敗戦も視野に入る昭和二十年七月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)269
敗戦も視野に入る昭和二十年七月
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昭和二十年(1945年)・七月、食料配給基準量一割削減⑪、対日ポツダム宣言発表(26)、空襲で投下された銅屑集めて国民酒場で酒を飲む
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 地方都市への空襲が本格化している中、古川ロッパの慰問公演は続いている。戦況の劣勢は肌身で感じているのだろう。さらに、戦後の話も出始めている。古川ロッパの四日の日記には「・・・鈴木氏の話では、東京の復興--家を建てるのは、早くてかかるだろう、震災時と違って資材が来ないから--といふことだ。僕は又、楽天主義なのだな、なアに、二三年で建つといふ気がする。さんざ、此のオプティミズムでは、馬鹿を見てゐるくせに、まだまだ此の根性は抜けない。鈴木氏、ドイツの負けてからの惨澹たる生活を話して呉れた。ベルリンの女は六割、ソ聯の兵隊に凌辱された。・・・」と、ロッパは暗に敗戦をも視野に入れているかもしれない。
 ロッパの日記、十日「午前五時二十分頃、ブーウ。敵小型艦載機は--といってる。大分数が多いらしい。母上と並んで寝たまゝきいてゐると、百五十機とか。六時頃起きる。空襲警報となり、遠く高射砲ひヾく。小型だから反って始末が悪く、ビクビク。飛行場狙ひらしく、茨城・千葉その他に大分入ったらしい。七時すぎ、空襲解除。七時半頃、警戒警報も解除。・・・又、ブザー。そのうち空Kとなり、又高射砲バンバン。八時すぎである。新聞読む。『毎日』徳富蘇峰が『国民に真実を報せよ』と、中々いゝ説を吐いてゐる。八時四十分頃関東各区に分散、各数十機宛で行動してゐる。後続編隊もまだあるらしい。『読売報知』の、ドイツから、敗けた後に帰った報道員の談あり、それを読むと心寒し。これが又間もなく解除となった。・・・十時頃に、又ブーブー、今度は、いきなり空Kである。これで三回目。やり切れたもんぢゃない。・・・一時半頃、・・・二時近くに、空K解除され、警戒も解けた。・・・二時十五分頃か、又ブーウ。今日四回目の警報。土浦・水戸・銚子と、今度も専ら飛行場を狙ってゐるらしい。・・・此の調子ぢやあ、今日は一日空襲かな。・・・敵小型機ますます大挙来襲、今回のだけでも三時五十分頃迄に二百八十機と言ってゐる。その主力は飛行場狙ひで、各地区に拡がってゐる様子。かう毎日プープーつづきでは、もはや芝居は勿論、ラヂオさへも出来なくなってしまふではないか。・・・敵は、後から後から入り、大分近くで、ドンドンやってゐたが、こっちには来なかった。五時、まだ新なる敵、何十機と言ってゐる。呆れた、全く。・・・」
 十六日付朝日新聞、「予約の前景気も上々 勝札いよいよきょうから発売」、富籤が発売されている。
 十六日月曜、ロッパは市電で渋谷へ、駅前の空き地で街頭慰問。“戦力増強隊芸能隊”の旗が掲げられ、土を盛った舞台の前には何千人もの人々が集まっていた。二十日も新橋駅前で街頭演奏、「今にも降り出しそうな空の下、約一万人位╶─╴ぢゃなかろうか、人の海」。盛況であったのだろう、ロッパは「歌ってゝも気持よく、何だか馬鹿に愉快だった」と。二十三日、ロッパは、邦楽座の『姿三四郎』を覗き、「舞台も飾り、衣装も先づ昔のまゝやっている、不思議な感じ」と日記に書いている。
 ロッパの日記、十八日「夜半、夢うつゝで、ラヂオきいてたら、水戸が今、艦砲射撃を受けてゐると、言ってゐた。水戸と言へば、すぐ近くではないか、冗談ぢやない・・・十二時七分前、ブーウー。『敵は伊豆北部より小田原へ』、B29一機B24一機の由。・・・今度は鹿島灘方面から小型艦載機編隊が、又続々と入って来る。やがて空K出づ。ドヾーンドヾーン高射砲の音、『既に百八十機』尚続々と後続目標があると言ってゐる。然し、近隣何の騒ぎもなし。子供の嬉々として戯れる声がするし、家の中も、平常通りである。東京都民は落着いたもんだな、一寸考へると呆れることである。一時十五分、まだ後続編隊云々とやっている。・・・」
 ロッパの日記、十九日「すべてが狂ってしまった。お盆も藪入りもなく、その代り金もちっとも要らず。水戸の艦砲射撃は、やっぱり夢ではなく、新聞を見ると、『日立・水戸方面に艦砲射撃』と出てゐる。もはや、敵の上陸も近いといふ気がする。何たる日本。・・・ラヂオ、ブザー鳴り、敵機京浜に近しと言ふ。十一時半、広場の仮設舞台、野天である。工員数百。しまひの『強く明るく』にかゝると、大空に爆音、工員たちも空を見上げる、B29が頭上通過、高射砲ドヾンドヾンと撃ち出す。それでも歌ふ、面白いって気がしてた。『あせらずに元気でいつも明るく強く進まう! 」と歌ひ乍ら、僕も空を見る。工員たち、空を半分、こっちを半分、拍手する。終って、事務所へ歩く時、空からヒラヒラ、謀略ビラが落ちて来る。拾って貰ふと、『マリアナ時報』。事務所の人たち、『いやア実に印象的で反ってよかった』と言ってる。・・・」
 ロッパの日記、二十日「・・・北海道は中止のこと、むろん満州行も止めにして、在京のことゝ定める。・・・」と、記している。戦況の悪化を鑑みてのことであろう、開き直った心境を示すものでもあろう。
 二十二日付、「焦土を潤す文化の涼風 麹町に壕舎の本屋さん店開き」とある。
 二十二日付Aの記事で「怖しい悪性インフレ」と、闇市場では急激なインフレが進んでいる。「“お金が紙屑”では敗戦」と闇の自粛を訴えているが、逆効果にならないか。二十五日には、「特攻機へ、ヨイコが懸命」と、針葉油の増産に子供たちが奮闘している写真。子供の懸命な態度が感じられるだけに、何とも言いようのない先の暗さを示している。
 それに対し、銅屑集めの話には笑うに笑えないものがある。国民酒場は一本のビールを飲むために二時間以上も行列する。その無駄な労力を解消するため、銅屑一貫目を持参すれば「特飲予約券」がもらえることになった。「銅屑集めに国民酒場『特飲予約券』活用」Y(25)。当初一日二千貫程度集まればと踏んでいたところ、三日目には二万貫も集まり、さらに五日目には不渡りの特約券を六万枚も出すことになった。やむなく、不足分に対しては「葡萄酒を取り寄せて解決するからといっているから先ず安心と見て差支えあるまい」とある。銅屑は交換を打ち切っても運び込まれ続けた。なお、その銅屑は、敵の空襲で投下されたもので、市民の犠牲の代償とも言えるものであった。
