東京大正博覧会で賑わいを取り戻す大正三年前半

江戸・東京庶民の楽しみ 150

東京大正博覧会で賑わいを取り戻す大正三年前半
大正三年、シーメンス収賄事件の暴露から、政局は混迷を深めるばかり。八月に第一次世界大戦が始まる。日本経済は、一時的にせよパニック状況におかれた。
 不況の中、三月には東京大正博覧会が開催され、市民に明るい話題と楽しみを提供した。市民レジャーは、博覧会に刺激されたのかその後も活発で、川開きやお会式、文展などの賑わいが続いた。
・一月「護摩の煙絶ず」「外人も交じる参詣者」二日付東朝
 新聞を見ると、元日から人々が活発に動いている様子がわかる。一番人気はやはり初詣で、川崎大師などでは午前七時の段階で、すでに数千もの人がごった返していた。また、七福神から観音様へと、向島や浅草、上野などを巡り歩く人々も紹介されている。このように初詣に出かけた人は非常に多く、東京の人口の半数以上の人が出かけたものと思われる。
 市内でもっとも賑わったのは浅草観音仲見世通りは人で身動きができないほどの混雑ぶり。その後の人の流れは、六区や花屋敷の方面に向かう。小屋掛けの猿芝居や玉乗り、大晦日から休みなしで営業している映画館など、お正月を意識した華やかな看板に誘われてか、どこも満員だった由。
 二日になると、初売りがはじまる。街中はまだお正月で、不景気といわれてはいるものの、人出は前年より多そうだ。元日の市電東京駅の乗降客は、7千7百余人と前年より千人以上増加。結局もっとも人気があったのは映画で、「大儲けは活動ばかり」とは新聞の見出し。
 正月気分が、三箇日以後も続いていたと見えて、十日の虎ノ門の初金比羅も参詣人が多く大混雑を極めた。歌舞伎座(「冥途の飛脚」)も本郷座も大入り。その後の藪入りは、浅草六区の映画館や上野の動物園も大入り、各閻魔堂も早朝から賑わった。さらに、亀戸天神の鷽替も盛況が続いた。
・二月、映画をのぞきレジャーは低調
 成田山の豆撒きは、この日だけで8万人もの人出。川崎大師や市内各所の社寺へも大勢出かけている。この人出は、町内の誰かが出かけている程度、東京の人口の一割近くになる。
 六日には、国技館で憲政擁護会が1万5千人の集会を催している。九日は蓬萊座の演説会。十日、日比谷公園松本楼で国民大会。十四日にも第二回国民大会。このように二月に入ると政治活動が活発化し、議会包囲や軍隊出動の記事が新聞を埋め、レジャー気運を冷まさせた。
・三月、大正博覧会一色「長軀のミイラ禅師の遺物」「子供も大人も驚く魔術」三日付讀賣
 三月に入ると、新聞記事から博覧会熱が高まってきたことがわかる。前売り券の売行きも好調で、開会前日までに50万枚売る目標が、実際は60万枚と10万枚も多く売れた。
 料金は、七年前の東京勧業博覧会より五銭値上げされ、日曜・祭日用が二十銭、平日が十五銭。またこれとは別に、一日・十五日は日曜の半額と思い切って割引をおこなった。これは職人の休みを考えてのことであり、一人でも多くの人に見てもらおうという施策でもあった。しかし、実際には、入場料金が半額になってもなお、博覧会に行けない貧しい人々が多かったことも確かで、結果を見ても、半額デーの一日と十五日の入場者が他の日より特に多いという事態にはならなかった。
 二十日には、まだ未完成の建物もあったが、一万人近い招待客を呼び、博覧会の開会式は賑々しく催された。一般の入場者に対して、数百人の警官が誘導・制止にあたり、午後二時頃からようやく入場が許された。開場三十分で1万人近い人がなだれ込むという大変な混雑ぶり、5万人入ったという記事もあった。が、実際には1万4千人程度であったようだ。さらに、二十八、二十九日には約12万人が入場し、以後、続々と市民が見物に訪れた。
 なお、人々が注目したのは、博覧会の展示物よりケーブルカー(料金15銭)やエスカレーター(当初10銭が人気で15銭に)などであった。
・四月「咲いた咲いたと」「大正博花の美観」一日付東朝
 この年のお花見については、大正博覧会が開催された関係から、大正博覧会の記事とセットで紹介されている。例えば一日付の新聞(東朝)では、上野公園の桜の写真とともに、大正博覧会の催し。三日の日にも「花曇りの大正博」という写真と、前日の大正博覧会の入場者数が日中6万4千人、夜間2千9百人であったこととともに、向島や荒川のサクラの紹介をしている。その後も、五日には靖国神社境内の写真、六日も大正博第一会場のサクラの写真。ところでこの年は、花見に関連する記事や写真は例年より多いものの、馬鹿騒ぎをしている記事は少ない。これは、大正博覧会に紙面を奪われたというだけではなく、皇太后の病状が悪化していたために、大衆が花見に浮かれている様子をそのまま書くことにためらいがあったためと思われる。
 博覧会に関するおもしろい記事(讀賣)がある。博覧会が始まって以来、落とし物の数が三割増加とか。もっとも増えたのはやはり金銭で、二月平均が一日13円24銭5厘であったのが、三月には45円23銭3厘とほぼ三倍になっている。
 品物で言うと、風呂敷包みの弁当箱(まだ食べていないものがほとんど)、それから地方から出てきた人が落とすのはお土産の絵はがきや地図、傘も多い。一日当たりの遺失品は、70~80点にものぼり、金額にして百円位になる。意外と多いのは博覧会の福引券で、5円や10円の当選番号もあるという。土産は東京土産が多く、魚や果物などの腐りやすいものは、売ってお金にして保管されているという。さらに記事によると金銭を落とした場合、半分は落とした人の手に戻るが、品物の場合は、上等な物でない限り戻ることはあまりないとのこと。
・五月、大正博の「美人島に閉場を命ぜよ」七日付讀賣、「皇太后宮大喪儀」二十五日付万朝
 五月に入り、例年なら行楽シーズンたけなわのはずが、なぜか市民のレジャーはあまり盛り上がっていない。靖国神社大祭も、元帥や大将等お歴々が参拝しているにもかかわらず、訪れる人が少なく淋しい限りと書かれている。さては、市民は皆博覧会に出かけたのかと思いきや、博覧会の入りもさほど多くなかった。
 ちょうどその頃、神田須田町のもっとも目立つ場所に「美人島旅行館」なる毒々しい広告が立った。これが実は大正博覧会の目玉イベントの一つでもあった。いかなるものかと覗いてみると、これがなんと俗悪極まりない見世物だったらしい。ちなみに、プログラムには「火焰の美人、蛇体の美人、無頭の美人、一千年の怪美人など」とある。
 だが実際には極めて幼稚な、くだらないもので、例えば美人島専属女優と銘打ったヤンキーダンスは「お転婆女の跳ねっかえり」、さらにモスコー女優のサロメダンスは芸術の名を借りた挑発的で醜態なものと新聞は切って捨てている。また、場内は薄暗く、空気も悪い有害な環境であると批難し、事務局は勇断をもって閉場を命じるべき、と断じている。
 新聞(讀賣)は、連日、博覧会関連の記事で持ちきり。七日の日だけでも上記の他に、競馬大会、自転車・自動車等の各種競技会、不忍池にモーターボートを浮かべたこと、牛込芸妓踊り、山形の竜神舞い、さらには演芸場での賭博事件、火事騒ぎ、とてんこ盛り。もっとも記事になるわりには、博覧会の入りはあまりよくなかった。おそらく皇太后が亡くなり、市中の商店や浅草六区の映画館などが休業したことも影響したのであろう。
 五月の末には、大正博覧会では景気挽回策として「豆蔵・曲独楽・阿呆陀羅経・新内流し・綱渡・女太夫・影芝居等」の八つの演し物を無料で見せ、入場者の増加につとめている。
 ・六月、博覧会の入りはよくないが市民レジャーは活発に
 六月、梅雨に入り外出がおっくうになりがちだが、相撲や開帳などに人出がある。新聞では博覧会の盛況を伝えるが、市民の博覧会熱はとうに冷めていた。博覧会へ誘うイベントは、蛍狩りなど連日のように新聞に載せられている。しかし、入場者数は天候に左右され、晴れないとなかなか出かける気にはならない。
 そんな中、森鴎外は、二十日小雨の中、娘の茉莉を連れて博覧会に出かけ精養軒で食事をした。

 

 

───────────────────────────────────────────────

 大正三年(1914年)・・・1月シーメンス事件問題化

───────────────────────────────────────────────

                                           

