対する魅力の差」と意識的に演劇論を避けている。さらに「新築地左翼の役者にとって充分再吟味すべき問題である」と共演した築地小劇場の俳優(丸山定夫)は評している。また、エノケンの特質を、「エノケンはたまたまファーストで大当たりをしたため自分のなかの奇型を強調したが、内心ではダンディーな二枚目でドン・ホセみたいな役をやったり、客をホロリとさせる泣きの芝居をやりたかったらしい。“人間清水定吉”の大詰めで逮捕され、万感の思い入れで涙ぐみながら花道にかかったが、それを客が笑うのをとてもくやしがっていた。そういう欲求不満と小男で道化役というイメージに対するコンプレックスが、つねに酒気を帯びていなければ可笑しな役ばかり演じていられなくしたのではないか」と大町竜夫は、バスター・キートンを引き合いに出して論じている。しかし、こういったエノケンに対する評価には、彼の持つ多くの才能から何かを学びとろうとする視点が欠落している。エノケンの二番煎じでもよいから、どうしたら少しでも多くの観客を呼ぶことができるか考えるべきなのに、そうした気持ちが微塵もなかったようだ。
  また、エノケンが常に当たるのは、脚本が彼の良さをひきだしているからだと見る向きも少なくなかった。事実、エノケン自身、当時の座付作家であった菊谷栄を非常に大事にしていた。たとえば、日中戦争がはじまり、戦時色が強くなるなか、昭和十二年、新宿第一劇場での公演中に菊谷栄に赤紙がもたらされた。すると、エノケンは当日、舞台から客席に向かって、「菊谷栄が出征するので見送りに行ってまいります」と告げた。そして、観客の拍手に送られ一座全員が品川駅に向かうというようなことさえあった。これは実に、エノケンならではの巧みなスタンドプレーであったのに、素直に受けとってエノケンが菊谷栄を、杖とも柱とも頼りにしていたからに違いないと見る人もいた。当の菊谷栄はまもなく戦死、エノケン東宝に移って、新たな脚本をもとに芝居を続けていった。移籍後初の作品である「エノケンの突貫サーカス」は、和田五雄の作並びに演出で行われた。この日本劇場での公演は、大入りで、その状況について、劇場の周囲を観客が五重に取り巻くように並んでいたと報じられた。演劇には脚本が重要なのは言うまでもないが、エノケンには脚本のでき不出きに左右されない圧倒的な人気、魅力があったことを認めざるをえない。
 エノケン主催の演劇が大勢の観客を集めるたは、彼個人の魅力であり、もっといえば彼の演技力だろう。大衆が求めるものを提供するのは、役者として当然行わなければならないことである。ところが、新劇などを初め、演劇関係者には、演劇の芸術性、社会性という視点からばかり見て、エノケンの演劇を見下し、自分たちの方がエノケンよりも演技力がはるかに勝っていると自惚れていた人が多かったのでは。大衆を引きつけるような演劇を興行できなかった人たちは、自分らの芝居の演劇の基本的な要素が欠けていることに気づかななかった。また、大衆が簡単に理解できるような演劇をしていたのでは、芸術性において劣ってしまうと考えていなかったか。さらに、演劇関係者の多くは、社会や大衆が何を求めて生きているかを考えようとしなかったことだ。つまり、大衆の価値観や評価を率直に受け入れ、逆に大衆から学ぼうとする姿勢がなかった。演劇としての思想性や表現力を高めることは、あながち悪いことではないが、演劇至上主義に陥りやすく、現実社会との密接なかかわり合いを無視する傾向が強い。
 築地小劇場は創設の趣旨とは裏腹に、大衆に受け入れられられず衰退していく。それに対しエノケンは、大衆を大いに沸かせ、劇場を満員にした。日常のつらさを忘れさせ、戦時中の人々に生きる希望を与えたと言えないだろうか。

戦中の演劇を見ると

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)277

戦中の演劇を見ると

凡例
新聞は発行日。日記は記載日
Aは東京朝日新聞朝刊・aは夕刊
Yは読売朝日新聞朝刊・yは夕刊
Hは東京日日新聞朝刊・hは夕刊
kiは岡本綺堂の日記  
taは高見順の日記
kaは永井荷風の日記
roは古川ロッパの日記
昭和8年(1933年)の演劇関連事象 
 1月7日 春芝居大当り 型を破る徹夜の切符買いに仰天Y
 1月20日忠臣蔵」松竹館満員御礼y 
 2月  「研辰の討たれ」「学生 ヨタモノ女学生」他浅草松竹座
 2月11日「八陣守護城他」明治座、満員御礼y
 2月17日「大菩薩峠」東京劇場連日昼夜の大満員y
 3月  「西遊記」「洒落大名」「ハムレット」他浅草松竹座
 4月10日「母三人他」明治座満員御礼、入場料3円70銭~70銭y 
 4月  「マロニエ花は咲けど」「エノケンの次男坊」他金龍館
 5月  「巴里祭」「続西遊記 妖怪退治篇」他浅草松竹座