 市民の不安は、ロッパの日記、二十二日「・・・プ-。又すぐ解除。と又プ ー。今度 は、中々解除されず、・・・ドドーンと遠くで地響きのやうな音がする。さては、艦砲射撃が始まったか。ラヂオは、それ迄、B29一機のことばかり言ってゐたが、急に『房総南端及相模湾に砲声あるも、陸岸には特異なる事象を認めず』と言った。又続いて『房総南端及相模湾の砲声は、我軍の敵艦船に対する彼我の砲声にして陸岸には依然特異なる事象を認めず』と来た。・・・」と、この記述は敵の上陸を意識してのことであろう。
 ロッパの日記、二十二日「・・・一寝入りした頃、ブーウと鳴ってゐる、なあに又大したことではあるまいと思ってると、空襲警報。ラヂオは、B29の数目標と言ってゐる、起きる気にならず、床の中にゐると、ズシーン!ドドーン、爆弾の音だ。ビリビリッと硝子にひヾける。しようがない、起きる。・・・僕も庭へ。月明、今宵満月か、昼をあざむく明るさ。月の下を、B29幾つも飛ぶ、川崎方面!とラヂオ言ふ。その辺りに、爆弾の音、盛。アッ、火の玉だ。B29一機、火を吹いて落ちる。思はず、ワーツと叫ぶ。・・・一しきり、川崎辺がうるさかったが、友軍機、頻りに飛び出し、静かになる。・・・解除は、一時近くでもあったらうか。再び床に就く。いやもう大変な東京なるかな。・・・」と、先行きが分からないまま、慣れだけが定着している。
 永井荷風は、二十六日の日記に「銀座へ出た。六時ちょっとすぎ。人通りはもうほとんどない」とある。
 三十日付読売新聞、「浅草六区は健在」と                             三十日付Aで、市内の劇場や映画館等の興行状況が紹介されている。浅草は、六月に高見順の示した劇場や映画館に加えて、富士館・松竹劇場・電気館・千代田館・大勝館・松竹新劇場がある。新宿は、第一劇場・武蔵野館。新宿松竹館がベンチ掛けの演芸館として復旧中とのこと。渋谷や銀座なども復活したり、復旧中のところが増えている。なお、情報局は「演劇も音楽も映画もすべて移動公演へ組織的に」と、いまだに考えている。しかし、「映画を川崎の工場でやっても見ようともしないでわざわざ公休日を待って新宿や浅草へと見に往く工員が多い」ように、市民の要望とは大きな隔たりがあった。  

娯楽再建も始まる昭和二十年六月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)268
娯楽再建も始まる昭和二十年六月
 六月は、沖縄が日本軍10万人、一般人15万人もの犠牲を出し占領された。それでも戦争を続けようとしたのは、地方都市が残っていたからではなかろうか。東京は壊滅的な状況であったが、古川ロッパが六月に慰問で訪れた青森(一日)、弘前(三日)、秋田(四日)、鶴岡(五日)、新潟(八日)、加茂(十日)、松本(十一日)、富山松本(十四日)、高岡(十六日)、金沢(十七日)、福井(十九日)、敦賀(二十一日)、小松(二十二日)、大野(二十三日)、片山津温泉(二十四日)など、まだ空襲の大きな被害はない。戦時中であるため、物資不足はあるものの、東京のような食料難ではなく、人々の生活は豊かとはいえないが平穏な生活が保たれていたようだ。
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昭和二十年(1945年)・六月、あくまで本土決戦断行を決議⑥、沖縄守備隊全滅(23)、市民に潤いをと、レジャーの制限を緩和。
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 戦局の悪化は、もう否定しがたいものであった。それなのに、不利な戦況を隠す報告は、いつまで続けるのか。六月の朝日新聞一面最初の見出し、一日付に首里 那覇近郊激戦」と勇ましいが、戦いは敗れているのに、どのようになっているかを報告が無い。二日付は、「悪天候を冒し猛攻 五十一隻を撃沈確」と、日本軍が勝っているような印象を感じさせる。
 五日付は、「沖縄戦局いまや重要段階」の見出し、勝ち目が無い、負けているとの表現が無い。二面には「明るい壕舎生活へ 総合配給を強化」と、人々への不安を払拭させようとしている。
 七日付は、「泥濘の沖縄に血闘 山野埋む敵屍累々」とある。日本軍の被害はどうなのかについては、全く触れていない。
 八日付は、「戦災吹飛ぶワッショイ」、と、品川神社荏原神社で祭が催された。十五組の神輿がでて、海に飛び込む「渡御」の儀もあり、盛大な祭になったものと思われる。また、十五日も、山王日枝神社例祭「お神輿はポンプだ 縁起をかついで戦災地をねる」A⑯と、朝から夕方まで都心部を練り廻った。これまでも地域の祭は行われていたのだろうが、この時期になって新聞が取り上げるようになった。
 八日付の読売新聞には、「延期されていた奉納相撲初日」と、ガランとした国技館で開かれる。延期されていた大相撲夏場所が七日から国技館で開かれた。相撲は当初、五月二十五日初日、明治神宮奉納ということで、無料公開という話も合った。五月十五日付の新聞Aに「毎日一万人の行列がもしP51に狙われたらどうなる」とあった。そのような検討がなされたためか、一般公開されず、ラジオ放送もなく、六月十四日千秋楽を迎えた。
 沖縄での戦いは、勝てないことがハッキリしたのであろう。それを踏まえてだろう、朝日新聞九日付は、「強力政治を急展開 本土決戦即応の諸法案」と、今後の新たな展開を図ることが示された。また、「私事旅行お断り、あすからの列車時刻改正」と、人々の活動も制限が強化されそうだ。
 十日、十一日の一面には戦果が無い。
 十二日付「我戦線を整理敢闘、敵殺傷七万二千六百 二敵艦轟沈破 振武特攻隊猛攻」。沖縄での戦果を示しているが、わが軍の被害が推測できるのは、特攻隊員の死傷ぐらい。無謀な戦いが続けられていること、なんとも言いようがない。
 十四日付沖縄県民の血闘に学べ」と、沖縄の民間人が戦ったということを初めて言及したと思われる。県民の被害などについては、全く触れていない。その悲惨な状況が、もし本土の国民に伝わっていれば、十五日付の一面に「本土決戦こそ最好の戦機」などと書くことは出来ないと思うのだが。この日も戦果は記されず。
 十六日付には、「本土決戦一億の肩に懸かる 我に大陸作戦の利」とある。軍部の指示によって書いているものであろうが、国民はまだ勝利を信じさせられているのであろう。本土決戦とは言うものの、攻める戦いと守る戦い、その違いを軍部が分からないわけはないと思うが。
 では、都民はどのように生活していたのであろう。十六日に浅草を訪れた高見順は「仲店はまだ焼跡のままだった。けれど、人は出ていた。そして露店の物売り・・・観音様は、仮普請の準備中だった。この辺一帯、焼野原のままで、人は住んではいないのに、参詣人が出て来ているのは、異様だった・・・六区へ行ったが、ここではまた大変な人出に驚かされた。浅草の魅力!」と。