1月2朝 川崎大師の初詣で、満員の京浜電車が人を送り込む
  2朝 浅草観音、電車から吐き出された人で仲見世は身動きとれず
  5読 大相撲、諸物価の高値で木戸代値上げ     
  5読 本郷座・明治座等売切れ満員           
  5読 浅草公園みくに座、発声活動写真に楽燕の 連夜大入り満員
  11読 初金比羅、参詣者夥しく大混雑を極める   
  17読 藪入り、浅草六区の映画館はどこも大入り満員
  17読 大相撲春場所七日目、午前中に木戸止め   
  17森 鴎外、奉告祭に参列のため賢所へ       
  26読 亀戸天神、鷽替で賑わう            
  27読 大正博に際し交通整理で浅草露店の160軒が半分になる大恐慌 
2月5朝 成田山の豆撒き、八万人もの人出      
  7万 国技館で憲政擁護会、1万5千人集会
  4万 大勝館「クイン」上映大好評
  8読 都座、露国女優ダンス又々日延べ
  8読 浅草朝日館「空中の秘密」他連日満員
  10万 第一福賓館「天馬」大入りにつき日延べ
  15万 帝国館「軍神」満員盛況三日間日延べ
  16読 観梅臨時列車運転
3月2読 好天気で浅草に人出
  2読 百花園に五色の梅植え、清興
  2万 市村座憲兵の娘」青年新派好評大入り
  8森 鴎外、終日異様に暖かなり、園を治す
  10森 鴎外、靖国祭のため正午退衛す
  15朝 新富座「渦巻」毎日売切れ
  15読 六阿弥陀
  15万 キリン館「新四谷怪談」大好評
  21日 上野公園で東京大正博覧会が開催される
  28万 トルストイの「復活」帝国劇場初演、30万満員御礼
  31読 大正博覧会の入場者、雨でも見物8万4千余
  31朝 電気館「アントニークレオパトラ」他日延べ
4月2読 夜の博覧会初日、1万1千余人入場、入場料5銭
  2読 松阪屋が記念売出し
  2読 歌舞伎座、連日売切れ
  4読 早稲田大学運動会、午後に場内埋る
  4読 神武天皇祭の博覧会、朝から雑踏、二会場は淋しい
  7読 今年限りの荒川堤の花
  9読 灌仏会、雨天にもかかわらず浅草など皆混雑
  9読 隅田川のボートレース明大活躍
  17読 大正博覧会、大評判の薩摩踊りの行列
  21芥 龍之介「人形の家」他を見る
5月1読 靖国神社大祭、元帥大将等参拝するが大変淋しい
  3朝 戸塚球場で早大対明大、観衆5千人
  6読 水天宮正五九の縁日
  7読 遊楽館の活動「冒険談猿が島」好評
  7読 大正博、卑猥風俗と美人島に閉場を命ぜよ
  11朝 青山と芝浦からの飛行、大正博訪問は中止だが群衆5万と3万
  16読 大正博、前日の入場者数2万4千余人
   万 「クレオパトラ」上映続く、4日葵館・10日第五福賓館・17日第三福賓館・30日明治座
  25万 皇太后宮大喪儀、浅草写真館など休業
  31読 大正博の景気挽回策に豆蔵・曲独楽・綱渡り等の八景展示
6月1読 花月園、新装披露
  8読 大相撲夏場所九日目は随一の大入り
  10朝 深川不動開帳七日間日延べ・23読180発花火揚げ盛ん
  13朝 常陸山引退相撲、正午満員
  14森 鴎外は類と神田川へ、妻と茉莉は帝国劇場 
  15読 大正博で蛍狩り
  20万 キリン館史劇「全勝」新派悲劇「女伯爵」盛況
  20森 鴎外、茉莉と大正博覧会へ
  23読 国技館の大花園、ショウブ・ダリアなど百種を飾る
  24読 大川筋、水泳場開き
  29読 東京競馬二日目、日曜なので甚だ賑わう

 

大正二年後半、景気は下降で娯楽も停滞

江戸・東京庶民の楽しみ 149

大正二年後半、景気は下降で娯楽も停滞
・七月「有栖川宮斂葬日」「謹んで休業 淋しい浅草」十八日付東朝
 七月、藪入りの日は暑い一日。一本4銭の扇を手にした小僧さんたちが大勢、上野や浅草へ繰り出した。上野三橋のお閻魔様の片側一帯に店が立ち並び、小僧さんたちは閻魔堂から公園内の明治記念博覧会のジオラマや動物園へと流れて行った。動物園の入場者は昼までに5千人は固いとある。公園前から出る浅草行きの市電は雷門で空になり、小僧たちは四発1銭の射的場をのぞき、一杯1銭の五色の水を手に、木馬館や十二階、水族館などに向かった。藪入りの翌日は「有栖川宮斂葬日」のため、浅草をはじめ映画館や劇場等は、こぞって休業、見出し通り“淋しい浅草”となった。
 二十一日付の新聞(讀賣)には、珍しく開帳の記事。「出開帳の粉擾歛(ヲサマ)る」と回向院の開帳にトラブルがあったことで取り上げられている。開帳は、明治の中頃から徐々にレジャーの色合いは薄くなっていたが、大正期にはさらにその傾向が強まり、開帳本来の宗教色の濃いものになっている。
・八月「花火の両国 相変らずの大雑踏」三日付讀賣
 雨が心配されたが、二年ぶりということもあって多くの人出が予想された。露店の数は吉川町から旧広小路にかけて80余軒、横綱から国技館にかけて150軒あまり、揃って客を待ち受けていた。両国橋では午後六時に路面電車を止め、両国橋東詰めでは相撲茶屋が桟敷を拵えて客を呼び込む。中には笛やお囃子で景気をつけるところも。桟敷の料金は、一等50銭、二等30銭、三等20銭。まだ日の暮れていない四時頃に、すでに桟敷の三分が埋まるという盛況ぶり。観客席は桟敷だけでは足りないとみえ、渡しの発着所に伝馬船を並べ、こちらは10銭・20銭という安さを売り物にした。夜になると、陸と海の双方に提灯の光が揺れ、万燈の影が動き始める。七時二十分頃、川中が一瞬明るくなり、待ちに待った花火がようやく始まった。十時頃まで続いたこの年の一番の見物は、紫宸殿右近の桜左近の橘、約十間の破風造りの大御殿であった。
 五日付新聞(讀賣)には、大川名物の夕涼みの記事がある。両国では、一時、屋形船が姿を消し、芸妓を呼んで舟遊びをするという、粋な夏の風物もすたれてしまった。それが数年前に復活し、今度は逆に数がふえて大伝馬船が14・5艘以上も見られるようになった。ただ、柳橋が全盛だった頃の両国夕涼みの面影はなく、むしろそれは隅田川向島に移ってしまったとある。また、両国の花火を真似て行われるようになった玉川の大花火は、数十軒の料理店や数百の灯籠流しなど、年々盛んになっている。さらに、品川でも花火があり、鴎外の妻と娘が泊まり掛けで見に行っている。
 お盆の深川八幡祭は、八幡の門まで露店がぎっしり並び、神輿が置かれている露店の合間には、夕涼みがてらスイカをかじる女性や子供の姿があった。広い境内がただ人で埋まり、隅には素人芝居の小屋と剣舞が7・8軒並んでいた。この深川八幡からは洲崎遊廓に流れる人も多く、八幡様の御利益で大繁盛と書かれている。
・九月「秋楽しお中日、何処も一杯の人出」二十五日付東朝
 夏からの巡回活動写真は九月になっても引き続き盛況らしい。特に、映画館の少ない郊外の農村で、趣味と実益をあわせもつ教訓的な映画を興行し、人気を博した。例えば、三鷹村の東西小学校では2千余人もの観客があり、すこぶる好評であった。
 彼岸の中日は晴れ上がり、朝早くから市電は満員、特に青山や谷中の墓地は人で埋まった。六阿弥陀詣では八十八ヶ所の大師参りも相応の賑わい。御詠歌や鉦の音、読経の声が秋の空気に響いて集まった人々の心をなごませた。「動物園、浅草の活動街、日比谷、芝新公園何処へ行っても人と人の鼻突合をしないのが不思議な位であった」というから、多少の誇張があるとしても、かなりの混雑だったのだろう。目黒の栗飯、雑司ヶ谷の焼きとりなどの名物を目当てに出かける人も少なくなかった。向島百花園の萩は盛りで、亀戸天神愛宕神社も秋祭りとあって、樽神輿を担いだ子供たちが駆けまわっていた。
・十月「市内と近郊の菊 何も見事の出来栄」二十九日付東朝
 十月はキクの季節。「早い菊晩い菊」と国技館恒例の菊人形を紹介。桃太郎・二見浦・雪月花の五段返しの豪華な人形に活動写真でおなじみの「新馬鹿大将」も加わって、入場料20銭は高くないとの評判。菊見のイベントは、向島百花園日比谷公園のほか、玉川遊園地などでも催され、玉川電車は日曜日の乗客に入場券を配るサービスをしている。
 また、浅草、常盤座で演じられた我廼家五九郎一座の喜劇は初日から満員の客止め。日本最初の活動写真館である電気館では十周年を迎え記念企画を開催。さらに、三カ月前から期待されていた公衆劇団の第一回上演が帝国劇場で開催。「マクベスの稽古」「茶をつくる家」など識者の間で前評判の高かった「エレクトラ」も上演にこぎつけている。十七日に芝居を見た芥川龍之介は、その時の感想を「とにかくエレクトラはよかった」と興奮さめやらぬ筆致で書き記している。
 「休日に関する件改正公布」で、政府はなぜか十月三十一日を天長節祝日(大正天皇は明治十二年八月三十一日誕生)と定めた。一回目の天長節祝日には、新聞に「大提灯行列」Aと紹介されているように、「実業団体四万人」に加えて市内の小学生が旗行列を披露、その数18万本、また錦にような華やかな花電車も繰りだされ、盛大な行事となった。この日は上野や浅草などで遊ぶ人が多く、混雑による事故は、迷子23人、スリ5人などと上野署から報告された。
・十一月「一の酉の美観大雑沓」十三日付讀賣
 十二日は「酉の市」。人の大勢出るところにはトラブルはつきもののようで、酔っぱらい2名、迷子5名、喧嘩1件という記事が出ている。明治時代の浅草に比べると、それでも混乱は少なくなった方だとか。二の酉も盛況だった。月末には、東京座や浅草国技館で拳闘対柔術の試合が行われた。拳闘は離れて、一方、柔術は組んで戦うもので言ってみれば異種格闘技の元祖。これがなかなか人気があったとみえて、翌月も興行されている。柳盛座での試合は、特等50銭から四等の15銭までと比較的安い。
・十二月「深川の歳の市 品物一向に売れず」十五日付讀賣
 師走恒例の「歳の市」は、深川八幡を皮切りに、浅草観音神田明神などと続き、どこもそこそこ賑っている様子。もっとも、出かける人は明治期よりも減少し、どこの家庭でも出かけるという行事ではなくなった。都新聞の連載「暮の貧民窟」には、不景気で最下層の人々の生活が一層厳しくなった様子が書かれている。二十八日から三十日まで入場料5銭と値下げした浅草の常盤座や吾妻倶楽部なども“手引女”が入口に立ちつくすようなありさまで、年の暮れというのに、市民レジャーは冷えきっていることがわかる。