 5月25日「天一坊と伊賀亮他」浅草松竹館満員御礼a
 6月  「僕等は大学生」「パリの恐怖」「江戸 ツ子金さん」他金龍館
 6月17日「突如 興行(略真夏の夜の夢)を中止し松竹座を釘づけ」松竹レビューガールのストライキ
 6月18日「お夏清十郎」東京劇場初日以来連日満員y 
 7月  「好色 一代男」「朗らかな水兵さん」「インチキ大闇記」浅草松竹座
 7月  「お母さんはお人好し」金龍館
 7月  「忠臣蔵」金龍館
 7月  「瀕死の白鳥」金龍館 
 8月5日「弥次喜多金比羅道中記」歌舞伎座連日満員御礼y 
 8月26日「アベック・モア」東劇
 9月  「秋風よ心あらば」「珍傑団栗頓兵衛」他金龍館
 9月28日「刺青判官大会」浅草松竹館満員日延べy  
 10月  「風車娘」「鼠小僧笑状記」他浅草松竹座
 10月29月「タンゴ・ローザ」東劇
 11月  「われらが丹下左膳」金龍館
 11月  「弥次喜多東海道篇」「金色夜叉」他公園劇場
 11月23日「源氏物語歌舞伎座の突如上演禁止Y 
 12月  「村のロメオとジュリエット」「学生街三人組」新宿新歌舞伎座
 12月11日 近く開場される東京寳塚劇場、日本劇場、日比谷劇場の三館、最近の興行界の偉観y
昭和九年(1934年)の演劇関連事象
 1月1日 日比谷に東京宝塚劇場が開場
 1月  「われらが不如帰」「われらが坊ちゃん」金龍館
 1月8日 邦楽座「デビュー艦隊」、初日から大入り満員、金龍館の「凸凹世界漫遊」もA
 1月9日「踊る1934年他」日本劇場満員御礼a 
 2月  「ウヰ・ウヰ・巴里」浅草松竹座 
 2月5日「東洋の母他」帝国劇場満員御礼Y
 2月16日「仇討心中噺」築地東京劇場満員続きA
 3月1日 マーカス・レビュー団に警視庁のお叱言A
 3月3日「エノケン大江美智子の出ている公園劇場あたりは大入り」ro 
 5月6日「ニンジン」帝国劇場、武蔵野館では「エノケンの青春水滸伝」大人気A
 5月6日「一日だけ淑女」日本劇場他満員御礼a 
 6月  「罪の子」日本劇場
 6月  「スキャンダル特輯」「ああ結婚は近付けり」他築地小劇場
 7月15日「次郎長他」常盤座大満員ro 
 7月19日「隣の八重ちゃん他」常盤座満員御礼a 
 8月5日 松竹座「海・山・東京」何うして中々の満員だro
 8月19日 涼しいから今日は海へ客をとられないだろうと思ったら果たして大入り満員であるro
 8月26日「本朝 廿四考他」東京劇場、青年歌舞伎劇納涼興行連日満員の為二十八日まで日延y 
 9月  「世界与太者全集」浅草松竹座
 10月  「ピカデリーの与太者」浅草松竹座
 10月6日「悪縁他」明治座初日以来連日満員御礼y 
 10月7日「ガラマサ」市電ストライキにもかかわらず大入り満員ro
 10月10日「豊百三代記他」歌舞伎座満員御礼Y 
 10月18日「林長次郎の舞踏三ッ面」浅草帝国館果然満員御礼y
 11月  「日本の与太者」浅草松竹座
 11月23日「源氏物語歌舞伎座の突如上演禁止Y
 この年、浅草に女剣劇進出
昭和十年(1935年)演劇関連事象
 1月3日「パンテージ・ショウ」日本劇場連日満員A 
 2月20日勧進帳他」東京劇場満員日延べY 
 3月  「民謡六大学」浅草松竹座
 4月24日「長脇差試合他」連東京劇場日大入日延べy 
 5月21日 新宿歌舞伎座、五九郎劇「海軍記念日」他連日満員御礼、1円~30銭Y 
 6月   有楽座開場
 7月7日「坊ちゃん」他歌舞伎座初日から超満員y 
 7月18日「かごや判官他」浅草帝都館満員御礼a 
 7月18日「雪之丞変化他」浅草松竹館満員御礼a 
 8月29日 日本劇場、崔承喜特別公演、連日超満員A
 9月15日「モナリザの失踪他」日比谷公会堂のモダン日本アーベント超満員御礼y
 9月18日「歌う弥次喜多他」日本劇場満員続きy
 10月4日「ハリキリボーイ・河内山」有楽座千秋楽まで満員ro
 11月  「恋の山彦他」花月劇場
 12月  「日劇ビクター演芸大会」日本劇場
昭和十一年(1936年)の演劇関連事象
 1月8日「風呂屋の煙突はなぜ高い」新宿座
 1月  「純情一座」常盤座
 1月13日「ジャズとダンス」日劇で初公演
 2月  「雪之丞変化」浅草松竹座
 3月  「流行歌六大学」浅草松竹座
 3月   東京劇場で上演予定であった戯曲「奥村五百子」が警視庁から上演中止の命令
 3月12日 日劇へ着いてみると、もう大半満員「凸凹放送局」「ガラマサどん」「さらば青春」ro
 3月20日 日劇十日間昼夜二回、完全に満員ro
 4月16日 浅草帝国館・丸の内松竹「お夏清十郎」林長二郎田中絹代実演で満員御礼a
 5月25日「たんぽぽ女学校」新宿座
 7月24日「エノケンの千万長者」日本劇場連日満員a
