幕末の庶民社会慶應二年(1866年)

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)293

幕末の庶民社会慶應二年(1866年)

 慶応年間に入って、諸物価の値上がりや町会所の窮民への施しがあり、世情は必ずしも安定していないが、江戸の数多くの縁日は多分、行われていたのだろう。慶應元年の正月には浅草奥山で秋山平十郎作の生人形が、二月には回向院境内で百日芝居興行、三月には浅草の三社祭が盛大に行われている。このように、江戸の中心的なところで祭礼があることから、それに伴う縁日は庶民で賑わっていただろう。九月の神田明神祭礼は仮祭であるのに神輿などが持ちだし、氏子らが罰金を徴せられているし、猿若町で芝居寿狂言興行が行われている。十一月には、雑司ケ谷鬼子母神境内鷺明神で酉の祭がはじまり、縁日も賑わっているだろう。

 江戸庶民の生活は、決して楽ではなかった。幕末の食料事情はかなり悪化し、三月には「物価引下げ令、買占め売惜しみ止令」が出された。なお、江戸の食料は、幕末になっても近在の農村から運ばれ、一定量は供給されていた。しかし、慶応元年閏五月、天候不順や真鍮銭・文久銭・銅小銭の歩増し通用が触れだされ、勘定が煩雑になることから生産者とのトラブルが発生し、神田や千住の野菜市場に荷が入らず、六月には青物問屋や棒手振までが十日も休むことがあった。幕府の引き下げ令や買い占め売り惜しみ禁止令があるものの、諸物価は高騰した。

 この年、雉子橋門内の牧場で搾った牛乳が一部販売された。なお、幕末期の庶民は、現代のファストフードである屋台料理を好み、「すし」「鰻」「天ぷら」などを身近なものにしていった。

 

 慶応二年の正月は、将軍が不在であるため、『藤岡屋日記』には年頭之為御礼からはじまる記載のみである。江戸にいる武家は、登城してはいるものの、その数は少なくなっているだろうか。前年の暮れには強盗が出没し、御屋敷向きの年頭回勤がなく、元日に白木屋 騒動、四谷で火事があり、その上商いは不景気だった。

 もっとも、浅草では前年と同様の生人形や竹田縫之助のゼンマイからくり等の見世物などが出ている。前年から雪も降らず、七日の初卯〔初卯詣:正月初卯の日、 亀戸天満宮境内の妙義神社(上方では住吉神社など)に参拝すること〕は、天気が良く、亀戸妙義社の梅屋敷は花盛りで非常に賑わったという。町人は夜間の押し込みや追いはぎ などを警戒しながらも、正月を楽しむことは止めなかったようだ。また、芝白金清正公門 前明地に、牝ライオンの見世物も出たらしい。

縁日も正月からは見世物、相撲、歌舞伎などがあることから、江戸の町々にあっただろう。二月の末になると、諸物価が高騰するなかでさつまいもだけが安く、焼き芋 が大流行した。

五月の末から六月の始めにかけて打ちこわしがあった。それによって、この年は、魚河岸にサンマがたくさん上がっても 茶屋は買い出しに行かず、棒振りも売り残す始末だったとある。このように、食料の絶対的な不足というよりは、円滑な輸送ができずに混乱していたという一面があった。

 両国では見世物が人気無く興行が打ちきられているが、回向院では開帳があった。このことから、打ちこわしのなかった浅草や両国、雑司が谷などでは縁日が開かれていたものと思われる。七月以降も開帳や見世物があり、縁日の情報は、外国人とのトラブルがあった上野大師の縁日の賑わいが残っている。また、冬には無断で富突興行をあちこちの社寺でやっていた。

 そして冬には、牛を屠殺して羹(あつもの‥菜や肉などを入れて作った熱い吸物)として売り出す店や、西洋料理と称して西洋の家庭料理のようなものを出す店があちこちにできた、とある。

 

慶應二年(1866年)の江戸庶民関連事象

1月 浅草寺奥山で活人形やゼンマイからくり人形等の見せ物出る

1月  小銭が払底し、真鍮銭・文久銭・銅小銭を歩増し通用するよう通達が出される

1月 薩長同盟が成立

2月 茅塲町薬師境内花角力、大繁盛

2月 上野花見の頃、山内の出茶屋が閉めさせられる

3月 南傳馬町辺りで、年少者の歌舞伎狂言を催し賑わうが中止させられ、罰をうける

3月 浅草寺蔵前で活人形の見せ物出る(膝栗毛の人形、遊女の湯浴み姿など)