───────────────────────────────────────────────

 大正二年(1913年)・・・9月阿部外務省政務局長暗殺

───────────────────────────────────────────────

7月4読 大森の大煙火
  10読 浅草四万六千日雑踏を極める、1株3~10銭、1鉢3~4銭
  12朝 有栖川宮薨去浅草公園興行は御停止
  15朝 富士館「新馬鹿大将ボビー」他大入り日延べ
  17読 日盛りの藪入り、上野・浅草など賑わう
  18朝 有栖川宮御斂葬日、浅草など謹んで休業
  20読 避暑地便り、非常なる景気
  21読 回向院で紀伊那智補陀洛山寺の開帳
  25森 妻、茉莉、杏奴、鵠沼より還り
  31朝 御一年祭の市中 青山の人出数万
8月1読 品川お台場に無料納涼地開く、飲食店・余興あり
  3読 両国川開き、相変わらずの大雑踏
  10万 玉川の花火、電車で4千人余、スリ等6件、拾得物1件
  10森 妻と子供が泊り掛けで品川へ花火見物
  16万 電気館「何が故」連日満員
  16読 深川八幡祭は、夕涼みがてらの人々で一杯
  21読 大正婦人博覧会、向島華壇にて開催
  21読 西新井大師、川崎大師へ臨時増発
9月2読 巡回活動写真の盛況
  6読 水天宮、露店数百軒出店し雑踏する
  8万 日比谷公園で対支那問題国民大会、2万人警備の警官3千人
  18読 浅草三社祭
  19万 歌舞伎座で浪界五傑大決戦
  22読 24・25日、亀戸天神・成子神社・とげぬき地蔵など大祭
  23万 有楽座「内部」芸術座の初日満員
  25朝 秋楽しお中日、何処も一杯の人出、朝から電車は満員
  26万 電気館「宇良表」大好評
  30万 帝劇「マクベス」空前の盛観
  30万 渋谷金王氷川神社大祭、素人大相撲
10月4読 常盤座の曽我廼家五九郎一座の喜劇が盛況 
  7読 両国国技館の菊、毎日5~7千人の見物  
  7万 露店に電灯が許可             
  13朝 参詣の人幾十万人 池上本門寺会式は大混乱 
  17芥 龍之介、帝国劇場でエレクトラを見る    
   18読 早稲田大学三十年記念、大提灯行列、沿道の歓迎
  19森 鴎外、帝国劇場に往き、女がたを看る   
  19万 キリン館、天然色活動写真、連日満員   
  20読 ベッタラ市非常なる雑踏         
  20朝 日曜日の文展、入場者1万2千人      
   21万 みくに座、小奈良、大入り満員       
  22万 招魂祭、花火・里神楽能楽・相撲等あるがその割に人出少なし 
  23森 鴎外、家族と展覧会を看る
  30朝 天長節祝日には大提灯行列、錦にような花電車もでる
11月2森 鴎外、妻と子供三人を連れて小石川植物園
  3朝 靖国神社で東西対抗学生相撲大会、観衆5万
  5万 帝劇「千本桜」他森律子で初日大入り
  9都 宮戸座「鎌倉山桜御所染」「神道水滸伝」好評大入り
  13朝 浅草一の酉の美観大雑沓、酩酊者2名・迷子5名・喧嘩1件
  16万 帝国館「白と黒」昼夜満員
  25朝 徳川慶喜薨去東京市の申合せ歌舞音曲の遠慮
  25読 押し潰されそうな景気、夜の浅草二の酉   
  27万 東京座で拳闘対柔術試合、浅草国技館等でも興行  
12月3万 米大リーグ初来日、模範試合が行われる
  5芥 龍之介、帝国劇場でバッハなどを聴く
  7万 新富座の越後一座の語り物大入
  12万 有楽座で初の発声活動写真、好評
  13万 柳盛座で拳闘対柔術試合、特等50銭・一等40銭~三等20銭・四等15銭
  15読 歳の市、深川八幡相応に賑わうが品物一向に売れず
  18読 浅草観音歳の市、雪の影響でも相応に賑わう
  22朝 神田の歳の市、見張りの巡査は200人
  25森 鴎外、樅の木に燭火を點し、クリスマスの 真似をする
  27万 メキシコ特使の歓迎会、提灯行列など出て 2万人

 

大正二年は不景気、でも娯楽はそれなりに

江戸・東京庶民の楽しみ 148

大正二年は不景気でも娯楽はそれなりに
 大正二年の事件としては、二月に護憲派の民衆が議会を取り巻き、桂首相は内閣を総辞職する。この総辞職は「大正の政変」とされ、藩閥政治がおわり、あらたな政治の始まりを期待させた。しかし、政局は不安定で、政費削減が進められたものの、景気は改善しなかった。
 東京では、二月に神田で大火があり3千8百戸が焼失。不況が続くことから、明治天皇崩御の暗さを引きずったままで、市民のレジャーも停滞していた。この年流行したのは、ローラースケート、女優まげ(前髪を七三に分ける)などがある。人気スターは松井須磨子、歌は「早春賦」「鯉のぼり」などが流行した。上野動物園の入場料、大人5銭、小人3銭。入園者数68万人。
・一月「待ち兼ねた藪入」「大繁盛の浅草公園」十六日付東朝
 元日といっても喪中という意識があるせいか、人出はどこも多くなかった。新聞にも正月気分を感じさせる記事は少なく、せいぜいかるた会が盛んに行われているという話題くらい。それでも、上野動物園には元日に、3千人を超える入場者があった。また、市内の市電の乗降客数は、三箇日ともほぼ同じくらいで約64万人である。前年に路線が増加していることを考えれば、この数字は多くない。新橋駅の元日の乗客数は、理由はよく分からないが、前年と比べ三分の一近くも減少している。
 十日は亀戸天神の初卯に当たり、早朝から大勢の参拝客が詰めかけた。大相撲も初日から、正午までに桟敷や土間なども埋まるほどの盛況で、その後も大入りが続いたもよう。
 十五日の藪入は、「新しい鳥打ち帽に双子の筒袖」という御定まりの格好をした小僧さんや絹のハンカチを首に巻いた女中さんたちが、浅草に向かう市電に大勢乗り込んだ。ただし、芝公園や赤羽橋の様子を見る限りでは、露店が50軒余、見世物が4軒と以前ほどの賑わいはなかったようだ。
・二月「成田山の大雑沓  参詣人二万以上」「川崎大師の大混乱」四日付東朝
 二月に入り節分、浅草観音亀戸天神下谷鷲神社の豆撒きでは、子供が気絶したという記事が見られる。もっとも、喪に服していたためか、追儺式はいたって控えめであった。東京は、レジャー活動より政治活動の方が活発で、一月に新富座で憲政擁護連合大演説会が開催されていた。十日には護憲派の民衆デモが議会を取巻いて、政府系新聞社や警察を襲撃、派出所や市電も襲い、とうとう軍隊まで出動した。そしてそれ以後も、集会やデモは市内を騒がせた。また、二十日には神田で大火があり3千8百戸も焼失、市民のレジャー機運はさらに沈滞した。
・三月、芸能はいずれも好況(十五日付東朝)他
 蒲田の梅屋敷の入園料が5銭だとか、越谷にすばらしい樹があるとか、ウメの便りが頻繁になっている。彼岸には六阿弥陀詣でにぎわう亀戸が紹介される中、二十日付で、百花園が売却されるという記事がある。百花園は明治年間に洪水のために何度も復旧工事を余儀なくされたが、そのために莫大な借金が残ってしまった。江戸時代からの茶代や今土焼などの販売だけでの経営では行き詰まった。それで、年頭から大人5銭・小人3銭の入園料を徴収するようになったが、それでも効果がなく、このような話がささやかれるようになった。
 芸能では、有楽座は豊竹呂昇の義太夫、浅草国技館で奇術や喜劇、富士館の映画「三日月」など、いずれも好況。中でも、森鴎外が初日の二十七日、長女の茉莉を連れて出かけた、帝国劇場の「ファウスト」公演は特筆もの。これは翻訳劇としては、異例の初日から大入りを記録している。
・四月「お花見大雑閙(ザットウ)」、「飲めや唄への上野」四日付東朝
 四月と言えば何をおいても花見。当然のように連日、花見関連の記事が写真入りで掲載されている。六日付の新聞(東朝)は、墨田堤で見事に咲いた桜の写真が三面トップの三段抜きで、花見の俗化などを書いている。墨田堤の土手に乞食の一団がたむろし、それでも堤の花の下には大勢の人が集い、そこを自動車で走ろうとする輩が花見客に怒鳴られたりしている。土手下の午の御前境内では、放下師(大道芸人)や猿廻し一団と口笛の芸当が行われていた。
 また、江戸川(この江戸川は、東京都と千葉県の境を流れる江戸川ではなく、玉川上水から続く飯田橋近くの外堀に流れ、墨田川に合流する川である)に目を移すと、船上や川岸からサクラを眺めようという風流な一群がいた。路面電車の音さえ気にしなければ、かなりオツな気分の水上花見。もっとも、一時間5銭の乗合船でそこいらを乗り回るような連中は、棹をぶつけ合い、泥酔した挙げく川に落ち、またそれを橋上の上から面白がって見て万歳と叫んで大騒ぎするなど、花見そっちのけで大騒ぎに興じる様子が描かれている。
 翌日の新聞(東朝)では「花の日曜日」「人の山人の海」「無礼講飛鳥山」と五日の花見の喧噪を載せている。特に飛鳥山では、「・・・義太夫を唸る、鬼ごっこをはじめる、綱引きをやる等上野の紳士的なるに引きかえて大の無礼講狂宴乱舞が打ち続く、通りがかりの女の袖いて其女やらぬと芝居がかるもあれば、方々でケンカが持ち上るやら・・・打倒れて前後も知らず寝て居る者は数えるにいとまもないほど・・・」という有り様。このように花見が盛んになる一方で、荒川・向島のサクラは古木になり枯れはじめていた。二十五日付(讀賣)で「花見は尽きない」との見出しで、亀戸の町は四方を工場に囲まれ、空は真っ黒に濁っている。名所も終には破壊されるのか、と危惧している。
・五月「行楽今や酣(たけなわ)」五日付讀賣
 四日は行楽シーズン中の日曜日とあって、東京の名所はどこも大賑わい。各々催事にも工夫を凝らしていたようで、例えば、日比谷公園では、ツツジ園に雪洞がつくられ、グランドでは錦城中学と星電気の野球試合、芝生では幼稚園や小学校の機械体操が行われ、この日一日だけで1万人を超える人出。
 また、十五日付新聞(讀賣)によると、小石川植物園では温室の脇に、ボルネオからやってきたオラウータンが置かれ、それを目当てに平日で5~6百人、休日には2千人もの来園があったとか。森鴎外も六月に入って、娘たち(杏奴と類)といっしょに出かけている。鴎外の関心はオラウータンより植物の方にあっただろう。同年の彼の日記を読むと、「福寿草開く」「芍薬の芽出ず」などの記述とともに、「園を治す」つまり庭をいじるという記述も数回登場する。作業内容など詳しいことはわからないが、なかには「終日園を治す」という日もあり、鴎外のガーデニングはなかなか気合が入っていたと思われる。
・六月「国技館の花菖蒲」二日付讀賣
 六月三日付の新聞(東朝)に「蒲田の菖蒲」の写真。花菖蒲の見ごろを迎え、あちこちの菖蒲園がオープン、なかでも両国国技館の花菖蒲は10万本と壮観で、おまけに菖蒲人形も展示されている。入場料は、大人が15銭、小人が10銭でちょっと高め。玉川の菖蒲も真っ盛り、こちらは無料。
 芝居は、帝国劇場に注目が集まった。「トスカ」「シーザー」と話題を提供。
 前月からの続き物としてスケート巡り(2)の記事(讀賣)がある、麻布・古川に臨んだスケート場が紹介されている。広さは休憩所を除いて36坪(約120㎡)。料金はスケートの善し悪しで、一時間20銭・15銭・10銭と掲示されているが、当分の間半額となっていた。涼みがてら訪れる人が多く、利用者は学生と商人・職人が半分づつ。慶応・麻布・芝中などの学生よりも職人たちの方が上手だったらしい。またこの年、ローラースケートが流行したとみえて、十二月にも盛況ぶりが記事となっている。
────────────────────────────────────────────────

