大正十三年前期 復興に追われ市内の娯楽は停滞

江戸・東京庶民の楽しみ 176

大正十三年前期 復興に追われ市内の娯楽は停滞
 この年、一月に成立した清浦奎吾を首班とする貴族院内閣は衆議院を解散、五月の総選挙では護憲三派が大勝し組閣にこぎ着けた。こうして、形の上では「大正デモクラシー」運動が実を結ぶことにはなったとも言える。しかし、だからといって民衆レベルの民主主義的な要求が飛躍的に高まったと見ることはできない。まだ、女性はもちろん、国民全てに選挙権(全人口の6%以下)が与えられていない。震災の影響もあってか、選挙期間中のメーデーも盛り上がりに欠けていた。
 市民の多くは、バラック住まいの生活をたてなおし、震災ショックから抜け出すということに追われていた。市民レジャーも、映画を除けばあまりパッとしなかった。ただ、夏の避暑は市民の間に定着しはじめたらしく、日帰りで出かける人が多くなった。
 この年、「あの町この町」「ストトン節」などが歌われ、「円太郎」と呼ばれる市営バスの運行が始まる。
・一月「東京中に 酔っぱらいの影が無い・・・震災正月の気分」四日付讀賣
 十三年の正月は年賀状の総数が減るなど例年より質素に明けた。「復興の新年よりも 震災正月の気分」(四日付讀賣)とあるが、それは震災のお正月と云えば不景気らしいし、「復興の第一の新年」と云えば上景気らしく」聞こえるからである。「東京中に酔っぱらいの影が無い」という見出しもある。例年なら酔った勢いで警官を手こずらせるものがあとを絶たないが、この年は無いも同じ。また、「吐いた物にお料理が無い」とまで書いている。鉄道関係者によれば、人出も前年より30万人も減ったとか。確かに市電の売上げは減少している、しかし、乗客数は前年より10万人も増えた。鉄道も上野運転事務所管轄では、元日だけで5万人も増えたという。なかでも、この年の恵方である成田不動へ出かける人が多く、成田駅我孫子駅はまるで戦場のようだったとか。
 市内では、浅草の人出が最も多く、電車乗降客が連日10万人以上、次いで明治神宮。ただ、深川不動亀戸天神、川崎大師などは前年に比べるとぐっと淋しかった。浅草は四ヶ月ぶりで各興業物が一斉に蓋を明けたため上景気。11の映画館をはじめ、宮戸座・凌雲座・大盛館・世界館・安来節の御園劇場、さらに花屋敷、講釈場の金車亭に至るまで大入り。ことに、澤田正二郎一座の天幕劇場は、新国劇国定忠治』を見ようという人で、東洋一の大テントのなかは超満員、木柵の上にまで人が鈴なりという有様。映画館も身動きも出来きないほどの混雑ぶりであった。このように市民は、正月を迎えてようやく落ち着きを取り戻し、映画でも見てみようかという気分になった。
 「澤正が今日天幕劇場で 名士と共に演説 政治を民衆に近接せしめる為」(十七日付讀賣)。天幕劇場は連日客止めの大盛況。そして千秋楽には、時局問題その他政治上に関する講演会が開かれた。澤田正二郎は、民衆は政治に対して没交渉ではいけないなどと、持論を展開。警視庁の方でもよく理解してくれ末広博士も一時間半にわたって講演とあり、その時代にしてはなかなか「破天荒な企て」が催された。もっとも、どの程度の効果があったものやら、残念ながら民衆芝居のなかに政治活動を取り込もうとする試みは、これが最後のようである。
 「米国野球界通信 世界選手権戦の入場者と入場料」八日付(讀賣)の中に、三田・稲門戦との比較が載っている。1903年、最初の世界選手権戦の平均入場者数は約1万2千人、入場料は日本円にして約1万2千円であった。また、この数値は、当時の三田・稲門戦の入場者数と入場料に酷似しているという。ちなみに当時の米国世界選手権戦一試合の平均入場者数は、約5万人、入場料は約3万3千ドルであった。日本の野球については、「野球は技量に於いても一般の熱心さに於いても・・・米国の二十年前位のものかも知れぬ」とある。実際、野球はまだ学生スポーツの域を出ず、女性や高齢者も喜んで見に行く相撲のような幅広い人気はとうていなかった。
 新聞は年の初めから、東宮の御成婚関連の記事が出ない日は無く、震災復興ムードを明るく盛り上げようとするかのようである。二十六日は、「還行啓の沿道の感激・・・早朝より離宮に集まる群衆叫ぶ 来る電車も電車も満員」。「還啓を待設ける 群集から迸る歓声・・・昨日人出五十万という」(二十七日付讀賣)。早稲田大学では一万余名が参列して奉祝式など、市内はお祝いムード一色であった。
・二月「浅草の豆撒き例年の三倍の人出」五日付讀賣
 二月はもともと人出の少ない季節であるが、さらに減少。ただ、浅草の「豆撒き」は、浅草寺が焼けずに残ったことから、例年の三倍に増加、近来にない人出となった。その他、各地でも追儺式は催されたが、あまり盛り上がらなかった。また、九日の初午も、羽田穴守稲荷神社の広告(讀賣)が二度ほど出ただけ。以後の新聞にも、レジャーで賑わう様子が見られない。
 一月十四日付(讀賣)で、「歌右衛門一座が東京での初出演・・・大賑やかの二月の芝居」と期待された。しかし、実際には新春の明治座や天幕劇場等がどこも満員続きだっただけに、反動で二月の落ち込みは激しかった。「惨めな春芝居 気の毒な帝劇と市村一派」(三月十二日付報知)、「帝劇も市村も未だ容易に蓋をあける運びが立たず・・・各所で小興行を打っても不入続きの不成績」と、見出しから関係者の悲鳴が聞こえてくる気配。市民の多くは、まだ観劇を楽しむ余裕がない。永井荷風ですら、震災から半年たったいまも、まだ劇場に足を運んだという記述が日記に見当たらない。
・三月「日曜の春を楽む動物園の人出」三十一日付讀賣
 三月に入っても市民レジャーは沈滞したままであった。観梅列車の運行など春の行楽を誘う記事もあるにはあるが、震災前の生活を取りもどそうと必死の市民には遊びに出かける余裕などなかった。震災の恐怖やストレスは薄れても、大半の市民は、仕事に全力投球するのが精一杯という状況。それでも、二十二日に関東実業野球大会が早大球場で開催、上野の山に1万人程度の人が出かけた。また三十一日付の新聞(讀賣)には、市民の行楽を誘うかのように上野動物園で憩う人々の写真が掲載された。
・四月「団体の少ない今年の花見」十五日付讀賣
 サクラの開花が例年より少し遅れ、七日付で花見の記事。それも、あいにくの雨で花見衣裳が濡れたことや、不意の雨に追われて迷子が14~5人出たことなど湿っている。十一日、サクラは「爛漫」であるが、電車は混んでいないと荷風の日記。十三日付(東朝)で「人でうずまる きょう飛鳥山の賑 正午までに十万人」と人出が期待されたが、翌日はまた雨と、この年の花見はまったくの雨続き。そして十五日付(讀賣)では、前日の飛鳥山は、団体の花見がたった三組と激減したことを伝えている。考えてみれば、震災のせいで会社や工場はひどい打撃を受け、ようやく恢復の緒についたばかり。当然ながら、団体の花見客は少く、盛り上がりを欠いた。
 四月の半ばを過ぎ、市内のサクラは散ったが、郊外のサクラやヤエザクラはまだ見頃。「花に浮されて 出るは出るは」と、二十日は晴れの日曜、郊外へ向かう駅はどこも大混雑だった。玉川へ向かう京王電車は6万人、京成電車で市川や中山へは12万人、荒川堤も10万人の人出。翌二十一日の新井薬師縁日には花見を兼ねて10万人が訪れるだろうと予想している。全般的に春の行楽は、名残りの花を求めて出かける人はいたが、例年に比べるとかなり湿っていた。
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大正十三年(1924年)前期の主なレジャー関連事象・・・1月第二次護憲運動
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1月3読 新春の賑わいは浅草
  3読 天幕劇場、新国劇で満員御礼
  4読 電車も汽車も到るところ大混雑の三箇日、酔っぱらいの影が無い
  5読 興行界記録破りの大景気
  11読 オペラ館「ベッスリア女王」他満員御礼
   12永 荷風、市中塵埃甚しく歩むべからず
  17読 澤正が天幕劇場で名士とともに演説
  27読 東宮御成婚を祝し、人出五十万という
2月4日 日展の入場者六千、観客あふれて二度の札止め
   5読 浅草の豆撒き例年の三倍の人出
  8読 初午、羽田穴守稲荷神社
  8日 小石川伝通館「世界の喝采」他満員御礼奉仕週間
  9読 百万ダースのハーモニカが前年からこの年までに売れた
  18朝 上野の護憲国民大会に二万余の大行列
  24読 オペラ館「金色夜叉」満員御礼
3月12報 惨めな春芝居
  9読 観梅列車水戸へ
  9日 電気館「嬰児殺し」他大好評満員日延べ
  16読 大東京「清水次郎長」他満員御礼
  20日 演技座、澤正の「松永弾正」他満員御礼
  22読 早大球場で実業団野球大会開催
  23読 上野の山に1万人の人出、動物園に3千人
  30日 花月園の京浜児童娯楽大会、野外劇入場者一万五千人
4月7読 東京駅の乗車券売切れ、小旅行増える
  7朝 花見、不意の雨に追われて迷子が十四、五人出る
  11永 此日近郊の桜花方に爛漫たり。電車幸に雑踏せず
  15読 飛鳥山の花見、団体は少ない
  20朝 芝離宮庭園公開、朝八時から午後五時
  21読 花に浮されて、出るは出るは、快晴の日曜に各駅雑踏
  27朝 日比谷音楽堂で、第一回日本軽体量級拳闘選権試合が行われ観衆数千
  28読 早稲田大学大隈会館の大演劇会日延べ
  28読 二日目の競馬、いずれも大入り満員