 8月20日 満員の続いた日劇の「歌う弥次喜多」などの興行は千秋楽。
 8月27日 東京劇場の少女歌劇「夏のをどり」「忘れな草」を見て「ターキーの馬鹿な人気には驚いた」ro
 8月28日 日劇エノケンの千万長者」を見ても関心ro
 9月2日「続エノケンの千万長者他」日本劇場・秋の踊り満員御礼a 
 9月  「結婚大学と秋祭白波五人男」浅草花月劇場
 10月4日から25日の千秋楽までロッパの有楽座『ハリキリボーイ・河内山』が満員ro
 10月29日から11月5日「タンゴ・ローザ」東劇
 11月  「お妾横丁・春愁尼」観音劇場
 11月  「地下街で拾った三万円」日劇
 12月10日「歌う金色夜叉他」有楽座連日満員a 
 12月8日頃から「女夫鎹」大受け、満員 有楽座二十七日千秋楽ro
昭和十二年(1937年)の演劇関連事象
 2月5日「荒神山」「見世物天国」千秋楽まで満員有楽座ro
 3月  「流行ジャズ六大学」浅草松竹座
 4月12日「見世物天国」「歌う金色夜叉」満員日劇ro
 4月21日 ダンサーの愛国熱 先ずフロリダの80余名愛国婦人会員になるa
 5月1日「東京読本他」有楽座満員ro
 6月3日「初恋他」新橋演舞場満員前進座
 6月4日「坂崎出羽守他」有楽座満員御礼a
 6月12日「宮本武蔵」日本劇場満員御礼a 
 7月3日松竹少女歌劇の「東京踊り」で国際劇場開場開幕
 7月15日「エノケンのちゃきり金太」新宿映画劇場・芝園館a
 7月30日レビュー「進め皇軍」国際劇場a
 8月7日「続ガラサマどん」「メールブルウ」有楽座満員ro
 9月4日「乃木将軍」新橋演舞場満員御礼a
 9月5日「ラプーブの大学生他」日比谷映画劇場満員御礼y
 11月3日「のどかなる結婚他」有楽座大入りro
 11月21日 防空演習も有楽座のみならず、日劇あたりも行列ro
昭和十三年(1938年)の演劇関連事象
 1月1日「大久保彦左衛門」有楽座三十日間42回満員ro
 1月22日「松竹娘祭り」いつも満員国際劇場a
 2月7日 オペラ館に少憩例の如し。初日にて満員ka
 2月11日「日本人他」新橋演舞場満員御礼a
 2月11日 日劇のアトラクション出演ro
 4月2日「喧嘩親爺他」有楽座満員ro
 5月  「葛飾情話」オペラ館 
 6月   東京劇場公演 家庭劇
 6月   日劇エノケン一座が初出演、オペラ・パヴォ座「ホフマン物語」「ボッカチオ」公演
 6月6日「日本むすめ他」国際劇場満員a
 6月15日「エノケンの突貫サーカス」日本劇場満員御礼a
 6月17日「戦国の密使他」有楽座A
 7月27日「父帰る」有楽座ro 
 8月7日「エノケンのびっくり長兵衛他」日本劇場満員御礼a
 8月24日「綴方教室他」日本劇場満員御礼A
 9月24日エンタツアチャコ金語楼水戸黄門漫遊記」日本劇場満員御礼a
 10月1日「鶴八鶴次郎他」長谷川一夫主演日本劇場満員御礼A
 10月12日「エノケン西遊記他」日本劇場満員御礼A
昭和十四年(1939年)の演劇関連事象
 1月1日「新婚二人三脚」有楽座初日超満員ro
 1月8日「遠山の金さん他」有楽座8日まで満員ro
 1月10日「戦地から来た歌他」明治座満員御礼y
 1月23日「菅原伝授手習鏡他」歌舞伎座好評日延べA
 2月5日「新派でう安値なので大入満員だ」国際劇場ro 
 3月5日「絵本太功記他」国際劇場満員御礼y
 3月24日「エノケン誉の土俵入他」有楽座日延べy
 4月1日「百鬼園」有楽座満員ro
 4月3日「元禄忠臣蔵歌舞伎座満員御礼A 
 4月22日「花と侍」日本劇場満員御礼y
 5月27日「エノケン鞍馬天狗他」日劇ダンシングチーム総出演日本劇場満員御礼y 
 6月16日「突貫ヤジ・キタ他」日本劇場満員御礼a
 7月   警視庁、外国劇団の上演不可能になる
 8月2日 「マリウス」「歌う弥次喜多」有楽座千秋楽まで満員ro
 8月12日「森の石松他」日本劇場満員御礼a
 9月26日「新興演劇部隊旗揚げ大進軍」浅草国祭劇場満員御礼a
 11月11日「若様ロッパ」「戦時のガラマサどん」有楽座ro
 12月19日「吉本爆笑実演会」金語楼・虎造有楽座満員御礼A
 12月27日「正月の前売、午前九時から長蛇の列」有楽座ro

 昭和十五年(1940年)の演劇関連事象
 1月1日「ロッパと兵隊」「新婚太平記」有楽座ro
 2月5日「伝説ニッポン」あきれた・ぼういず浅草松竹座満員御礼a
 2月18日「国定忠治」有楽座満員御礼A
 2月20日 日劇のロッパ青春部隊の千秋楽・・中々よく入っているro
 3月3日「吉本ショウ」浅草東宝花月劇場満員御礼y
 4月  『東京温泉』『ロッパと将軍』有楽座ro
 5月7日 入場料十円八十銭と高いがいゝのか大満員、補助も出る歌舞伎座ro 