  大正二年(1913年)・・・2月大正の政変
───────────────────────────────────────────────╴

1月2読 七福神参り・恵方参り、参詣者少なし
  5万 演技座、三箇日は40銭均一で一杯
  6読 かるた会、盛んなる
  8森 鴎外、残雪、銀座を散歩す
  11朝 亀戸天神初卯、朝より参詣者夥しく電車満員  
  11朝 大相撲初日、正午には桟敷・土間も埋まり盛況 
  16朝 待ち兼ねた藪入り、大繁盛の浅草公園
  16朝 大相撲、藪入り連大入りで正午頃に満員
  17読 芝公園と赤羽橋の閻魔、露店50余見世物4 軒で非常に賑わう
  17読 大川、吾妻橋で寒中水泳、見物人堵をなす
  20読 大相撲、千秋楽も満員
  22都 川崎大師の初大師、近年にない賑わい    
 ╶──────────────────────────────────────────────

2月2万 オペラ館「絶壁の秘密」好評
  4朝 追儺式、成田山・川崎大師・浅草観音などで催され混雑
  10万 両国国技館で連合大演説会観衆2万5千
  11万 憲政擁護騒擾事件、交番76・市電26両等が襲われる
  13読 深川八幡祈年祭
  14読 国技館で闘牛、大入り満員
  23朝 東西合併大相撲、二・三・四・七日目大入り満員
  21万 富士館「佐倉義民伝」上映、大好評
╶──────────────────────────────────────────────╴

3月10読 麗らかな春の光、蒲田の梅屋敷、5銭
  15万 浅草国技館新馬鹿」奇術・奇劇・音楽で満員 
  15朝 呂昇の初日、有楽座の場内を真黒に埋める
  21万 富士館「三日月」連日大入り
  23森 妻、茉莉、杏奴の三人で有楽座に往く
  25読 潮干狩り、大伝馬3円50銭・小荷足1円50銭
  26読 不忍池で自転車大競争会
  27森 鴎外、茉莉を伴い帝国劇場に往く
  28朝 帝劇「ファウスト」初日、新芝居にしては珍しい程の入り
╶──────────────────────────────────────────────╴

4月3読 浅草ルナパーク、木馬・汽車活動など一新し盛況
  3森 鴎外、終日園を治す
  6読 上野精養軒でニャーニャー展覧会
  6読 芝の苔香園で小品盆栽
  7読 花の日曜日、電車は花見で満員     
  15読 三越で児童博覧会
  16朝 本郷座の曽我廼家、初日から大入り
  18読 行く春の花、大久保躑躅園・四つ目牡丹・亀戸藤
╶──────────────────────────────────────────────╴

5月1読 靖国神社例祭、雑踏を極めたる九段、遊就館に未曽有の大入り
  1読 有楽座でイプセンの「鴨」上演
  3朝 歌舞伎座、雲右衛門の浪花節大入り
  5読 晴れた日曜日、各所の行楽今や酣(タケナワ)    
   12読 太刀山鳳主催の力士運動会
   15読 小石川植物園に猩々(オランウータン)来る
  16朝 宮松亭の落語研究会、相変わらずの一杯
  16朝 全比対明大野球第一戦、入場者2千人
  18森 鴎外、茉莉らを伴い回向院の相撲を見る
  19朝 大相撲三日目、日曜日で昼前満員売切れ
  27読 渋谷に宮益スケート場、すこぶる繁盛
───────────────────────────────────────────────╴

6月1森 鴎外、園を治す。妻と子供は三越に往く
  2読 国技館の菖蒲、10万本、大人15銭     
  2朝 帝劇「トスカ」初日、梅幸幸四郎で大入り
  2朝 日米野球戦、慶応猛打で再びス軍を破る、観客5千人
  7都 大勝館「銚子の五郎蔵」他大入り御礼
  8森 鴎外、杏奴と類を連れて植物園に往く
  9朝 「これも御時節」講談の席28軒130人に減少
  19都 真砂座「弘法大治郎」大入り日延べ
  23読 古川のスケート場、涼みがてらの利用
  25朝 明治記念博覧会、上野不忍池畔で開館、大人平日10銭休日20銭
  27朝 帝劇「シーザー」初日から大入り
──────────────────────────────────

新しい時代に入り娯楽は自粛

江戸・東京庶民の楽しみ 147

新しい時代に入り娯楽は自粛
 1912年は、日露戦争が終わって六年目だが、戦争による国民の疲弊はまだ残っていた。それでも東京は、首都として日進月歩の勢いで変化していた。市民は日々の生活に追われながらも、変わり行く街の中で楽しみを求めていた。
 この年の正月はまだ明治時代、前年からの市電のストライキに翻弄されながらも、市民のレジャーは、初詣をはじめ活発なスタートを切った。藪入り、節分と行楽活動は月を追って盛んになっていた。明治四十五年の大きな事件としては、三月に深川洲崎の大火(1,140余戸焼失)、五月に衆議院議員選挙、七月に米価が急騰など。流行は、桃中軒雲右衛門の浪花節、フランス映画「ジゴマ」などがある。日本流行歌史(古茂田信男他 社会思想社 発行)によれば、「春の小川」「村の鍛冶屋」などが流行した。また、米価高騰のため焼き芋屋が繁盛。馬肉専門の鍋屋が300軒(上等一人前7銭、最下等3銭)を超えた。
 七月三十日、明治天皇崩御し、大正時代となる。天皇崩御とそれに続く乃木大将の殉死は、社会に大きな不安と混乱を生じさせた。反面、明治時代の終焉は、市民にとって悲しみだけではなく、新しい時代への期待感を感じさせたに違いない。それは、明治四十年代から国産自動車の製作、山手線の運転、飛行船や飛行機など新しいものが次々に出現し、新聞などを通じての様々な知識や情報が人々に伝わっていたからである。
・七月「あらゆる興行物の遠慮」二十二日付讀賣
 七月に入ると、米価が高騰、株価は大暴落し、東京の町には重苦しい空気が漂った。レジャーの自粛は、明治天皇の容体が悪化した七月の中頃から始まった。例年なら盛大に花火が打ちあげられる川開きも、二十日朝刊(讀賣)には「本日川開き」と出たものの、警視庁からのお達しで結局中止。三十日付の新聞で、「天皇陛下崩御」が伝わると、すべての娯楽場が休場。さらに八月に入ると、一日から五日まで音曲停止。それが解けてからも、盛り場の賑わいはなかなか戻らなかった。この年の芸能関連の利用統計(東京市統計書)を見ると、興行数および観客数は前年に比べて明らかに少なくなっている。
大正時代となる
・八月「釣客増える おとなしくして楽しむ」十二日付讀賣、「向島と目黒の秋草」十四日付讀賣
 天皇崩去以来、新聞のすべての頁に黒枠(九月十七日まで続く)、街はむろん自粛ムード一色、レジャー関連の記事はほとんど見られない。ただ、市民も少しは息抜きがしたかったのであろう。盆栽の展示会、釣りや秋草の観賞(虫放し会は中止続く)など、地味なレジャーはけっこう楽しんでいたようす。十一日に再開した浅草の映画館などは、久しぶりで大入りであったが館内は物静か、仲見世の飲食店も実入りが少なかった。もっとも八月の半ばを過ぎるとドイツ観光団が東京を訪れ、あちこち見学して歩くなど、外国人の遊びについては寛容になってきている。月末には、オペラ館上映の「ジゴマ」が連日満員になるなど市民のレジャーは徐々に復活してきた。
・九月「非風粛々 御粛々と大葬当日の東京」十四日付東朝
 九月一日に市内を暴風雨が襲い、大きな被害が出てレジャー気運は再び停滞。また、すべての新聞は十三日の大葬関連記事で埋められ、市民は娯楽を控えざるをえないようなムードの中にいた。東京市長は、十三日の大葬に、市民は葬場殿の方向に向かって三分間稽首遥拝の礼を行うと提唱。また、御葬当日の祝詞を宣する時刻と拝礼の時に、二回、市内すべての電車を三分間停止。
 十三日から三日間は、飲食店から湯屋・葬儀屋まで皆休業。吉原や浅草なども三日間休業のため、前日の十二日は近来にない賑わいであったという。大葬は青山葬場殿(神宮外苑)で全市をあげて行われた。小学校でも午前八時に全員整列し遥拝を行い、玉串を捧げた。御通路に沿った日比谷公園には午前九時頃からギッシリと人が詰まり、それ以降も後から後からと押し寄せてきた。こうした様子を十四日付朝日新聞で、「・・・地面の上に炭俵、蓆、毛布、新聞紙思い思いに敷き詰めてその上に座って居る・・・電車のない中から出掛けた連中は朝の中からヘトヘトになって膝を崩して座った儘前後も知らずに寝込んで居る・・・十二時頃になると各自携帯弁当を開く・・・手回しの可い連中は毛布の上で割り子を開いて麦酒の栓を抜いて居るのもある・・・」と伝えている。二ヶ月近くレジャー自粛を強いられていた市民のなかには、大葬をレジャー感覚で楽しもうとする人が大勢いたようである。さらに十八日には乃木大将の葬儀が続いた。この時の沿道の混雑は、御大葬の時以上であったという。しかし、二十二日からの豪雨と月末のコレラ発生とで、またもやレジャー気運は衰退してしまった。
・十月「秋晴れの日曜日 各遊園地の雑踏」九日付讀賣
 それでも十月は行楽シーズン。秋晴れの日曜日には、上野・浅草をはじめ、青山葬場殿・乃木家墓畔などへ多くの人々が出かけた繰り出した。池之端で一日より開催されている拓殖博覧会は、正午過ぎには満員の札が張られ、大変な混雑ぶり。中でも人気を呼んだのは、「蕃地村」と称する「アイヌ生蕃樺太人の住居」を再現したもの。また、浅草六区の混雑も著しく、大勝館の活動写真「新ジゴマ」は満員。青山行きの市電はどれも満杯、四谷信濃町通りも乃木大将の墓前へお参りしようという人の群れでごった返していた。
 池上・堀之内の御会式や両国国技館・浅草国技館・百花園などの菊人形等が、例年と同じように催された。池上の御会式は雑踏のため、万灯が燃え上がり川に落るというような椿事があったものの、迷子17件、スリ2人、喧嘩3件と事件は意外に少なかった。世情全般としては、人気の「ジゴマ」が、警視庁の厳命で終了させられたように、市民は喪に服すべし、という雰囲気は依然として続いていた。こうした中で、娯楽色のつよいレジャーが、新聞に掲載しにくかったのに対し、「文展」(文部省美術展覧会)はたびたび批評が紹介されるなど注目を集めた。そのためか、入場者が一日1万人を超える日もあるほどで、十一月の最終日までには、約16万人を超え前年の二倍近くにもなった。
・十一月「芝公園をはじめ至る所で人の群れ」四日付東朝
 十一月三日の国民記念日は良く晴れた行楽日和。森鴎外も妻と三人の娘たちを伴って拓殖博覧会見物に出かけている。この日は、市内はどこも行楽客で一杯であった。
 中旬に、風紀取締りにあって閉鎖状況であった向島遊園地(明治四十二年頃できた一万坪ほどの歓楽街)が復活したという記事が出ている。なお、当時の遊園には、芸者屋31軒、待合25軒、周囲に一品料理、小間物店、大弓場、活動写真の天遊館、寄席の遊楽館・天満館、それに女達が「チョイト、チョイト」を連発する86軒のいかがわしいサービスを行なう飲食店、さらに盆栽や草花などを綺麗に陳列した成趣園・錦華園が並ぶ、というようなところであった。
 浅草大鷲神社の二の酉は、一の酉が雨のために出そこなった人が一挙に訪れたためか、御守りや福袋が飛ぶように売れ、賽銭も千円近くに達するだろうと書かれている。ただこの年は三の酉まであるため、熊手は控える人が多いとか。2円50銭の熊手を値切って25銭と言ったら、負けてくれたという話もある。お酉様の影響で浅草公園は好景気。また、吉原はその前日が職人の給金日に当たったために、千束町の通りは身動きの取れないほどの雑踏となった。続く三の酉は、二の酉の半分ほどの人出しかなく、寂しい師走を予感させるものとなった。
・十二月「深川歳の市・・店も例年の三分の一位・・近年になき淋しさ」十五日付東朝
 歳の市は、浅草ではまずまずの賑わいだったものの、愛宕の市や深川不動尊納の縁日では例年のようには盛り上がらず不景気な年の瀬であった。それでも劇場はそこそこ賑わっていたようで、本郷座で演じられた曽我廼家一座の芝居(喜劇)は七分の入り。歌舞伎座の「雲入道」の浪花節は大入り続きで日延べ。帝国劇場も、女優劇を興行して相変わらずの人気。なお当時、まだ、クリスマスは一般市民には浸透していなかったようで、二十六日付の新聞(東朝)には「クリスマス」という見出しで番町教会の写真だけが掲載されている。