4月 猿若町の座元薩摩吉右衛門等は米沢町で興行を許される、芝居は大入り

4月 小石川白山権現社内で百日芝居興行

4月 弁当屋という者、調理して重箱に詰めて売るのが流行る

5月 両国橋東詰で西洋伝来木匠の器械の見せ物、見物人少数で間もなく終了

5月 猿若町三座の芝居興行が止み、人通り絶え、揚屋・飲食店等がさびれる

5月 医学所出張所を増設、種痘を実施

5月 物価急騰し、打ち壊しが起きる 

6月 窮民に銭を支給する

6月 神田社地三天王御旅なし

6月 山王権現祭礼なし

6月 本所回向院で三河国勝鬘皇寺聖徳太子像開帳(60日間)、曲馬等の見せ物あり 

6月 芝金杉円珠寺境内、百日芝居興行

7月 山谷正法寺毘沙門天開帳(30日間)、朝参り多い

8月 浅草御蔵前で、天神小僧と称する7歳の男子が文字の曲筆の芸を見せる

8月 町会所で、窮民に米を廉売する

8月 団子坂で英国人と貧民が衝突、怒った群集貧民は猿若町の方まで追いかける

9月 上野大師の縁日、参詣人はいたが、貧民群集し異人に怒鳴ったため春米屋休業

9月 窮民施しを求めて練り歩く

10月  不作のため外米買入れ販売の許可

10月 幕府の歩兵が吉原で乱暴を働く

10月 芸人の渡航が許される

10月 三芝居顔見せ狂言興行なし、茶屋飾り物もなし               

11月 芝金地院観世音開帳(17、18日)

11月 吉原の遊廓が全焼する

冬  無断で富突興行を催す者が寺院等所々に出現.場主捕らわれ、催主厳刑される

冬  牛を羹にして商う店や西洋料理と称する貨食舗が所々に出現

幕末の庶民社会

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幕末の庶民社会慶應元年(1865年)

 幕末から明治は、第二次世界大戦から戦後にかけての時期とならぶ日本の大変革期である。 幕末・維新期の江戸は、政治的な空白によって治安だけでなく経済的にも混乱していたことは確かであるが、第二次世界大戦から戦後にかけて庶民を巻き込んだ東京の混乱とは違うと感じる。

 それは、外国人の観察を見るとわかるが、江戸庶民の大半が三度の食事にも不自由し、生活に困っていたにもかかわらず、何か精神的なゆとりが感じられるのである。が、残念ながら生きる喜びを忘れないこうした楽天的な庶民の性格について、歴史のなかではあまり触れられていない。

 一般に、国民の多数を占める庶民が何をしていたか、何を求めていたかというようなことは、意外と書かれていない。書かれているのは、上流階級の人々、支配者層の生活が多く、その人たちの生活体験が国民の一般のものとすり替えられているような気さえする。たとえば、幕末の治安の悪さに怯えていたのは、富裕な江戸の町人であった。実際、黒船の来訪で逃げまどったのは、家屋敷のある武家や町人で、大半の庶民は逃げたくても逃げる場所がなかった。

このように慌てふためいて行動を起こした人々はほんの一部の人で、江戸に生活している大多数の人々からは、際立って見られたのではなかろうか。むしろ稀であったために、関心が持たれたと考えられる。確かに、黒船来訪に人々が逃げまどうというようなことは、時代を象徴する光景で、事件として後世に伝える価値がある。逆に、地味で変化に乏しい庶民の生活については、歴史的には関心が低くなるのは当然だろう。しかし、庶民の生活を知るというのは歴史をふり返る上で本当に価値のないことであろうか。

国民の大半を占める人々がどのような生活をしていたかきちんと把握していないと、江戸時代の色々なことが歪んで伝えられることになる。近年、江戸時代を見直そうとする動きが出ているのも、当時の大衆が貧しいだけの救いのない生活を営んでいたと決めつけてかかることに疑問を持ち始めたからである。

 たしかに日本には明治になるまで米を食べていなかった村々がたくさんあった。が、米を食べられないということが人々が生きていく上で、本当にそれほど不幸なことなのか。物質的な豊かさはなくても、風土に合った清潔な暮らしが可能で、仲良く平和に暮らしていた人々が数多く存在した。このような実情は見落とされがちであるが、江戸時代のもう一つの側面であり、多くの非凡な事件と共に後世に伝える必要がある。

 ただ、やはり庶民の生活については、歴史書や文献などに残されているものは少なく、不明な部分が多い。庶民は何を求めて生きるかというような哲学意識は希薄であったと思われる。大半の人々にとって、その日その日を楽しく過ごすことがすべてで、一日が無事に終わることがなによりであった。そこで、幕末庶民の行動がどのようなものであったかに注目して探ってみよう。

慶應元年(1865年)の江戸庶民関連事象

1月 浅草寺奥山で十二支に因んだ活人形の見せ物出る

1月 市ケ谷・四谷外御堀端等に、幕府の施政を糺弾し、庶民の困窮を訴ふる文を撒布する者あり

2月 回向院境内で百日芝居興行

3月 浅草三社権現祭礼、山車練物多く出る

3月 物価引下げ令、買占め売惜しみ止令を出す

4月 禁門の変や社会不安などの災異のために慶応に改元

4月 家康の二百五十回忌を日光東照宮で行なう

5月 高田本松寺願満祖師開帳(3日間)

5月 両国橋辺花火等、今年はなし                       

5月  第二次長州戦争が始まる

5月  日本橋周辺より公債を徴収する 

閏5 米価が高騰し、米穀雑穀の自由販売が許可される

6月 赤坂氷川明神祭礼、神輿のみを渡す

6月 本所回向院で奥州金花山大金寺弁財天開帳(60日間)、見せ物、一時参詣人多し

7月 三田台町薬王寺祖師開帳(30日間)

7月 町会所で、窮民に米銭を支給する

8月 飛鳥山下に反射炉錐台を建造する

9月 猿若町一丁目中村勘三郎が芝居寿狂言興行する(前年から延期)