 花月劇場の前には行列ができており、灰田克彦(楽団、坊屋三郎の漫謡)と伴淳三郎(『縁談十五分前』『無法松の一生』)が出演し、入場料が大人3円60銭であった。その他劇場では、大都座が小林千代子一座、常盤座が杉山昌三九、金竜劇場が木戸新太郎一座の興行。映画は、松竹館・富士館(『還って来た男』上映)、電気館・東京倶楽部(地下では「お化け大会」もやっていた)が開いていた。高見順は「どこから来るのか、人がいっぱい集っている。浅草の不思議さ!」と書いている。
 また、十七日付の読売新聞には「日比谷旧音楽堂で慰問激励演奏会、大入満員」と、東京は至って平穏である。
 地方に出ている古川ロッパは、十六日の日記に「・・・新聞を見る、もう見ない方がいゝんだが、女が手榴弾の稽古してゐる写真あり、『笑って散らん大和撫子』とある。もういかん。九時前、人力来り、駅へ着いて、ホームへ。漸く列車が入ったら、大満員、窓から出入りしてる。二等、殆んど軍人で、皆腰掛けてるのが、何だか嫌だった。立ちんぼだが、三十分間だ、何のこともなく高岡着。」とある。
 朝日新聞は、十八日付では「荒鷲、沖縄へ反復猛攻」とある。十九日付、「捨てよ都会生活の垢、集団帰農にこの覚悟」と、前日の記事と同様、今後の方針や施策について場当たり的である。                    
 二十一日付、「B29の中小都市攻撃激化」とあり、これはもう本土決戦が始まっていると考えられないのであろうか。何を以て「本土決戦」とするのか、理解に苦しむ。二面には「代替配給 お米と抱合せて 玉蜀黍や高粱も登場」と、食糧事情の悪化を示している。
 二十三日付、「帝都義勇隊に 初出動指令 必ず耕せ・一坪以上」。これが「本土決戦」にどのくらい役に立つのであろうか。
 二十六日付、「沖縄陸上の主力最終段階 廿日敵主力に対し全員最後の攻勢 殺傷八万撃沈破六百隻」との見出し。戦いの成果が示されているものの、日本軍は敗れたのではないだろうか。
 二十九日付、「航空部隊 廿七日も沖縄敵艦連襲」とあるが、戦果に触れていない。そして、三十日付、「長参謀長と共に牛島中将自刃 沖縄海辺に従容の最期」。末期的な状況をこのような見出しで表現するのに、新聞は抵抗がないのであろう。
 三十日付には、「映画や演劇どしどし再建 街や職場へうるおいの進出」とある。「生活のきびしさに堪え、戦列に踏止って明るく戦い抜くためにはすさび勝ちの心をうるおす慰安機関の再建こそ第一であると」娯楽施設の復興をはかることとなった。映画や演劇などの娯楽を再建させて、街や職場に「うるおい」を取りもどそうとの掛け声である。これまでの禁止一辺倒ではなく、臨機応変に映画や演劇を行うことができそうになった。
 

市民の動揺を抑える昭和二十年五月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)267
市民の動揺を抑える昭和二十年五月
 七日にドイツが無条件降伏。これまでレジャーを押さえ込んできた新聞が、これまでの方針を変更した報道。戦災や疎開で人々が浮足立っているため、閉鎖した大劇場で低料金の大衆興行、休止映画館の全面復活、上映時間の制限撤廃などを示す。一刻も早く市民の落着きを取りもどそうとしているようだ。
 二十五日、二十六日と渋谷や青山などの山の手が大空襲となった。以後、東京には大規模な空襲はないが、と言うより主要な市街の大半が燃やされてしまったからだろう。これまでの対米戦や大陸での戦況、世界情勢を客観的に判断すれば、もう日本軍の勝利など考えられないはずである。軍部の一部を除いて、戦争継続の意欲は絶たれたと言ってよいのであろう。
 五月は、これまでの流れが変わり始める兆しがあり、その動向を察知し方向転換に動き始めたようだ。まず必要なのは、人々の動揺を防ぐことで、その意味でも娯楽・レジャーの効果が期待される。

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昭和二十年(1945年)・五月、ドイツ無条件降伏⑦、B29約250機による大空襲(24)、市民に落着きを取り戻さすためレジャーの締めつけが緩和する。
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 五月に入ると、浅草では電気館、常盤館、千代田館、木馬演芸場など14館が開館。ロッパは二日新橋演舞場で芝居を見ている。『義経千本桜』を一等4円50銭に税9円も払い、客席に入ると雨天というのに八九分の入りであった。
 新聞は、戦果について書き立てているが、読者は軍が瀕死の状況にあるとは感じないだろう。市民生活に関する記事が皆無のような中、五日付Aの朝刊には、一般疎開は当分中止。「『味噌』『醤油』配給はどうなる」とある。人々の動揺を静めるためと推測されるが、不安が浸透しつつあることを政府も軍も認めているからであろう。
 古川ロッパの日記七日は、「・・・有楽町迄。邦楽座、四円いくら出して入ったが大満員で、監事室へ入れて貰ふ。明朗新劇座といふ、妙な寄せ集め劇団、初めて見るが、何より此処の客の、低級とも田舎者とも、何ともつかぬ空気に呆れる、・・・」
 ロッパの日記八日「・・・ブーと来る。敵はp51小型機の編隊が京浜地区へ入った、と言ふ間に、ドドーン撃ち出した。十二時すぎから、一時頃迄続き、漸く解除。然し、慣れってものは全く恐ろしい。皆、何事もなかったやう。」
 十二日付の朝日新聞A見出しに「生活に潤いと落ち着きを・・・殖える映画封切館」とある。「日毎に戦場の姿を描き出す帝都に踏み止まり断乎職場を護り抜く勤労都民の生活が、戦災や疎開がめぐつてともすれば浮足立ち、寸時も絶やされない平気補給の流れを堰止めるやうなあつてはならない、変貌する都民生活に一刻も早く落着きをとり戻して、戦争一本に徹する不退転の態勢を確立したいといふ町村警視総監の抱負を実現するため、警視庁では決戦生活の刷新をとりあげ特に帝都の食生活と慰楽について再検討を加えてゐたが、乏しい中にも裕りと潤ひをといふ方針でこのほど次のやうな措置を決定、着々と実施することになつた。」としている。
 そして「大食堂を外食者に 工員食堂には料理人を配置」 「殖える映画封切館 罹災銭湯の復活も認める」との見出し。市民が浮足立っていることから、これまでの上からの命令ではなく、市民の要望に耳を傾けようとしている様子が伺える。
 十五日付の新聞Aに、大相撲夏場所関連の記事がある。相撲は、明治神宮への奉納で、無料公開を目論んでいるが、誰を入れるか。
 ロッパの日記十七日、「・・・公会堂(日比谷公会堂)へ行くと、大変な人だかり。かういうものに、飢えてゐるのだ。映画主題歌大会。第一部は、奥山彩子・宮下晴子・志村道夫、豊島珠江の四人が、三曲宛歌う。豊島珠江は、此の前も、乳の見えやような衣裳を着てゐたが、今日は背中まる出し、露出狂なのか。それで若い客はワーワー喜ぶ。」と。
 十九日付には、敵機が去り、空襲警報が解除され、日比谷公園の野外音楽会には何千という人々が嬉々として訪れた。ところが、音楽会をやるのかやらぬのかという説明すらなく、一枚の貼紙さえないまま放置された。ほどなく、集まったの人々は、がっかりして引き返しはじめた。
