再び盛り上がる十一年秋の市民レジャー

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)228
再び盛り上がる十一年秋の市民レジャー       

 十月四日「オリムピツク本隊帝都へ凱旋」と見出し、「入京の雄姿」と東京駅前行進など3枚の写真を掲示している。日の丸の旗を先頭に、まるで軍隊行進の様相を伝えている。昭和十一年の年初から、建国祭奉祝式大行進、満州出征や凱旋など、戦争がじわじわと忍び寄るも、市民は何ら心配なく遊んでいる。十一月には「日独防共協定」に調印、やがてファシズムの道を進むことになる。
 十二月に西安事変(張学良らによって蔣介石軍が拉致監禁される)か起きる。事件は日本の陰謀との疑惑もあったらしいが、日本が直接関わるということはなかった。この事件、不可解なことが多く、どのように収束されたか、その真相はいまだ不明とされている。ただ、この事件後に、共同抗日と国共合作が進むことになり、その後の中国との戦争に大きく影響する。また、西安事変がなければ共産党は、ほどなく消滅していたとの見解もあった。
 年末の市内の様相は、軍需景気により「ボーナス袋一斉爆発」とあるくらいで、歳末景気が盛り上がった。

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昭和十一年(1936年)十月、国民唱歌放送開始「海ゆかば」⑬、お会式に七十万の人出など市内のレジャーは活気を取り戻す
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10月2日a 川越競馬場で馬券販売数を守らず閉場
  4日a 電気館等「風流小唄侍」他実演で満員御礼
  12日Y 日米国際庭球大会第二日、田園調布読売大庭球場に観衆約一万四千
  13日A お会式大交響楽、人出七十万
  17日A 日本劇場「新婚レジャー」動物曲芸団他満員御礼
  20日A 「雨にベッタラ 大根の客待ち顔!」
  26日Y 日米国際庭球大会最終日、観衆一万六千
  31日ka 晦朔両日は浅草より玉の井あたり最も賑なりと云う。この夜雷門仲見世の辺大に混雑す
 
 競馬は1万人以上の観客を集める事は稀であるが、そこそこのファンを集めている。馬券は一レースに付き1人1枚しか買えないことになっていた。しかし、現実には窓口に二回以上並ぶなど、必ずしも守られていなかった。ところが川越競馬場では、観客数が少ないため一人に4・5枚売ったことがばれ、直ちに閉場させられた。観客は怒って、電車賃を返せと迫った。
 「紅葉列車はいかが 三十万の遊山客を目当てに、秋に意気込む東鉄」3aと、行楽シーズンである。市内の人出は多く、一日、荷風は「向島終点に花電車の停留するに会う。見るもの堵をなす」を見ている。三日には東京駅にオリンピック選手を出迎える群衆。また、多摩川京王閣でトタン屋さんの運動会、市内のプール(芝・上野・日比谷・大塚・井之頭)を釣堀として公開(半日50銭・一日1円)、日比谷公園で公園祭、文殊院で「蟻の市」、深川衛生会の五十周年祝賀会、その他にも花月園などの知らせや広告がある。
 十二日の池上のお会式は、「七十万」の人出。その割には、万灯が42・高張18と以前より少ない。また、迷子も21人、賽銭泥棒25人とやはり少ない。十六日付aで「どこへ出かけよう二日続きの休日を楽しみに」と、各地の行楽便り。
 十八日はロッパの日記に、「有楽街の人出は大変なもの」。二十二日から二十四日まで靖国神社秋の大祭。恒例の国技館多摩川園の菊人形、展覧会などが催され、また四日から二十五日の千秋楽までロッパの有楽座『ハリキリボーイ・河内山』が満員。市民レジャーは九月より活気を取り戻したが、前年ほどの盛り上がりは感じられない。

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昭和十一年(1936年)十一月、国会議事堂完成⑦、日独防共協定締結(25)、明治節等久しぶりのイベントに市民レジャーは盛り上がる
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11月1日a 日比谷公園の菊大会、二十三日まで
  2日A 早慶戦、その後の銀座では検束騒ぎ早大26人対慶応8人で早大連勝
  2日A 鎮座記念祭、二十万を超えた
  4日Y 多摩川園“菊花天国”未曽有の人気四万五千人
  4日A 靖国神社の体操祭「無慮一万人の偉観躍動美」
  7日a 豊島園で松竹少女歌劇大運動会、水之江他3百名
  11日a 帝国劇場等「巨星ジーグフェルド」他満員御礼
  11日a 国技館「今が菊の真っ盛り」
  12日A 大賑わいの一の酉、人出十五万、迷子6掏摸2
  18日A 三千円の夢を追って「何と三万人」
  21日a シネマパレス「サイレント週間」満員御礼
  22日ka 二の酉「参詣の群集亦甚しく雑遝せず」
  30日Y 職業野球、第二次東京リーグ戦第一日、洲崎東京球場内外野超満員

 十一月に入り、明治節には、陸上競技大会などに加えて、靖国神社の体操祭、日比谷公会堂の記念講演会、奉祝音楽行進が賑やかに行われた。多摩川園の“菊花天国”には4万5千人も入場、その他にも日比谷公園で菊大会(1千3百鉢・切花五千余)、上野で第五回日本犬展(百頭を超える名犬)、市内学校の運動会などが各地で催された。
 翌日四日、市内主な繁華街の通行人調査が午前十一時から午後九時まで十時間行われた。その結果は、翌年三月十六日付の朝日新聞に、銀座が24万人・新宿が21万人・道玄坂が12万人・上野広小路が12万人・神楽坂が6万2千人・亀戸が5万7千人・高円寺が5万人とある。銀座のその他の交通量は、自転車3万7千台・自動車1万6百台・バス4千7百台、他にサイドカー・トラック・リヤカーの順である。
 一の酉の人出は、象潟署が十一万五千、坂本署が六万七千、日本堤署が二万一千で、合計では二十万人を超えるのを「十五万」としている。珍しいことである。十七日、第二回割引勧業債権の売出しに、一等富籤3千円に惹かれて前日の午前四時頃から並びはじめた。午後六時に3千人を超え、勧銀前から帝国ホテル、さらにガードと「約三万」人の行列となり。午後九時頃には、一枚20銭の菰売りが出現、パン屋が繁昌、中には将棋を差しながら夢を求める市民がいた。

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昭和十一年(1936年)十二月、西安事変⑫、軍需ボーナス袋一斉爆発 すさまじく駈ける歳末景気(30)
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12月6日a 浅草電気館等「伊達競艶録」他満員御礼
  7日Y 職業野球第八日、洲崎東京球場内外野共超満員
  10日A 歳の市、出店の景気よし
  10日a 有楽座「歌う金色夜叉」他連日満員
  10日a 松竹館「人妻椿」大好評につき五週続映
  15日A 高輪泉岳寺義士祭、午前中だけで五万人
  25日A 銀座、もみくちゃXマス・イブ
  29日a 寝台車は売切れ、初詣客に終夜運転、臨時列車も増発
  30日A スキー列車あて外れ、二百人で3両切離し
  30日A 「勃興相撲熱」春場所売切れ