 

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大正十二年後期 すぐに取り戻す庶民の娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 175

大正十二年後期 すぐに取り戻す庶民の娯楽
 関東大震災は、東京庶民に壊滅的な衝撃を与えた。市内の半数以上の人が被災し、大混乱に陥った。その混乱は、一月も経たないうちに収束に向かった。元の生活へと早く戻れたのは、庶民の自助努力である。地域の人間関係の結びつき、相互扶助など、自分たちで修復する力があったからである。現代の東京でも、同じような修復が期待できるであろうか。社会が複雑化し、人間関係が希薄化し、個人の力が埋没する組織など極めて難しいであろう。様々なことが、国や都に依存しなければならないようになっている現代、新型コロナウイルス感染症の流行を見ると、結局は自助努力になりそうだ。では、何が関東大震災からの復興へと向かわせたのであろう。それは、庶民が明日への楽しみを持っていたからであろう。
・九月「みくじの上り高四倍となる 焼け残りの浅草観音 大繁昌大景気」二十二日付東日
 九月一日、関東大震災。市域の43%は焦土と化し、焼失家屋44万、被災者141万人を記録した。前日までは市民の憩いの場であった上野公園など市内の各公園は、一転被災者の受け入れ場に変わった。震災直後である一日、二日の避難者は、上野公園が50万人、宮城外苑が30万人、芝公園が20万人、日比谷公園が15万人、浅草公園が10万人、小石川植物園が8万人等々。四日、永井荷風は知人の牧師を探しに上野公園へ出かけて行ったが見つけることができず、結局大久保まで歩いて帰った。
 震災後の東京は大混乱、二日に戒厳令が出されたが、盗み、放火、詐欺、婦女誘拐など、あらゆる犯罪が発生した。なかでも、流言飛語によって朝鮮人などが数千人も殺されるなど、治安の悪化は著しく、荷風は三日の日記に「各戸人を出し交代して警備をなす」と書いている。また、援助物資の横領や物資の買い占め、売り惜しみ、また物資の不足から諸物価は値上がりし、市民はその日の食事にも窮する状況に陥った。
 それでも、四日頃から送電開始、六日には公設市場で米を販売、八日頃から電車が動きだすなど、市民生活は徐々に回復しはじめた。市民は、身内や知人の安否を訪ねて市内を歩き回り、食べ物や日用品を求めて駆けずり回った。荷風もようやく落ちついたのか、十二日にハギが咲き始めたなどと窓の外を眺める余裕も見せている。市内にはバラックがたくさん建てられ、風呂屋も営業を始めたようす。荷風はそこに出かけ「心気頗爽快を覚ゆ」と十七日の日記に書いている。また荷風は、震災後は何となく落ちつかず、庭を歩くこともなかったが、十八日には箒を持って落葉を掃いている。この頃になると動揺していた市民も落ち着きをみせ始め、日比谷界隈に三百軒の俄飲食屋ができたとか、「縁台で五百円の売上げ」があったなどという記事からもわかるように、商いをしている場所には、買う買わないは別として多くの人々が集まった。
 二十二日には「みくじの上り高四倍となる 焼け残りの浅草観音 大繁昌大景気」(東日)という元気な見出し。まだ六区の興行が再開していない浅草へ参詣する人が毎日四千人程度いたというから驚きである。同時に震災で行方不明になった人を突止めようというのか、おみくじ場が大変な混雑という記事もある。当然仲見世は、火事泥的に飛びこんだ露店商人ばかりで、ただ「大増」だけが急造の大バラックで安い飲食物で黒山のように客を引き寄せていた。人はよく出ているらしく平日の倍に達したらしい。また、かろうじて焼け残った丸ビルには、銀座や日本橋白木屋・大丸商店・明治屋などが二十日頃から開店し、これには「何でも御座れの買物に 毎日の集散十万人余」と、震災前の二倍半の人が訪れた。このように、市内で一般に開かれている場所には、どこでも大勢の人が集まった。
 上野も西郷さん銅像前から竹の台一帯がすっかり露店で埋めつくされ、中には提灯を吊るす酒屋もあって、まるで花見のような雰囲気だとか。二十三日付の新聞(東日)には、「活動界 山の手から蓋が開く」と、駒込万歳館などの営業が始まった。その一方で、震災で崩壊した浅草凌雲閣の撤去が行われた。当時浅草公園ではまだ後片付けをしている段階で、劇場や映画館が営業できるという状況ではなかった。また、仕事を求めて「徹宵行列を作って 殺到する求職者の群れ」(十七日付東朝)と書かれているように、多くの市民は自らの生活の再建に走り回っていた。
・十月「樹の枝へ鈴成りに・・・大人気の澤正野外劇」十八日付讀賣
 一日からは焼失を免れた寄席が再開し、「何処も凄じい大入り満員」であった。三日付の新聞(以下東日)には、近頃、学生達の巡回音楽団が毎夜のように日比谷公園バラック街で慰安演奏をしているとある。五日付で、渋谷の宮益坂上農業大学裏で慰安無料浪花節大会。十四日には、神宮外苑で戸山学校軍楽隊がロッシーニのウイリアムテル序曲などの演奏会。十七日から避難民が大勢いる日比谷公園音楽堂で、澤田正二郎一座が三日間罹災市民慰安公演会を行った。その「澤正野外劇」がどのようなものかというと、「日比谷村はじまって以来の素晴らしい景気である場内は一万人以上と云う入場者に身動きもとれぬほど・・・『高田の馬場』で澤正得意の大立廻り十八人斬りは見物大喜びだった。終演は四時半、兎に角大盛況だったが 昼飯も食わず一生懸命に見ている見物も御苦労な事である。なお十八、九日も正午より開演する」(讀賣)と。二十日も「無料で野天講談」。二十一日、上野公園で天勝一座が野外慰安舞踏を催した。このような慰安芸能の催しは、どこでも多くの人々が集まり喝采を浴びた。
・十一月「娯楽物は何物によらず すばらしい景気」二十五日付讀賣
 震災後初めての野球は、「五対零で美軍敗る 対早大に」(一日付讀賣)と早大球場で行われ、満員の盛況だった。翌日も戸塚球場で慶応対美加登の試合が行われ、見物席が満員と。二日には、日比谷公園で来日したハイフェッツチゴイネルワイゼンなどを奏でる義援演奏会。これは野外コンサートで、帝国ホテルで行われた時の入場料が10円だったのに対し1円ということで、3600人の客が詰めかける大盛況。売上げも3600円になった。また、明治神宮外苑に野外演芸場が作られ「興到れば勝手に 観衆も舞台に 盆踊り気分の野外劇・・・丹青座が十八日無料興行」。「兜姿で無茶苦茶芝居の 松ちゃん立派々々 澤正の堀部安兵衛と・・・きのうの日比谷の野外劇大人気」(十六日付讀賣)と報じている。
 「焼けずぶとり興行物の大景気 はち切れそうな入りつづきに 毎日客止めの大当たり」(二十日付東日)と、営業中の芸能興行はどこも盛況であった。二十五日付(讀賣)で市内の劇場関係の復活状況が出ている。それには「芝居は中車一座の麻布南座、二十二日から開けた牛込会館の村田正雄一座の人間座をはじめ早稲田座の義士廼家一座、王子劇場の市村座若手連菊十郎等の一座その他いづれも大入、活動写真も東京市内外を通じて全部で百二十一館あった中四十四館が焼け七十七館が残ったが、その中現在僅か五六を除く外は全部開館して居り、寄席や演芸場も市内及府下で百五十五の中六十が焼け九十五が現存して居りこれも追々開場されつつあるが、いづれも押すな押すなと云う景気である。・・・大入りは、娯楽物が如何に要求されて居るかがよくわかる」。以前はなかなか大入りにならなかったところも満員になる盛況ぶり。また、演し物は明るいものが受けていた。それに対し年中行事の七五三の祝は、いつになく淋しかったようで、人々の生活に密着した行事はまだ完全復活は遠い状況にあった。二十日付の新聞(東日)には、その日の生活に困るものが都下30万人余という記事も見られる。
 「上野の露店は二十日限り」(十三日付東日)と期限が切られ、公園内の避難者等の退去、震災の後片付けは徐々に進みはじめた。しかし、日比谷公園などを占拠した人々は翌年まで居座ってバラック小屋で営業を続け社会問題化し、市民レジャーにも支障をきたした。一方、「三越下駄ばきで入れ 今日から開店」(十七日付)と、復興に伴ってあたらしいスタイルがいくつも誕生した。街には、婦人の洋装と自動車が増え始めた。震災の被害が少なかった渋谷は、「震災成金の隠れ遊び等で 大恐悦の渋谷町」(十二月五日付讀賣)と一人賑わいを見せていた。渋谷周辺には、一時5万2千人もの避難民が入り込んだため、町はにわかに活気づき新たな繁華街を形成しつつあった。
・十二月「予想外の人気に 活気立つキネマ界」十四日付東日
 土曜日の午後ということもあって、一日の浅草の人出は夥しく、早稲田演劇研究会による野外劇が大喝采を浴びた。お堂を取巻く人は数万にも及んだという(二日付国民)。六日付で納の水天宮の賑わった写真を掲載(東日)。上野動物園は、十一日から入場料無料で臨時にオープン。浅草観音の歳の市は、出店数が例年の四分の一だと報じられた。ところでキネマ界(映画界)は、十二月に入ってから一層の人気。五日位の時点ですでに従前の十二月分全体の収入を占めるというほど。日比谷図書館で開かれていた震災資料展覧会が入場者が多く日延べと。十五日から始まった目黒競馬は、馬券が復活したことから盛り上がり、二十三日には売上げ30万円を上回った。そういえば、年の初めからゴタゴタ続きの相撲協会も、遅ればせながら国技館の焼け跡で大相撲を披露。久しぶりのこともあり、しかも慰安興行ということで入場無料とあって大入り満員であった。
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大正十二年(1923年)後期の主なレジャー関連事象・・・9月関東大震災/12月摂政宮狙撃事件
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9月3永 各戸人を出し交代して警備をなす
  8日 虎や象とともに浅草観音に十万人 不思議な命拾い浅草の惨状
  14日 火の消えたような興行界と花柳界
  17朝 日比谷界隈に3百軒の俄飲食屋
  22日 みくじの上り高四倍となる 焼け残りの浅草観音 大繁昌大景気
  23日 活動界 山の手から蓋が開く
  24日 十二階爆破の刹那
  26朝 浅草へ参詣する人が四千人程度
  26朝 丸ビル大繁昌、何でも御座れの買物に 毎日の集散十万人余
  26朝 浅草仲見世は、火事泥的に飛びこんだ露店商人で賑わう
  29日 上野は露店で埋まり、野次馬など花見気分 
10月2日 寄席は何処も凄じい大入り満員
  6日 渋谷宮益坂上農業大学裏で慰安無料浪花節大会
  13永 馬場先門より八重洲大通り露店櫛比し、野菜牛肉を売る
  18朝 日比谷音楽堂で大盛況の野外劇「勧進帳」演劇に渇した2万人の見物
  15日 神宮外苑で戸山学校軍楽隊の演奏会
  21日 上野公園で天勝一座の野外慰安舞踏大盛況
  22読 奈良丸、日比谷で24・25日公演
  23日 深川八幡の遷座祭賑わう
  27報 日比谷音楽堂で菊五郎一派の野外舞踏   
  29読 早大対全関東ラグビー蹴球戦、観客多く野球戦も及ばぬ人気
  31読 上野精養軒で大菊花園、国技館用に作られた花で、自由観賞
  31読 日比谷商店街連合会 儲け無いデー
11月2日 戸山球場見物席満員、慶応美加登に勝つ
  3日 日比谷公園ハイフェッツの野外演奏会3588円売上げ 
  3読 明治神宮御例祭、余興等一切なし
  8読 明治神宮外苑に野外演芸場が作られる
   13日 ふだん着のまま淋しい七五三
  20日 焼けずぶとり興行物の大景気、毎日客止めの大当たり
  21日 天勝一座、ホテル演芸場日延べ
  23永 荷風渋谷道玄坂の夜市を見る
  24日 まっさきに明く仮小屋の宮戸座
12月2国 浅草の野外劇 お堂を取巻く幾万人
  4永 銀座に往く、商舗は皆仮小屋に電灯を点じ物資を路傍に陳列するさま博覧会売店の如し
  6日 納の水天宮賑わう
  9読 動物園開く、臨時に十一日から入場料無料
  13読 観音の歳の市は出店数が例年の四分の一
  14日 予想外の人気に活気立つキネマ界
  16読 日比谷図書館で催されていた震災資料展覧会は入場者が多く日延べ
  17読 馬券復活の目黒競馬始まる
  24読 国技館焼跡の大相撲 無料で満員
  24読 目黒競馬四日目、売上げ30万円を上回る