 二十日付の朝日新聞は、「ドイツ国民は敗戦に呻 ナチス思想を叩き出す弾圧」とある。また同じ紙面に、「涙の溢れる瞳から 大きな微笑 特攻隊を見送る大和撫子」とある。この記事が、どのような意図で載せているか困惑する。
 二十二日付には、「皇国の安危は正に 学徒の双肩に在り」とある。この頃の新聞には、負けている様子は記されず、戦果だけが取り上げられ、それも特攻による成果が多くを占めている。
 レジャー関連の記事が無い中で、二十五日に「奉納大相撲」の初日の取り組みが載っている。
 戦況の悪化を記す記事に、二十七日付で、「昨暁、B29約二百五十機 帝都を無差別爆撃」がある。その様子は、ロッパの日記二十八日、仙台駅「・・・罹災者らしいのが多勢下りて来る。その一人を捕まへて、星が『赤坂乃木坂あたりは』ときくと『ありませんよ、皆』と淡り言はれて、うわーと参る。『渋谷が一ばんひどくて、死人も沢山出た」ときいて、その近くの浪江輝子泣き出し、鼻血を出す。一等も満々員、トランクへ腰掛ける。軍人さんが『麹町は大分ひどいです。東郷坂も、番町幼稚園も』と言ふ。・・・二時間の汽車、石越といふえきで下車。鉱山(細倉鉱山)からのトラックが一台廻ってゐて、それへ三十人が乗るのだから、大変だ。僕は運転手台である。約一時間といふのだから相当である。・・・」と、慰問先でも東京の空襲を心配していた。
 三十日付の朝日新聞には、「B29五百機、P51百機 横浜市を白昼暴爆」とある。人々の動揺を静めようと、三十一日付には「空襲下、揺るがぬ備蓄 食料不安なし 末端の配給にも筋金」との記事が載せられている。

空襲に麻痺し始める昭和二十年四月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)266
空襲に麻痺し始める昭和二十年四月
 四月の東京は連日のように敵機襲来、空襲があり、米軍が沖縄本島に上陸するニュースが市民にも伝わる。人々は、もっと危機感を持って良いと思うのだが。ドイツの敗戦状況も入っているのに、我が身のことと考えず、困窮生活に甘んじている。東京は首都としての機能が麻痺しかけ始めているが、我慢を続けている。
 靖国神社春の臨時大祭は催されるにも関わらず、遺族の招待取り止めている。もう、遺族の招待が出来る状況ではなくなっているのであろう。
 古川ロッパは、昭和二十年四月二日の東京新聞に次の意見を掲載している。「われらチンドン屋古川緑波。こうなってから、実に、こうなってから、われらの滑稽芝居は、娯楽本来の姿に立ち返ることを許された。もはや、国策を説く教訓の書は、要求されずに、お子様の喜ぶポンチ絵本を、提供することを許されたのである。かくて、われらアチャラカ芝居、と蔑称され、低級喜劇(もっとも高級と呼ばれたことも一度ある。それは高級娯楽追放の日だ) と嘲称されたところの、われらポンチ絵本は、今こそ都民の前に、本来の姿で、まみえることが出来るのだ--」とある。                                    ───────────────────────────────────────────────
昭和二十年(1945年)・四月、米軍が沖縄本島に上陸①、小磯内閣総辞職⑦、数日おきに空襲がある中、映画や演劇を求める市民は少なからずいた。
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4月11日A 釘付けになった疎開輸送 いつまで続く、駅への日参と行列
  13日A 上野都美術館で「大東亜戦争作戦記録畫」十一日から展示
  16日A 焼けた銭湯で露天風呂の企て
  26日A 靖国神社春の臨時大祭、遺族の招待取り止め

 一日から、劇場の入場料に二倍の税がかかり、入場料2円の芝居は6円払わないと見れない。それでも、映画や演劇を求める市民が少なからずいる。新聞には、当時市民がどのような状況であったか、窺い知ることが出来ない。偏りがあるかもしれないが、古川ロッパの日記から見ることにする。
 ロッパの日記、四月一日「ブーと鳴ってゐる、午前七時。B29らしき、ブーンブーンといふ唸りがきこえ始めた。いかんなと思ってると、ドカーンといふ、よりは寧ろザザーッといふやうな音響、自身の如く、ゆらゆらゆらっとした。こんな地響き初めてである。七時四十分、解除。」
 二日の日記「九時、又プーウ。寝衣のまま、カバン掲げて壕に入る。ブーンブーンの唸り遠くなる。間もなく解除だろう。新聞を見れば、敵は沖縄本島へ上陸開始とある。そして、噂によれば、敵は九州と四国へ上陸するだらうから、それを迎えて、はじめて引き寄せ戦術の実を挙げるのだといふ話、実に心配なことである。・・・」
 三日の日記「・・・プーウ、来たな、時は十二時半、ラジオ『敵数機は』いかん、起きて壕に入る。今夜の敵は、時限爆弾を用ゐるらしく、敵機通過の後、ドゞドゞーンといふ爆発の音、その長いこと五六秒、何とも言へない不安。・・・火の手を見る、渋谷より近いな、新宿か。その他、所沢方面と神田方面に二個所と火が見える。空襲警報解除のサイレン。間もなく警報も解除。四時半だ。・・・」
 五日の日記「昨日は新聞も来なかった、今日は来た。・・・十二時すぎ、プーウーと鳴りにけり。一機の偵察で、間もなく解除となる。で、一時半頃か、開演の頃、突っかけ悪し、・・・四月に入ってからも芝居してることの宣伝が、まるでしてないので、無理もない。・・・」
 七日の日記「・・・立川辺の上空でB29が、ひらひらと落ちて行く、銀色の翼美しく、実に壮観であった。尚庭で見てると、ラヂオロケーターをくらます為であらう。錫箔のやうなもの、ピカピカ光り乍ら、空に漂ってゐたが、やがて、家の近くへ落ちた、人々集まり、奪い合ひである。・・・」
 八日の日記「東横千秋楽・・・一時半すぎ、プーと鳴っても客は出て行かなそうで、それじゃあ、やろうと始める。・・・」と、連日の警報に馴れてしまったのか。
 十二日の日記「・・・東中野駅、ホームに立ってゐると、『来襲』となり、電車は立往生で動かなくなっちまった。ホームの人々は皆外へ出されちまったが、・・・立川方面と、板橋方面の両方に、爆弾の音や、高射砲の音しきり。・・・」
 十二日から浅草で、焼け残った電気館と帝国館が無料興行をはじめると満員。十三・四日に再び大空襲、東京の山の手方面が焼かれた。