9月 神田明神祭礼、産子町職人が許可なく附祭を催し罰金を課せられる

11月 雑司ヶ谷鬼子母神境内鷺明神で11月酉の日に酉の祭始まる.以来年々賑わう

12月 江戸市中、強盗が出没し、不景気

冬  銃隊調訓練次第に盛になり、調練場に着くまで西洋風の太鼓を鳴らして群行する

冬  大阪の浄瑠璃語竹本対馬太夫が江戸を訪れ、諸人先を争って聴聞する

 

 慶応元年の神田明神祭礼は、一昨年より延期になっていたものだが、今年も将軍不在のため仮の祭典にとどまり、神輿も出なかった。ところがなんと、町の若者たちが相談して山車を数輌、伎踊練物を無断で催した。祭はかなり賑わったらしい。しかし、すぐに若者たちは南町奉行所に呼ばれ、加えて行事・名主たちにも罰金が課せられるという事件になった。当時、幕府は京都で、長州再征の勅許をうけるなど、祭どころではなかったのが、庶民はこれ以上の祭の延期には耐えられなかったのだろう。

昭和二十年を見るにあたって

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)291
昭和二十年を見るにあたって

 1945年は今から約80年前である。その80年前は1865年(慶應元年)、幕末をむかえ、1867年に大政奉還が布告された。翌年は明治元年、日本の大変換が進められた。幕末維新の大きな節目となった。そして、2025年も時代の変革期となるのではなかろうか。

 約80年周期で日本の出来事を見ると、160年ほど前は天明の大飢饉、1782年(天明二年)から 1788年 (天明八年)にかけて発生した。日本の近世では最大の飢饉で、各地に多数の餓死者を出した。

その80年ほど前、1707年(宝永四年)に富士山が噴火(宝永大噴火)した。300年以上噴火がないことから、21世紀の噴火が心配されている。

さらに80年ほど前、鎖国が徐々に進められた。1624年(寛永元年)スペインとの国交を断絶し、来航を禁止した。1631年(寛永八年)朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる奉書船制度が始まる。1633年(寛永十年)奉書船以外の渡航を禁じ、奉書船以外の海外渡航を禁止する。1635年(寛永十二年)日本船の海外渡航及び帰国を全面禁止する。1639年(寛永十六年)幕府はポルトガル船の来航を禁止。そして、1641年(寛永18年)オランダ商館を長崎出島に移す。1854年日米和親条約の締結により鎖国の終焉を迎え、日本は次々と西洋諸国との条約を結び、鎖国政策が終結した。

 日本の歴史を通観すると、周期的に局面を迎え、変革している。また、60年ほどごとに発生する御蔭参りがある。御蔭参りとは、江戸時代の初期から伊勢参りが盛んに行われていた。毎年行われる伊勢参りのなかで、特に参詣者の多い年がある。それは、1650年(慶安三年)、1705年(宝永二年)、1771年(明和八年)、1830年(文政十三年)である。この参詣者の多い伊勢参りは、特に「お蔭」がいただけるありがたい年としてお蔭年というようになる。

 なお、もともと伊勢神宮への信仰は、江戸時代以前から民衆に広がっており、参詣も年を追うごとに盛んになっていた。江戸時代の「お蔭参り」と呼ばれる集団的な巡礼行動が周期的に繰り返されたのは、単なる偶然ではない。慶安三年正月より始まった慶安のお蔭参りは、前年に遷宮が行われている。そして、明和・文政のお蔭参りも遷宮の直後発生している。つまり、伊勢神宮遷宮が行われ、伊勢参りをしたいと思う心理が働いている。それも、一生の内に一度は伊勢参りをしなければという願いも計算したものと考えると、60年周期は説明できそうである。

 歴史の周期性から、歴史は繰り返されると考えると、必ずしも将来は良くなるとは期待できないことを覚悟しなければならない。そこで、1945年(昭和二十年)の敗戦以後と1865年(慶應元年)から明治維新ころを比べてみたい。この二つは、国が大変革する起点である。

 明治維新は、幕藩体制を倒して中央集権国家を形成し、資本主義社会へと進めるものである。歴史的評価としては、近代化と改革を達成するものとして、社会的な発展に寄与したと肯定されている。歴史に「もし」、と言うことは無意味かもしれないが、薩長土肥が実権を握らなくても、社会的な発展は達成されたのではないか。それどころか、旧幕府側によって、政治や法制、軍隊、教育、経済、そして文化や科学なども、明治政府(薩長土肥)が行なった以上の成果が達成されたのではなかろうか。

 学校での歴史教育は、明治維新を行なった側の視点で語り続けられてきた。1945年の敗戦後も、この歴史観は全く変わっていない。幕末の戦い(権力闘争)で実権を握った側が全て正しく、支配者として国を治めることを当然としているからである。それも、国とはいうものの国民は、上層の人々に視点が置かれ、大多数を占める大衆の存在など眼中にない。そのような国家体制は、明治・大正・昭和の1945年迄続き、敗戦直前まで、「一億玉砕」を国民に求めた。