 7月27日 土曜、東宝劇場も夜の部で七分の入り、日曜日も入りが悪いro
 8月   新協劇団・新築地劇団に解散命令
 8月25日 有楽座の金語楼劇団を見る、客が笑いに飢え切ってるro
 8月30日 学生の劇場、映画館での平日に入場が禁止される
 9月2日 東京市内の劇場、映画館など早朝興行廃止、午後開館となる
 9月14日 補助の出る満員だが、どうも客が力が無いro
 11月6日 松竹移動演劇隊結成  

戦前の演劇を見る

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)276

戦前の演劇を見る
 大正時代は、劇場入場者数の増加とは関係なく、一時は50もの新劇団が並立するという演劇史上まれにみる劇団乱立時代であった。明治時代から声高に叫ばれてきた「演劇の改良」は、「淫風排除」に始まり、劇場の形や興行形態などにまで波及し、劇場経営の健全化も目指した。しかし、「演劇の改良」は、観客の裾野を広げることに必ずしも効果があったとは言いがたい。それは、演劇がより多くの人々に見てもらうという、大前提が蔑ろされている。
 制作者や演技者たちが演じたい演劇が、多くの人々が見たいと思う演劇と遊離していたにもかかわらず、そのギャップをどうやって埋めていくかという視点が欠落していた。さらに言えば、プロレタリア演劇や左翼演劇などというジャンルであるにもかかわらず、肝心の労働者階級の人々の一部しか観賞していない。演劇に関連する人たちは、このことに何ら矛盾を感じていないのであれば、これは実に度しがたいことである。高邁な理想を追うのも、自由だし、大いにけっこうだが、興行として世間にアピールしたいのであれば、やはり大衆に受け入れられるための努力が不可欠である。
 賀川豊彦らの指導によって組織された「日本の労働劇団」や平沢計七らの「東京労働劇団」などは、現代でも、曾我廼家五九郎の喜劇やエノケンの軽演劇などよりも思想性という点では評価が高い。が、しかし、果たして本当にそうなのだろうか。大衆に与えた影響は、どちらの方が大きかっただろう。もちろん、賀川たちの思想を否定するわけではないが、五九郎の演じる「ノンキナトウサン」に見られるような家庭と社会の話題を取り入れた風刺が、大衆に大いに受けたことを無視できない。エノケンらが、人生とは何か、楽しく暮らすというのはどういうことかということを、身をもって示し、結果としてではあるが、人々を啓蒙したことを軽視しすぎていないだろうか。やはり、演劇とは多くの人々に見てもらうことで、初めて影響を与えることができるもので、このことを演劇関係者は自覚すべきである。そして、多くの俳優たちが少なくとも人並みに生活ができる程度の観客あって、劇場経営がなりたたなくてはならない。
 ここで、芸術性の高い演劇をと期待されて作られた「築地小劇場」の観客数を見てみよう。築地小劇場は、大正十三年(1924)に開場。翻訳劇も多く演じられ、大正十五年には創作劇が始められている。当初は舞台装置や照明など劇場効果の向上に寄与し、演劇界ではなかなか好評だった。知識人層の人気と海外文芸の普及に功績があって、大正から昭和初期の演劇を論じる際には、避けて通れない劇場であるといわれている。
  当劇場は開場から三年目で年間約6万人の観客を動員するに至ったが、その後は減少し3万5千人を割ってしまった。年間の半分以上、興行していたと想定すれば、一日当たりの観客は192人となる。これでは劇場の経営がなりたたないと思われるので、当初の三年間の公演成績をもう少し詳細に見ていこう。築地小劇場の観客席は、約500あって、昼も公演していたらしいが、まともに観客があったのは夜の部のみであった。公演期間の長短にかかわらず昼公演を除く一日の入場者総数が300人を越えた興行は、三年間でわずか7公演しかなかった。ベストテンを示すと以下のように、一位が「作者を探す六人の登場人物」で、一日平均入場者数411人と、まずまずの数値を残したものの、十位はたった288人であった。さらに、同じく昼公演を除くワーストスリーは、「死せる生」「天鵞絨(びろうど)の薔薇」「新夫婦」が最も悪く79.7人。二位が再演した「人造人間」94.4人。三位「地平線の彼方へ」107.4人であった。約500人の定員の劇場で6割の席が埋まったのが7公演で、250人から300人くらい入ったのも同じく7公演しかなかった。つまり、約三年、63回の夜の公演のうち、客席が半分以上埋まったのはわずか14公演で、あとはほとんどがら空きに近い状況が続いたというわけである。