 ロッパの日記、十三日「・・・空襲警報が鳴ったので、壕へ入る。・・・ドドーン、シャシャシャズドーン、あれは爆弾、あれはと音をきゝ分けてゐると、上空には入れ代り立ち代りB29らしい音。そのうち、パパパと、電気消ゆ。龕燈を点けて、心細い。大庭が来て、火事が凄いと言ふ。壕から出ようにも、空でブーン 言ってるので恐くて出られない。つひに、すぐ近くが燃え出した様子。大庭があはて、飛び込んで来て、『こりやいけません、助かったら奇跡です』と言ふ。出て見ると、外は桃色に明るく、互に顔がハッキリ分かる。よし、と二階へ、もう、靴脱いでる余裕もなく、・・・燃えている燃えている、盛な火事だ。目白の山は日に包まれてゐる。・・・まだ空 には時々、敵機らしい音のする中を、壕から出て、出発した。僕・大庭松井と残った。神棚から、大神宮の御札を外して懐中する。小トランクに、抽斗のものを少し詰めた。さあ、これでもう焼けるなら焼けろだ。何とも言へない悲壮な、その悲の字が除れて、壮となり、何時の間にか快の一字が加はって、壮快な気持。ゲートル、鉄兜、そして懐には大神宮様がゐらっしゃる。・・・蒲団背負ったり、飯を焚く鍋のやうなものを持ったりした人々、焼けた方から逃げて来る人々。その中を、とっとと歩いて行く。浜田の家へ着くと、壕の中に、皆ゐるときいて、入る。・・・又、敵機来、ドー ン、ザゞザゞツといふ音。すぐ近くらしい、出てみると、かなり近いところ、日本閣の手前、国民学校の裏へ落ちたらしく、新な火がメラメラと来た。全く四方火に包まれてゐる。・・・家へ引帰すと、桜山の方の火が、ひどくなって、火の子が庭へふりかゝる。火たゝきで消して歩く。・・・家へ帰る、近くへ落ちた爆弾のあふりを食ったゝめか、家中、埃だらけ。神棚も壁土がバラバラ。掃除して、五時二十分前。床の中へ入り、ラヂオ(停電でも 二階のは、蓄電池だから大丈夫) を、五時のをきかうと思 ってゝねむくなり、寝てしまった。」                                      ロッパの日記、十五日「・・・焼跡を見ながら行きたいと言ひ、先づ高田馬場へ出て貰って吃驚、駅附近は全部やられてゐる。新宿の方へ廻る。大久保附近又ひどし、戸山ヶ原の陸軍技術本部やられてゐる。塩町交叉点の一角又やられ、四谷見附のあたりは、一望の焼野となり果てた。火は見附を越えて双葉女学校を焼いてゐる。町へ出ると安泰である。車は、竹橋へ出て、丸の内から、日本橋白木屋の附近もひどい。変り果てたる東京の姿である。深川を通る、この辺りは、もはや無である。やがて月島の豊洲、海軍施設本部へ近づく。・・・」
 帝国館は十九日から有料興行を開始。「東京新聞の芸能欄を見ると、小屋(劇場)が昔と比べて十分の一ぐらいになっている。それでも、東京の罹災から考えると、随分と沢山ある。不思議に焼けてないと思われるところがある」と、高見順は日記に書いている。空襲が続き、東京は焼け野が原、生活を建て直そうとする市民は食べるだけでなく、娯楽も求めていた。
 清沢洌は十二日、「どこに行っても戦争は、いつ終わるだろうかという点に話題が向けられて行っている」。十七日には「毎日、デマが盛んに飛ぶ・・・これは恐慌時代、不秩序時代の一歩手前だ・・・沖縄の戦争は、ほとんど絶望的であるのは何人にも明瞭だが、新聞は、まだ『神機』をいっている」と。さらに、二十日「沖縄戦が景気がいいというので各方面の楽観説続出。株もグッと高い。沖縄の敵が無条件降伏したという説を僕も聞き・・・中にはアメリカが講和を申込んだというのもある。民衆がいかに無知であるかが分る。新聞を鵜呑みにしている証拠だ」と。そして、空襲後を見れば想像に絶する被害、「しかし注意すべきことは、焼け出された人々が案外平気であることだ」と、二十一日の日記に書いている。
 ロッパの日記、二十四日「七時半頃か、ラヂオのブザーがきこえる・・・敵数目標では、寝てゐられない。八時半頃には、空襲警報が出た。鈴木氏鉄兜で来られ、・・・独逸は、市中へ侵入され、メチャメチャらしい。さうなると、こっちへ兵力を向けて来るだろうから、ますますいかん、といふ話。そのうち、爆弾の音がし出す、壕へ入る。高射砲盛に撃つ。ところが、あっけないほどの間に、空襲解除。」
 ロッパの日記、三十日「五時半に起こされ、・・・千葉駅に着くと、空襲警報ですと言ふ、駅員が敵は数編隊だと言って歩く。・・・九時近くに銚子行きの汽車が入ったので乗る。鎧戸を閉めさせられたまゝ、干潟駅着。十一時半頃である。下りてきくと、今解除になったところだと言ふ。やれやれ。軍のバスに乗り、鹿取航空基地へ。・・・格納庫である。急造舞台、マイクも悪く、やりにくい。大庭の司会から始まる。一時。・・・聴衆約二・三千名。三時半頃終る。・・・干潟駅、大した混雑だ。帰宅九時頃。 

アチャラカ結構となる昭和二十年三月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)265
アチャラカ結構となる昭和二十年三月
 三月九日の夜、東京へは334機のB29による大空襲で、死者約10万人、焼失家屋23万戸にのぼった。罹災した市民は、田舎へ帰ろうと上野駅を目指し、また焼跡の後片付けなどに追われた。翌日の十日、ロッパは劇場に出かけると、「何と、客が大分立ってる」と。結局、役者が集まらないこともあって三時に中止を決定し、払戻しをするとある。
 同日、陸軍記念日を期して、陸軍軍楽隊必勝演奏大会行進が行われた。翌日の新聞には「“不屈の意気 讃えて響く軍楽”一昨夜の凄烈な戦いが明けた後、都民の不屈の闘魂を象徴する如く、軍楽隊は堂々の進撃を続ける・・・たくましい調子に励まされて後片付けに働く罹災者も闘志を振るいおこす。どこか縁故者のもとに行くであろうリヤカーに布団と一緒に乗った子供、ゆうべの火傷を巻いた包帯の手を高くあげて万歳を叫ぶ・・・」Aと、空々しく書かれている。また、同紙面には、「戦ひはこれから 家は焼くとも・挫けぬ罹災者」の見出しがある。さらに「消防陣 気力が武器 火點へ必死の放列」の見出しもある。

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昭和二十年(1945年)・三月、東京大空襲9万3千人死傷⑨、硫黄島守備隊全滅⑰、東京大空襲の翌日にも劇場に訪れる市民が多数いる。
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3月2日A 神田一ツ橋共立講堂で勤労学徒激励大演奏会、三日正午より
  6日A 「足止め」さらに拡大、けふ公布「勤労動員」
  10日A 未だに幅利かす「闇」に蠢く“閉店開業"
  11日A 陸軍記念日、陸軍軍楽隊必勝演奏大会行進
  14日A 煙草一人三本 今月下旬の次回から
  15日A 「学校閉鎖」は行なわず「授業停止」で動員強化
  19日Y 「あすから急行廃止」国鉄
  23日A 「どうする疎開荷物 手一杯の輸送陣」
  30日A 焼跡には大農耕地、都の方針
 
 空襲の恐怖は、ロッパの三月二日の日記は「・・・此の二三日、空襲なし、うんと又貯めといて来るんぢゃないかと皆ビクビクものだ。・・・」と、大空襲を予見するようである。