 師走に入っても映画館や劇場の満員広告が続く。「大入り“阿呆劇”」Y⑭とあるように、エノケンやロッパが人気、ロッパ日記には八日から『女夫鎹』『歌う金色夜叉』が大受け、有楽座は二十七日の千秋楽まで満員が続いた。
 義士祭は二百三十五年目、高輪泉岳寺には十四日の午前零時から参詣者が訪れ、午前中だけで「約五万人」で賑わった。日比谷公会堂で「赤穂義士追録の集い」が催され、本所東両国の昔吉良邸があった松坂史跡公園でも義士祭が催された。
 歳の市は軍需インフレを反映して、十三日の深川八幡は420余軒、浅草は612軒を突破する店が並ぶ景気。歳末の市内は賑わっており、Xマス・イブの銀座は大混乱。寝台車は売切れ、初詣客に終夜運転がなされ、年内中に春場所の切符が売切れた。大晦日は、「街上を酔漢多ければ地下鉄道にて浅草雷門に往く・・・仲見世広小路到処雑遝せり・・・再び銀座に戻り久辺留の店口を過ぎりしが知る人もなく、酔漢のみを多きを以て直ちに去る」と、荷風は日記に書いている。市民のレジャー気運は高まったまま年を越しそうである。

オリンピックで沸き上がる十一年夏の市民

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)227
オリンピックに沸き上がる十一年夏の市民     
 二・二六事件の翌日に出された戒厳令が七月十八日に解除されると、防空演習が実施された。八月には軍部支配を助長する「国策の基準」を決定した。国策の基準とは、広田内閣が五相会議(首相・外務・大蔵・陸軍・海軍)で定められたもので、陸軍と海軍の「南守北進論」と「北守南進論」を採用した。つまり「南北併進」、東南アジア・ソ連の双方へ進出することを国策とした。これで、日本が総力戦に備えた高度国防体制を確立し、戦争への道を歩み始めることになる。また、「北支処理要綱」を定め、陸軍の方針の華北五省を中国から切り離し、日本の勢力下に置くことを政府の政策として決定した。
 八月一日から第十一回オリンピック競技大会がドイツのベルリンで始まった。まず四日、走り幅跳びの田島選手が三位入賞、初の日章旗が揚がった。六日には、同じく田島直人三段跳で金メダルを獲得、これで一気に、ベルリン・オリンピックに沸いた。さらに九日、マラソン孫基禎が優勝した。そして、十一日、前畑秀子が200m平泳ぎで女性初の金メダルを獲得した。この試合はラジオ中継され、放送したNHKのアナウンサー河西三省よる絶叫、「前畑がんばれ! 」は、日本オリンピック史の伝説となっている。沸きに沸いたベルリン・オリンピックは、十六日に終わり、金メダル6個、銀メダル4個、銅メダル11個の成果を獲得し、世界で七位であった。
 国民、市民に高揚感があり、不景気の様相は消えたようだ。市内には人出があるものの、天候不順、目ぼしいイベントがなかったことから、映画などを除き市民レジャーは盛り上がりに欠けた。
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昭和十一年(1936年)七月、陸軍軍法会議で2.26事件の判決⑤、東京・横浜・川崎三市連合防空演習開始⑳、上野動物園の黒豹脱出(25)、梅雨空が続き、一部の興行を除いて市民レジャーは低調
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7月2日y 早大球場で職業野球選手権大会、大隅候の始球式、すし詰め一万のスタンド
  5日a 浅草電気館等「破れ合羽」他満員御礼
  16日a 浅草電気館等「大地の愛」他満員御礼
  16日a 麻布松竹等「入婿合戦」他満員御礼
  16日a 帝国劇場館等「極楽浪人天国」他満員御礼
  16日y 藪入り「水と山の遠出が流行」谷津海水浴場も大賑わい、正午の入場者一万を突破
  17日y 涼を求めて国技館の「日本アルプス」に殺到
  19日Y 川開き「一目千両・人出八十五万」
  20日y 海水浴客満載の京成電車追突
  24日a 日本劇場「エノケンの千万長者」連日満員
                                                
 三日、荷風は、伝法院裏門外より池のほとりに並んだ露店を覗き、「人の殊更多く集るものは八ツ目鰻のつけ焼きと姓名判断の冊子得るところなり」と記している。「銀座八丁を泳ぐ夜涼み姿」A⑫と、市内には人出があったのだろう。そのため、ロッパは、十五日の藪入りの入りに期待していたが、「お盆は丸の内じゃいかんかな」、客を「今日は暑いから海へとられたらしい」と日記に書いている。
 続く十八日は川開き。テーマは「オリンピック大会」、前年より「三十五万人」も多かったとあるが、取締りが厳しいためかスリ1、ケガ1、泥酔1などと少なかった。
 二十日、満員の続いた日劇の「歌う弥次喜多」などの興行は千秋楽。ロッパは気分よく劇場から外へ出ると、防空演習の第一日なので真っ暗、演習を逃れて東京発十時半の列車で熱海に向かった。二十七日、ロッパは、東京劇場の少女歌劇「夏のをどり」「忘れな草」を見て、「ターキーの馬鹿な人気には驚いた・・・こんな華かな拍手と歓声に乗って登場したのは」見たことがないと。二十八日の日劇エノケンの千万長者」を見ても関心している。三十日、「地下劇場のニュースを見ようと思ったら満員、何しろ暑いので都人は映画館へ涼みに入るのだ、浅草は益々さびれるわけ」と日記に書いている。

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昭和十一年(1936年)八月、第十一回オリンピックベルリン大会開催①、七大国策の基準を決定(25)、日本国中がオリンピックムード一色になるが、夏のレジャーは低調
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8月2日a 浅草電気館等「江戸秘帖」他満員御礼
  6日a 日本劇場「これは失礼」他満員御礼
  17日Y 国技館の大納涼「日本アルプス」、プロマイド配布で「入場者無慮二万余」
  18日A 日比谷音楽堂前でオリンピック実況映画公開
  19日a 帝国劇場等「最後の戦闘機」他満員御礼
  26日Y 森下公園の盆踊大会で悲劇
  26日a 帝国劇場・大勝館等「小公子」他満員御礼
                                                
 八月に入り、人々はベルリンオリンピックに熱をあげている。四日に走り幅跳びの田島選手が三位、初の日章旗が揚がる。棒高跳びで、西田・大江の両名で二位三位の争いを繰りひろげ、興奮をさらに高めた。三段跳び、マラソン、水泳の前畑と、金メダルが続くにしたがってオリンピックムードのボルテージはピークに達した。
 海や山への人出を伝える記事が少ない。それでも、川崎扇島ゆきのバス衝突事故a⑦から海水浴、森下公園の盆踊大会の事故などの記事から、夏のレジャーはそこそこの賑わいがあったと思われる。
 ロッパの八日の日記から、有楽座公演「歌う弥次喜多」などは「無論大入満員」。荷風の十五日の日記から、「言問橋西岸に花火の催しあり。看るもの織るが如し。此夜伯林オリンピックの放送を十二時より十二時半に至る。銀座通のカフェー及喫茶店これがためにいずこも客多し」。また、ロッパの二十四日の日記に「今年の夏の興行は冷房の勝利」と、映画や芝居も前月より活気を取り戻した。