────────────────────────────────────────────────

  大正一年(1912年)・・・8月友愛会結成/12月第一次護憲運動始まる
───────────────────────────────────────────────╴

8月1朝 一日より五日まで音曲停止
  3夏 漱石、鎌倉で海水浴、子供達は浮き袋を背負ってボチャボチャする
  4夏 漱石、寒いのを我慢して海に入る。日曜で 帰りの汽車は中等席が一杯、一等に移る
  6時 上野動物園にオランウータン来る        
  7万 不忍池畔の納涼博覧会再開する       
  10万 深川八幡、十四日からの祭り中止      
  12朝 十一日より浅草など映画・演劇興行の復活  
  12読 釣り客増える、おとなしくして楽しむ   
  14万 川施餓鬼、数十の講社信徒が団扇太鼓勇ましく漕ぎ寄す
  14読 向島と目黒の秋草、見頃に           
  19都 新子安海水浴場、大いに賑わう1万人       
  29万 オペラ館「ジゴマ」連日大入り       
───────────────────────── 
9月5朝 宮戸座、大入りに付き十日まで日延べ    
  14万 青山葬場殿(現神宮外苑)で大喪を挙行  
  15朝 十六日より各演芸全部開場         
  19万 乃木大将の葬儀、葬に会するもの20万人  
  21万 帝国館、奇術の天勝嬢一座、連日満員    
  22朝 川崎・西新井の大師、午後から人出     
  23万 オペラ館「ジゴマ」連日大入り         
  23読 ジゴマの奇術を真似する人多く死者出る     
  27都 新富座の勤皇劇大評判連日満員御礼       
  29森 鴎外、妻と子供らを連れて多摩川にゆき鮎漁  
───────────────────────── 
10月3万 有楽座で米国ハートマン一座の喜歌劇    
  7万 真砂座「灯」連日満員             
  7読 秋晴れの日曜日、拓殖博覧会や遊園地など賑わう 
  9朝 本郷座「真田幸村」の初日、満員       
  13万 池上・堀之内の会式、雑踏する       
  18朝 十七日の上野の文展入場数1万3千人     
  14万 福和館新派劇「高橋お伝」他上演        
  17森 鴎外、妻と子供らを連れて展覧会へ       
  18万 帝国劇場、ロッシーの無言劇「犠牲」他上演   
  20朝 ベッタラ市、近来にない繁盛、上物一本10~20銭
  21読 「ジゴマ」の最期、浅草六区など賑わう   
  25万 錦輝館「リニア」大好評           
  25万 有楽座「ヘッダ」日延べ、一等1円・三等40 銭  
  27森 鴎外、妻と子供らを伴い上野動物園に往き、展覧会へ
  28読 散歩遠足・紅葉等に人出、飛鳥山では花見時の三割
  29読 不動の縁日、呉服橋・業平・黒江町に出商人350余軒、参詣人多し
  31万 市村座「勇将の妻」評判            
───────────────────────── 
11月3森 鴎外、妻と子供らを伴いて拓殖博覧会に往く
  4朝 国民記念日、芝公園をはじめ至る所人の群集   
  4朝 歌舞伎座、切符制に改め、初日は大分景気付く  
  6万 一の酉、例年に比べて人出少なく不景気     
  8万 靖国神社本祭り、不景気            
  13読 上野公園、文展・動物園・博物館に遊覧   
  14都 国技館の菊花、大入り御礼(大人10銭・小人 5銭)
  16都 神田神社の七五三、境内には猿芝居や生人形の太鼓音高く相応の賑わい
  18朝 二の酉、人出は多いが売行きは今一つ     
  18万 文展、三十六日間で169,031人
  20読 向島遊園地が復活                  
  22万 富士館「忠臣蔵」好評
───────────────────────── 
12月3~4夏 新富座で越路太夫を聞く        
  11朝 亀戸遊園地に天満座開場            
  15朝 深川歳の市、店も例年の三分の一位、近年になき淋しさ
  16都 歌舞伎座、雲右衛門の浪花節大入りで日延べ
  16朝 帝劇、女優劇で相変わらず一杯の好景気
  18都 浅草歳の市、諸商人1890名、初日盛況
  19都 雨でも浅草の活動写真は混雑
  20都 歌舞伎座で憲政擁護連合大会4千余名、木戸前は入場できぬ人で一杯
  22朝 淋しい神田明神の歳の市
  24万 浅草国技館で東西浪花節大合同、30銭
  24万 愛宕の市、雨上がりで人少ないが夜に入って賑やか
  29万 深川不動尊納の縁日、例年より盛り上がらず

・出典が複数ある場合は代表的な資料をあげる。新聞の日付は発行日。日記は記載日。
 朝│東京朝日新聞          │報│郵便報知新聞          │芥│芥川龍之介
 万│万朝報         │時│時事新報             │夏│夏目漱石
 中│中外商業新報      │都│都新聞          │森│森鴎外
 読│読売新聞         │日│東京日日新聞       │永│永井荷風
 国│国民新聞 

 