 

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大正十二年前期 庶民は花見に盛り上がるが停滞

江戸・東京庶民の楽しみ 173

大正十二年前期 庶民は花見に盛り上がるが停滞
 大正十二年九月に関東大震災が発生、東京は焦土と化した。震災による混乱で物資は不足し、失業者があふれ、150万人以上の市民が東京から焼きだされた。市民の間に、「朝鮮人暴動」「戒厳令」「流言蜚語」「自警団」「震災前」「この際だから」などの言葉が流行り、直後にあんみつ・やきとり・釜めしが出現した。そうした中、復興にあたって交通機関として自動車が普及。市民レジャーは、市民に希望を与えるものとして注目された。十二月に「虎ノ門事件」(摂政宮が狙撃される)がおこり、内閣は引責総辞職。街の流行歌は、「復興節」「籠の鳥」など。
・一月、大相撲「雪の中にまた太鼓を回し 今日から返り初日」二十六日付讀賣
 明治神宮は、この年から除夜の鐘と共に開門、初詣ができるようになった。参道には前夜から大篝火が焚かれ、回廊には数多の灯火が点けられ参拝者を迎えた。参拝者は「午前中十数万人を越え神符も売高も数万を数えた」(二日付讀賣)とある。なお、元日は小雪が散らつくような天気で、市内の初詣は例年ほどの人出はないものの、浅草の芝居や映画などは午後から賑わった。初詣をお賽銭で見ると、浅草観音が最も多く、次いで深川の不動、水天宮の順であった。浅草観音の十日間のお賽銭は3千2百円、一人平均1銭にしても32万人程度の人が初詣に訪れたことになる。なお、この額は前年よりも456円も多く、「世間が不景気だと神仏の力に縋ろうとする為かお賽銭も多いという事になるのは妙である」と新聞(十八日付讀賣)は報じている。
 また相撲協会のゴタゴタが再発した。「春日野 警視庁に出頭」「ぞくぞく破門」「角界の争議」「力士脱走事件」(以下讀賣)と内輪もめが続いている様子。「紛擾のまま開かれた大相撲春場所初日、四分の入りとは」、観覧料を三分の一に値下げして客を引き寄せようしたのに、蓋を開けてみると惨憺たる入りだった。十六日の五日目は「藪入りで四階まで賑わう」と持ち直すかと思われたが、二十六日付には「雪の中にまた太鼓を回し 今日から返り初日」と、再度初日から取り直すことになった。二十九日は「一層淋しい月曜 四日目の三、四階は三、四分の入」、六日目も五分の入り、千秋楽だけはさすがに満員になった。大相撲の混乱は、不景気で入りが良くないこともあるが、旧習にとらわれ抜本的な改革をできない内部体質にあったことは言うまでもない。
・二月「霜枯れの二月に 新庁令のお蔭で各座とも大入り」二十六日付讀賣
 一月末日付で「弊害の多かった出方を全廃」(以下讀賣)、「芝居の出方制度についてはいろいろ弊害の多いことは芝居を見に行く者の誰でも認めている所で今の警視庁の芝居改善に際しても是非ともこの出方制度の改良されることを一般に望んで居たが今回愈々松竹の新富座明治座、本郷座の各座は二月興行から出方を全廃することになりこれをすべて案内人と云う事にして祝儀を廃止し座の方で月給で働かすことになったと云う、従って今まで飲食物なども出方がもうけて居たがこれも全然無くなる訳である。・・・その他旧来の『附込制度』を改良して切符の前売も配達もする事になったと云うが兎に角大に改善されたのは結構である。」。二月一日、芝居改善の第一日は、例えば市村座では「六時間を厳守するので道具方も俳優も大汗であった・・・おかげで幕間の早いのに大喜び、ただ飲食店には多少影響は免れないらしい。」と、いうような状況であった。
 二月興行への影響(二十六日付)は、「初めに心配して居たのとは大いに相違して一般に異常な好成績であった・・・近来にない大入りに近く当たり祝までやることになっている・・・今度の問題が芝居そのものゝためにいい宣伝になったのであろう。」「花柳界の客が減って 山の手の家族連れが激増╶╴連中制度改善と前売切符が出来た結果か」と。芝居の観客層にも変化が現われ始めた。
 演劇や映画などは活気があったが、不景気を反映してか全般に行楽に関する記事は少ない。市内の目ぼしいイベントは衛生展覧会くらい、節分等の恒例行事も行われていると思われるが賑わいの程はわからない。レジャーとは言えないが芝公園から銀座へと、「普選断行」を叫ぶ「歌高く堂々五万人」の「模範的な大示威」が行われた。「沿道に十重二十重と押重なった群衆は到る処に万雷の様な激励の言葉を浴びせ掛ける」と。
・三月「行楽の春を 悲痛な叫び 芝公園の失業防止大会」十九日付東朝
 三月になっても市民のレジャー気運は冷えたままである。「花は咲くが座敷はガラガラ」(十八日付東朝)と不景気を嘆く記事。それでも十八日は「ぽかつく日曜に梅の名所大賑い」、この春久しぶりに郊外へ人が繰り出し、どこの停車場も記録破りとなったが、同紙面に芝公園の失業防止大会の記事がある。「失業防止の叫び」と題された写真には、行楽どころではない切羽詰まった市民が芝公園銅像前広場を埋めつくした。
 三十一日付(東朝)「飛鳥山は露店禁止・・・飲料の定価も指定す」、伝染病防止や不良品販売防止と共に、暴利を取り締まるため「正宗四合九十五銭、同二合五十銭、ビール四十五銭、三矢、金線は二十五銭、並のサイダー二十銭以上は取ってはならぬ」とのお達し。しかも、それまで長い間黙認されていた露店は、「一切相成らぬと」という厳しさ。『仮装など絶対に禁ずる事は不可能故飛鳥山の園内だけ大目に見る』と少しだけ手綱をゆるめつつも、『他人に迷惑をかけるような行為は寸毛も仮借しない』と、3百人以上の巡査を派遣して花見を取り締まることになった。
・四月「昨日の人出 二百万を越ゆ よく出るも出たもの」十七日付東朝
 四月に入ると一日は日曜、絶好の遊覧日和につられていたるところに、行楽の人がドッと出た。「花の季節に昨夜雪降る」(六日付東朝)とあるが、七日の日曜も「満山悉く花と人 乱咲く飛鳥山に上野に 仮装御免てみな大浮れ」。さらに十六日付「お花見に汐干狩に郊外へけふの人出、この春一ばん雑沓」、飛鳥山には昼までに10万人の人出、迷子も21人でた。十七日付では、市内の人出が二百万人を超えたと報じられた。東京駅の乗降客は6万余、上野駅が23万余、市電乗客数が178万余、鉄道利用のすべてがレジャーではないが非常に多くの市民が出歩いたことは確かだ。「飛鳥山花見の総決算」(二十日付東朝)では、遺失物201点、遺失現金604円余(拾得189円余)、喧嘩863件、迷子213人、スリの検挙19件などが示された。東京の花見は、上野より飛鳥山の方が盛大で、相当混雑したと思われる。
 花見のあとは、州崎埋立地で催された自動車大競争会が話題となった。世界的選手の飛込み参加や一等賞金の3千円という額など注目され、2万人が集まったという。靖国神社大祭、浅草観音堂の野外劇などの記事からある程度の人出が推測されるが、レジャーの盛り上がりは急速に冷めたようだ。
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大正十二年(1923年)前期の主なレジャー関連事象・・・3月中国で排日運動拡大
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1月2読 明治神宮、除夜の鐘とともに開扉で賑わう
  13読 福引き付で洲崎で競馬大会
  13読 紛擾のまま開かれた大相撲春場所初日、四分の入り
  17読 常盤館「夜討曾我」満員御礼
  17読 大相撲五日目、藪入りで一息の入り
  18読 浅草観音、正月十日間でお賽銭3千2百円、東京で一番
  24読 三越で第八回漫画展覧会
  26永 伊太利亜歌劇此夜より十日間丸の内にて興行
  26読 大相撲春場所、太鼓を回して返り初日
  28永 荷風、帝国劇場でトスカを聴く
  30読 大相撲春場所、一層淋しい月曜の入り