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昭和十一年(1936年)九月、帝国在郷軍人会公布(25)、市民のレジャー気運は引き続いて低調
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9月2日a 秋草繁し震災記念日
  2日a 帝国劇場等「妻と女秘書」他満員御礼
  5日a 日本劇場・秋の踊り「続エノケンの千万長者」他満員御礼
  12日a 帝国劇場等「地の果てを行く」他満員御礼
  13日a 六大学リーグ戦開幕、「浄化宣誓も力強し」約五万の観衆
  19日A 九段軍人会館「満州事変五周年の夕べ」盛況過ぎて十数名負傷
  19日a 日本劇場「来るべき世界」他満員御礼
  20日a 浅草電気館等「戦場に吠ゆ」満員御礼
  23日a 「秋祭りの悲劇二題」白山神社の祭
 
 九月になっても市民レジャーは低調、市内のイベントは学生野球ぐらい、市民の楽しみは映画や演劇に向かわざるを得ない。また、荷風の二十日の日記にあるように「日曜日にて街上雑遝甚し」と、銀座などの繁華街に出歩く程度である。祭も行われているが、話題になるは事故が起きた時くらい

政況や戦争には無関心の春の市民レジャー

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)226
政況や戦争には無関心の春の市民レジャー
 三月に成立した広田内閣は、メーデーを禁止する。五月には、軍部大臣現役制復活(軍部大臣の就任資格を現役の大将・中将に限定する制度)を認める。これによって、内閣は陸軍大臣を推薦が得られなければ、組閣ができない。つまり、陸軍の要求を受け入れなければ、何も決められず、「国家総動員法」など戦争への道を進むことになる。やはり気になるのは、このような事態になることを東京市民はわかっていたのだろうか。
 同じく五月、満州に出征する兵士を品川駅前に大歓送群があった。名目は出征とあるが、日本の満州侵略である。土地を奪われ、難民として流出した困窮する人々のいたことを、どのくらいの市民が知っていただろうか。たとえ理解できる人がいたとしても、四月に躍進日本工業博覧会が催され、五月に阿部定事件が発生するなど、市民の気を引くものに目を奪われていた。
 春の花見に浮かれる記事Y⑥がある一方、その横に「東北に甦る青春」「處女 千八百の凱旋」「貞操切符買戻し代」「十餘萬圓也」の見出しがある。東北地方の凶作で身売りをする女性の救いを伝えるものであるが、これも市民がどの程度伝わっていたのだろう。
 六月に、日本放送協会(NHK)は大衆歌謡の向上のために、「椰子の実」「夜明けの歌」「春」などの新作曲をラジオで放送した。その煽りではないが、政府の内務省から「忘れちゃいやヨ」発売から3ヵ月後に発売を禁止の指令が出る。その理由は、『あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる』と、ステージでの上演を含めて禁止となる。なおその後、改訂版としてタイトルを「月が鏡であったなら」と改題し、歌詞の一部分を削除してレコードを発売した。なんと、禁止されたことが注目を集めたか、大ヒットする。              
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昭和十一年(1936年)四月、上野公園で躍進日本工業博覧会開会⑤、天候不順で花見は盛り上りを欠いたが、レジャー気運は高い
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4月5日ka 白髭明神の縁日を見歩き、地下鉄道でかえる
  6日A 満都に「人の花」爛漫、「ケシ飛んだり“帝都の憂鬱”」
  7日ka 八丁堀の夜店を見てかえる
  12日a 六大学リーグ戦「開幕に大観衆」
  13日Y 「つゝじ・桜の多摩川園」入場者数一万五千
  16日a 浅草帝国館・丸の内松竹「お夏清十郎」林長二郎田中絹代の実演で満員御礼
  28日A 靖国神社合祀の全遺族を招待の慰安デー開催

 飛び石連休、「雷門に着するに祭日の人出既におびたゞし」と、荷風の日記から人出があったことがわかる。また、「あすはお出かけなさい=天気は上乗」a⑤の誘いもあって、四月最初の日曜、五日は「人の花 爛漫」。「ケシ飛んだり“帝都の憂鬱”」とまだ咲かないサクラの下で、待ちきれない人々の花見が繰りひろげられた。
 その後は、花見列車が運転され、人出が期待されたが、十二日は降らないものの「寒い寒いお花見」A⑬となった。また、六大学リーグは盛り上がりが弱く、早慶戦も、不成績で今一つの人気であった。
 二十七日の日曜、多摩川園の「つゝじ人形」は「入場者実に三万人」y(28)と市民レジャーに活気が戻った。ロッパの日記も、「招魂社のお祭り見物、八幡の藪しらずが流行で、二つ出ている。五銭出して入る」とあるように、靖国神社の例祭は賑わっている。荷風も「祭日つづきにて銀座辺雑遝殊に甚し」と二十八日の日記に書いている。

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昭和十一年(1936年)五月、メーデー禁止①、衆議院で斉藤隆夫が粛軍演説⑦、阿部定事件⑱、大相撲の人気がますます高くなる
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5月3日a ウイルヘルム・ケンプさよなら演奏会広告
  3日a 浅草電気館等「暁の爆音」他満員御礼
  9日a 満州出征、品川駅前の大歓送群
  15日a 大相撲初日、前夜から大入
  17日a 浅草電気館等「宮本武蔵」他満員御礼
  19日y 三社祭賑わう
  20日A 大相撲六日目も満員
  22日a 新宿新歌舞伎座「パラマント・ショウ」大好評日延べ
  24日a 日本劇場「海賊ブラッド」他満員御礼
  25日Y 「福引の大賑わいの多摩川園」

 二日、「天神の境内に入るに藤まつりと書きたる灯処々に立ち、人出にぎやかな」光景を、荷風は見ている。十日日曜の日記に、「晩食後銀座漫歩。いずこの飲食店にも制服の学生多く入り込み喧騒甚し」とあるように、市内の人出は活発。十七日も、「浅草三社の祭礼を見る。向島白髭明神も縁日なり」。また二十日に、「玉の井稲荷縁日にて、組合事務所前の道路には夜店出で歩めぬのほどの人出なり。稲荷の境内には植木屋多く出づ」と、市内では祭が催され、賑わいがあった。
 大相撲は、「“相撲興隆”の新記録」と、通常であれば午前五時から開けるのだが、前夜からファンが押しかけ午前二時に席に殺到するという事態。その後も、「木戸止めの大相撲」a⑰など満員が続いた。映画館や劇場も中々盛況で、満員御礼の広告が続くなか、ウイルヘルム・ケンプ演奏会の広告も度々あり、入場料は明治生命講堂が2円と3円、日比谷公会堂では2円・3円と5円もある。
 十八日「阿部定が情夫を殺害する」事件発生、「局部切り取り逃亡」という好奇を誘う事件だけに、銀座は「噂立てば通行止めの大騒ぎ」a⑳で、以後も市民の関心を集めた。なお、月半ばから空模様がハッキリしなかったが、二十四日の多摩川園は福引で大賑わい、羽田では航空知識普及の会が催され「二万観衆」との朝日新聞号外が出ている。