 築地小劇場は、開場から三年目の昭和元年、年間約6万人の観客を動員した。市民の心をつかみさらなる観客の増加が期待されたが、これをピークにあとは減少の一途をたどる。公演は、昼もあったが、観客の多かったのは夜の部であった。築地小劇場の観客席は約500、一日の観客数が300人を越えた興行は、当初三年間で7公演しかなかった。三年間、63回の夜の公演のうち、客席が半分以上埋まったのは14公演で、あとは空席の方が多かった。
 当時の新聞などから演劇に関連する記事などを示すと、昭和2年1月3日「歌舞伎座、補助席を出す盛況」と岡本綺堂(以後kiとする)は日記に記している。
 1月5日静かだった三ヶ日、芝居と活動だけ満員、朝日新聞夕刊(以後aとする)
 2月9日「大原女」新橋演舞場、連日満員御礼の広告、朝日新聞朝刊(以後Aとする)
 3月14日「夜帝国劇場に伊太利亜歌劇を聴く」と永井荷風(以後kaとする)の日記
 3月19日「桜の園築地小劇場日延連日満員、読売新聞朝刊(以後Yとする)
 3月22日「東をどり」新橋演舞場連日満員御礼a(以後夕刊は小文字)
 3月25日「七騎落」歌舞伎座大好評連日満員a
 4月26日「帝国劇場に赴く、露西亜オペラ比夜より十日間興行する由」ka
 5月5日「春色男女道成寺歌舞伎座連日満員御礼A
 5月24日「ブロードウェイフォーリス大歌劇団」邦楽座連日満員御礼Y
 5月28日「新宿夜話」他本郷座千秋楽まで連日大入満員Y
 6月6日「水野十郎左衛門他」歌舞伎座、初日以来悉く売切御礼A
 6月6日「柴田勝家他」本郷座連日満員御礼A
 6月11日「妹背山他」新橋演舞場満員御礼Y
 7月5日「弥次喜多野球の巻」東京館益々大好評満員御礼A
 7月6日「梅こよみ」歌舞伎座連日満員A
 8月22日「歌舞伎座は大入り」ki
 8月24日「金色夜叉他」帝国劇場の新国劇好評演続Y
 10月30日「天界の魔王、十巻」日本館モンロー・サルスベリー氏実演満員御礼Y
昭和3年(1928年)の演劇関連事象 
 1月1日「空気饅頭」築地小劇場
 2月  「舞台の人々他」松竹座
 2月11日「刃光他」浅草劇場高木新平実演大入りY
 2月14日「裏表忠臣蔵市村座人気沸騰多大の好評日延べA
 2月25日「本郷座に予約を入れたら、売り切れ」ka
 3月18日「浪人の群他」帝国劇場新国劇
 5月4日「ムッソリニ他」明治座連日満員A
 5月7日「平清盛他」歌舞伎座、引続いて昨日も売り切れA
 7月4日「極彩色娘扇他」歌舞伎座、連日満員御礼A
 8月  「虹の踊り」松竹座
 9月1日「キートンの船長他」開場早々の浅草松竹座満員御礼A
 10月14日「国性爺合戦築地小劇場連日満員満員Y
昭和4年(1929年)の演劇関連事象
 1月  「復活」金龍館
 1月25日「月形半平太」好評嘖々の公園劇場果然満都の人気沸騰に大好評、連日満員A
 3月  レヴュー「テケツの女」浅草電気館
 3月17日「トルヴァトーレ」帝国劇場初日、半額で満員
 4月  レヴュー「スイートハート」浅草電気館
 4月27日「夜の宿」浅草松竹座
 6月30日 邦楽座、トーキー設備完備のため楽士を解雇紛争となる
 7月10日 榎本健一、東京浅草水族館にレビュー歌劇カジノ・ふぉーりーを発足
 9月5日「梅雨小袖昔八丈」明治座果然大好評A
 9月5日 新宿に新歌舞伎座オープン
 10月23日 「緊縮の不入りに 持ちきれぬ大劇場」a
 11月3日 「トーキーの犠牲 弁士の失業続出」「生き延びるも もう数ヶ月」a
 11月23日 「緊縮の不入りに 持ちきれぬ大劇場」と不景気のため観客が減っているA
 12月11日 浅草は「安い喜劇館ばかりが満員の盛況」A
 12月23日 緊縮の不入りに、帝劇先ず半額の大割引断行、松竹も追随し値下げA
 12月31日 浅草は「安い喜劇館ばかりが満員」A
昭和5年(1930年)の演劇関連事象 
 2月3日「淀君他」新橋演舞場、初日二日目満員御礼A
 2月21日「佐倉義民伝」明治座大入り満員、二十二日まで日延べA
 4月17日「東京おどり」浅草松竹座
 6月  「フィガロの結婚」東京劇場
 6月26日「曽我廼家五郎」帝国劇場日延べ、連日引続き売り切れの大好評A
 8月  「太陽のない街」左翼劇場
 8月8日「国産愛用」明治座大笑会、連日満員御礼A
 9月  「松竹オンパレード」浅草松竹座
 11月2日「明治座は初日満員。第一『義士尽忠録』見物ki
 11月9日「富士に題す」東京劇場連日満員御礼A
 11月21日「仮名手本忠臣蔵歌舞伎座初日依頼完全に売切続きA
 12月12日「松竹レビュー第二回公演」東京劇場満員御礼A
 レビューは、警視庁が取締りを強化したことによって、逆に大衆の関心を高めているようだ。
 12月22日「荒木又右衛門他」歌舞伎座大入御礼A
昭和6年(1931年)のレジャー関連事象 
 2月7日「改訂金色夜叉他」東京劇場、初日以来連日満員御礼a
 2月7日「義経千本桜他」歌舞伎座、連日満員御礼a