 敗戦後80年経とうとしているが、様々の課題を科学技術で解決しようとしている。わが国だけでないが、最も重要である温暖化は、もう科学技術で解決できる問題でないことを認めようとしない。自然保護も、自然科学では解決できず、政治、経済問題であることに気づいているものの、対応していない。スギ花粉症にいたっては、花粉の少ないスギを研究し、植栽している。科学技術での可能性を探ることは無意味とは言わないが、限界は見えている。

 わが国だけで、温暖化のようなグローバルの問題を取り組んでも、という考えもあるが、やらなければならない。ではどうするか、その端緒として、明治維新前後と太平洋戦争敗戦前後を比較検証することを提言する。

 

昭和二十年のレジャーが始まる

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)290
昭和二十年のレジャーが始まる

 これまで、昭和初期、二十年戦前までのレジャー関連について示してきた。このブログは続いて戦後に入るのですが、昭和20年(1945年)の社会変化は、かつてないものなので、その変化を確認したい。それも一年を通して、一連の繋がりとして一日ごとにもう一度を紹介したい。

 昭和二十年には、戦局の悪化が米軍に対してだけでなく、中国でも始まっていた。しかし、軍部はまだ「本土決戦」に望みを抱いていた。国民のすべてが死ぬまで戦うというスローガン、「一億玉砕」はそれを端的に表している。四月に成立した鈴木内閣は、六月に沖縄が日本軍10万人、一般人15万人もの犠牲を出し占領されても、本土決戦を変えようとしなかった。八月、広島と長崎の原爆を受け、無条件降伏を受諾した。

 東京は、一月から本格的なB29の空襲を受け、二月には130機による空襲で7万人以上が罹災、三月の東京大空襲では9万3千人が死傷、四月には数日おきに10階もの空襲があり、五月の大空襲にはB29が約250機も飛来した。それに対し、市民は竹槍で応戦するどころか、ただ逃げまどうだけである。東京は首都としての機能が麻痺しかけ、市民が辛うじて生活しているだけであった。

 空襲におびえる市民の心を支えていたのは、政府の戦意向上の叱咤激励ではなく、ラジオから流れる娯楽番組や映画・演劇などであった。その日の食べ物にことを欠く毎日、着の身着のままの生活ではあるが、焼け残った映画館には長蛇の列ができ満員。開園している上野動物園にも、市民が大勢出かけている。特に、戦況の悪化がハッキリとしてくると、これまでの娯楽禁止が緩和され、市民のレジャー気運は高まったように見える。

 

 そして八月十五日、戦後が始まる。それは混乱の始まりであるが、国民は、自分たちの手で新しい社会をつくらなければならないのに、人々はそれまでと同様上からの指示を待っていた。もっとも、日本人が終戦時に勝手な行動をしなかったことは、後から思えば、大混乱が起きずにすんだとも言える。

 国内の情況は、敗戦によって大きく変わるが、人の心は急にはかえられない。戦争が終わった解放感というより、安堵感の方が大きかった。突然の終戦宣告に、何をしたら良いかわからない人も多かったのだろう。

一方、政府は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)をうまくあしらって、既存の体制をいかに維持するか、という点に腐心した。国民に対しても、「一億総懺悔」の精神を浸透させ、我慢、辛抱の生活を続けるよう仕向けた。さらに、GHQからの五大改革や憲法改正などの民主化要請をいかになし崩しにするか、様々な抵抗を試みた。これに対し、革命的な民主化を恐れた占領軍は、戦前から続く国体の維持を認め、既存政府の人材や組織に頼らなければならなかった。

 戦後が実質動き出すのは、「大本営」が廃止される九月十三日頃からであろう。社会実態の戦時体制は崩壊しても、形式的な戦時中が残っていた。また、国民にも戦時中の体制は、浸透したままである。新しい動きとして認められるのは、娯楽と闇市くらいであろう。最も際立って戦後らしい動きを見せるのは、闇市である。闇市は戦前の露店をはるかに超え、巨大なマーケットになった。「闇市の氾濫 王座は日用品 放出物資の横流しか」(朝日九月十七日)とのように、政府の統制は効かず、戦後の変化は闇市からという状況である。

 日本の国が軍国主義から民主主義に大変換するのだが、国民の多くは、GHQの意図する民主化など理解できるはずがない、それより目の前の食料確保に追われた。それでも、制限されていた娯楽が開放され、徐々にではあるが戦時中よりは日々の楽しみは増えていった。

 十月には戦後の混乱の縮図ができる。GHQによる政治刷新や財界解体など、旧体制の刷新が掲げられたが、一筋縄では行かないのが当時の状況である。また、「昂進する栄養失調症」(朝日二十九日)と日本の食糧問題は絶望的と、国内の混乱は多難の様相を呈していた。政府は無為無策のまま、戦争が終わって二カ月もたたないうちに、戦後混乱の縮図ができた。

それでも都民は娯楽にも関心を向ける余裕が出てきた。戦後映画の第一号とされる『そよかぜ』(朝日四日)が上映、映画の批評とはよそに主題歌の『リンゴの唄』は、当時の人の心を捕らえ、その後空前の大ヒット(レコードは三ヶ月で七万枚)となる。

 十一月に入っても、東京は、毎日のように餓死者がでる状況。都は、闇市の拡散に何も対応せず、なるがままに放置している。食料事情は確かに深刻だが、それでも戦後の楽しみが始まる。闇市、盛り場の賑わいは、東京は戦中とはまったく違った様子を見せていた。