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昭和十一年(1936年)六月、国民歌謡放送開始①、「忘れちゃいやよ」は流行歌初の発売禁止(25)、落語家など愛国演芸同盟結成(30)
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6月7日a 浅草電気館等「五々の春」他満員御礼
  7日Y 多摩川で全国自動車競争大会
  8日A 第二回日本体操大会関東大会、明治神宮競技場に一万六千余名参加
  12日a 丸の内松竹「パラマント・ショウ」他満員御礼
  14日a 浅草帝国館等「荒川の佐吉」他満員御礼
  21日ka 烏森の縁日を見る
  28日a 浅草電気館等「聖処女」他満員御礼

 荷風の日記から、二日「玉の井稲荷の縁日にて人出多し」、七日「夜物買いにと銀座に往く。日曜日にて街上書生の泥酔するもの甚多し」、など市内の人出は五月から続いている。映画も浅草電気館などが満員御礼の広告を数多く出しており、市民のレジャー気運は高い。
 「国民歌謡」の放送がはじまるが、流行歌『忘れちゃいやよ』のレコードが発売禁止になり、レジャーの規制は進んでいる。また、落語家や講談師など250名が愛国演芸同盟を結成、カーキ色折襟、戦闘帽の制服を作ったりと娯楽にも軍事色が徐々に浸透している。
 

大事件とは無縁の十一年冬の市民レジャー

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)225
大事件とは無縁の十一年冬の市民レジャー
 一月にロンドン海軍軍縮会議脱退。二月の衆議院議員選挙で社会大衆党進出し、軍部主導に不安な国民の声が表われたが、二・二六事件発生でかき消されてしまう。市民のレジャーを見ていると、大きな事件が起きても何ら関係なく楽しみを求めているように見える。確かに、二・二六事件がどのようなものであったか、当時の人々には説明されていないし、理解できなかったのであろう。
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昭和十一年(1936年)一月、日劇ダンシングチーム『ジャズとダンス』で初公演⑬、ロンドン海軍軍縮会議脱退⑮、初詣は減って、浅草などの興行街に人は流れ、正月の市民レジャーは盛り上がらず
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1月3日Y 帝国劇場・大勝館・武蔵野館「テンプルちゃんお芽出度う」他連日超満員御礼
  4日A 元日の省線乗降客六十五万人、明治神宮の初詣の乗降客、原宿駅が三十万人、代々木駅が十一万人
  7日a 出初式、宮城前に消防組員六千人のビック・パレード盛観。特に許された参観者一万人
  9日y 陸軍始観兵式、在京一万二千、市民の拝観数万
  9日a 帝国劇場等「トップ・ハット」他果然満員
  11日a 大相撲初日、前夜から数百名詰めかけ、午前十時に札止め
  16日a 浅草電気館等「己が罪」他満員御礼
  22日A 日比谷公会堂諏訪根自子「渡欧の夕」超満員
  23日a 浅草帝国館・新宿松竹・麻布松竹・丸ノ内松竹「雪之丞変化」他満員御礼
  25日A 芸妓や女優の豆撒き罷り成らぬ、文部省
                                                
 元日の初詣は、省線の乗降客数から見ると明治神宮がもつとも多く41万人(下車は半数)、次に多いのが川崎大師で8万人、成田山は2万6千人。この年の初詣は例年より少なく、明治神宮でも参拝者は、市電やバス利用などを加えても実数は30万人を超えないだろう。
 二日は小雨、初詣客はさらに減って、三箇日の人出は浅草などの興行街に流れた。正月の娯楽は、映画と演劇と言って良いほど。また、相撲人気を反映するように、春場所前日から詰めかけ、午前十時に札止めの盛況。取組み内容は、横綱を狙う男女ノ川が2敗するなど盛り上がりを欠いていたが、客の入りは千秋楽まで満員。これは、他に見るべきものがなく、レジャーの選択肢が狭いためだろう。
 二十一日の諏訪根自子“渡欧の夕”は日比谷公会堂を超満員にした。また、二十七日の「歌の帝王」シャリアピンのリサイタルも満席。新しいものが提供されれば、何でも飛びつくようで、十三日に初演された日劇ダンシングチームのラインダンスは、観衆を驚かした。

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昭和十一年(1936年)二月、五十四年ぶりの猛吹雪④、衆議院議員選挙で社会大衆党進出⑳、二・二六事件(26)、戒厳令施行(26)、雪の多い割には映画館や劇場は健闘
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2月1日a 富士館等「白衣の佳人」他満員御礼
  2日a 浅草帝国館等「若旦那百万石」他大入満員
  5日T 節分列車は大部分中止
  9日T 建国祭奉祝式「代々木原頭に若人大行進」、都下大学高等専門学校三十五校一万五千
  9日a 浅草電気館等「大尉の娘」他満員御礼
  12日a 市内七ヶ所で紀元節祭、三百余団体六万三千人
  16日a 浅草電気館等「洋上の感激」他満員御礼
  17日T 待望“春”の第一日、浅草に繰り出した人「実に卅万突破」で映画館満員、上野動物園に一万五千
  23日a 浅草電気館等「武器なき人々」他満員御礼
  28日a オリンピック選手歓送乗馬大会を中止
 
 豆撒きは、前月、文部省は「宗教粛正」から「レビュー化厳禁」を申し渡された。それでも、池上本門寺は、既に人気歌手と契約しているため本年限り、と了解を取った。また、「その他にも二流以下ではお寺の懐具合から『今年だけは・・・』とコッソリ映画女優やレビューガールを出演させる寺も相当あるらしい」a④。高島屋成田山とタイアップして「追儺式挙行三回」の広告を出すなど、自粛は守られていない。
 ところが四日は、五十四年ぶりの猛吹雪、市内の交通が麻痺してしまい追儺式どころではなくなった。浅草寺はさすがに福袋が一万ぐらい売れたが、成田山京成電車が朝のうちに1万人送っただけで停電、池上本門寺は人出2千人、という有様。なお、市民は大雪に大混乱しているが、「劇場やカフェーも男女の雑魚寝姿」y⑤等の写真に、市内に暗さは感じられない。
 二月に入っても映画の満員御礼広告が続いている。市民レジャーに活気がある、その勢いを反映するかのように、二十日の総選挙では「躍り出した無産党」「狂気の社大党」aと大衆政党の躍進があった。しかし、東京市民の声が国政にどの程度届くのか、不安を感じていた人が多かっただろう。
 二十五日の銀座は、「蓄音機屋の店頭に人多く立だずみ三味線くずれとやらを云う流行歌を聞けり。日未だ暮れやらぬ時、銀座通の人ゆききと蓄音機の俗謡と貧し気なる建物とはいかにも浅薄な現代的空気をつくりなしたり。夜となりて灯火かがやき汚らしき商店の建物目に立たぬ頃に至れば銀座通は浅草公園仲店の賑いを呈するなり。いずれにしてもこれが東京一の繁華なる町とは思われぬなり」と、荷風は日記に書いている。
 二・二六事件勃発、市内の劇場や映画館は一斉に閉場した。翌日、戒厳令施行。「溜池より虎の門のあたり野次馬続々として歩行す。海軍省及裁判所警視庁皆門を閉じ兵卒之を守れり。桜田其他内曲輪へは人を入れず。堀端は見物人堵をなす。銀座尾張町四辻にも兵士立ちたり・・・銀座通り人出平日よりも多し。電車自動車通行自由なり・・・八時過外に出るに銀座通の夜店遊歩の人出いよいよ賑なり・・・虎ノ門のあたりの商店平日は夜十時前に戸を閉すが、今宵は人出賑なるため皆灯火を点じたれば金比羅の縁日の如し」。これが荷風の見た二十七日の風景である。
 また、古川ロッパも二十九日の日記に、「日比谷映画も地下ニュース劇場も、日劇も興行している、平和である」と、書いている。