明治の遊び・娯楽を考える

江戸・東京庶民の楽しみ 146
明治の遊び・娯楽を考える

 欧米の文化を積極的に取り入れ、文明開化を押し進めた明治時代、東京市民は、はたして江戸の庶民より幸福だっただろうか。遊び・娯楽から見ると、必ずしも文明開化の恩恵を受けたとは言いがたい。特に下層階級の人々は、江戸時代よりも楽しみを奪われてしまったようだ。
 明治時代は、五箇条の御誓文をもとに文明国をめざして近代国家を形成した時代とされている。国会や憲法、鉄道や道路など、新しく出現したものによって、人々の暮らしは便利に、豊かになったと思いがちである。しかし、それらのものは、大衆の生活を本当に楽しく、ゆとりがあるようにするため作られたのであろうか。明治時代に誕生したもので、大衆を第一に考えてつくられたものは意外に少ない。
 新しく生まれた娯楽は、映画を除けば大衆にまで広まったものはほとんどない。欧米のスポーツにしても、ごく少数の人々にしか普及しなかった。明治時代の大衆レジャーは、江戸時代からの活動を受け継いだものが多く、大衆のために新しく誕生した遊びはなかった。大衆は、遊びを創作するエネルギーを奪われてしまったようだ。
 明治時代の中頃に活躍した人というのは、江戸時代に生まれ育った人である。天保年間(1830~44年)に生まれた人は、四〇才代の中年である。その中に、大隈重信板垣退助岩崎弥太郎渋沢栄一などがおり、時代の中核として活躍していた。このような先進的な人々は、新しいもの全てに理解を示し、自ら挑戦することができた。しかし、大衆は容易に対応できる状況ではなかった。大多数を占める大衆の生活感は、しっかりと江戸に根を下ろしていた。寄席や生人形などを楽しんだ遊びは、明治になっても基本的に江戸時代と変わらず、政治的に混乱していた幕末期より盛んであった。江戸時代生まれの大衆の開帳に祭り、寄席などを楽しむ姿は、東京市民というより江戸っ子そのものであった。
 幕末に訪れたルドリフ・リンダウは、「日本人ほど愉快になり易い人種は殆どあるまい。・・・そして子供のように、笑い始めたとなると、理由なく笑い続けるのである」(『スイス領事の見た幕末日本』森本英夫訳)と述べている。江戸時代の日本人は庶民でも、自分が楽しい気分でいられる遊びを知っていた。
 またオイレンブルクは「ほかのアジア人たちは、生活のためやむを得ず仕事をした後では、何時間もしやがみこんで煙草を吸い、蒟醤を噛んだり。または完全に無感党に空を眺めているのに反し。日本人の休息は常に活発なものなのである。歌の好きなわれわれの別当ですら厩舎で将棋を指している。活発なことを好むということは、確かに生活力。若々しい精神、さらには高い文化の可能性を証するものである。年齢により、また身分によりそれぞれの娯楽があり、その魅力は精神の沈静や弾力、熟練などを発達させることにあるのである。」(『オイレンブルク日本遠征記〈上〉』中井晶夫訳)と記している。江戸時代の庶民について、オイレンブルクの様な感想を持つ人がいたことからも、当時の日本人は積極的に遊んでいたと言えるだろう。
 まだ江戸時代の延長としか思い浮かばなかった大衆に対して、明治政府は、大衆から遊ぶ時間を取り上げるだけでなく、大衆に勤労を押しつけるために江戸時代の遊びを排除するように仕向けた。明治になって、人々の心を癒す環境は変化していった。まず、明治政府が行った「廃仏毀釈」は、市民に少なからぬ影響を与えた。廃寺はもちろん、残された寺院は、江戸時代のような勧化ができなくなり、日課としていた朝参りや日々のお参りも、一時的に以前より行いがたくなった。
 近代化を目指す産業革命によって、東京でも工業化が進み、大衆の多くは、工業労働者として低賃金で長時間働かざるを得なかった。仕事に追われる生活から、お参りや遊びに使う時間が減少し、娯楽の形態や質にも影響をおよぼした。
 なお、長時間労働、休日が少ないこと、これは江戸時代から続くものと思う人がいるが、決してそうではない。江戸時代の農民にしても、職人にしても、明治・大正から昭和中頃迄に比べれば、働く時間は短く、ゆとりがあった。江戸時代には、いつも慌ただしく働くことは、決して好ましい事ではないと思われていた。それが、いつのまにか、忙しいことが善で、暇な時間があることは悪、と言うようなムードが浸透してしまった。
 この遊ぶことに後ろめたさについて、江戸時代にも感じる人はいることはいたが、暇な時間を否定するものではなかった。遊びに後ろめたさがあるのは、道徳的な善し悪しを鑑みてのことで、遊ぶこと自体を否定するのではない。
 そもそも、江戸時代の庶民は、仕事と遊びや参詣などをきちんと分けるようなの生活形態をしていなかった。それが、明治になり正確な時間を決めて働くことになり、労働が生活の大半を占め、余った時間に遊ぶというふうに変わっていった。労働を優先する生活が当たり前になると、市民の中には、レジャーは無用なものとして仕事に励み、余暇のない忙しいことを自慢するような人が幅を効かす風潮も生まれた。
 大衆の多くは、低賃金のために少しでも多くの収入を得ようと働き、遊ぶ時間を増やすより労働時間を伸ばす努力をした。そのため、暇があることは好ましいことではなく、苦しくても働いている方が望ましいと思った。だが、人間は体力的な疲労には耐えることができても、精神的なストレスは必ずしも対応できるものではない。
 明治になってからは、社会全体が急激に変化しており、生活様式は、個人の嗜好や習慣などとは関係なく変化せざるを得なかった。生活形態を自分から刷新しようと挑む場合、多少の障害は、乗り越えようとする気持ちによって克服できる。しかし、外圧によって変えなければならない場合は、ストレスとして重くのしかかる。明治になっての生活様式は、衣食住に加えて暦、断髪、時刻制度の変更など、大きく、それも急激に変化させられた。生活様式は非常に保守的で、時間をかけて形成されるものであり、短時間に変えようとすれば、その反動が大きく精神的な疾病に陥りやすい。
 そのようなストレスを解消するには、体を休めるだけでは解消せず、精神的な鬱積を晴らすための気分転換となる娯楽が必要である。明治時代の余暇活動として多かったのは、江戸時代から続く参詣・縁日、寄席、観劇などである。大衆は旧来からの娯楽にストレスを解消しようとした。ただ、娯楽の場や様式は江戸時代のスタイルであるが、内容は明らかに異質なものも出現した。落語でいえば、人情噺よりナンセンスな笑いを誘う芸が喝采を浴び。高い感興や義憤を起こさせる浪花節などが一時的に人気を博した。観客は、感情の捌け口として訪れているため、幕が明けるだけで、また演者が登場すれば、即座に反応し、歓声を上げ、熱狂するような場面も見られた。
 その一方で、大衆が求めた楽しみは、江戸時代を懐かしみ、失われつつあるものを追いかけるようなものばかりであった。この嗜好を反映する娯楽は、落語・義太夫浪花節であり、疲れた体を休めるものである。大衆娯楽は、時代を反映するもので、当時大衆がどのような状況に置かれていたかを示している。明治なってからクローズアップした、文明開化ならではの欧米レジャー、スポーツなどには、仕事一筋という真面目な大衆は目もくれなかった。肉体労働で疲労した大衆は、労働後の時間に体力をさらに消費するスポーツなどをしようとは思いもしなかった。 
 明治政府は大衆レジャーにも、風紀や治安維持という名目でさまざまな制約や禁止を行った。また啓蒙的な指導も試み、国威発揚・富国強兵・健康増進などの普及浸透を目指したスポーツ振興策、運動会が奨励された。確かに運動会は明治の中頃から盛んになり、アッという間に大衆にとって未曾有の大イベントに発展した。この運動会は、学校の恒例行事として催され、子供を中心とする行事のため多くの人が参加した。とは言っても、子供を含めて大人も、スポーツを行うというより、誰でも気軽に参加できる行楽活動になっていった。それは、当初はスポーツ・体操を主としていたが、観客が多くなるにつれて相撲や綱引き、パン食い競争といった競技、さらには仮装行列や踊りなど見世物的な要素が強くなった。結局、運動会は参加して体を動かすより、応援して楽しむ行楽活動、スポーツするというより見る娯楽となっている。明治の大衆が余暇時間で選ぶのは、体を鍛える運動でなく、見て楽しむ娯楽であり、昭和の半ばまで日本人レジャーの主流であった。
 また政府は、大衆の余暇を富国強兵や国体の高揚などに向けようと、戦捷祝賀会などの官製イベントを積極的に催そうとした。また、娯楽の中に政府の意向を組み入れることも行われ、大衆は娯楽を楽しむにも警察の顔を見ながらということになっていった。それでも大衆は、政府が許した娯楽に満足し、楽しみを求めて行くより方法が無かったと言えそうだ。
 明治時代になり、自主的な遊びを、自主的に行うこと難しくなり、大衆は為政者が管理しやすい娯楽をするように導かれていった。江戸時代には花見に世相批判を茶番で試みたりしたが、明治時代には異様な扮装というだけで取締られた。また、公園内で物品の販売や音曲を弾きながら銭をもらう行為などを禁止、不体裁なる見世物も差し止められた。一見、道徳厳守や不敬回避、犯罪防止などを建前にしているが、政治批判をさせないためである。
 この政府が許す範囲内で遊ぶことは、さらに強化され、世界大戦が終わるまで続いた。なお、大衆は、制約された娯楽に不満を感じながらも楽しんでいたことは確かである。現代でもそうだが、それなりに満足して入ればそれで良いではないか、という考えも説得力がある。大衆が制約を受けたと感じなければ、何ら問題はないとの考えもある。
 為政者は、大衆に不満を感じさせないようにし、満足感が得られる最低限を維持しようとするだろう。そのためには、不満と満足のバランスを巧みにコントロールする。日露戦争時では大衆に、花見や祭などの自粛を要請し、戦捷祝賀会や祝勝会を催し、厳しい現実の生活を一時でも忘れられるお祭気分を提供し、娯楽として受け入れざるを得ないようにしている。このような手法は、以後世界大戦が終わるまで巧みに行われた。