 十二月になっても、都民の生活は混沌としたまま、それでも誰もが良くなることを願って奮闘している。政府など上からの施策や援助を期待するものの、自ら動かなければならないことに気づいている。都内全域に展開する露店、闇市、否定するのでなく、自分なりの対応を始めている。そして、庶民の適応性はすごいもので、露店や闇市なども楽しみとしているように見える。

 庶民は、この頃の困窮がさらに厳しくなるが、昭和二十年が苦難の序の口であることに気づくはずがない。それでも、戦時中より生き生きとしていたことは確かであろう。

 

東京からレジャーが消えるまで

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)289
東京からレジャーが消えるまで
 戦前の東京市民は、どれくらい遊んでいただろうか。新聞に記された数字を見ると、最も多い日で、250万人もの人出があったらしい。そしてそれは、昭和五年四月六日の花見時、十五年十一月三日の明治節、同月十日の紀元二千六百年記念式の日に発生している。
 人出が100万人以上あった日は、毎年のようにあり、十五年が9日、十四年と八年が5日もあった。大正時代に比べて、行楽などで出歩く人は明らかに多くなっている。なお、戦争が激化した十七年からは、100万人以上の人出が新聞に書かれることはなくなった。
 人々のレジャー活動は、正月には初詣、二月は豆まき、というように毎年規則的に発生している。その規則性は、政府がブレーキをかけても容易に止まらない。花見が禁止されても、花見時の人出は沸き上がるように発生する。まるで行楽の法則があるようで、遊びのDNAとでもいうべきものが日本人の体内に組み込まれているに違いない。
 一月から主な活動とその最大値を示すと、元日の初詣は、昭和十六年に160万人という人出が書かれている。二月は豆まき、十年には、市内の主な寺社などに32万人が出たとされ、近郊の成田山や川崎大師、また市内の小さな寺社を加えれば50万人を優に超えるだろう。
 三月の人出は、花見直前の春の人出で、毎年数十万人の人出がある。なお、五年の帝都復興祭が催された式典の日は、200万人もの人出となった。
 四月は花見、この時期の人出は毎年最大となる。前記五年に250万人という記録もあるが、他にも200万人を超える日が度々記録されている。
 五月は、あちこちで祭りが催されているが、100万人を超えるような人出はないようだ。
 六月は梅雨ということで、人出は少ない。ただ、九年の東郷元帥の国葬には184万人、18年の山本元帥の国葬にも50万人以上の人が出ている。
 七月は花火と海水浴、花火の最大は七年の100万人、海水浴は十四年の150万人。八月も海水浴で、四年、五年に70万人という記録がある。
 九月の人出は、関東大震災の発生した一日、四年と八年に被服厰跡には60万人もの人が参拝する。秋の行楽として、二年に二日間で200万人、十五年も二日間で300万人という人出があった。
 十月は、お会式と秋の行楽。お会式は、池上本門寺の人出が抜きん出ており、九年、十一年に70万人も集まった。秋の行楽は、十四年に100万人の人出を記録している。
 十一月は晴れが多く、明治節(三日)を中心にスポーツ大会、祝典などイベントが多く、大勢の市民が出かける。最も人出が多かったのは十五年で、二回も250万人を記録している。その他にも酉の市があり、七年には80万人もの人が訪れごった返したらしい。
 十二月、年の瀬ということでレジャーだけでなく人出の多い月である。十三年には「銀ブラ」100万人があり、三の酉のあった十二年には数十万人の人出があった。
 東京では、四季折々に様々なレジャーが行われていることが示された。ただ、大勢の人が活動しているため、市民誰もが参加していると思いがちだが、必ずしも全員が行っているわけではない。たとえば映画鑑賞、昭和十五年の延べ観客数は1億人に迫るもので、東京市の人口の十四倍あり、全員が見ていてもおかしくない。もちろん映画に興味のない人もいるし、経済的な問題で映画を見たくても見れない人も少なくない。そのため映画は、市民の半数以上は見ているものの、8割を超えることはないと思われる。