2月1永 荷風、帝国劇場にファーストを聴く
  2読 芝居改善の第一日、観客は幕間が早く大喜び
  2読 大相撲春場所七日目、初日以来の大入り満員御礼
  2読 公園劇場「大菩薩峠沢田正二郎新国劇
  4読 キネマ倶楽部が国活俳優による豆撒き
  15朝 伏見元帥宮国葬「街路樹にも、交番の屋根にも礼」拝観の人だかり
  24読 普選断行を叫んで芝公園から銀座へ模範的な大示威5万人
  26読 新庁令のお蔭で各座とも大入り
  28読 有楽座、吉田奈良丸等、満員、退京御礼
3月2朝 富士館「豊公一代記」満員御礼
  2読 京浜競馬大会
  5読 芝浦球場で初試合、湊が天勝に6対4
  5朝 水天館「懐かしの我家」満員御礼
  9読 公園劇場「次郎吉懺悔」連日満員
  15朝 金竜館「オセロ」満員御礼
  19朝 ぽかつく日曜に梅の名所大賑わい
  20読 発明博覧会が不忍池畔で開催
  22永 荷風、帝国劇場を観る
  26朝 日曜の動物園はもうめっきり春らしい、入園者一万を超過
  26読 実業野球大会の入場式と紅白試合、絶好の野球日和で大盛況
4月2読 おついたちで日曜、遊覧日和に到る処人の山
  9朝 満山悉く花と人 乱れ咲く飛鳥山に上野に 仮装御免とみな大浮かれ
  11読 市主催、自由労働者のための運動会
  11朝 松竹館「噫無情」大入り日延べ
  16読 動物園は正午迄に1万人、大当たりの日曜
  16朝 お花見に汐干狩りに郊外へ、この春一番の雑沓
  22永 荷風、九段の花を観る
  24朝 洲崎埋立地で自動車大競争会一等賞金3千円、2万人が集まる
  26読 春の靖国神社大祭
  29読 浅草観音堂の野外劇、開演前から押すな押すなの賑わい
  30朝 水天館「欧州大戦争」満員御礼

 

園遊舎主人さんの写真 - 写真共有サイト「フォト蔵」 (photozou.jp)

 

大正十一年後期 コレラ警戒の中、スポーツや行事は行われる

江戸・東京庶民の楽しみ 172

大正十一年後期 コレラ警戒の中、スポーツや行事は行われる
 コロナならぬコレラが発生、拡大しなかったためか、市内の遊びはあまり影響されなかった。庶民の生活は大きな変化が無く、例年と同様に楽しまれていたものと推測される。          
                               