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昭和十一年(1936年)三月、チャップリン夫妻入京⑥、蔵相の声明で株価一時的に暴落⑩、大事件を忘れようとするかのように市民レジャーが活発になる
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3月1日a 日曜“大事件”跡形もなし、浅草はすごい人出
  7日a チャップリン夫妻来京
  8日a あすから梅見列車
  12日ro 日劇へ着いてみると、もう大半満員「凸凹放送局」「ガラマサどん」「さらば青春」
  20日ro 日劇十日間昼夜二回、完全に満員
  23日A 「春うらら 郊外に押出した市民 ざっと四十万」
  27日a 大勝館等「ヂャングルの王」圧倒的大満員
  27日y 社交ダンス、ホール以外法度、家庭パーティも弾圧
  30日a 満都、ファンの陶酔、熱戦、春風とともに「運動デー」野球やラクビー
                                                
 まだ、二・二六事件が解決していないのに、浅草にはすごい人出。六日、チャップリン夫妻入京。前回訪れた時は「五・一五事件」と、大騒動と縁がある。日比谷周辺には、事件の跡を見に訪れる人が多く、「銀座に行くに何ということもなきに人出おびたゞし、田舎より出で来りし人も多し」と、荷風は十一日の日記に。また、十五日は「人出夥しく広小路にも夜店立ちつづきたり」と浅草公園の賑わいを記している。大事件の後にしては、映画・演劇とも盛況である。
 彼岸になると、「遊覧案内」A⑳に、久地梅林・早咲き桜の大島・名勝江ノ島多摩川園のつつじ人形・八王子競馬・高尾山詣などの広告が出る。二十二日は、新宿駅の乗降客が20万、上野駅では15万、その他郊外へ電車で「四十万」の市民が出かけた。市内も、二重橋前・上野公園・浅草公園など「人波で、どこもここも春一色」となった。また、次の日曜も大勢の市民が行楽に出かけた。

再び盛り上がる十年秋の市民レジャー

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)224
再び盛り上がる十年秋の市民レジャー
 秋に入ると、街中に人々が急に出歩き始めたようだ。荷風も「銀座裏通酔漢多し」と日記に記している。映画は別として、盛り上がったように見えるのは官製イベントの影響がある。それでも、大勢の市民は軍需インフレに踊らされているが、まだ自由に遊ぶことのできる余地を楽しんでいるようだ。
 街中の様子は、暮れになっても前年のような暗さがなく、大晦日の銀座を「表通の雑沓を宵の口に変らず。灯火昼の如く酔歩放歌するもの多し」と荷風が記している。
 新聞の論調というか、書く姿勢が明らかに軍国調になってきた。中でも気になるのは、現代の感覚からすれば何とも言えない見出しを連続させている。その例として、連合艦隊等の4万の半数ともなる将兵、「帝都に水兵服漲る 明朗!軍国の秋 力強き海の護り二万の将兵 潮の如く上陸す」「戀しき土の香に 胸躍らす海の子 到るところ歓聲爆笑」「五百の女学生が 日比谷でお接待 市の歓迎会の賑ひ」「神宮球場も開放」、さらに「天高く・・・  二万水兵うち雪崩・・・」と続く。
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昭和十年(1935年)十月、第四回国政調査①、台風で浸水一万数千戸(26)、秋の行楽たけなわ
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10月2日A 上野松坂屋伊藤博文公展覧会、入場者十万人を超えた
  6日a 帝都に水兵服漲る、二万人
  8日a 松竹座エノケンの「大学万歳」他満員御礼
  12日ka この夜土曜なれば銀座裏通酔漢多し
  13日A お会式、人波五十三万、万灯は百十位
  17日a 浅草帝都館「永久の愛」満員御礼
  19日a 帝国劇場・大勝館「結婚の夜」他満員御礼
  19日A 帝都座・富士館「追分三五郎」他満員御礼
  20日a 浅草電気館等「新納鶴千代」他連日満員
  21日A 人出、この秋随一数十万
  25日a 帝国劇場等「ワルツ合戦」他満員御礼
  30日a 早慶戦発売と共に入場券売切れ、六万の観衆
  30日a 神宮外苑競技場で一万二千の精鋭を集め、第八回明治神宮体育大会
                                                
 五日の朝、連合艦隊の「二万の将兵」が芝浦から上陸。歓迎の群衆が見守るなか、銀座・日比谷・虎の門の三方向から宮城に行進、「万歳を絶叫」して、水兵たちは市内に散った。日比谷公園には水兵歓迎会場が設けられ、歓迎会や余興などのもてなし。神宮球場では六大学リーグ戦の外野席を無料で開放。土曜日ということで、市内各所は水兵たちの参加で賑わいを増した。
 お会式は、前年より万灯が少なく110位に減ったが、大半が電化された。人出は20万人減の「五十三万」にしては、かっぱらい33件、スリ6件、賽銭泥棒35件、迷子20件、泥酔5件と事件は多い。
 二十日日曜、絶好の秋晴れ、新宿駅から25万人、上野駅から10万人、両国駅から5万をはじめとして、ハイキングやピクニックに出かける家族連れで電車は満員。市内も、上野は動物園が2万5千、美術館なども人で埋まり、神宮球場早明戦や慶立戦が早慶戦に優るとも劣らぬ観衆、あちこちの運動場では、運動会の花盛り、この秋随一「数十万」の人出となった。
 二十九日、第八回明治神宮体育大会が神宮外苑競技場で「一万二千人の精鋭を集め」開会。この年の特徴は、「事務服を脱いで 女軍の躍進」と、これまでの女子競技は女学生が中心であったが、「職業婦人」の進出が目立った。
 同日、神宮球場では早慶戦、開場と共に内外野席1万1千枚が売切れる熱気。「六万の観衆」のなか慶應の勝利、試合終了後、双方の応援団長が「固い握手」を交わした。が、球場を一歩出ると「つきものの 銀座・早慶打撃戦」。白腕章の慶應、赤腕章の早稲田の学生が、喧嘩の仲裁や交番からの貰い下げに奔走するが手の打ちようがない。バーは学生の出入り禁止のため、ビヤホールやおでん屋などは、遅くなるにつれ『本日売切』の看板を出して休業する所も多かった。

