「観潮樓」の庭づくり・その2

森鷗外ガーデニング  8
「観潮樓」の庭づくり・その2

 観潮樓の庭園は、築山泉水の日本庭園ではなかったが、全体としては和式の庭であった。大きく分けて、南庭、北庭、東庭の三つであるが、それに小さな中庭もあった。
①主庭となる南側の庭は、横の東西は20m程度、奥行きは7~15m程度の鉤状の形をしていた。娘の茉莉が小堀遠州式の庭と思っていたらしく、飛び石が中心となる露地のようであった。そのような庭を、
 「庭木は楓が一番多く、表玄関の屋根の際にあった一本は、天狗の団扇のような形で、へりにぎざぎざのある、大きな葉の、珍しい楓だった。楓には秋に紅葉するのも、しないのも、あった。青桐、杉、檜、沙羅の木、なぞがあったが、これも母の言葉によると、木々の位置の工合に工夫があって、そんなに広くない庭が、こっちから見ると奥深く、大げさに言えば深山のように見せてあるのだそうだ。」と、『残雪』に茉莉が書いている。
 また、次女の杏奴は、イメージ 1
「太い大きな公孫樹の木があり、紅葉や、木蓮、椿その他色んな木があった。石の傍には私たちが提灯の木と呼んでいた馬酔木があって、白い小さい提灯のような花を咲せた。
 父は庭に下駄の跡の付く事をひどく嫌ったので、私たちは庭に出て遊ぶ時は必ず草履をはかされた。」と、『晩年の父』「思出」に記している。
 鷗外がこの庭を大切にしていたことは、次男の類も、
 「この庭は眺める庭で、遊ぶ庭ではないと言った。子どもにはそれが気に入らなかったので、内証で降りて庭石づたいに像の背中と名づけてある大きい石の上に登って遊んだ。・・・女中が不用意に糸屑などを掃きだすと、父が火箸でひろって懐紙に集めていた。写真でも撮るときのほか、庭にいる父を見たことがない。さして広くない庭だが、石や木の置き方でかなり奥深く見せていた。春も浅いころは白い木蓮の花が咲き、茂みの葉がくれに乙女椿が見えた。夏は擬宝珠の花の一二輪があるばかりであった。」と、『鷗外の子供たち』「二 父、鷗外のこと」に書いている。
 そして、沙羅の木については、杏奴が『晩年の父』「思出」に、
 「この庭の飛び石の形も、樹々の間にある石灯籠の配置も自然のように上手に出来ている。沙羅の木の根本には面白い形をした石があって、夏になると青く葉の茂った奥に、気品の高い白い花が、咲くとみる間に散ってしまう。藍色の縮の単重を著た父が裾をまくって白い脛を出し、飛び石を跣で伝っては落ちた花を拾って来たものだ。」
 また、「褐色の根府川石に
 白き花はたと落ちたり
 ありとしも青葉がくれに
 見えざりしさらの木の花」と、鷗外の歌を載せている。
②次に北側の庭は、幅が20m程度、奥行き7~14m程度、垣根で二分されていた。花畑と呼ばれる北西部の部分は、一転して、子供達が自由に遊べる庭であり、鷗外ならではのガーデニングが展開された場所である。杏奴によれば、
 「おいらん草、蛇の目草、虫取草、ダリアにあやめ、ちょっと思い出して見てもいい尽くせないほど沢山の花を父は四十坪ほどの庭一面に植えていた。
 別に花壇を作るという事もなく、庭中ただもう花でいっぱいだった。
 赤や白の水引草がおままごとの御飯の代りになり、ぎぼうしの葉は細く刻んでお漬物の代わりになった。
 白い木蓮が散って茶色に腐ったのは牛肉といわれていた。
 父が一番子供たちを楽しませようとしたのは自然であったらしい。」と、四季折々の自然に囲まれた、心豊かな生活ぶりが『晩年の父』に記されている。
 その花畑を区切った垣根は、
 「あけびやその他の蔓草のいっぱい絡った見事な長い垣根で」あった。
 垣根の東側に馬小屋などがあり、そのあたりの様子は、森茉莉の『父の帽子』「幼い日々」「馬小屋の前の空地には、白木連、酒井家との堺には乙女椿、銀杏があり、どれも大きな木で春が来たり、秋になつたりすると幼い私が見上げる空の中に、薄桃色や白に輝き、又は金色の鳥のやうにキラキラしたりしてやがて春の暖かい地面や、乾いた秋の敷石を蔽つて散り重なり、私のいつまでもゐても飽きない楽しい遊び場と、なるのだつた。」
③東側の庭は、幅が13m程度、奥行き7m程度で、花壇がある場所。こじんまりとした庭の感じを杏奴は『晩年の父』に、
「此処にある狭い中庭は、植えてある草花の一つにでも、私たちの思出の籠っていないものはない。
 可愛しいおしろいの花、それは父が祖母の病室のためにと後に建増した部屋の縁に沿って咲いていた。
 この部屋は三畳に続いて庭に突き出た、東と南に廻り縁のついた明るい座敷であった。
 おしろいの花に黒い小さい実がなると、よく私は爪の先でそれを潰した。
 中からほんとうに白い粉が出て来る。
 こんな草花の名前など、皆小さい時姉に聞かされて覚えたのだから間違っているかも知れない。
 父が貰った盆栽の中から移し植えた薄や萩だとか、図書寮の裏庭から二人で掘って来た菫とかは今如何なっているのであろうか?
 岩菲というように聞いていたのだが、撫子の花に似た樺色の花、夾竹桃、桔梗、ダリアなどいっぱい咲いていた。
 父はまた小さい鉢を買って来て、その中に水蓮を作った。
 そういう事も仕事の暇を楽しみに少しずつやって、何時の間にかすっかり庭らしく楽しい空気をつくって行くのであった。
 この鉢の中には黄色い花の咲く河骨もあった。」と、子供の頃の思い出と共に、庭の様子を紹介している。
④また、敷地の中央、建物と建物の間にあるスペースが中庭である。杏奴は、
 「中庭には砂場があって、私と弟とは此処で砂いじりをして遊んだ。
 母は此処に薔薇の花を植えたがっていたのだが、子供たちの好きなようにした方が好いという父の意見で砂場になってしまったのだ。」と、鷗外の妻の意見が違ったという興味深いエピソードを『晩年の父』に書いている。