・九月「お目見得挨拶が大失敗のデブ公・・・千代田館に出場」十五日付讀賣
 九月の前半は残暑。第一回日本庭球選手権競争が催され、帝大運動場がファンで埋まるなど、年々スポーツ競技会が盛んになってきた。しかし、野球を除けば行うのも見るのもほとんど学生だった。占めている。
 「美しい早稲田穴八幡の祭礼」(十五日付讀賣)と、氏子の町々が各々数千円かけて大層な神輿を新調し、渡御。渡御にあたって、以前は芸妓にさせていた手古舞姿を学校通いの娘さんにさせたとか。従来の慣習にとらわれずに、それでいて地域に密着した祭はしっかりと継承されている。映画は比較的観客が入っているようで、特に浅草の千代田館は連日満員御礼の広告を出し、来日中の人気俳優「デブ公」を迎えて興行。また、ロシアのパブロア舞踏団も来日公演、入場料が12円という高値であるにもかかわらず連日満員。永井荷風も二十六日にその舞踏を見ている。
・十月「帝展大当たり」十八日付讀賣
 十月に入ってコレラが発生。魚市場が閉鎖されるなど人が集まる場所に警戒の指示がでた。そのためか、「浅草界隈大寂れ観客四割も減る」(四日付東朝)と、外出を見合わせる人が多く、市民のレジャー気運を冷やした。市内の小学校では、遠足見合せ、運動会も中止、さらに休校も次々でた。もっとも、このようなコレラ警戒のなかでも、スポーツや行事などは行われており、最も盛況だったのは池上のお会式。氷水やアイスクリーム等の食品については大警戒のなか、日蓮上人大師万宝下にあって正午には7万人の参詣者を数えた。
 また、二十二日頃からはコレラ防疫隊の解散など、下火になってきたのを受けて、「帝展に一万二千人の大入」(二十四日付讀賣)、靖国神社例祭が賑わうなど秋の行楽活動は活気を取り戻し始めた。
 三十日、学制領布五十年祝賀会が帝国大学(文部省主催)、日比谷公園東京府市連合)で開催。「三千の大宮巨頭を迎へ 本郷通りの賑さ」「人で埋った日比谷の祝賀会」(讀賣)と、参加者は1万人を超えた。青年会館では新婦人協会の第二回政談演説会が開かれ、満員で非常に盛況であった。三十一日は天長節奉祝会、大園遊会は催されたが、大夜会は経費節約によって行われず参加者の期待は裏切られた。
・十一月「危険なオートバイ競争」六日付讀賣、「消費経済展大人気で日延」二十三日付讀賣
 一日、明治神宮御鎮座万三ケ年記念の中祭、二日から大祭。神宮外苑では東京市総合青年団などをはじめとする自彊術実演や弓術など、内苑では剣術や柔道などの奉納試合。五日には、洲崎埋立地で東京モーター・サイクル社主催の全国オートバイ大競走大会が開かれ、死傷者数名。市内ではさまざまな催しが行われているが、家族連れで楽しむ姿を探そうと思うとこれが意外にむずかしい。お茶の水東京博物館で開催されていた消費経済展が大人気のために日延べ、他に目ぼしい催しがなかったこととみえて日曜には1万4千人も訪れた。そのため急遽、夜間開場や期間延期を行った。秋の行楽、恒例の菊人形は根強い人気で、特に国技館の大菊花園はたびたび新聞に載った。「国技館の大菊花園でお名残の大福引デー」(二十四日付東朝)の料金は、大人60銭、小人30銭。これは、レジャーとは趣が異なるが、来日中のアインシュタイン博士が神田青年館で第二回目の公演を行った。開会と同時に2500席の開場が満員となり、300名以上が開場に入れないというほどの人気であった。
・十二月「今年の芝居見物 四百余万人」二十六日付讀賣
 十二月も半ばを過ぎると「鶴見花月園の氷滑り」、園内の池が凍り安全に滑れるようになった。信州まで遠出しなくても練習できるのは非常に好都合であり、しかも無料とか。新聞紙上では、スキーやアイススケートがたびたび記事になっているが、当時、自前のスケート靴を持っている人は稀であった。花月園の氷滑りとは、たぶん、子供たちが下駄で滑っていたのではなかろうか。
 「今年の芝居見物 四百余万人」(二十六日付讀賣)の見出し。演劇改善で問題となっている興行時間については大劇場次第ではあるが、六時間に決まるらしいという見解。なおその時点で、帝国劇場では十時間、新富座明治座などは八時間であった。大正十一年の一月から十月までの各劇場の入場人員は434万人で、最も多いのは曽我廼家五九郎が経営する観音劇場で42万人。各座の新春の入場料は、帝国劇場が特等7円20銭・一等7円・二等5円・三等1円80銭・四等70銭、最も高いのは新富座で特等8円30銭、ここは五等でも1円と安くはなかった。なお、観音劇場は1円・70銭・40銭・30銭と、映画料金と大差ない金額であった。
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大正十一年(1922年)後期の主なレジャー関連事象・・・12月ソビエト社会主義共和国連邦成立
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9月9読 千代田館「シーフ」他連日満員御礼
  11日 まのあたりに観たパブロアの舞踏
  14読 日本選手権競技大会開催
  15読 千代田館にデブ公お目見えで大入満員
  15読 美しい早稲田穴八幡の祭礼
  15朝 帝大運動場で日本庭球選手権競争、ファンで埋まる
  17朝 神田劇場旭大歌劇団の「バンドゥラ」他満員御礼
   20日 明治座「謎帯一寸徳兵節」連日満員
  26永 荷風、帝国劇場に露国人の舞踏を観る
10月2読 自治記念日日比谷に群れた喜びの人々数万
  2読 稲門三田を破る観衆場の内外に満ち、万余
  4朝 コレラ発生で浅草界隈大寂れ観客四割減る
  6朝 遠足見合せ運動会などこの際中止、市内小学校
  12読 日光方面に臨時観楓列車運転
  13朝 お会式、正午参詣人無慮七万、コレラ大警戒の続々休校 
  17読 ベッタラ市、あさづけ大根が安いなか賑わう
  23読 昨日の帝展に1万2千人の大入り
  25朝 靖国神社例祭、不良青少年90名現行犯で検挙
  31読 日比谷公園、文部省主催学制頒布五十年記念祝賀会などで賑わう
  31永 荷風、岩崎男爵別邸の庭園に憩う
11月3都 明治神宮大祭、著しい人出
  3朝 新富座近松二百年法要
  5日 芝浦球場で米国プロチーム対慶応、観衆2万
  6読 洲崎埋立地で危険なオートバイ競争
  12朝 淋しい日比谷平和大会
  14読 菊は見頃の国技館
  23読 消費経済展大人気で日延べ
  24朝 国技館の大菊花園でお名残の大福引デー入場料60銭
  25日 神田青年館のアインシュタイン講演、開会直ちに満員2千5百名、会場に入りきれぬ人気
  26永 細雨糠の如し・・銀座通人形町いずれも道路沼の如し
12月2朝 本郷座「大親鸞」一週間満員の盛況
  11朝 三田・稲門が納の野球、待ち焦がれたファンの熱狂
  21朝 キネマ倶楽部「阿修羅の如く」他空前の大 好評連日満員
  22読 鶴見花月園の氷滑り
  23読 不景気知らずの上野動物園
  25朝 夜の日比谷に大合唱クリスマスを祝う四百人の女子
  31永 此夜暖気春の如く街上銀座・・散歩の男女踵を接す

大正十一年中期 不安を示す庶民娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 171

大正十一年中期 不安を示す庶民娯楽
 世界的な軍縮を受け、陸軍・海軍とも軍縮計画を進めることになった。前年からのワシントン会議で海軍軍備制限条約が締結され、それに対処するものである。世界に不況ながらも平和な陽ざしがさしこむようになると期待されだが、イタリアではファシスト党ムッソリーニ内閣を組織し、独裁政権によるファシスト化への動きがはじまった。
 国内では、緊縮財政策をかかげ、健康保険法、未成年者禁酒法等が制定された。高橋首相はさらなる改革を目指し内閣改造を目論んだが、総辞職に追い込まれた。軍人首相が成立し、普選法は否決された。政局は混乱とまでいかないが、中途半端な状況を呈した。
 東京の庶民は、不景気の中でも遊ぼうとする気持ちを持ち続けている。

・五月平和博「人気盛り返しの福引は二十一日に決行」十五日付讀賣
 「模範遊園地の開園」(三日付讀賣)、王子電鉄による荒川遊園が開園した。面積は2万坪(6.6ha)余り、狭いながらも一応の遊園地的施設が整えられていた。園内には、山から幅約50mの滝をはじめ大小多数の滝が流れ込む、7千坪(2.3ha)余の池があり、ツツジやサクラ、モモなどの樹木で修景されていた。池ではボート遊びもでき、テニスコート三面、運動場を備え、それに多数の動物が飼育されていた。中でも最も人気を呼んだのは、百畳敷きの大広間で、毎日そこで、何かしら余興が演じられていた。なお、荒川遊園の周辺には温泉旅館や料理屋などの歓楽街があり、ここにもやはり浅草的な匂いが色濃く残っていた。
 六日、被服廠跡グランドで第23回全国自転車競走大会が開かれる予定であったが、「喧嘩でお流れ入場料五十銭払戻し」との記事(東日)。当日詰めかけた観客数は約5千人であった。
 九日付の新聞(讀賣)には「平博の納涼施設 十三日から又夜間開場(曲乗り、拳闘、螢狩りなど)」「福引は十日目毎」など、入場者増加対策に余念が無い。市民のレジャー気運が低調なのかといえば、大相撲は三日目に初めて満員、芝浦球場の三田対稲門の試合は3万人の観衆など、そこそこの賑わいを見せていた。二十一日、平和博の入場者が20万人を突破、「福引の注射がてき面の平和博」(東日)と、まだ市民を呼び寄せる可能性はあった。
・六月「御国座の安来節60日間大入満員」三日付讀賣