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昭和十年(1935年)十一月、明治節・帝都空前の人出、華北武装地帯に冀東防共自治委員会成立(25)
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11月2日a 上野祭、明治大帝上野公園行幸六十年記念式典
  3日a 帝都座・麻布日活・神田日活・富士館、入江たか子の「明治一代女」他満員御礼
  4日A 結婚式場はどこも大繁昌
  4日Y 帝都空前の人出、明治神宮だけでも百七十万
  4日Y 多摩川園の菊花天国、六万人の入場
  4日ka 夜半より酉の市なりと云う
  13日a 国技館、菊花大会カルケットデー、60銭
  16日a 帝都座等「大菩薩峠」満員御礼
  17日a 浅草帝都館等「せめて今宵を」他満員御礼
  19日Y 巨人軍最終戦万連勝す、月曜にもかかわらず観客は相当につめかけた
  23日a 浅草電気館等「暁の麗人」他満員御礼
  27日Y 多摩川園の菊花天国、福引デー大繁昌
  29日a 新納御誕生奉祝、二重橋前には旗行列の波
  
 景気の改善を反映して、結婚式が増え、東京駅から新婚旅行に出かける人も「数字的記録」。映画の満員御礼広告が増え、市民のレジャー気運は高まっている。明治節は、「明治神宮だけでも百七十万」、近郊に押し出した「ハイキング組も五十万を突破」、「上野の人出は卅万」など、「帝都の人出実に三百万と注される今秋の最高記録」となった。この風潮を荷風は、「二三日来花火の響終日絶える間もなし。昭和以来暗殺提灯行列祭礼など騒がしきことのみ流行する世となれり」と日記に記している。
 また、この年からはじまった多摩川園の菊花天国に「六万」の入場。国技館の菊花大会に加えて、菊人形の名所が遊園地に出現した。園内には、菊人形館3館、演芸場では十八段返し、パノラマなどが遊具の中に配置された。以後も、菊花天国では福引デーが催され、大繁昌であった。
 明治神宮体育大会は、入場券を値下げ「野球が一円と五十銭だったのを、五十銭と二十銭、競技場が一円と三十銭だったのを五十銭と二十銭、その代わり今迄無料だ柔道や排球等を二十銭均一にしたところ柔、剣道、排球などは例年になく人気を集めた、今年は野球が減って陸上が多かった」A④。用意した各競技の入場券は、「十八万枚、招待券十二万枚、計三十万枚」。その他に各運動協会からの招待券などが17万枚程度あった。観客面でも学生中心から一般市民の参加が増えてきたことがわかる。

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昭和十年(1935年)十二月、日劇地下にニュース短編映画専門館開場(30)、年越しソバ一般家庭に流行(31)、軍需インフレで盛り場は「金が降るばかり」の大景気
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12月5日a 御命名の儀・御浴湯の儀(皇室の儀式)、二重橋前に奉祝旗行列、火の海
  8日a 浅草電気館等「暁の麗人」他満員御礼
  15日a シネマパレス「アスファルトファウスト」他満員御礼
  15日A 浅草帝都座等「箱根八里」他満員御礼
  26日Y 銀座八丁、人出六十万の大賑わい
                                                
 十二月に入っても映画の満員御礼広告が続く、レジャー気運は暮れになって落ち込まない。荷風の十一日の日記に、銀座の「歳暮の夜店賑やかなり」と、活気のあることがわかる。松屋向いの井上ラジオ商会が街頭ラジオを設置、ニュースや歌謡曲を流していた。まだ庶民には高嶺の花のラジオ、歩道には人溜まりができ、歳末の賑わいを盛りあげた。
 この年の暮れは、前年のような暗さがなく、活気が伝わってくる。クリスマスの銀座は、「恒例の歳末露店がズラリと百八十軒」並び、「ヘベレケの放歌高吟」する紙帽子をかぶった酔っ払い、デパートから大きな買い物包みを抱えて歩く男女、「人出ざっと六十万人」の大賑わいであった。三十日に、日劇の地下にニュースと短編映画を専門に上映する、第一地下劇場という新しいスタイルの映画館が開場した。大晦日の銀座は、「表通の雑沓を宵の口に変らず。灯火昼の如く酔歩放歌するもの多し」と、荷風の日記に書かれている

天候不順でレジャー熱が冷えた十年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)223
天候不順でレジャー熱が冷えた十年夏
 先月までの市民のレジャー気運は、川開きで一区切りという感じ。新聞紙面は盛況な様子を伝えるものの、天候不順で盛り上がらす。特に八月は涼しく、雨(0㎜以上)が20日、「どこへ行った“夏”まるで梅雨型の変態気圧」とある。日米対抗水上競技大会「水の世界王者争覇戦」と大々的に取り上げ、満員の神宮プールの写真が掲示されている。初日(十七日)の気温は24℃、一般市民が大挙して観戦しているようには見えない。こんな処にも、新聞は、日米の対抗意識させる書き方で、「千五百に日本全勝 堂々七点リード」と優越感を誘っている。
 八月の末からは、台風で江東方面は1万6千戸が浸水。さらに九月は、雨(0㎜以上)が23日と八月より悪化した。二十四日には、市内で5万余戸も水浸する。二十六日はさらに、利根川が氾濫し近県は大被害となった。天候不順で野菜か値上がり、家計も苦しくなり、市民はレジャーどころではなくなったようだ。
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昭和十年(1935年)七月、東京朝日新聞など八社の日曜夕刊廃止⑦、東海道線「特急富士にお風呂列車」運転⑮、夏を向けてレジャーを盛り上げようとする新聞
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7月2日A 川開きのトップ、六郷の花火
  5日a 映画説明者に認可制度撤廃、警視庁
  7日y 歌舞伎座「坊ちゃん」他初日から超満員
  15日A お盆レビュー、浅草で上演中発火大騒ぎ
  18日a 浅草帝都館「かごや判官」他満員御礼
  18日a 浅草松竹館「雪之丞変化」他満員御礼
  22日A 飛び出した都人、海へ山への第一日
  22日y 鎌倉由比ヶ浜の名物謝肉祭、仮装行列
  27日Y 村山貯水池畔の花火大会
                                                