 レジャーの参加率から見ると、総活動回数は映画に比べて少なくても、映画を凌ぐ割合で行われている活動に参詣・参拝がある。戦勝祈願や家内安全などのお参りをレジャーに含めることに異論もあるが、初詣は行楽気分が勝っており、やはりレジャー的な要素を否定できない。戦争が激しくなると、半ば動員されて参詣・参拝に訪れる人は増え、市民の8割近くが参詣・参拝をしたと思われる。
 次に、せざるを得なかったために参加率が高くなった活動もある。それは、家庭菜園(農業というより園芸に近かった)で、参加率は半数を優に超えていただろう。もともと園芸は人気のあるレジャー、その上食料難で花が野菜に変わりさらに熱が入った。菜園づくりはかなり強制的であったが、収穫の喜びは何ものにも変えがたく、率先して行った人が少なくない。政府の指導を忠実に実施した数少ない活動であり、戦争が終わっても続けられた。
 花見は四月の一時ではあるが、参加率は市民の半数を超えている。花見は、十二年頃から様々な制限が課せられたが人出は減少しなかった。アメリカとの戦争が始まると、ドンチャン騒ぎは禁止されたが、それでも春の行楽として十七年まで続いた。
 ラジオの聴取もレジャーとして大きな位置を占めていた。ただ、ラジオの普及率は十一年に5割を超えるが、十五年でも7割には達しなかった。聴取者が増加したのは、レジャーが少なくなりラジオの娯楽番組を楽しもうとする人々が増えたことも見逃せない。
 次に、市民の半数ほどの参加率がないものの、家族の誰かが行ったという25%以上の活動をあげると、観劇、官製イベント、動植物園などがある。官製イベントは数多く催され、延べ参加人員は1千万人以上あるように思われる。ただ、新聞等で発表される数をそのまま信じるのは疑問、主催者発表の参加人員は大半が水増しされている。また、参加市民も幅広い層のように書かれているが、動員される人は毎回同じような団体や組織から出されている。
 その点、観劇の入場者数は正確であり、年間400万から800万人程もあるが、複数回見る人が多いことから市民の半数には至らない。
 また動植物園の入園者数も信頼でき、上野動物園小石川植物園の2園だけで、八年の時点で延べ200万人を超えている。
 隣近所の誰かが行っているという参加率、10~25%の活動は数多くある。なかでも、紅葉狩等の行楽、海水浴・水泳、花火、博覧会、盆踊りなどは、年によっては25%以上となることもあるが、花火のように十三年以後禁止されたものもある。その他に、見世物、登山・遠足、釣り、野球(観戦含)なども市民の一割以上が行っている活動である。
 町内の誰かが行っている程度の参加率、市民の1~10%が活動しているものとして、温泉旅行、相撲(見物含)、潮干狩り、囲碁・将棋・麻雀、野球相撲以外のスポーツ観戦などがある。これらの活動は、誰もが知ってはいるものの愛好家など一部の人に限られ、参加率は案外低い。
 さらに特定な階層やマニアしか行っていない、参加率1%以下の活動として、スキー・スケート、競馬観戦、音楽会、ゴルフなどがある。
 以上のように、レジャーの活動割合は案外低いもので、半数以上の人が行う活動は数えるほどしかない。この傾向は現代でも同じで、最も高い「外食」が60%をやっと超えるくらい。参加率だけで比較すると、戦前の方が参加率の高い活動が多いようだ。その理由は、現代のほうがレジャーの種類が多くあるため、選択肢は広くなり活動が分散するためであろう。
 レジャーの種類は、現代の方が格段に多く、それも見て楽しむレジャーより、実際に行う活動が増えている。また、ゴルフのように参加率が大きく伸びた活動もあり、レジャーの活動時間も長くなっている。したがって、昭和初期のレジャーは、現代に比べて数量的にも劣っていたと言えそうである。特に昭和十七年から終戦までは、レジャーのすべてが制限、さらには禁止されるような状況であった。このような人々の楽しみを根こそぎ奪おうとした時代は、これまでの日本の歴史にはなかった。

上野動物園等に見る庶民の行楽

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)288
上野動物園等に見る庶民の行楽
 花見といえば上野、上野といえば動物園を連想するほど、上野公園の利用と動物園の利用は密接である。上野動物園はわが国最初の動物園で、明治十五年(1882)に開園、大正元年(1912)で満30周年を迎えている。動物園は子供の遊び場と思っている人が多いが、当初の動物園は博物館の付属施設として作られ、その設置目的も博物教育・研究を中心にしたものであった。現在でもこの方針は基本的には変わりなく、さらに希少動物の保護と繁殖の場という役割も強くなった。しかし、動物園が大衆の行楽地であることは、開園した翌年には、藪入りの月曜日(動物園の休園日)を開園して、小僧さんたちの来訪を待っていたことからも分かる。大衆の遊び場という状況は、現在もほとんど変わらない。なお、現代の上野動物園は、小学生以下が無料ということもあって、子供が多くなっているが、大正時代は逆に大人の入園者のほうが圧倒的に多く、大人のレジャー施設といっても過言ではなかった。そして、このことは、東京だけでなく大阪の天王寺動物園のデータからも明らかである。

  大衆の行楽活動は正確なことがわからないと述べたが、東京では唯一、上野動物園については比較的詳細な資料がある。これまでのブログで示した花見については、毎年のように新聞に掲載されているものの、かなり大まかな数値しか示されていない。また、新聞記事は、とかく大げさにして読者の関心を引かなければならないので、そのまま信じるのはかなり危険である。それに対し、上野動物園は、毎日の有料入園者数をもとに集計し、東京市などが統計書(『東京市統計年表』)として公表していることから精度が高く信用できる。さらに、動物園は開園以来、管理日誌を作成していて、その時々の動物の状況などとともに詳細な資料が残されている。そこで、上野動物園の利用状況から大衆の行楽形態を見てみよう。