 四日の日記は「プーウと朝来た、時計見ると七時半、いかん、艦載機時間だ。サンデーモーニング・ポストとおいでなったか!ラヂオきいてると、B29の編隊続く。間もなく空襲警報鳴る。いかん、それッと壕へ入る。敵編隊京浜地区へ。頭上ブウンの音、今にもドカンと落しはしまいかと、気が気ではない高射砲のひヾきと、爆弾であらうか、地ひヾき--いやな、物を引きずるやうな音、約二時間。十時近く、東南方海上へ去ったといふので、壕から出て、朝食。・・・」と、生きた心地がしない時間が続いたようだ。
 空襲情報が気になるのだろう、六日の日記にも「・・・渋谷駅を下りると、プーウーと来た。気味が悪い、・・・情報をきくと敵は一機で、大したこともないらしいので・・・」と、記している。
 九日は、東横映画劇場公演(『突貫駅長』『歌と兵隊』)初日で、日記には「・・・見た目満員である。・・・ハネ六時十何分。渋谷駅へ出ると、大変な人、三台目の電車で押し潰されさうになり乍ら。・・・何時か、時計を見るのも面倒、プーウーと来る。ラヂオをきくと、敵一機、続いて二機--大したことはなさゝうなので、うとうとし乍らきいてゐた。その三機の他に、南方海上より三目標とかがあると、その一機が関東地区へ入ったとか言っていると、ブーンブーンと音がして、ダダッダダッと高射砲の音、それ危い、女房子供を壕へやり・・・空襲解除のプーが鳴る、そこへ鈴木さんから呼びに来られて、行く。三階のバルコンから眺めて、唖然とする。一望火の海だ、北風が強く吹いてゐる中を炎々と燃えてゐる。神田・上野から丸の内・新宿方面ベタ一面の火である。こりゃあ大変だ、下町は無くなったぞ。三時警戒警報も解除されたが、家のあたりも火の反射で明るく風は益々吹いて、火事は何処迄拡がるか分からない。・・・神風が逆に吹くか。神の怒りは、日本の上にか。・・・」と、ロッパは、戦争の成り行きをまだ諦めてはいなかったと推測する。
 軍の報道は、空襲の事実をひた隠しにしていたことについて、ロッパの十日の日記に「・・・内務省の三階、防空総本部といふのへ行く、課長小幡氏、昨夜の災害を極力小さいやうに発表したいらしく、罹災者罹災者と言ふのを全国にひろめることが困るやうな様子、・・・此の災害をもみ消す(消せると思ってる愚かしさよ)ことが目的で、罹災者といふ言葉を使われるのが恐いといふのが本音らしい。・・・田町の方へかけて、まだ火がめらめらと燃えてゐる。さう言えば、今日きいたところでは、江東劇場は焼けてしまったさうだし、浅草六区も全滅の由、九段坂上も皆灰燼の由。・・・」と、被災地は惨憺たる状況であった。
 そのような惨事の状況下では、興行をするか否かは迷うものである。ロッパは十二日の日記に「・・・所管署もやって呉れといふ意向になったから、・・・三時半、ヘンテコな返り初日の幕開く。客が、兎に角一杯なのに驚く。・・・」と、東横映画劇場の興行が行なわれた。
 十四日の日記では「座へ出ると、・・・一回目、入りいゝが、満員とは行かぬが七分。・・・二回目、入り又よろし、八分位であらうか。・・・明日は、大編隊来襲と言ふ。短波でサイパンから、又、宣伝ビラを機上から散布し十五日には残ってる渋谷・新宿をやるから、といふ予告をしたと言ってゐる。・・・」と、不安を綴っている。
 公演を続けるも、十七日の日記は「・・・二時近く、ブーと鳴った。ラヂオをきく。『敵B29編隊』いけない、洋服を着て、空襲除けのネクタイ締める。子供たちも寝てゐるのを起こされて壕に入る。風は強いし、不安である。・・・九時出る、電車大混雑、座に出ると、今日も亦、とても十時半には開かない、・・・今日は客も悪からう、と思って出てみると、割にいゝ。六七分か。・・・ブーウと鳴り渡り、幕は下りた。舞台へ出てゝのブーは、これが初めて、何のことだ、三十分も経たずに解除。・・・」とある。
 十九日は月曜日であるが大入り満員。その日、ロッパを訪ねてきた女性が「千葉へ買出しに行き、物を運ばんとしているところを、捕まり、殴られた」のを聞き、野蛮なと憤慨した。大空襲で家を失い、大勢の人が疎開をしているこの頃も、買出しをする人はかなりいた。
 清沢洌は、二十日日記に「敵は盛んに宣伝ビラをまくようだ。これに対して、ただ聞くな、見るな、話すなと三猿主義をとっている」と批判。二十一日「どの新聞も流言蜚語が盛んになったこと、その原因が政府が事態を発表しないことからきていることを書くようになった」と。三十一日「近頃の電話は、どこへかけても通ぜず。電話は受けつけず。交通機関は半麻痺状態だ」と書いている。
 東京への空襲が激しく続くことからであろうか、ロッパは二十四日の日記に「・・・座へ近づく、渋谷の駅から道の家々は皆、丸に疎の字のマークをつけられてゐる、今月一杯位で立ち退けといふ強制疎開である。此の辺は、東横だけ残ることになるらしい。・・・」と、強制疎開について記している。
 ロッパの日記二十九日には「・・・内務省より、マイクの使用も差支えなし、歌手の服装もおかまいなし、何でもいゝ明朗闊達にやれといふ命令があった。然らば、せめて『あなたと呼べば』あたりの日本のジャズソングを歌ってもいゝかと、お伺いを立てさせてゐる。アトラクションも停止されてゐたのが、今回復活となった。・・・」と、締めつけが緩んでいる。
 三十・三十一日、ロッパは、相変わらず混雑する地獄の省線に乗って、大満員の東横映画劇場へ出かけた。また、「日劇が、こうなってから開くことになった、映画でなく、劇場として開くのだと言う。映画の方も、もう何をやってもいゝ、アチャラカ結構と言って来た」と日記に書いている。

空襲の恐怖でも娯楽を求める昭和二十年二月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)264
空襲の恐怖でも娯楽を求める昭和二十年二月
 この年の冬は室内の水が凍るという寒さ、食料だけでなく燃料も不足、清沢洌は八日、「三十年の東京生活で知らない。炭はなく、本年の寒さは誰にもこたえる。本年の冬を通じ、先頃、一俵の木炭の配給があっただけである」と、当時の状況を記している。
 二月には、東京への空襲が本格的になる。とうとう豆撒きもなくなり、出かけるところがなくなっている中、一日から二十日まで、日比谷公園で「B29機体展覧会」があった。十一日の祭日、古川ロッパは「B29の巨体を見て、『これぢゃあとても敵はない』と言い乍ら、すっかり憂鬱になって帰るわけ。何という愚挙」ともらしている。あまりにも大勢の市民がB29を見に訪れたため、有楽町駅では切符を買うのに二十分も行列しなければならなかった。
 好奇心だけでなく、面白いものを求めているのだ。多少怖くても楽しもうとする市民は、少なからずいる。逆に、恐怖を忘れたり逃れるため、求めるものもある。映画や演劇などは、空襲が迫っている中での逃避として、鑑賞することも否定できない。自分では芸術を堪能するとしていても、深層ではやはり恐怖を無視することが出来ない為である。