 川開きのトップは多摩川下流の六郷、花火の種類も豊富でなかなかの賑わい。八時頃には橋も広い両岸も水上も、夕涼みがてらの見物人で押すな押すなの盛況。新しい、気軽な感じの花火大会ということで、「近代川開き風景」とある。それに対し両国の川開きは、「不夜城の大川端」とスケールの大きさ、豪華さを見せつけ「五十万の群集」を魅惑した。なお、人出の割には熱気が感じられず、事件は迷子3件・スリ検挙1件・救済9件・交通事故1件と少なかった。
 お盆のレビュー上演中に発火、浅草六区が大騒ぎになった記事がある。市内の興行は盛んであるが、新聞は藪入りの風景を取り上げなくなった。街に小僧さんたちの姿は少ないようで、目につくのは「この夜銀座表通のみならず裏通にも制服の学生泥酔放歌して歩むもの多く裏通の小料理屋の二階にも学生乱酔して喧嘩するものあり」と、荷風は十日の日記に書いている。
 夏休みに入って最初の日曜は、市民が海へ山へどっと出かけた。東京駅からは、横須賀行きの省線が23本増発され、海水浴場は賑わった。鎌倉由比ヶ浜では、「名物謝肉祭」、賑やかな囃子・鳴り物・仮装行列が練り歩き、「万余の浴客は歓呼でむかへて夜更けるのもしらずに踊り狂った」。一方山へは、北アルプスに「千二百名」の登山者が向かった。

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昭和十年(1935年)八月、永田軍務局長相沢中佐に刺殺される⑫、日米対抗水上競技会で世界新記録続出⑰、「暑い夏はいつ来る」とレジャー気運衰退
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8月2日A 日比谷音楽堂卅周年記念祭、超満員
  3日a 浅草電気館等「太閤記」他満員御礼
  6日A 神宮プールの日米水上予選第三日、二百メートル平泳ぎで世界新記録、観衆一万数千
  8日a 佃島の住吉さんの八角神輿が五年ぶりに海中渡御
  13日A 神宮プール日米水上第一戦、観衆一万二千
  20日y 国技館の水中レビュー、山田五十鈴・夏川大三郎・及川道子の三大スターのサイン会
  25日a 国技館の水中レビュー、好評のためお土産デー、入場料40銭
  29日A 日本劇場、崔承喜特別公演、連日超満員
 
 八月に入り最初の日曜をめがけて、私鉄各社は行楽地の広告(3日付読売)、池袋から奥武蔵高原へ(貸切テント1円50銭・テント一泊30銭・無料浴場等)・石神井プール(入場券付往復割引30銭)、渋谷から玉川プール(入場券付往復割引32銭)、錦糸町から砂町海水浴(入場券付往復18銭)・浦安海楽園(往復40銭)、新宿から京王閣(入場券付往復割引60銭)などがある。しかし、人出は期待したほど出なかった。
 この年の夏は、「どこへ行った“夏”まるで梅雨型の変態気圧」y⑭、「暑い夏はいつ来る」y⑯と、避暑など必要ない日が続いた。神宮プールの日米水上競技に学生などが関心を向けたのを除くと、市民のレジャー気運は盛り上がらなかった。月末には台風による江東方面で1万6千戸の浸水などが発生、夏らしいレジャーが紙上を占めることなく八月は終わった。

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昭和十年(1935年)九月、第一回芥川賞決まる①、暴風雨で関東中心に被害甚大(26)、天候に恵まれず市民レジャーは沈滞
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9月1日a 浅草電気館等「股旅新八景」他満員御礼
  2日A 関東大震災十三回忌、廿万人記念堂参拝
  8日a 空も野球晴れ、六大学リーグ戦開く
  15日y 日比谷公会堂のモダン日本アーベント「モナリザの失踪」他超満員御礼
  16日Y 巨人軍対川崎戦勝利、横浜球場観衆一万二千
  18日y 日本劇場「歌う弥次喜多」他満員続き
  18日y 日比谷映画劇場「虚栄の市」他連日満員
  20日ka 三十軒堀地蔵尊近所の空地に幽霊の見世物あり。見に行くもの多しと云う
  21日a 列車風呂店じまい

 雨ではじまった九月。六大学野球リーグ戦のはじまった頃は、どうにか試合が出来たが、前年と同じように「今日もまた雨、呪わしい雨・雨・雨・・・」a(25)で、「試合は延期また延期」。また、「“澄む秋”よ・居所知らせ 市民」とまで書かれている。長雨で野菜の値段は上がり、「お台所・算盤大狂い」、レジャー気運は沈滞。二十四日には、市内で5万余戸も水浸し、さらに、二十六日、利根川が氾濫し近県は大被害となった。
 この夏、七月十五日から営業した東海道線特急「富士」の「列車風呂」が二十日に終了。一等車を2千円もかけて改造したもので、増収になるものと期待されたが、売上げはたったの75円。料金は石鹸とタオルが付いて30銭、七月の一日当たりの利用者が12人、八月が7人、九月は3人。見出しに「列車風呂の破産」とあるが、当局区は「今年は涼しいからで 来年は床屋」という話もあるらしい。

軍国主義に向かいレジャー盛況の十年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)222
軍国主義に向かいレジャー盛況の十年春

 軍事予算の増大とインフレで金回りがよくなったと見えて、東京市民は遊ぶのに夢中。警視庁は花見の大騒ぎにブレーキをかけたが、「どこも酔払ひ天国 お花見は最高潮! 仮装隊はトラックで乗込み」と、逆効果の様相。四月一日から三日まで、東京湾「みなと祭り」、「開通二十五年記念 日本橋まつり」、天王洲橋開通」などイベントが続き、六日は朝から、東京駅から赤坂離宮にかけての沿道に人出。七日、「シャム舞踏団賑やかに入京」。そして、「満州国皇帝を拝する人、沿道に二十一万余」。八日から花見が始まり、「満州国展」、花祭り、十日に「代々木原頭の観兵式に十七万の拝観者」、十四日は「神宮競技場で奉迎の運動会、三万の若人」。花見の大騒ぎがピークを迎える。
 昭和十年の春は、「満州国皇帝奉迎式」、「日露海戦三十周年挙行市中大行進」「防空飛行大会」などと人々が浮かれており、毎月のように軍事色イベントが催されている。お祭騒ぎとなる中で、大多数の東京市民は、戦争へと進むことに何ら不安を感じていないように見える。現在が面白ければ、楽しければ良い、ということではないと思いたいが、社会の趨勢はそうである。
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昭和十年(1935年)四月、歌舞伎座満州国皇帝奉迎式⑩、どこも酔払い天国、お花見は最高潮「二百万人」
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4月1日Y 港まつり・日本橋まつり
  7日a 満州国皇帝を拝する人、沿道に二十一万余
  6日ka 日比谷の四辻にて花電車の過るに会う。雨中これを見る者堵の如し
  7日ka 六時過銀座に往く。日曜日にて雑遝甚しければ不二アイスにて夕餉を食し直に帰る
  8日y 天気予報外れ「桜狩り五十万余万人」の人出
  8日A 第二夜、銀座は動けぬ人の海
  8日a 上野松坂屋で開催中の「満州国展」盛況、本国から視察団も来朝
  9日a 花祭り、浅草から日比谷へ花御輿にものすごい人だかり
  10日a 代々木原頭の観兵式に十七万の拝観者
  14日y 神宮競技場で奉迎の運動会、三万の若人
  14日ka 落花雪の如し・・夜銀座通人出多からず
  15日a 花見か人見か、人間の大洪水 押し出した総勢二百万と号す
  15日a 豪華船ブリテン号 桜真ツ盛りに入港 各国人の観光団五百余名が ドッと日光・鎌倉へ
  18日Y 日比谷公会堂ルービンシュタインのピアノ演奏会、料金2円、臨時入場料4円5銭、追加会費1円
  21日a 六大学リーグ、野球の春開く、朝六時からファン殺到
  24日y 東京劇場「長脇差試合」他連日大入日延べ
  27日a 靖国神社臨時祭
  29日a 増上寺の蚤の市、四十数軒出て繁昌
 