  大正元年上野動物園入園者数は、大人63万人、子供9万人、学校の団体生徒12万人、計85万人であるが、これには学齢の前の子供が含まれていないため、実際は100万人近かっただろう。大正三年(1914)には大正博覧会が上野で開催され、隣接する動物園にも立ち寄る人が多くなるなるだろうと思われたが、入園者数は増加どころか減少した。その数は、大正時代で最も少ない45万人で、これは関東大震災のあった十二年よりもはるかに少ない。ではなぜこんなに減少したか。
 その理由は、大正博覧会を見物すると、その後動物園を見て回る時間がなくなっててしまうからである。大正博覧会の会場は、第一会場が竹の台、第二会場は不忍池畔で、合わせて約10万坪(33ha)もあったから、一日がかりでもすべてを見ることはできないし、その上動物園も見ようとしたら、さらに2~3時間必要になる。したがって、いつでも見ることのできる動物園は後回しになって、博覧会の方に足を向ける人が多かった。
 大正博覧会は三月二十日にオープンしている。ちょうど花見のシーズンに向かう頃で、花見を兼ねて訪れた人が多かった。上野動物園の利用は三月~五月が最も多く、特に四月は来園者数の多い月である。この最も動物園が混雑する期間に博覧会が開催したため、本来なら動物園に入場するはずの人が大正博覧会の方に流れてしまった。博覧会も大衆にとっては行楽活動であるため、明治時代から大規模な博覧会は、その大半が三月に開催されている。したがって、大衆の行楽活動は、三月から始まって、五月頃までが最も盛んだといえる。

  では、上野動物園はどのように年間利用をされているだろうか、月別の入園者数の変化(月変動、季節変動)を見てみよう。来訪者が一年のうちで最も多く訪れるのは春で、花見のシーズンとゴールデンウイークが特に多い。梅雨に入ると外出がおっくうになるためか、著しく利用者が少なくなり、梅雨が開けて、子供たちの夏休みが来ても春のようには多くの人が訪れない。秋なると再び来訪者が増加し、冬になると急激に利用者は減少し、翌年の春まで、まるで動物たちの冬ごもりと同じように、ひっそりとした動物園になってしまう。この間入園者数の変化は、明治十五年に開園してから、現代まで百年以上になるが、ほぼ同じようなパターンを見せている。
  もちろん、上野動物園の年間入園者数は開園以来増加しており、当初20万人であったのが大正年間には100万人を超え、昭和十年代に300万人を超えている。入園者数が十倍以上も変化したにもかかわらず、月別入園者数の変化(変動パターン)を見ると若干の違いはあるものの、ほぼ同じということができる。そして、大正元年については、上野動物園から西側に約2㎞離れた植物園(小石川植物園)の月別入園者数と比べても、非常に似ている。さらに、動物園に近接する東京帝室博物館の月別利用者数とも同じようなパターンで動いていることがわかった。  
  動物園や植物園、博物館など東京にある行楽施設の利用者数の変化は、すべて同じような月変動をしていることわかる。これは、東京の人々の行楽パターンが類似しているからである。人々は、各々の好みに応じて、色々な所へ出かけていっているつもりなのだろうが、東京全体からみれば同じような行動パターンを示していた。つまり、自分が行楽活動をしたいときは、他の人も外で遊びたいということである。こうした季節による行楽活動パターンは、個々の施設によって多少の違いはあるものの、基本的には暖冬や空梅雨など年によって異なる気候、天候などによって決定されている。
  動物園ということから、利用形態はかなり特殊な形をしていると思われがちであるが、上野動物園の利用者数の変化を知ることによって、同時代の東京の人々の行楽状況を知ることができる。そして、上野動物園入園者数の季節変化が百年間以上も変わっていないということは、東京の人々の行楽形態が明治時代から、さらに江戸時代から変わっていないということである。

 

上野動物園に見る庶民のレジャー

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)287
上野動物園に見る庶民のレジャー
 上野動物園のある上野公園は、東京市民最大の憩いの場であった。市内の行楽状況は、必ずといって良いほど上野公園や上野動物園(以下動物園)とともに取り上げられた。特に動物園は、入園者数が数えられていることから、人出のバロメータとなり、迷子の人数まで新聞に掲載された。また、動物園が時局の変化に対応していった経緯からは、戦争がレジャーに与える影響も見えてくる。
 動物園は、昭和二年(1927)に大改造が始まり、開園五十年記念祭が行われた六年には、大半が新しい動物舎になった。それまでの動物舎は、太くて頑丈な檻で作られていたが、新しいのは無柵放養式という、野性の環境によく似た背景で「より良く見せる」ように変わった。七年に開設したサル山は、その好例で、日本初の山水画風の動物舎である。
 入園者数は、不景気を反映してか、六年まではあまり増加しなかった。七年には、モモイロペリカンの繁殖に成功、エチオピア皇帝から贈られたライオンに2頭の子供の誕生もあって、入園者数は150万人(正確には七年度、以下同様)を超えた。以後、八年に念願のキリンを番いで2万5千円という高値で入手九年にシマハイエナ、マレーグマが贈られ、十年にシャムよりメスのゾウ(後に有名となる「花子」)、十一年にはシャムからクロヒョウのメス一頭が贈られ、さらに人気を集めた。
 なお、このクロヒョウは同年(1936)、脱出し猛獣の捕り物劇として新聞を賑わせた。「やっと生け捕り成功、東都の恐怖終幕」(七月二十六日付東朝)、「息詰まる戦慄十三時間にして、幸いに一人も怪我人も出さず、帝都の猛獣狩りも無事幕」とある。十一年は二・二六事件阿部定事件などが起き、クロヒョウ脱出事件も、世間を騒がす事件の一つに数えられた。この話題もあってか、入園者数は216万人、開園以来初めて200万人を超えた。
 動物園もこの頃から、次第に戦時色を反映するようになる。十二年七月、盧溝橋事件直後の十一日にキリンの「高男」が生まれると、新聞は麒麟児誕生」を戦勝の吉兆とこじつけ、にぎにぎしく取り上げた。また、同年の秋恒例の動物祭では、それまでの「動物慰霊祭」が「支那事変軍用動物慰霊祭」と銘打たれ、以後は毎年の軍用動物の慰霊祭を行うようになった。
 昭和十三年、花見や行楽の自粛が叫ばれるが、動物園は、傷夷軍人の入園が無料になり、入園者数は250万人を超えた。十四年、恒例の十二支にちなんだ「ウサギ展」では、軍用毛皮に関する展示が目立った。同年、当時の支那派遣軍司令官寺内大将より贈られた軍功動物、モウコウマ、シマウマ、ロバ(「盧溝橋」という名前の)、ラバ、フタコブラクダなどが宮中への献上という形で届く。また、中支戦線からは、飛行機でハリネズミ(当時珍しかった)が寄贈された。また、この年の七月、防空演習という形で、「空襲によって檻が破壊されて猛獣が逃げだした」という想定で、猛獣の捕獲訓練が行われた。
 花見の賑わいを宣伝するような記事はなくなってたが、十四年の花見時には一日6万人が動物園に訪れる日もあった。また、十五年の四月の入園者数は、50万人を超えている。戦時下で行楽活動が著しく制限される中、戦争遂行に功績あると認められ、花見時の夜間開園が廃止される程度で、市内の数少ない憩いの場となった。そのためか、十五年に300万人を突破、翌十六年は324万人、十七年には327万人と戦前の最高記録を打ち立てている。