明治時代の庶民の楽しみの変遷

江戸・東京庶民の楽しみ 145
明治時代の庶民の楽しみの変遷

 明治時代に入り、江戸っ子は東京市民になっても、そのままのびやかに遊んでいた。特に行楽活動は、憂さ晴らしのようなストレス解消ではなく、心を晴れやかにする「延気(きのばし)」、心の皺を伸ばすものであった。明治初期の人々は、花見や納涼に徒歩で行ったのだから、決して安易な行為ではなかった。ハスやアサガオを見ようなどと思ったら、早朝から家をでなければならず、かなり気合を入れて行った。このような早朝からのレジャーは、朝参りに通じるもので、当時の人々は、現代のレジャーより前向きで、積極的に行おうとするする人が多かった。
 また、初詣、開帳や縁日などの参詣が宗教活動からレジャー色が強くなり、市民の大半が行っていた。宗教活動である参詣が行楽活動に移行したのは、双方とも日常生活から離れ心身をレクリエーションするという共通性のためである。参詣と行楽の差は、精神の開放、不安の解消などを宗教活動に求めるか、それともレジャーで行うかの違いにすぎない。また、宗教活動には、将来へ期待や祈願を託し、現状で満たされなくても良いという部分があるのに対し、レジャーはその時点で満たされることが不可欠である。さらに、お参りには、穢を払う、厄除けがあるのに対し、レジャーでは快楽を求め、やや現状逃避の傾向があるという違いがある。
 時代が進むにつれて、参詣よりも行楽を選ぶ人が多くなった。また、節分の追儺(オニヤライ)、日蓮聖人の忌日の御影供(報恩会式)法会などは、レジャー的な色彩が強まり、行楽イベントとして盛んになった。宗教活動のレジャー化は、江戸時代からの傾向で、信心に託つけて人々は遊んでいたが、明治時代になってそれが一層顕著になった。なお、宗教とは一見無関係のように見える潮干狩りですら、その発生は宗教儀式と浅からぬ関わりがあった。川開きにしても、はじめは船頭が花火を手に持ってお清めに行っていた。また、隅田川の川施餓鬼は、都鳥形の灯籠流しとして、さらには乙姫を乗せた龍宮城の船を浮かべ、川開きと賑わいを争うような行事になった。かつては武士の参詣が多かった大鷲神社の祭礼(酉の市)などは、参詣というより行楽活動そのものになってしまった。
 市民のレジャーが参詣から行楽へと移行したのは、西洋の合理主義が浸透し、人々の宗教への関心が薄くなったからである。参詣のレジャー化は、信心の希薄化よりも、人々の生活がスピード化したことで、お参りによる祈願成就をじっと待っていられなくなったことも大きい。また、願は他力本願的ではなく自らの力で獲得するという意識変化もあっただろう。功利的に行動する人々の増加によって、参詣の宗教的なウエートが低くなり、リフレッシュするならレジャーを選ぶようになっていった。
 東京市民の参加率・延べ活動人員の最も多かったレジャーは、参詣と寄席である。また、市民の心の変化をよく反映しているレジャーも参詣と寄席であった。特に寄席は、当時の演し物から人々が何を求めていたかがよくわかる。明治前期の寄席は、歌舞伎や見世物、政治や景気などの世間の情報を提供した。また、銭湯と並ぶ町内の社交場でもあった。その寄席で、最初に観客のニーズに合わせて演し物を変えていったのは、落語であった。
 江戸時代の落語(オトシバナシ)には、「落としばなし」だけでなく「芝居ばなし」「人情ばなし」「怪談ばなし」など様々なジャンルがあった。落語の落語たる所以は、筋立てがきちんとあって、オチで話を終えるところにある。なかでも、人気のあったのが、笑いの多い面白い噺であった。明治になっても庶民は、笑うことが好きであった。なお、落語で笑うといっても、現代のように人の頭を叩いて笑わせるというような笑いではなかった。話を聞いて心がなごんだり、意外性に可笑しさを感じて笑うなど、様々な笑いを楽しんでいた。
 ところが、明治14年頃に現れた「寄席四天王」と呼ばれた落語家たちは、衝動的な新たな笑いを引きだした。その笑いには、噺の筋などはなく、円遊などは寄席に着くと高座で演じている者を下ろし、駆け上がって、ちょいとステテコをやる。わずか四、五分で高座を下るというありさま、お客はそれでも大喝さい、ひどい時には、入り口からステテコを踊りながら客席を通って、そのまま裏口へ抜けていくだけであったが、それでも、客は熱狂したという。
 幕末から明治維新期に日本を訪れた欧米人は、着の身着のままで暮らしていた庶民を「貧しいけれど精神的にはゆとりがあり和やかであった」と観察している。江戸っ子は、東京市民になっても良く笑い、いつでも笑みを絶やさなかった。しかし、時代が進むにつれて、観衆は笑ってもよいとのサインがあれば、何もしなくていい、それだけで笑うようになったのである。つまり笑いたくて、そのお墨付きが欲しくて寄席にやってきたのだ。以前のような微笑みや時間をかけて込みあげてくる笑いを楽しむのではなく、見たとたんに笑うという刹那的笑いを求めるようになった。
 一時、ステテコの円遊は、品川の寄席から吉原の寄席へ行く途中の寄席、十何軒を残らず出演したという。そうした落語の流行は、明治の新風俗をギャグをつかって話したり、滑稽落語で観客の笑いを引きだした。新市民には、わかりやすく面白い落語によって、明治二十二年の寄席は250席を超え、絶頂をむかえた。しかし、落語は、落語たる噺が軽んじられ、心理描写やくすぐりといった話芸を無視してしまった。また、はじめは新鮮で型破りであった落語は、マンネリ化し、人情噺を楽しみにしていた観客まで失った。なお、「落語」を「らくご」と読むようになったのは20年代の頃からである。
 とは言うものの、庶民は、ナンセンスな笑いだけでは心が満たされなかった。笑いでは得られない情感を求め、涙を誘う義太夫に向かった。笑いにしても、涙にしても、当時の人々は、まだ人情の機微を知っていた。現代人は、悲しいから泣くと短絡しがちであるが、涙にも様々な涙があって、義太夫はそれを語り分けた。市民は、豊かな情愛や情緒を求め、感情の皺を深めることの楽しさを知っていた。
 明治前期の庶民は、好奇心をもって急激な社会変化に追いつこうとしたが、限界があった。時代に追いかけられるような生活が始まると、人々は、江戸時代に心の安らぎを求めた。江戸時代の楽しみを復活させようとする動きは、明治17年の「遠見の庭」築庭、神田祭りの山車46両の再現などをはじめとして続く。さらに、朝顔市・草市・菊人形などは、江戸時代の規模や内容まで上回る明治のレジャーとなった。
 菊人形は、見世物の新しい試みを追っているように見えるが、本質的には活人形や器械からくり、歌舞伎など江戸時代からの技術や趣向を受けついだものだった。そのため、人々は、菊人形を見ることで懐かしさや安心感を得た。また、キクの花で作られた菊人形は、芝居や活人形などと比べるとリアリティーが低く、そのため体制風刺や残酷なシーンが多少あっても、警察などから大目に見てもらえた。菊人形が市民に受け入れられたのは、明治政府の見世物取締りから逃れた、旧来の見世物を集大成したものであったからである。以後、市民は、菊人形をはじめとする見世物に、明治前期のような先端知識などを期待しなくなった。見世物は、文明開化とは正反対の愚かさ・非科学性・猥雑さなどが求められていくことになる。
 落語家にも『芝浜』など「江戸前の噺」をする人が多くなった。江戸時代そのものの再現ではなく、明治流の「江戸時代」が完成するのが明治後期である。三代目柳家小さんなどのように、夏目漱石が絶賛した落語家が登場した。彼は、大真打ちは長噺か続き噺で寄席のトリをつとめるという従来の落語界の慣習を打ち破って、一席の滑稽噺で寄席を沸かせることに成功した。
 ここで注目したいのは話の舞台が江戸であったことである。たとえば、「長屋の花見」や「時そば」などは明治の庶民生活から生まれた話ではないし、新しい時代に向けた話でもない。これは演劇が江戸時代の歌舞伎を完成させたのと良く似ていて、「落咄」であったものをいわれる古典落語として完成させたのである。
 明治になって、もし庶民の暮らしが江戸よりも楽しいものになっていれば、当然、新しい生活に向けてのレジャーが行われたであろう。懐古的になったのは、東京が近代化するにしたがって、江戸時代の人間関係や社会形態が二度と戻っては来ないことがわかったからである。新しい社会で生きていくためには、時には、一昔前の世界に埋没することも必要であった。
 明治後期、日清戦争の頃を境にして大きく変化した東京市民のレジャーは、日露戦争後さらに変わった。戦争は、国の経済や社会を根本的に変えていく。大衆は、世の中の流れに翻弄され自己を見失いそうになる。そのような時に、人々の心の支えとなるのがレジャーである。現代でもそうであるが、仕事を生き甲斐にできる人は少ない。大抵の人は、仕事を生き甲斐だと信じ、思い込もうとしているのである。明治時代の庶民は、日々食べることができれば、あとは楽しく暮らせればよいと思っていたのが本音であろう。
 ところが、市民の日々の暮らしは、以前にまして厳しく感じるようになっていた。レジャーは、生活のストレスを解消するために欠くことのできないものになる。たとえば、東京の祭は、江戸時代の遊び心を失い、刹那的なエネルギーの発散の場になった。かつての創意工夫の山車行列は、動きの激しいスピーディな神輿に取って代わられた。人々は、鬱積した生活の不満や精神的な抑圧を神輿をかついで騒ぐことによって発散させた。また、そうした盛り上がりを見物することによって、一体化し、一時の無礼講を楽しんだ。時代が進むにつれて、レジャーは、「気散じ」、さらにはその場のうさ晴らしという、現状逃避的な傾向が強くなっていった。
 また、寄席においても、笑いの落語や涙の義太夫だけでは、観客の心をとらえることができなくなり浪花節が台頭した。義太夫には、講談や落語にない高い感興があるものの型にはまっている、が、浪花節は、音楽的声音の美があるとの評論(明治四十一年文芸倶楽部二月号)がある。浪花節の特徴は調べや節を自由に変えられること、落語や義太夫などとの違いは、義憤を起こさせるところにある。軍人、そして大衆に受けたのは、浪花節が社会や政治に対して正義の怒りを唱えているように聞こえたからであろう。
 人々のレジャーは、寄席や演劇から映画に向かいはじめた。明確にあらわれるのは、大正時代に入ってからであるが、枡席で隣の人と話りながら芝居を見たり、出演者に声をかけたりするようなコミュニケーションを失っていく。黙って、隣の人が誰であるかも知らずにレジャーを楽しむ、それも真っ暗な中で。そんな形態で観る活動写真をレジャーとする市民が著しく増加する。また、浅草公園の人の波に漂い、何するとなくあちこちを覗き回ったり、酒を呑むような人々も出てくる。これは、遊んではいるものの心の満たされない現代レジャーの始まりである。