   「死に物狂いの福引デー」二十四日付讀賣
 六月から日曜日の入場料80銭から60銭に、小人の夜間入場料を30銭から15銭に値下げするなど、平博の入場者を増やそうと躍起である。しかし、「平博欠損 約百五十万円」(九日付讀賣)、そこで、増加対策に何でもよいから色々な福引デーを連発することになった。が、「平和博の損失は二百万円に上るだろう」(二十六日付讀賣)と改善される見通しはないと書かれている。
 世間は不景気に違いないが、映画はもちろん演劇や演芸も意外と盛況であった。また、平和博にしても1103万人も入り大正博覧会(大正三年)の746万人より357万人、五割近くも増え決して少なくなかった。(当時の人口は、東京市が247万人、東京府が398万人、全国が5739万人。)当時の景気や交通条件などを考慮すれば、1千万人もの人をよく動員できたと評価すべきであろう。「窮民の子春治・・・平博に憧れて憐れな出来心」(四月二十二日付讀賣)のように、市内に住んでいても、窮民の多くは平博へは入場できなかった。
・七月「慰安の市中湧返る 晴やかな日曜の藪入り」十七日付東朝
 十六日付(東朝)「外れた川開き 飛行機も景気を添へた 船は昨年の四分の一」との見出しで、賑やかさに欠けていたことが報じられている。例年なら、新大橋や厩橋では花火を見ようとする人で混雑し、電車が運転を一時見合わせるのだがそれもなく、この年は人出が少なかったのだろう。それでも花火を見た人は、陸上で数十万人と書かれている。川開きは、海水浴などと比べて、年々盛んになっているようには感じられない。
 その翌日、一転して市中が湧返るような賑やかな藪入り、「浅草公園の賑わいと言ったら大変なもの、普通の日曜に公休日の第三日曜、そこへ又盆の十六日と重なったから堪らない」(以下十七日付東朝)。その人出を当て込んで雷門付近に交通道徳会が宣伝にあらわれた。午後からにもかかわらず、通行人に配った小旗は、日中2万余、夕方から1万5千であった。
 芝公園では、大隅銅像前には憲政擁護の演説に1万人の盛況、増上寺山内の「商工徒弟従業員の慰安デーがベーヂェント劇」は大賑わいだったようで。上野公園では、「開場には二時間も前の六時頃から正門前には大憎小僧から家族連れの者や女中さんの一隊が押しかけ」、平和博に17万6千人が入場。「汽車電車で海へ山へ 上野駅からは日光へ 東京駅は正午三万」と、市外へと出かける人も多かった。また、「大磯人の波で賑う・・・海水浴場は開場以来非常な賑わいで約一万人余・・・人出は昨年の約三倍以上に上るけれ共何れも腰弁当旅行が多い」(十七日付讀賣)と報じている。
・八月「避暑に行くのか 蒸されに行くのか 湘南も房総地方も」十四日付讀賣
 「房総の海辺は大賑い」(五日付時事)、東京から泊まりがけで海水浴に出かける人々が多かった。数万が訪れたために、海辺の各旅館は満員で泊まる所もないというありさまで、近来にない賑わいであった。「海へ行く列車は鮨詰め 苦熱の都会を免れる人で大混乱の両国駅」と続く。平日でも1万人以上の乗客があり、前年の倍以上とのこと。
 稲毛から先の避暑地には2万人前後滞在しているが、旅館はがら空きで、皆貸間や貸家を利用していた。さらに「避暑に行くのか 蒸されに行くのか」と続く。湘南地方は上流階級の人々、房総は中流以下の人々や書生達で混雑していると、東京の人々のレジャー動向を報じている。
 海水浴は市民にかなり浸透していたが、低所得者層には手が届かないあこがれのレジャーであった。暇のない民衆には、市内の月島や国技館の納涼園などに家族連れで出かけるのが精一杯だった。
 「月島の遊泳デー」(五日付以下讀賣)は、六日から五日間にわたって遊泳大会、余興に海中の宝探しや大福引きなどを企画。国技館では「納涼福引デー」(二十二日付)。夏の楽園と人気のある納涼園は、日本三景随一・安芸の宮島のイメージしたテーマパーク。一階はプールと「美人十数名が宮島八景音頭を踊る」迫り出し舞台、「二階三階は生き人形を配しらった・・・宮島の模型、太平楽、神殿前の舞楽、千堂の内面、厳島の夜合戦、清盛夕陽返し・・・」。なお、プールには「卅五万馬力の扇風機が台風を巻起す数十の扇風機も盛んに旋って相当の風邪を起す花氷柱は何本も」との趣向。入場料は大人50銭、小児30銭、と比較的安いが、窮民にとっては国技館の納涼園も高値の花。
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大正十一年(1922年)中期の主なレジャー関連事象・・・6月加藤友三郎内閣成立/7月日本共産党結成
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5月4朝 夏めく縁日気分(京橋清正公前)      
  5朝 ダンス大流行、警視庁取締り開始        
  9読 神田祭り、大鳳輦や神輿大太鼓などを10万円で新調
  9読 本郷座「加茂川堤殺人」連日満員御礼      
  15朝 大相撲夏場所三日目初めての盛況        
  22日 「福引の注射がてき面の平和博」入場者が20万人
  22朝 大相撲夏場所千秋楽大入り満員       
  22朝 芝浦球場、台覧で3万の観衆、三田軍稲門に勝つ
  25朝 蔵前高工の記念祭、吉例で凄まじい人気    
  28朝 第一回女子総合競技大会お茶の水高師トラックで開催
  28朝 平和博で蛍狩り、当日4万4千人入場
6月1朝 不入りの平和博値下げ、休日80銭を60銭・夜間小人半額等
  2読 有楽座の東西名人会満員御礼
  2朝 賑やかな鮎の初漁、人と竿で埋まった多摩川 
  3読 明治座「悪魔の鞭」初日満員          
  3読 御国座の安来節60日間も大入り満員        
  16読 明大五年振りに早大を屠る 観衆数千        
  21永 荷風小山内薫等と明治座を見る        
  26朝 平和博、福引デー10万人を突破しそう     
7月10読 草市、真菰14・5銭、籬垣12銭、蓮葉 2・3銭
  15読 千代田館「腕白少年」他満員御礼
  16朝 外れた川開き 飛行機も景気を添えた 船は昨年の四分の一 
  16永 荷風、露台の上より始めて博覧会場の雑踏を眺め得たり、帰途電車満員にて乗るを得ず
  17読 大磯人の波で賑わう 海水浴場は1万の人出 
  17朝 晴やかな日曜の藪入り 慰安の市中湧返る 平和博は正午に10万
  26読 二十七日から成田山大祭、三日間は参詣人が非常に多かろう
  27読 平和博売店が不況で困り夜店の露店で捨売り 
8月5読 月島の遊泳デー余興に宝探しや大福引き   
  5読 オペラ館「女訓導」連日満員で日延べ    
  5読 品川に海水浴場三州亭開設         
  8朝 海へ行く列車は鮨詰め           
  22読 国技館で納涼福引デー           
  22読 湘南も房総も福引デー           
  24読 避暑に行けぬ児童の慰安会、月島本願寺に2,500名 
  24永 新富座、千秋楽に当りしが風雨の為閉場
  24読 外濠の観月舟遊夜間許可、納涼で賑わうだろう
  28読 満員の一高グラウンドで三高遂に零敗      

大正十一年前期 不景気で不安な庶民娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 170

大正十一年前期 不景気で不安な庶民娯楽
 大正十一年、高橋是清首相は緊縮財政策を目指したが、内閣を統率できず総辞職。他方、野党が提出した普通選挙法案は、三度も否決された。政局が混迷する中、政党外の軍人が首班となり、軍部・官僚・貴族等による内閣が成立した。
 不景気で節約ムードが浸透するも、三月からの平和博覧会が開催されるや、一千百万人を超える入場者を記録した。ビッグイベントがあると市民のレジャー熱は、誘発される傾向があり、映画や演劇なども前年よりも多くなっている。また、夏は暑かったらしく海や山へ出かける市民が増え、特に日帰りの避暑が流行した。この年の流行歌には、「流浪の旅」「馬賊の唄」「ピエロの唄」などがある。大衆タバコが値下げ、ゴールデンバット(10本)が7銭から6銭、なでしこ(40匁)が30銭から28銭。上野動物園値上げ、大人5銭から10銭。雑誌の創刊が続く、『週刊朝日』、『サンデー毎日』、『令女界』、『前衛』など。
・一月「二日も多い 神宮参拝」三日付讀賣

           「大隅候の国民葬」十八日付東朝
 元日は初雪、それでも明治神宮参拝には多くの人が出かけ5万人。二日は好天気で暖かく14万人もの人出。市内寺社で最も賑わったのがここで、お賽銭も明治神宮が一番。元日の市電車は、増発されたにもかかわらず乗客が約10万人と極端に少なかった。二日は各電車が混雑し、「鈴成り有様」であった。一方省線も少なく、新年の旅行者は減少した。二日の特急車は不景気を反映してか、一等車に乗客が全くいないような有様であった。「淋しい初荷 大抵は空景気」「江戸の名残の初荷も年毎に廃れて来た」、初荷の小旗を立てて市中を練った車があるが、それもせいぜい旧習を忘れずにすむ程度のものであった。
 市民のレジャー気運が冷えている中で、十四日の「大相撲二日目、今日も中々景気が良い」(以下東朝)、「雪で寂れた日曜、藪入りの浅草、大相撲は大入」と、大相撲は例外的に盛況である。十七日、「法被、前垂、丸髷と 参拝者は数十万 飛ぶ飛行機、流れる群衆」と、大隈重信国民葬日比谷公園で催された。生前の人気を反映してか大勢の人が出たものと思われるが、最大でも東京朝日新聞に書いていた20万人程度だろう。時ならぬ人出に喜んだのは日比谷から銀座の飲食店で、「盆と正月が一所に来た様な大繁盛」であった。
・二月「普選断行の熱叫、芝公園の民衆数万」六日付東朝、