 6月   浅草松竹座がレヴュー専門劇場に
 6月26日「暴風雨の薔薇」新歌舞伎座満員御礼堂々日延べA
 11月  「万華鏡」新歌舞伎座
 11月29日 浅草公園六区の興行界では、入場料を10銭に値下げする競争がはじまったA
 12月5日「義経腰越状他」歌舞伎座、連日満員、6円~60銭a
 12月7日「改訂金色夜叉」東京劇場初日以来連日満員御礼A
 12月16日 浅草オペラ館開場
 12月31日 「猿の顔はなぜ赤い他」新宿にムーラン・ルージュ開場
昭和7年(1932年)の演劇関連事象 
  1月  「アジアの嵐」市村座
 1月3日 富士館、笑いの王者榎健が立籠る常盤座等々いづれも客止めの大入満員」Y
 1月4日 歌舞伎座・東京劇場・新橋演舞場新歌舞伎座明治座、揃って満員御礼広告A
 1月11日「恋愛学校参観記」ムーラン・ルージュ
 2月  「丹下左膳他」明治座新国劇満員御礼Y
 3月  「瞼の母」を明治座で初演
 3月  「乞食芝居」新歌舞伎座
 3月  「西部戦線異状なし市村座 3月
 3月  「エンコの六」浅草玉木座
 6月5日「丹下左膳他」明治座新国劇満員御礼Y
 7月   築地小劇場での共産党演説会、開催即潰される
 7月27日「アル・カポネ他」新橋演舞場好評日延べ、三日間一円均一奉仕デーY
 7月  「バクダットの盗賊」歌舞伎座
 10月  「らぶ・ぱれいど」東劇
 10月   松竹楽劇部が松竹少女歌劇部に改称
 10月2日「悲しきジンタ」「麗はしのサロン」「結婚哲学」新橋演舞場
  11月  「リリオム」常盤座
 11月  「助六」常盤座
 11月23日「勧進帳」浅草松竹座
 11月15日「マダムと女房他」公園劇場
 11月26日「花嫁募集他」公園劇場
 

大衆レジャーとしての演劇

江戸・東京市民の楽しみ275
大衆レジャーとしての演劇
 大衆レジャーであるとされる演劇も、その芸術性が問われ、論壇や新聞などでは盛んに言及されている。では、その芸術性とはどのようなものなのか、歌舞伎について見てみよう。歌舞伎は、当初から大衆を相手にした演劇で、芸術性が求められたとは言い難い。演劇は、江戸時代から続く芝居見物であったころから、大衆レジャーの中心であった。
 それが時代と共に、歌舞伎が贅沢なものとなり、上演時間が10時間を超えることもある、一日がかりのレジャーになった。となると、金のない庶民は、歌舞伎を簡単に楽しむことが容易ではなくなる。ではどうしたかと言えば、一幕だけ見るということで我慢する鑑賞になる。それだけではなく、下層の人々は、手の届かぬ歌舞伎に代わり小芝居、宮芝居を寺社境内などで見ることも少なくなかった。そこでの芝居は、常設の大芝居(公許三座)を真似たり、泥臭い出し物が演じられた。そして、小芝居の役者が大芝居に出ることもあって、観劇はさらに盛んになって行った。
 たとえば、大正四(1915)年に書かれた『硝子戸の中』(夏目漱石)には、明治時代の芝居見物の様子が描かれている。漱石の姉たちは、芝居を開幕から見るために、皆夜半に起きて支度をし、まだ暗いうちに自宅(高田馬場)を出発して、船に乗り、お茶の水通り越して柳橋隅田川に出たら川を上って今戸で下船し、芝居茶屋まで歩き、劇場に入り、ようやく席に着いた、とある。観劇の幕間には、楽屋に案内され、贔屓の役者に扇子に画などを描いてもらうことを自慢にしていた。帰りも、船でもと来たとおりに戻り、船を下りると、日はとうにくれていた。そして、朝送ってきた下男がまた迎えに来ていて、家にたどり着いたのは夜中になっていた。このような、まる一日をかける芝居見物は、大正時代になっても続いており、芝居の途中で食事をするのも楽しみで、幕間に服を着替えて見る女(ひと)も珍しくなかった。
 日本の芝居見物は、演劇を観賞しながらという形態の中で、ふだんの生活ではできないこと、すなわち、おいしいものを飲んだり食べたり、着飾って出かけたり、桟敷ならではのお喋りや社交、さらには自分をまわりの人々にアピールするというレジャーなのである。そこでは観客が中心であって、当時は劇場や役者、芝居のストーリーなどは、すべて観客のレジャーをより効果的に演出するバックグランドミュージックのようなものであった。したがって、演技する役者は、訪れたお客に精一杯のサービスをする、それが「芸」であり、笑いや悲しみなどを誘い、話の種を提供することが求められた。また、脚本家や演出者などは、通の観客にしかわからないような演技や逸話を芝居に挿入し、常連さんに優越感を味わせることも心得ていた。