明治後期の庶民レジャー

江戸・東京庶民の楽しみ 144
明治後期の庶民レジャー
・日清・日露戦争で縮む後期のレジャー
 我が国は、明治二十年代半ばから、富国強兵策が軌道に乗りはじめた。国内産業は、繊維工業をはじめとして重工業、化学工業が成立、産業革命が展開された。日本の産業は、アジア諸国に比べて飛躍的に発展する。それは戦争によってもたらされたもので、国民の生活向上を伴うものではなかった。東京市内には、多くの工場が作られ、農村部から人々が流入した。その結果、市民の構成で見ると、江戸時代から住んでいた職人の影は薄くなり、新たな賃金労働者という層が大きなウエートを占めることになった。また、代々続いた商家というような階層は少なくなり、企業・会社の事業家・経営者といった新たな階層が台頭してくる。そして、東京には、明治になって生まれた学生や兵士などが実数以上に目立っていた。
 東京市民の構成で言えば、まず、下層者に変化が起きた。下層者も工業労働者として雇用されるようになったため、薄給ながら最低の生活は送れるようになった。下層の上であった江戸時代以来の職人層は少数派となり、技術を持つ工業労働者がこれに取って代わった。また、ホワイトカラーが増加し、中流層にも所得差が生じ、工業労働者と同じくらいの生活レベルの人々もでてきた。したがって、当時の東京の人口は、上流者1割、中流者3割、下層上5割、下層者下1割のような割合になったものと思われる。
 行楽や娯楽などの形態にも、新たな変化が現れた。まず、中流者には、インテリ層と呼ばれる人々が生まれ、文芸だけでなくレジャーにも積極的に活動しはじめた。特に学生は、時間があり先端情報が得られることから、行楽や娯楽なども率先して行い、オピニオンリーダー的な役割を担った。当時のレジャーは、欧米のものであれば何でもいいというわけではなかった。また、江戸時代の郷愁に浸る、というのとも違う新たな傾向が見られるようになった。大衆レジャーも、工業労働者の増加で、休息や気晴らしを求めるという現代のレクリエーションと同じような傾向を示しはじめた。なお、この時期、戦争のために兵営に集められた兵士は、その多くが歓楽街に流れて刹那的な楽しみに浸っていた。
 明治後期のレジャーは、日清・日露戦争の影響を大きく受けている。寄席や観劇などは、戦争中は観客が減少するが、終わると急激に増加する。また、戦時中ということで、たとえレジャーであっても楽しむことだけではなく、戦争遂行に供することが暗黙のうちに求められていたようだ。市民の自主的な祭礼が抑えられ、戦捷祝賀会や凱旋祝賀会など上からの行事に参加せざるを得ないように仕組まれた。
 政府は、戦争に必要な兵の体力補強を考慮して、武道を含めたスポーツを体育として奨励し、振興を進めた。スポーツ振興は、運動会というかたちで小学校、さらに一般市民にまで広がった。これによって、運動会は、祭礼同様に東京の年中行事として定着することになった。しかし、市民参加の可能な運動会も、労働組合の活動色が強くなると禁止され、市民が自主企画して楽しむとまでには至らなかった。
 市民のレジャー熱は戦争によって冷やされるが、日清・日露戦争の合間には、演劇や寄席の観客数は、それまでの最高を記録する。明治三十二年(1899)、劇場観客数は430万人を記録した。ちなみに、その年の劇場観客数は、大劇場一日平均で全幕を見る木戸観客が755人、一幕限りの観客が569人、小劇場でも木戸観客543人、一幕限りの観客が568人となっている。このような観客数の増加には、前年正月興行の大入場の料金が高くても10銭と寄席や見世物と変わらなくなり、料金の大衆化が進んだことが大きく影響していた。
 観客数の増加によって、演劇の内容にも幅ができ、新しい芸術表現や西洋戯曲などが上演された。演劇界や新聞の論調は、明治になって芝居が歌舞伎から近代演劇に発展し、観衆もかなり理解したように書かれている。しかし、欧米演劇の影響を受け、人物描写にしても新しい視点の「新劇」、歌舞伎に対抗した「新派」などを本当に理解できたのは、一部の市民でしかなかった。話題性があるから足を運びはするものの、そこに求めている楽しみは歌舞伎と何ら変わりはなかった。観客は荒唐無稽な筋立てやパターン化された演技と、まさしく古典歌舞伎を望んでいた。
 寄席も三十二年に、それまで最高の527万人の観客を迎える。なお、寄席の数は、減少しはじめ150程度になった。神田や日本橋、芝などの寄席はあまり減少しなかったが、四谷や本郷などでは半減した。人口が急激に増加した地域や人口移動の激しいところほど寄席が消えた。観客の嗜好も変化して、落語や講談に変わって義太夫浪花節が人気を増してきた。特に義太夫は寄席の大きな位置を占めた。現代では、義太夫、特に娘義太夫を聞くことはほとんどない。だが、当時の義太夫人気は著しく、都新聞では明治二十六年(1893)の五月から「寄席案内」から「義太夫案内」が独立し、落語や講談などの紹介欄が消えてしまったほどである。義太夫全盛と言っても過言ではない。
 関西では、義太夫浄瑠璃というように、人形浄瑠璃をもとにしたものであるが、東京では娘義太夫が注目された。当時は、娘義太夫を「女義(たれぎ)」と呼び、「ドースル連」という学生親衛隊が会場を占拠し、学業がおろそかになるなど社会問題になったほどであった。もっとも娘義太夫の人気は、若さや美貌を売りものにしているのであって、芸内容は伴っていないというのが世評であった。 なお、義太夫の本当の実力者は、明治三十六年(1903)の都新聞「演芸三傑投票」によれば、竹本羽太夫であった。上位は男性が多く、義太夫が学生人気だけでなく、幅広い層に観客のあったことがわかる。明治中期に落語の笑いが求められたのに対し、日清・日露の戦争期間に涙の義太夫が人々の心をとらえたことは興味深い。当時の人にとっては、寄席で涙を流すことは少しも恥ではなかった。
 「演芸三傑投票」の結果を見ると、当時の寄席人気を反映して、最多得票は浪花節の鼈甲齋虎丸で16万9千票と浪花節人気を裏付けている。二位は前述の竹本羽太夫で16万8千票と570票差である。三位は落語で、柳亭燕枝が14万票。四位、講談の昇龍齋貞丈が8万票であった。各部門の総投票数も、同じ順位で浪花節が61万票、義太夫が42万票、落語が33万票、講談が27万票(但し、千票以上の投票があった芸人の合計票数)であった。また、投票された芸人の人数は、浪花節が96人、義太夫が305人、落語が60人、講談が43人であった。芸人数からは、義太夫が最も多く、2千票以上獲得した芸人が43人も選ばれている。義太夫には、個性豊かな芸人が多く、様々な芸風に応じた熱心な観客がいたものと思われる。

・活動写真が流行る明治終期
 日露戦争後の不況ははなはだしく、明治四十年(1907)に支払い停止に至った東京の主な銀行は五行、翌年も六行という未曽有の大恐慌であった。物価は高騰し、失業は急増、明治四十二年は、東京の人口が数字の上で25%も減少するという事態に陥った。四分の一もの人口が東京から脱出すれば、都市機能がマヒしそうなものであるが、そうはならなかったところを見ると数字どおりではなかったのかもしれない。減少の理由は、寄留人口を整理したからだとされているが、実際にもかなりの減少があったと推測される。
 明治四十三年(1910)、人口は11%増加。翌年が6%、その次の年が5%と、再び東京に地方から人が集まってきた。これら農村から流入してきた人々は、下層、それも大半が最下層を形成していった。人口の流動と不況によって、東京の人口は、上流者1割、中流者3割、下層者上4割、下層者下2割といった割合に変化していったものと思われる。
 明治終期は不況を反映して、お金のかからない行楽が盛んになった。明治四十一年(1908)の川開きは、納涼客がてら川岸を埋めた人々が多く「無量十万」との見出しがある。四十三年の花見時には、東京朝日新聞や読売新聞が「東京を包囲せる花」「花は真盛」などと連日記事を掲載し、花見の人出が年々増えていることがわかる。また、四十二年に国技館ができると、相撲の観戦客が増えるだけでなく、国技館を舞台にした菊人形の見世物観客も著しく増加した。
 菊人形は、明治中期に団子坂周辺に44軒もの小屋が並んだという市民レジャーだった。その後も大名行列の菊人形(二十九年)、回り舞台迫り出し菊人形(三十二年)、日露戦争菊人形(三十七年)など趣向を凝らして観客を増やしていった。さらに明治終期には、国技館や浅草清島町、浅草公園常盤座裏などを舞台にした大がかりな菊人形があらわれた。旧来の見世物は、ほとんど衰退したようにみえたが、その中で、菊人形は一人気を吐き、一大ブームをまき起こした。
 演劇や寄席の観客が減少する中、活動写真の人気はうなぎ登り、観客数は500万人以上に達したであろう。活動写真は、新しい世界を開く見世物として熱をあげ、市民の半数以上が見るレジャーになった。市民は、活動写真を奇術や菊人形などの見世物とはジャンルの違うものとして認識していた。しかし、統計上は、活動写真を大正五年(1916)まで見世物として扱った。
 明治四十年代を明治終期としてそれ以前と区別したのは、活動写真の急速な流行があったからである。大正期のレジャーを先取りする映画全盛時代はこの時期に始まった。活動写真の流行は、他のレジャーに多大な影響を与え、特に、観劇と寄席の観客数を減少させた。活動写真を見たのは、主に大衆と呼ばれる中流と下層上の人々である。
 明治終期の新聞紙上を賑わすレジャーは、相撲や野球、海水浴、アイススケートにスキーなどと、現代と大して変わらないような内容である。もっとも、東京市民の誰もがやっていたというわけではなく、最下層の人はもちろん、大衆と呼ばれる人々にとっても無縁なものが多かった。アイススケートやスキー、汽車などの新しい乗物を利用した行楽やスポーツは、いうまでもなく中流以上の有産階級のレジャーであった。舞踏会や園遊会などは上流階級のみに限定されたレジャーであったことはいうまでもない。

─────────────────────────────────────────────╴    

明治四十五年までの主な事象
─────────────────────────────────────────────╴ 

 

明治三十年 1897年三月足尾鉱毒被害者二千人上京
           十月金本位制度実施
明治三十一年1898年六月隈板(わいはん)内閣成立
           八月尾崎行雄の共和演説
           十二月地租増徴案成立
明治三十二年 1899年 三月義和団事件勃発
           七月明治天皇東京帝国大学卒業式で銀時計授与
明治三十三年 1900年 五月皇太子成婚式
           六月義和団事件で日本出兵
           九月立憲政友会結成
明治三十四年 1901年 二月福沢諭吉死去
           五月社会民主党結成も2日で禁止
           六月星亭暗殺
明治三十五年 1902年 一月八甲田山で青森歩兵第五連隊遭難
           一月日英同盟調印
明治三十六年 1903年 四月政府対露方針決定
           十月小村外相とローゼン露公使の交渉開始
明治三十七年 1904年 二月日露戦争勃発、日韓議定書締結
           三月旅順で広瀬中佐戦死
明治三十八年 1905年 一月旅順のロシア軍降伏
           五月日本海海戦
           九月日露講和条約締結
明治三十九年 1906年 三月鉄道国有法公布
           十一月南満州鉄道株式会社設立
明治四十年 1907年 二月足尾鉱山で暴動
          七月第三次日韓協約調印
明治四十一年 1908年 六月赤旗事件
           十月戌申詔書
           十一月高平ルート協定成立
明治四十二年 1909年 四月種痘法公布
           十月伊藤博文ハルビンで暗殺
明治四十三年 1910年 五月大逆事件検挙開始
           八月日韓併合
           十一月白瀬中尉南極探検に出発
明治四十四年 1911年 一月大逆事件被告24人に死刑判決
           九月平塚らいてう青鞜社結成
明治四十五年 1912年 一月孫文臨時大総督就任
           七月明治天皇崩御大正元年改元