           「暖かな梅日和」十三日付東朝
 二月に入って、一月三十一日付(讀賣)「穴守の豆撒き」について予告はあったが、人出については特別多くはなかったとみえて記事にはならなかった。六日付「我に選挙権を 与えよの熱叫 盛んなりし普選デー 会衆数万に上る」と、芝公園で開かれた集会に紙面が割かれている。普選デー閉会後、民衆の大部分は会場にとどまっていた、するとアルコールの入った労働者が壇上に上がり、野次を飛ばし『これから高橋首相を訪問するが誰も従いてはならぬ』と言い捨て電車通りにでた。野次馬はこれを取り巻き、場内からは群衆が雪崩出て電車を止める大混乱となった。しかし、警戒にあたっていた警官隊が整理にでると、「煙のように消えた民衆」とある。
 九日、山形有明国葬が「勅使御使の代表文武官の礼拝に 場内粛然として哀調いとも悲しく」(東朝)日比谷斎場で営まれた。日比谷をはじめ護国寺などの沿道には多くの人が集まったが、「楽の音も湿やかに 淋しかった国葬」であった。同じ紙面に、「之に反し国民葬の隈候に盛んな人気」と葬式以後も参拝者が引きも切らず「三十一日目の此頃も二千人の参詣人」と報じている。国葬日に劇場などの興行物を、休業にすべきか否かが論議されたが、浅草などは人出がなく閑散としていた。
 十二日付(讀賣)「芝山内を揺がす 国民の熱叫 紀元節の佳辰を卜して 普選要求の真剣な叫に 集う数万の群衆」。芝公園で第二回全国普選デーが開催された。また、小石川護国寺で失業救済の集会が「婦人連も交って 昨日の示威行列 労働歌を高唱し三千余 護国寺から飛鳥山まで」。二十三日、永井荷風虎ノ門日比谷周辺で普通選挙示威運動にぶつかり「雑踏甚し」と日記に書いている。二月にしては戸外に人が出ている。市内で行動していたのは労働界だけでなく、運動界も、日比谷で蹴球大会の第一日、2万人のファンが集まった。行楽では小石川植物園の梅見に2千人が散策していた。十三日付の新聞(東朝)には「暖かな梅日和」との見出しで、まだ三分咲きの植物園に前日よりも多い3千人が詰めかけ、日比谷公園芝公園、上野公園などかなりの人が出た。また、大森と羽田の海苔拾いは「遊山の人で埋まったのも見物であった」、「鈴成り電車 京王は五割多く 新宿は倍の大汗」など郊外へも行楽にでたことを報じている。
・三月「雨の昨日平和博開かる」十一日付讀賣
 三月、新聞は十日から始まる平和記念東京博覧会の話題で持切り。呼び物は平和塔や水上飛行など、建設工事は遅れ気味であったが、市民は二月頃から下見に訪れている。開催期間は三月十日から七月三十一日までの百四十四日間。入場料大人平日60銭・休日80銭、夜間20銭。その他場内には有料施設がいくつもあり、例えば、演芸館が大人1円、平和塔20銭、水上飛行1円、等々、すべてを見ようとすれば6円を超え、さらに飲食代を加えるとかなりの額になった。
 平和博の初日、十日はあいにくの雨、「一万六千の来賓は乾杯の酒に酔う」(以下東朝)だが「昨日の入場者は少く」と順調な出だしとは言えなかった。十一日、「天気は晴れたが不景気な第二日の平和博」と約4万4千人の入場者。十四日付「お高い料理 平和博の売店」など評判はあまりよくない。十九日は、「日曜日の大賑い 一分間に150人の入場」と平和博の入場者は増えていった。二十五日、「朝日デーの入場者 十万人を突破せん」と。二十八日付(以下讀賣)「夜間開場を繰り上げて一日から 昼の入場券で引続き見物出来る」と、来訪者を増やすために臨時に夜間開場を行った。それが功を奏してか、4月に入ると市民はどっと平和博に押し寄せ、一日は「夢の世界でも見る様な観衆、入りも入ったり夜だけで10万」。二日も「余興館も客止で開場以来の盛況」になった。
・四月「花に酔った昨日の人出」「余興館も客止め・・・昨日の平和博」(三日付讀賣
 花見は、彼岸の三月二十二日付(以下東朝)「パッと開いた彼岸桜」と上野の写真を掲載。三日付(讀賣)「花に酔った 昨日の人出 どの電車も鈴成り 飛鳥山だけでも六七万」、四日付(東朝)「観楽の春に酔う けふの人出二百万人濃化粧した花の山も、汐干も郊外も素晴らしい人出、市電は既に昨年の記録を突破」「崩れそうな飛鳥山の大混雑・・・朝の中十四五万」等々サクラの記事が満載。神武天皇大祭日は、平和博をはじめ花見や潮干狩りなど市内はもとより郊外にまで、東京の人々の半数以上が行楽に出かけたもよう。
 四月の人出は花見までのようだ。二十二日付の新聞(讀賣)には「少ない入場者に じれ気味の平博当局」。十一日が6万7千、十二日が7万1千、十三日が8万1千、十四日が2万4千、サクラが散ってしまったら平和博の入場者が減少。一日平均10万人の入場を見込んでいたらしいのに、三割程度足りない。五月になったら福引きを催し来訪をうながそうという狙いだが、「明日より靖国神社春季大祭、人気は上野を去りて九段へ」(二十八日付)と先行きは厳しい。一度見物した客を再び平和博に呼び寄せるには、魅力不足なのは歴然としていた。
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大正十一年(1922年)前期の主なレジャー関連事象・・・2月ワシントン条約締結/3月全国水平社創立
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1月3朝 お賽銭は明治神宮が一番、元旦5万人、二日14万人
  3読 新年の旅行者少なく、二日の特急一等車乗客なし
  4永 荷風、寒気地中より湧くが如し、銀座通も人影なし日比谷を歩みて帰る
  6朝 初水天宮の賑わい例年より参詣少ない
  7朝 日比谷の出初式、波のような人出
  15朝 大相撲二日目中々景気が良い
  16朝 藪入りの日曜、雪で浅草寂れ、大相撲は大入り
  18朝 大隈侯の国民葬、日比谷に渦巻く民衆の大波
  21朝 ジョッフル元帥歓迎大万灯を先頭に2千人の提灯行列
    26読 金竜館・常盤座・東京倶楽部の開館式、喜劇や歌劇で大賑わい
2月5朝 本郷座「海の極みまで」初日満員御礼
  6朝 普選断行の熱叫、芝公園の民衆数万
  10朝 山県公の国葬儀で日比谷葬場外の雑踏、浅草は閑散
  12朝 日比谷の蹴球大会第一日、2万のファン雲集 
  20読 春暖かな日曜日、準備中の平和博見物などで上野賑わう
  20永 荷風、銀座に往き食事をなす。帰途日比谷公園を歩みて樹下に憩う
  23永 普通選挙示威運動にて虎の門日比谷の辺雑踏甚だし
3月6永 上野に博覧会開かるるが故にや銀座通人出いつもより多し
  11読 上野で平和記念東京博覧会開催、雨の中来賓1万6千は乾杯の酒に酔う
  11読 三友館「松風村雨」大入り日延べ 
  11永 荷風、亀戸の菅廟に詣で、茶屋に憩う
  12読 天気は晴れたが不景気な平和博第二日目4万4千人
  18日 有楽座「研漠新舞踏研発表会」満員御礼
  20朝 日曜日の平和博、一分間に150人入場の大賑わい
  26朝 平和博の朝日デー、入場者10万人を突破
     27読 金竜館「カルメン」他連日満員
  27読 稲門接戦で三田に勝つ、観衆1万に満つ
4月2読 平和博、夢の世界でも見る様な観衆、夜だけで10万人入る
  3日 芝浦球場で大毎又勝つ、観衆頗る大入り
  3読 花に酔った人出 飛鳥山だけでも6~7万
  4読 20万人近い人が渦巻く、乱舞の飛鳥山
  12永 英国皇太子来朝の由、市中は歓迎の民衆
  14読 目黒の春季競馬
  15永 銀座通この夜人出おびただし
  19永 銀座通花電車の通過を見んとするもの堵の如し
  27日 地震で平和博の陳列棚は総倒れ、入園者45,648人
  23読 早稲田軍インディアナに大勝観衆1万余 
  28読 靖国神社春季大祭、人気は上野から九段へ  
  29読 潮干狩り船は約定済み、晴天なら大変な賑わい

 

大正十年後期 不景気の中の庶民娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 169

大正十年後期 不景気の中の庶民娯楽
 大正十年の後期は、次々にその後の日本の進路に影響する事件や事象が続いた。不景気による労働争議は、政府の弾圧を激しくさせる。戦前最大のストライキ、川崎・三菱神戸造船所争議は、軍隊が出動し、警官隊が争議団に対抗するなど激化した。その他にも、足尾銅山争議など、争議の規模は大きくなり、各地で多発した。そして、米が豊作であったにもかかわらず、小作争議が多発して不安な世相は人々の深層に浸透した。事件も、九月に安田財閥の当主安田善次郎が刺殺され、十一月には原首相が東京駅で暗殺された。一方世界に目を向ければ、日本が不利となるワシントン海軍軍縮会識が十一月からが開催された。
 庶民の娯楽については、官製のイベントが本格的に催されるようになる。不景気ながら、庶民の遊びたいという気分は高まったままのようだ。