 満州国皇帝、溥儀来日。六日は朝から、東京駅から赤坂離宮にかけての沿道に、整然たる奉迎団体が埋め尽くした。おもな団体は、近衛第一両師団の堵列兵、青年団在郷軍人、中小学校生徒1万1千、文部省直轄学校生徒7千、国防婦人会、赤十字社、愛国婦人会3千、59団体、4万5千人が粛然として御道筋を埋めた。また他にも、濠ばたには消防組が纏いを立て、団扇太鼓たたいて来る日蓮宗の団体など、奉迎者は「総数二十一万余人」に上がった。
 銀座は奉迎門、旗暖簾で装飾され、浅草は大奉迎塔に「奉仕料金二十銭均一」の大看板、上野、本郷、麻布などの街も飾りつくされた。荷風は、「雨中これを見る者堵の如し」と記している。ただ、人出は翌七日の方が多く、まだ満開ではないが、花見に「五十万余万人」。賑わいは、荷風が銀座から帰宅した後、夜に入ってますます増え浅草や新宿などの盛り場はごった返した。
 十四日は、この年の行楽の最高の人出。上野から三里塚や熊谷に19万人、新宿からは小田急を加えると35万人、京成電車は柴又や鴻台に27万人、京浜電車は花月園に35万人、湘南電車が衣笠公園や鷹取山に30万人、等々と大変な人出。市内でも、サクラが白ッちゃけた上野の動物園は午前中に8万人。「天下御免の仮装の団体がトラックに満載されてやって来る」y⑮飛鳥山は、「十万は下らない」。「花など問題じゃないと飲んで歌う、迷子が十何人出」るという状況。「押出した総勢二百万と号す」との数字、盛り上がりの凄さを表している。

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昭和十年(1935年)五月、海軍記念日、日露海戦三十周年挙行市中大行進(27)、祭・行楽・興行などレジャーは盛況
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5月2日a 「労働運動衰へたり 警備陣の縮小」戦前最後のメーデー、六千二百人参加
  6日Y 夏祭のトップ芝烏森神社
  11日a 「大衆デー」に賑わう夏場所の初日、正午に早くも満員
  11日ka 銀座に行く「土曜日なれば学生の泥酔して街上に嘔吐する者多し」
  16日a 「日本海海戦三十周年記念展」三越にて、海相らも大満悦で観覧
  19日A 雨の三社祭、すべる若衆、重軽傷
  21日Y 新宿歌舞伎座、五九郎劇「海軍記念日」他連日満員御礼、1円~30銭
  21日ka 烏森の縁日見てかえる
  21日a 連日満員の盛況裡に千秋楽を迎えた
  28日a 海軍記念日、銀座は華やかな大行進、七色の花吹雪

 統一メーデーの動きもあったが分裂、参加人員も減少、警備陣も手持ち無沙汰であった。昭和十年以降、労働争議や起訴した件数が激減、満州皇帝来訪に際し争議解決に警察が介入。それまでの弾圧によって労働運動は衰退、この年のメーデーは戦前最後のメーデーとなった。
 市民レジャーは、大相撲夏場所が「連日満員」であったように、映画や演劇も盛況である。祭も、三社祭をはじめあちこちで行われ、行楽地も賑わったと思われる。新聞広告Y④には、東京競馬、大国魂神社大祭、古式くらやみ祭、京王閣(往復入園料65銭)、谷津遊園、藤と菖蒲の吉野園・堀切園・菖蒲園・小高園、上遠家牡丹園、多摩川園、向ヶ丘遊園地、浦安海楽園、豊島園、あら川遊園、兎月園、大宮八幡公園などが掲載されている。

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昭和十年(1935年)六月、上野動物園にタイからゾウの花子が贈られる⑤、有楽座開場⑦、警視庁ダンスホールの一斉取締り⑧、梅雨に入ってもスポーツ・映画に盛んな人出
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6月1日a 多摩川の闇にかがり火、押し出した約3千
  2日a 浅草電気館等「自活する女」他満員御礼
  3日A 月島の埋立地で空の曲芸、観衆二万、無料
  9日y 早慶一回戦「名物応援」一切お断りでも球場沸く
  10日y 浅草帝国館・麻布松竹・新宿松竹「お琴と佐助」他満員御礼
  10日a 早慶第二回戦、内野席15円外野席5円のプレミア付く
  14日y 市内プールの皮切りに浜町公園プール開く
  17日a 早法優勝戦、午前中に内外野席売り切れ
  17日y 日曜・スポーツの協奏曲 早法戦・日比対抗陸上・三大学水上 神宮外苑に熱気はたぎる
  20日a 紙芝居業者は市内で約二千人,一日十回の上演で児童約八十万人が見る

 月島の埋立地で民間各航空学校研究所の防空飛行大会が開かれた。会場は、無料ということで「二万余」の人が群集。観衆の関心は、パラシュート降下、低空飛行、くぐり抜け、翼に人が立ったままでの飛行など。軍事的というより「空の曲芸」サーカスを見る思いであった。
 早大優勝に望みをつなげる早慶戦、一回戦「名物応援」一切お断りの中で行われたが、神宮球場は沸きに沸いた。第二戦、午前十時に早大一塁側スタンドが満員、「六万」の観衆。本来なら内野席の料金は1円と50銭であったのに、闇ではなんと15円で取引された。また、外野席ですら30銭が5円もの値がついた。試合は、早稲田の勢いに優り8対4で大勝利。戦いの場は銀座へと、「三田稲門両学の書生各隊をなし泥酔放歌ややもすれば闘争せんとす。巡査街の辻辻に立ちて非常を戒しむ」と、荷風は九日の日記に記している。
 「ドンドン節を唄って『ドンドン飴』を売っていた飴屋さんが、映画味たっぷりな紙芝居業者に身代わりしたのはここ数年来の事であるが、これが又今の児童の欲求にピッタリはまって素晴らしい勢いで都下を横行」。自転車の後座席に駄菓子類を詰めた箱と紙芝居を積んで、市内の辻々で子供たちに菓子を売る。毎日のように同じ場所で続きもののお話をするので、子供たちは楽しみにしていた。児童「六十万人から百万人」という数字は、相当な数であるが、多い日はその程度あったと思われる。なお十一月には、警視庁は紙芝居の統制に乗り出し、内容、業者の取り締まりを開始、この年の東京の紙芝居業者は約2,500人とある。