 


十六年になると、ガソリン不足からトラックが使えず、代わりに園内の飼料運搬用に寄贈された軍功動物のウマを使うようになる。飼料が減っていく中、同じ種が複数いる動物を「整理」するとして、ヒマラヤグマ、ニホンツキノワグマ、ヤギなどが猛獣のエサとなった。また、動物園の職員も、応召によって入隊するものが多くなった。
 太平洋戦争が始まると、マレー方面の進攻先から、十七年のオオトカゲを皮切りにニルガイ、カンムリヅル、シマウマなどが贈られた。このトカゲとは別にコモドオオトカゲという世界的に貴重な動物も届いたが、到着後室内の暖房が十分でなかったために、翌年あいついで死亡した。
 また、十七年には、中支派遣軍第6884部隊からマスコットのヒョウの子が動物園に送られた。その後日、世話をしていた兵隊とヒョウの子が対面、新聞に取り上げられ、『豹と兵隊』という本まで出版された。他にも、蒙古連合自治政府から、フタコブラクダ、カンヨウ(寒羊、ヒツジの仲間)、モウコイヌなどが到着。このような贈り物が届くたびに、新聞は「銃後の国民」へと派手に書きたてた。そのため、動物園は明るい話題を提供する行楽地として多くの市民が訪れた。
 しかし、十八年(1943)に入ると、動物園も入園者数は208万人と激減。それでも、花見時の四月には、40万人程度が訪れたと思われる。減少したのは、レジャー自粛もあるが、空襲時の逃亡を恐れたライオンやヒョウなど猛獣処分による動物の減少も無視できない。多くの動物が毒殺だけでなく、撲殺や絞殺も行われた。中でも、インドゾウのメス2頭の処分された時のエピソードは、すでにご存じの向きも多いと思うのでここでは書かないが、悲しい最後であった。
 新聞は処分された動物たちを「時局捨身動物」と呼び、それに対し全国から数多くの手紙が寄せられた。むろん、時代が時代なので批判めいたものはなく,動物がかわいそうだとか、自分が殉国動物の仇を打ちたいなどといった内容がほとんどであった。処分後も、キリンの一家やスイギュウ、オットセイなどは残り、動物園は開園を続けた。
 さすがに、十九年の入園者は57万人、さらに激減。この数値から、市民の行楽活動も激減、買い出しや家庭菜園など食べることに直結する活動に移ったものと思われる。動物園では、八月に主なき後のゾウ室に棺5百個(その後4千個に増えたが、最終目標は一万という膨大な数字であった)が保管された。
 二十年(1945)、空襲はいよいよ激しくなり、三月初旬までにここで扱った死者は2千人ほど。しかし、三月九日~十日にかけての東京大空襲では、動物園も4日間の閉園して、山のような死体の処理が行われた。七月に入ると、わずかながら入っていた厨芥の納入も途絶え、動物園は廃園寸前の状態まで追い込まれた。そしてついに、八月十五日の終戦を迎えた。


  戦後、九月に入ると職員が戻り、十一日には早くも米兵70余名(入園料無料)が見物に訪れた。猛獣たちが姿を消し、目玉といえばサルやキリン、ラクダにエミューといった寂しい動物園であったが、市民の心を和ませるには十分効果があった。二十年四~八月の五ヵ月間の入園者数が45,817人(八月は5,957人)であったのが、九月には17,035人、十月26,063人、十一月41,490人と、入園者は確実に増えていった。