・九月「東宮を迎え奉る 昨日日比谷の奉祝会」九日付讀賣
 東宮の外遊を伝える記事は、帰国が近くなるに従って多くなった。四日付の新聞(東朝)は「東宮奉迎に五万人の提灯行列 高輪から芝浦付近はハチ切れる人の大波」と、大変な人出であった。有楽町あたりに出かけていた永井荷風は、「花火花電車提灯行等あり。市中雑踏甚し。」と日記に書いている。八日は、日比谷で東京市の大奉迎祝賀会が催された。開場には「二千の来賓と二万の市公民」が強雨の中を参会。午後は「四時から青年団奉祝会、三十一県から一万人参列」した。奉祝デーの余興は、太神楽、喜劇、奇術、手踊に加えて東宮の御外遊時のご様子を映した活動写真が目新しい。夜になると、提灯行列が上野、浅草、須田町、銀座東京駅などの街中を練って日比谷公園に繰込む、六台の花電車も群衆の間を縫うように運転された。この奉祝会は、お祭気分を楽しむ機会から遠のいていた市民にとって格好のイベントであった。
 九月は演劇や映画などの観客の増える時期で、帝国劇場ではこの年もロシアからの歌劇団を呼び公演。荷風は二十二日の日記に、「独帝国劇場に立ち寄りカルメンを聴く」。以後、二十六日まで「連宵オペラを聴く。聊か疲労を覚えたり」と。さすがに翌日は、「秋陰の天気漫歩するによし。江戸川を歩み関口の瀧に憩う、神楽坂に飯して帰る」。
 二十五日の日曜日、「今日の行楽」(讀賣)として、人出の多いところが紹介されている。田端、道灌山、王子稲荷、滝の川、飛鳥山などでは秋草と虫の音が呼び物。向島百花園の七草、龍眼寺のハギ、亀戸天神では秋の祭で種々の催し物。上野公園では院展と二科展、お茶の水で印刷文化展覧会。郊外では目黒不動が栗の季節、川崎から鶴見にかけて秋色を探る。佃島洲崎から台場はハゼ釣りで賑わうだろうと。
・十月「池上本門寺御会式の素晴しい前景気」十三日付東朝、
   「売約の大競争で瞬く間に二万円」十六日付讀賣
 池上本門寺の御会式には、早朝から大森や蒲田周辺から詰めかける人々で参詣道は非常な雑踏、午後一時過ぎには3万人以上で、「今夜の人出は三十万との予想」とある。この年は本門寺の百年祭にあたる上、前年、前々年と雨にたたられたのがようやく、久しぶりの快晴に恵まれたもの。電車は品川・須田町間で終夜運転、例年にない人出を予想して1500人の警察官で警備に当たった。この賑わいで蘇ったのは露店商人で、山門付近が特に多かった。
 行楽シーズンであるべき十月に際立った催し物が無かったためであろう。秋恒例の帝展に一万人もの人が出かけていて、また、お茶の水東京博物館内で開催された印刷文化展覧会は、地味な催しである上、短期間だったのに4万人を超えて記録を破ったと報じられている。
 十九日付(讀賣)では「近づく年の暮れ 今日はベッタラ市」と、通旅籠町・大伝間町・小伝馬町・小伝馬上町・通油町一帯に縁日商人が並ぶことを紹介。もっとも、浅漬けは出来が悪く前年より一二割高、それでも多くの人々が訪れたようだ。
 二十九日からは、岩崎家の別邸庭園の一部を一般民衆の遊園地として開放、名称は「清住遊園」、テニスコートや砂場などもある。
・十一月「秋日晴れて神宮祭の賑い」二日付讀賣
    「日比谷で運動会」七日付讀賣
 一日から三日間にわたって神宮御例祭が催された。表参道には奉祝のアーチが、神宮橋まで紅白の段々幕、飾りたてられた俄作りの売店が居並ぶ。外苑口には相撲場が設けられ余興場口には大門から両側には数百の売店が陣取っていた。天候にも恵まれ、かなり賑わったものと思われる。市民の行楽気運は徐々に高まるようにみえたが、四日、東京駅で原敬首相が刺殺された。九月にも安田財閥安田善次郎が殺害されており、市民の大半は、不安な世相を感じていただろう。永井荷風は、「余政治に興味なきを以て一大臣の生死は牛馬の死を見るに異ならず、何等の感動をも催さず。人を殺すものは悪人なり。殺さるゝものは不用意なり。」と、関心がないとは言いながら五日の日記に書いている。その荷風、翌日に酉の市に出かけ、浅草を散歩して帰っている。
 新聞(讀賣)には「日比谷で運動会」、十日付「日本女子大学運動会」などと、前月からあちこちで運動会が催されている。また、国技館で恒例の菊人形の催しが行われるなどや菊花の観賞も盛んである。新聞にでているだけで、楽天地の菊人形(十八段返し、客席から美人の出現が呼び物で盛況)、花屋敷の菊人形(雪月花八段返し等)などがある。菊花の観賞では、日比谷公園の菊花大会や赤坂離宮観菊御会。離宮観菊御会の招待状は3千であるが、これに夫人令嬢が加わって8千人に増え、皆白襟紋付きで陪覧したとのこと。学生や中流以上の人々など、一部のレジャー活動は盛んになっているものの、市民全体としては沈滞傾向にあった。
・十二月「盛り場の浅草も大零しの暮気分 天下分け目の歳の市」十四日付東朝
 新聞には当時のインフレ状況が報じられている。例えば、民衆娯楽のメッカ浅草でも前年までは50銭あれば一日楽しめたのに、今では映画を見るだけで40~50銭も取られてしまう。1円握って出かけてもお寒い気分の年の暮れ、映画館も一等席はがら空きで、広小路のおでん屋や支那蕎麦やなどは十一時には店を閉め、賑わいの引けるのが二時間近くも早くなったという。
 十六日付(東朝)、十六日は銀座祭。銀座通りのシダレヤナギがイチョウに植え替えられ、歩道も赤レンガから木レンガにと、道路整備が完了。道路の落成式や五十年祭を一緒にして、十六日から三日間に渡って銀座祭が催された。十七日は前日に劣らぬ人出、尾張町角の式場跡と京橋・新橋際の各余興場は黒山の人だかり、式場には2万人、各余興場にも数千人の群衆が集まった。祭は事故もなく終わり「群衆が、大通りを右し左する賑かさ、お月様は水のような空にいよいよ冴えて行く」(十八日讀賣朝刊)。と、活気の溢れた市民の心意気よりも、先行きの不透明な暮れの祭の余韻を伝えている。また、三日目の銀座祭を永井荷風風月堂で食事をしながら見ており、「この夜風邪暖にして公園の樹木霧につゝまれ、月また朦朧。春夜の如し。」と書いている。
 新聞には、歳の市の賑わいは載らなくなってしまった。しかし、永井荷風の日記には、二十七日付で「歳暮の市街到る所雑踏甚し」。三十一日には、荷風は百合子と年の暮れの銀座の夜店を見て、また浅草の仲見世を歩いた。「百合子興に乗じ更に両国より人形町の夜市を見歩くべしと言う」と、賑やかな大晦日であったことがわかる。ただ、荷風は「余既に昔日の意気、寒夜深更の風を恐るゝのみ」と帰宅した。
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大正十年(1921年)後期のレジャー関連事象・・・十一月原首相が東京騨頭で暗殺 
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9月4東 宮奉迎に5万人の提灯行列 高輪から芝浦付近はハチ切れる人の大波
  9読 奉祝会、日比谷原頭夜の賑やかさ       
  15朝 秋雨に勢う神田祭り             
  18読 神明神社祭典神輿が店先に暴れ込む
  22永 荷風、帝国劇場に立寄りカルメンを聴く     
  25読 日曜日の行楽、秋草の眺めも良くハゼ釣りも賑わう 
  27永 荷風、江戸川を歩み関口の滝に憩う       
  28読 白鬚橋と吾妻橋の間で灯籠流し          
10月9永 荷風、有楽座でロメオ・ジュリエット聴く 
  10読 花屋敷の菊人形                 
  13読 秋晴れに賑わう池上のお会式           
  15日 鉄道五十年の祝いで、鉄道博物館20万の入場  
  16読 帝展初日の馬鹿景気              
  17読 仏教少年少女大会日比谷公園の賑わい     
  19読 ベッタラ市浅漬けは出来が悪い          
  19読 常盤座「仇花実花」他連日大々満員御礼      
  26読 印刷展閉会、入場者30万を超え記録破り
  26読 岩崎家の別邸庭園、テニスコートや砂場等を整備「清住遊園」と命名し、一般開放
  30読 目黒の菊花デー
11月2読 秋日晴れて神宮祭の賑わい
  6永 荷風、酉の市、浅草公園を歩く             
  7読 日比谷で運動会        
  14読 赤坂離宮観菊御会思し召しに陪覧8千人余      
  16読 七五三のお祝いに賑わう宮々           
  19読 飛行機の夜襲戦と日比谷の無料映写        
  26読 青年館の琵琶会、満員続き盛況に終わる
  27読 国技館の大菊花デー、大人60銭       
12月2朝 日比谷公園でうどん試食会大盛況、一時間で1,400人前売切れ
  18読 銀座祭二日目、月下の歓呼
  19読 実業野球大会太平生命が優勝
  24読 各外国大使館のクリスマス別段の催しなし
  24読 数寄屋橋公園で公開クリスマス
  27永 歳末の市街到る処雑踏甚だし
  29朝 御用納めが来ても空淋しい避寒地寂れた国府津、悦に入るのは鎌倉だけ
  31永 両国より人形町の夜市