 ただ、劇場の経営を考えると、芝居というものは一部の金持ちの観客だけを対象にしていては成り立たない。そこで、時間やお金に余裕のない人にも、劇場に足を運んでもらえるように、安い料金で芝居の一部分を観賞させる「一幕限り」というシステムがあった。これは、芝居は見たいが金や時間に余裕のないという庶民にとって好評で、また、上流階級の芝居見物風景を横目に仲間入りした気分を味わうこともでき、かなりの人々がこの「一幕限り」で観賞した。明治三十年(1897)代初めの頃は、一幕限りの観客が4割以上もいて、最初から最後まで「通し」で見る「木戸客」を凌いだ。小さな劇場では一幕限りの客が木戸客より多い年もあった。


 明治時代になると、新富座のように開演時間を夕方の5時、終演時間を夜の11時に設定して、従来の公演時間の「まる一日」をかなり短くした。また、一幕限りの客の増加などによって、演劇の大衆化が進んだ。大正時代は、一幕限りしか見なかった客が「木戸客」へと移ることによって、演劇の大衆化がさらに進んだ。大正元年の「木戸」と「一幕限り」の観客割合は、2対1で、まだ「一幕限り」の観客がかなりいた。なかには、蓬莱座のように、「一幕限り」の観客の方が多いという劇場もあった。しかし、明治の末(1911年)に開場した帝国劇場のように、「一幕限り」のない劇場が多くなると、演劇は全幕を見るものであるという感覚が定着していった。これは、演劇そのものを観賞しようとする人々が多くなったこと、さらに近代的な演劇が理解され始めたためであろう。
 大正時代の演劇は、どのような人々によって、どのような形で楽しまれていたのだろうか。上演された演劇の内容からではなく、劇場の数や観客数(「東京市統計年表」の資料)などを中心に見てみたい。大正元年(1912)、東京市内には20程度の劇場があった。当時の劇場は、毎日上演しているわけではなく、最も多い劇場(常磐座)では357日ということもあったが、平均では55%しか興行されていなかった。劇場は、一年の半分くらいしか公演しないという、現代から見ればかなりのんびりした経営だったと思われる。
 劇場の客席は、300人程度の小さい所から約2000人も入る歌舞伎座のように大規模な所まであった。東京市十五区内にある劇場の入場者数は、一日平均で約1万人(木戸客)であった。この入場者数から劇場経営や客席の稼働率を考慮して、東京の総観客席数を推測すれば、2万席程度あったものと推測できる。観客数の変化を見ると、明治末には年間400万人を越えていた入場者数は、大正時代にはいると100万人も減少し、300万人を割ってしまった。この減少した100万人に当たるのは、余暇時間の少ない、所得の低い大衆層の人々であったと思われる。それは、歌舞伎座や帝国劇場などの入場料金の高い演劇よりも、安い大衆向けの蓬莱座や開盛座などの劇場入場者がより顕著に減少していることから見てとれる。
  大正三年(1914)に、「大正博覧会」が開催された時、歌舞伎座、帝国劇場、市村座の三座は、地方からの見物客が多いと見込んで、ついでに東京の演劇を見てもらおうと、「歌舞伎十八番ノ内、勧進帳」を競演した。この企画は、明治天皇崩御によって沈滞していた演劇界のムードを一気に払うような出し物という好意的な評もあったが、観客数には反映せず、その年は前年よりもさらに少なかった。人々の関心は、博覧会だけに向いていて、演劇にはそれほど足を運ばなかったのだろう。
 観客数の減少は、演劇、特に歌舞伎は、明治時代に隆盛をはせた団十郎菊五郎・左団次というスターを失ったことが最大の原因だと思われていた。また、歌舞伎に対して新しい形式の史劇や舞踊劇をと考えて生みだされた新派や新劇は、「人形の家」「夜の宿(どん底)」など意欲的な作品を上演していたが、観客はさほど動員することはできなかった。明治時代から叫ばれてきた演劇の改良運動による、文芸協会、自由劇場などの試みは、観客の裾野を広げるということに必ずしも貢献しなかった。
 その原因は、演劇を制作する人たちが西欧の演劇に目を向け、同じような芸術性を求めたことによって、日本の大衆が求めているものを無視する傾向があったからだろう。その上、既存の演劇を程度の悪いものと決めつけ、それを是正することによって演劇を盛んにできると信じていたのだろう。まず、演劇の脚本の重要性を訴えたが、観客である大衆の観賞レベルがどの程度であるかということはほとんど考慮されなかった。演劇のあり方は、少数の観客と演劇界という狭い枠のなかでしか論じられなかった。したがって、演劇の改革が叫ばれ、新派や新劇など多様化したにもかかわらず、大衆のニーズには応えられず、結局、多くの人々の足を劇場に向けることはなかった。