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昭和二十年(1945年)・二月、B29約130機空襲で7万人以上罹災(25)、撃墜したB29の野外パノラマを大勢の市民が日比谷公園で見る。
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2月1日Y 日比谷公園で「B29曝し物」
  2日A 「勝利の日まで享楽お預け 停止中のの遊休施設は挙げて戦力化」
  4日T 松阪屋で東京都日用品交歓会開催し盛況
  18日A 大曲観世能舞台で都民慰安能「放下僧・鬼界島」など二十日から三日間開催

 ロッパの日記二日、「・・・外は、ビュービュー嵐のやうな風の音。ブーウと来た。八時前だ。ラヂオ『敵機一機』風が強いのに御苦労な。服着て、オーバ着て、防空頭巾被って茶の間へ。八時半前に、一機は関東東部に爆弾投下して南方海上へ退去ときいて、寝袋になって床へ半身もぐり込む。又空に爆音。・・・」と、空襲への恐怖を記している。
 三日、松阪屋で東京都日用品交歓会。午前九時の開場前から行列ができ、来訪者の多くが中高年の女性、開場と同時に陳列場に殺到という現代のバーゲンセールを彷彿させた。人気は、靴、時計、厚地のモンペになるもの、台所用品、子供の着物などであった。価格は、闇なら五百円する豪華な女物帯が五十円など格安であったが、ゲートルなど必需品は安くはなかった。
 四日、高見順の日記によれば、「映画館街にはやっぱり人が出ている」と。
 戦局は日増しに悪化、流言が増加してきた。また、このまま戦意向上を押しつけるだけでは行き詰まりを感じたのか。二日付の新聞には、「勝利の日まで享楽お預け」と出しておきながら、ロッパの七日の日記には、「娯楽の変貌は又甚しく、最近、警視庁の寺沢が、軽演劇のシミ金などを呼んで、時局がかうなったから、アチャラカを許す、大いに辷ったり転んだりしろと申し渡したと言ふことである。」
 ロッパの九日の日記に「弁当を食って、次のセットへ行かうとしてると、プーウとサイレン。然し、芝居と違って、撮影は平気で続行。」と、空襲を無視している。そして、翌日の日記では、「・・・九時四十分、プーウー。でも驚かず、オープーンへ・・・青空に、ブーンブーンと、銀色に光るB29一機、高射砲の射撃を浴びつゝ、悠々と通る。何うにもならねえのか。と皆空を仰ぐ。僕、B29といふものの姿を見たのは初めて。撮影にかゝると、又一機、今度は逆のコースで、西から南へ向って飛び行く、友軍機が追ってゐたが、悠々と去りぬ。」と、空襲を悠長に構えている。
 十一日の日記では「二時半プーと来て起される。ラヂオの情報が、今迄の『東部軍情報』をやめて、『東部軍管区情報』と長くなった。折角おなじみになった言葉を更めることもあるまいに、こんなことばかり考えている奴があるんだな。十三分で解除。又寝る。」と、空襲情報を余裕を持って観察するようになっている。
 十二日の日記は、前記したB29について「・・・日比谷公園を抜け、旧音楽堂前のB29の展覧会を見る。馬鹿な話だ。デカバチもないB29の傍に、小さな日本機が置いてある。・・・」だが、何とも言えない心境になったのであろう。
 十三日の日記には、同様な心境であろう「・・・井ノ頭公園を横切って--何と此の公園の森が伐られて、木の根ばかり、樺太の如き光景となり果てゝゐる。・・・」と、記している。
 しかし、空襲の恐怖は十六日の日記に「プーと鳴るので眼が覚める。まだ夜半かと思ったら、七時だ。ラヂオをかける。『敵小型機の数編隊は」と来た。や、それでは艦載機か、ハッとして、子供ら、母上を防空壕へ追ひ込み、僕も入る。・・・又もや、ラヂオは、小型機とB29と両方で何十機とかが来ると告げる。こりゃいかんと、あはてゝ壕へ入る。敵機らしき唸り、それに被せて、高射砲の音、さんざ響くうちに、ドカンバチンと、何処か近くへ落ちたやうな音がした。・・・大庭の伜が伝令。便所を機銃らしいものでやられてしまった、・・・ラヂオは、再び小型機五十機の編隊来ると告げた、いけません、又壕へ入る。・・・」と、やはり身の危険は感じていた。
 さらに十八日の日記では「夜半敵機頭上通過と来ては全く快眠出来ない。八時半頃起きる。壕内に一夜を明した子供ら食事中。新聞の戦果を見る。苦しい苦しい。『読売報知』の如きは、『本土再侵襲は必至、敵機動部隊一応後退か』と、何っちの新聞だか分らない標題を揚げてゐる。くさくさしちまふ。・・・」と、日本軍に対しての不満を、真実を伝えられない新聞に当たっている。
 二十一日の日記「・・・ドカン! と地ひびきのする音、爆弾だ、何処だらう、新宿か、もっと遠くだらうか--然し、もう行っちまった、又寝る。生きた心地はしない。九時まで寝る。新聞には『硫黄島に敵上陸』の大見出しで、何紙も書き立てゝいる。・・・それにしても、敵機もうるさ過ぎるではないか、こんなに、執拗に毎日何人もの人が、命惜しまず来るものだらうか、それがアメリカ国民の気魄だらうか。いやいや、これも或る個人の利益のために躍らされてゐる人々の姿ではなかろうか。敵も味方も、結局は、軍の、政治家の犠牲ではないのか。・・・七時半過ぎ、ラヂオ、海洋吹奏楽団の放送、第一が『硫黄島陸海軍の歌』といふ、呆れたな。上陸された硫黄島の歌だ。・・・」と、やりきれない気持ちを示している。
 空襲の恐怖は二十五日の日記で「ブーウーで目が覚めた。八時前だ。便所へ入り、いきんでると、空襲のサイレン。うわ、いけない。途中打ち切り、・・・外は雪ますます盛、手紙を書いてゐると、『B29らしき数目標、南方海上より東進しつゝあり、その先頭は遠州灘に向ひつゝあり、その本土到着は、約二十分後なるべし』と来た。・・・皆を急かして壕へ入った。・・・B29の五編隊、それに小型機が又別に来て、丁度頭上を、通る。バッバッといふ高射砲の音、一時は全く生きた心地ではなかった。・・・」と、空襲の対応について記している。
 その空襲は、高見順の二十七日の日記に記されている。彼は、二十五日の空襲でまだ煙の上がっている神田周辺を歩き、「焼け跡はまだ生々しく、正視するに忍びない惨状だ」と、「だが、男も女も、老いも若きも、何かけなげに立ち働いている。打ちのめされた感じではない。そうした日本の庶民の姿は、手を合わせたいほどけなげさ、立派さだった」と誉めている。その後に、「日比谷映画劇場の前を通ったが、そこでやっている東宝映画の『海の薔薇』という衣笠貞之助演出の間諜(かんちょう)映画を見ようという人たちが物すごく長い行列を作っていた」と。さらに、二十八日には浅草を訪ねて、「映画を見にきた人々で雑踏している。この、人間の逞しさ。軽演劇のかかっている小屋から、朗らかな音楽が聞こえてきた。この、生活の逞しさ」とも綴っている。
 

娯楽禁止が緩む昭和二十年一月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)263
娯楽禁止が緩む昭和二十年一月
 昭和20年(1945年)に入ると、戦局の悪化は米軍に対してだけでなく、中国でも始まっていた。しかし、軍部はまだ「本土決戦」に望みを抱いていた。国民のすべてが死ぬまで戦うというスローガン、「一億玉砕」はそれを端的に表している。
 空襲におびえる市民の心を支えていたのは、偽りの戦果、戦意向上の叱咤激励に加えて、ラジオから流れる娯楽番組や映画・演劇などであった。その日の食べ物にことを欠く毎日、着の身着のままの生活ではあるが、焼け残った映画館には長蛇の列ができ満員と、市民が大勢出かけている。特に、戦況の悪化がハッキリとしてくると、これまでの娯楽禁止が緩和され、市民のレジャー気運は高まったようにも見える。
 年が変わっても、レジャー関連の新聞記事は減少し続けた。戦果の記事は、事実をそのまま伝えていない。また、市民生活の耐久を進めようとする記事しかない。そこで、当時の状況を古川ロッパの日記を中心に紹介したい。
注・Aは東京朝日新聞朝刊・aは夕刊
  Yは読売朝日新聞朝刊・yは夕刊
  Tは東京日日新聞朝刊・tは夕刊
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昭和二十年(1945年)・一月、米軍ルソン島上陸⑥、B29白昼東京を爆撃(27)、空襲にも馴れて正月気分を味わおうとする市民。
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1月2日Y 「社頭に誓う“神風”の闘魂」明治神宮の初詣
  2日A 「父さん隠し芸・・防空壕の正月楽し」
  6日A 「禁酒もしよう、旅行も自粛、ビールは二円、入場税大衆向きも総て十割」
  9日Y 陸軍始観兵式精鋭数万、八年ぶりの宮城外苑
  23日A 「ラジオはもっと面白くならぬか」
  26日A 「四日に一度の入浴とする 男湯の日と女湯の日とする」
  26日A 「おいもは立派な兵器」

 元日の新聞Tには、国民の気持ちを引き締めるため、「この上は何れ遠からず帝都の真中に敵の爆弾が落下するであろうから、その時を待つほかあるまい」と書かれている。これまで恒例であった元日興行は、禁止されたようだ。新聞には正月らしさが皆無の中、二日付Aで「藁座敷・父さん隠し芸、工夫一つで 防空壕の正月楽し」との記事がある。正月を防空壕の中で過ごさざるをえないこと、市民の不満はないのであろうか。
 ロツパは三日の日記に、「今日は天気もよし、人出が多い。此の一日二日ブウと来ないので、そろそろ人出だ。人間てものは全く現金なものだ。渋谷から、東横へ。客はもう行列してゐる。・・・これならいつもの正月と変わりなし」と。
 四日も電車が大混雑、ロツパの東横映画劇場は大満員、「江東の新国劇も頗る良好、浅草の各座も大入りとのこと」。
 五日付新聞Aで、「遊閑者なき勤労体制 機動配置に強力な体制」と、「女子も新規徴用」「勤労義勇軍を活用」など、掛け声だけとなりそうな記事がある。
 六日付Aでは、「“戦増税”と日常の生活」「耐乏で“納税一本” 禁酒もしよう、旅行も自粛」と続く。「ビールは二円」など、入場税大衆向きも総て十割と、またも締めつけ。
 七日付Aには何と「日曜朗話集」として、「元日に「防空祝勝常会」「“肥料まき”してくれたB29」との記事。内容は、B29が落とした爆弾が肥溜めに落ち、爆発で飛び散り、肥料を播いてくれたということ。これを朗話とする感覚、ブラックユーモアをどの位の人が受け入れたのであろうか。
 ロッパの九日の日記には、「慣れるということは、全く恐い。近頃の東京都民の、空襲を恐がらないこと、又、敵機が去れば、もう忘れたかの如きのんきさ。我自らも、そうなのだが、まことに馴れは恐ろしい」とある。
 『初春一番手柄』等を公演している東横映画劇場は、九日まで大満員。翌十日は、高見順の日記によれば、銀座通りに夜見世出ており、参詣した虎の門金比羅も健在、「人出がある」と。
 正月気分が抜けたのか、ロッパの日記は、十日からは客足が落ちたことが書かれている。
 なお、高見順の十四日の日記には、「日比谷映画劇場の前へ・・・長い列」とある。
 ロッパの日記十六日には、「・・・ポーウーと来た。あれ、午前十時の来訪とは珍しい。ラヂオ『敵一機は関東地区へ侵入』と言ってる時には、もう高射砲ズドンズドン。食事する。食っていゝ、考へてゐたら可笑しくなり、ふき出した。『敵が上空にゐると言ふのに飯食ってるんだからね。』・・・」
 当時の東京の情景を、「電車が滅茶々々にこわれている。窓硝子はなく、椅子席の布がない。窓は乗客が強いてこわすものであり、布は盗んで行くのである。電車が遅いといっては、無理に破壊するのだそうだ」。十六日、清沢洌は「敵に対する怒りが、まず国内に向かっている」と思った。荒廃しているのは、人心だけではない。市内は、日中の人出はあるものの、夜になると気味の悪いように街中に全く人通りがなくなり、不吉な感じさえするようになった。
 二十三日付新聞Aに、「沖縄に又五百五十機 二日間で百五十機屠る」とある。ほかに「三空母を大破炎上 神風隊 台湾沖に出撃」など、日本軍の戦果などを連日伝えている。戦果に市民は不信を感じ始めているかもしれないと、当局も察し始めたか。そのためか、とうとう、「ラジオはもっと面白くならぬか」との記事A(23)が出る。市民は何となく戦況の変化を感じ、不安を紛らわす面白いものを求めていることは確かであろう。
 ロッパの日記二十三日、「・・・昨夜寝て間もなくである。ブーブーと急しさうなサイレン、やれやれ、ラヂオを入れる、ねむくて半分トロトロし乍らきいていたが、おなじみの『ヒト機』なので、起きる気せず、西方へ行ったといふところ迄で、あと寝ちまひ、解除を知らず。」
 二十六日付Aに、「明朗生活へ当局の配慮」「一等は十万円止まり 賞金代わりに酒、煙草も考慮」と、富籤の記事がある。
 ロッパは二十七日の日記に、「映画館の前には、長蛇の列。目下『勝利の日まで』上映中、大変な当り。だから見ろ、今回の東横は出しものが悪いのさ、いゝものやれば必ずもっと来るのさ」と、書いている。
 二十八日付Aには、「帝都にB29約七十機 重要工場被害なし」との記事。重要工場以外の被害については触れていない。
 ロッパの日記二十八日、「・・・昨日の空襲では、丸の内に大分爆弾が落ち、朝日新聞社も硝子が全部こはれた由、有楽座も危い、山水楼は炎上したとのこと、又銀座方面も被害ありたる模様、驚いたな。・・・はしゃいで、いろいろやると客は笑に飢えてゐて必要以上に笑ふ。でも、底に不安が漂ってゝ妙な気分・・・」
 ロッパの日記三十日、「・・・今日は自腹で二百円ばかり切り、僕が此の慰問を提供する。・・・田浦着、横須賀海軍航空隊へ。加藤司令と会ふ。見た目一万人(五千人といふが)の前で、久々マイクロフォンで歌ひ出す・・・」