 大正時代に入って、東京の人口は約280万人(大正元年)に達し、劇場観客数とほぼ同数になった。これは、東京に住む全員が一年に一回、演劇を見たということになる。もちろん、すべての人が演劇を観賞したわけではなく、愛好者は多く見積もっても人口の3割(現代でも2~3割)程度であっただろう。したがって、同じ人が一年に複数回(3~4回)観賞していることになる。この頃の演劇事情や観客などについては、『新聞集録大正史』(大正元・二年)の「演劇」の見出しを見るとよくわかる。「今秋の劇壇 戦国時代の新劇界」「歌舞伎よみがえれるか」「文芸協会の改革 抱月ら脱会」など、演劇界は大衆とは関係なく動いている。マスコミが注目したのも、歌舞伎、新派、歌劇、新劇などに片寄り、観客の多数をしめる大衆演劇の記事はほんの少ししか見られない。

 明治の末と比べて観客数が減少したのは、映画に大衆観客を取られたためである。つまり、大衆が劇場から離れたのは、演劇が彼らの心をとらえることができなかったためだと言える。劇場入場者数はさらに少くなった。したがって劇場には毎度お馴染みの人が集まるという状況がみられた。熱狂的な演劇ファンだけが座席を占めたため、場内の雰囲気はいやが上でも高まり、観客の芸術的な観賞レベルはかなり高まっていっただろう。そのため、こうした演劇のファンは、劇場に通う頻度が減るどころか増加したものと思われ、そのためか、東京の年間観客数は全体としてみれば著しく減少しなかったのだろう。
 明治末から大正初めにかけて、演劇界は舞台の出し物だけでなく、興行形態まで、様々な改善や改革が行われた。歌舞伎では新たなスター、芝翫梅幸、二代目左団次などが出現し、古典と新作を並列して上演することが試みられた。歌舞伎の新しい時代への模索は、作品だけでなく、帝国劇場の全席椅子席、切符の前売り制度、茶屋の廃止などとっいた興行体制の改革にもおよんだ。さらに大正二年(1913)、松竹が歌舞伎座を入手し、その初興行を契機として、直営案内所の設置、席券は一人でも場所割表を見せて、随時に前売りをするという方法など、関西人的な感覚で運営され、近代的な興行へと導かれた。演劇界が旧習を打破する積極的な対応を続けた裏には、演技者がどんなに熱演しても、観客が増加するどころか、年々緩やかではあるが減少していたことに危機感を持ったためと思われる。                          
 このような演劇界の対応が実ったのか、大正四年(1915)から観客数が増加しはじめた。この時、観客を動員したのは、小難しい新劇や伝統的な歌舞伎ではなく、喜歌劇とか浅草オペラと呼ばれる出し物であった。観客の増加は以後大正七年(1918)まで四年間も続き、その数は大正三年の観客数の2.3倍、653万人にも達した。ところで、この頃、国内の景気は悪化し、物価の高騰著しく、特に庶民の生活に直結する米の価格は暴騰していった。富山県下の寒漁村からはじまった、「米よこせ」をスローガンに掲げた「女房一揆」は、全国に波及し、未曾有の混乱を生じさせた。そして、この騒動によって全国中等野球大会(今の高校野球大会)が開催できなくなるなど、大衆の娯楽にも大きな影響を与えた。東京でも日比谷公園をはじめとして、米騒動は数日にわたって起きたが、その年の劇場観客数は、減るどころか90万人も増加し、それまでの最高記録を樹立した。
  こうした大正六・七年の観客増を導いた演劇館は、「金龍館」「常磐座」「三友館」「日本館」など浅草の劇場群であった。これら劇場での大入りを記録した出し物は、なんとオペラで、大半が初演という「女軍出征」「サロメ」などであった。しかも、観客の大半は、これまで演劇とそんなに縁のなかった人々であった、興味半分で劇場を覗いたら、意外におもしろいかったのだろう。当然、観客は本物のオペラを知らないから、自分たちの理解できる部分だけを「浅草オペラ」として楽しんだ。当時の流行歌に「コロッケの歌」というのがあるが、これは浅草オペラで歌われていたものである。なお、「浅草オペラ」が成立した下地には、イタリア人、ジョバンニ・ベットリオ・ローシーが私財をなげうってまで本物のオペラを日本に根づかせようと貢献したという事実があったことを触れておきたい。ここでも、彼の期待した芸術性の高いオペラは、大衆に理解されず、当時の日本では本物のオペラとは程遠い軽演劇に発展していった。


  新国劇が旗揚げされたのも大正六年であるが、こちらも当時はまだ大衆の人気を得るところまではいたらなかった。これも、大正九年(1920)の「月形半平太」あたりから人気がでて、「チャンバラの新国劇」として定着し、大衆を劇場に向かわせて足を運ばせた。劇場の入場者数は、大正八年より多少減少したものの、400万人を下回ることはなかった。大正十二年(1923)の関東大震災による影響は大きかったが、翌々年の十四年には再び500万人のラインを超え、演劇観賞はその裾野を広げていった。大正時代の劇場入場者数の増加は、演劇が大衆の娯楽として楽しまれるようになったことによるもので、演劇界で論じられていた「芸術性」というものが大衆に理解され、共感を得られたためとは言えないだろう。