『花暦』1

森鷗外ガーデニング  9
『花暦』1                                       

 ・不思議な花暦
 森鷗外が七ヶ月かかって書いたにもかかわらず、全集はもちろん、関連した本や雑誌など、どこにも触れられていない『花暦』がある。『花暦』は半紙四枚に記され、筆跡から見て、鷗外自身が書いたことは間違いない。ただ、書かれた年代やその他のことについては、何も記載されていない。もしかすると、その紙と一緒にもう一枚、花暦の年などを書いたメモがあったのではという気もする。それは、『花暦』が単なる気まぐれで書かれたものではないと思われるからである。
 『花暦』は、観潮楼に咲いた花を中心に、二月十五日から九月十五日までの開花の状況が記されている。開花を記した日数は四十三日間であるが、書こうとすれば少なくとも前後八カ月間程度は、毎日忘れずに観察しなければならない。また、順次増えて行くメモも、バラバラにならぬよう保管しなければならない。
 記された植物名を見ると、鷗外の性格を示す修正や補足がある。まず、日付の訂正、それは三日のずれだが、そのくらいどうでもよいと思えそうだが直している。書く時点で名前の分からない花には、観察した形や色などのコメントを付け、後で訂正することを考慮している。何事も正確さにこだわるのだろう、一見、適当に並べているようだが、よく見ると実に几帳面に書かれている。
 ただ、記した文字は漢字であったり、カタカナであったりと、統一性がない。当時は、植物の名前が現代のように整理されていないため、鷗外が聞き覚えたものを記したのであろう。そのため、『花暦』に書かれた植物の名前を図鑑で調べても、何の花なのかよく分からないものも出てくる。
 そして、『花暦』を書いた目的であるが、日記替わりに書いていたかというと、そうとは思えない。日記替わりであれば、もう少し他の事象についてのコメントが入っていてもよさそうだ。鷗外の日記には、曜日や天候まで記載されていることが多いのに『花暦』には、それさえない。
 これまで『花暦』が注目されなかったのは、鷗外の思想や人間関係などが記されていないからと、私は推測した。確かに、植物に関心のない人には、『花暦』は単なるメモで物足りないであろう。また、鷗外は、他人に見せようとして書いたものではないことは確かである。しかし、『花暦』は、簡潔でいて、一環した書き方、後で見てもわかるようにとまとめられている。ガーデニングの心得のある人であれば、彼のなみなみならぬ意気込みが感じられる。
 まして、自庭の花暦を記した経験があれば、鷗外が書いたものに限らず、花暦は興味深くとても面白いものである。特に気になるは、どのような花が好みだったか、その傾向を知ることから筆者の性格や人格までをも感じ取ることができそうだ。さらに、植物に対する見識や造詣からガーデニングの技量も推測できる。記されている植物名から、当時の花の種類や呼び名などがわかり、興味がつきない。
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・『花暦』が書かれた年
 やはり気になるのは、『花暦』はいつごろ書かれたのだろうか。『花暦』は、観潮樓の庭に咲く花であることから、根津に移り住んだ明治二十五年以降だろう。翌二十六年は、たとえ前年に種を蒔いたり植えたりしても、花の種類は少なく開花を見ることのできない花がある。たとえば、『花暦』にヤグルマソウの開花が記されているが、二十六年に咲かすには、二十五年の九月頃に種をまく必要がある。他にも、苗を入手して植えない限り、見ることの出来ない花が数多くあり、二十六年に『花暦』を書くことは難しい。
 明治二十七年は、花畑ができており、開花を観察することができた。しかし、鷗外は東京を離れ釜山に赴いており、八月末からの開花を見ることができない。したがって、九月十五日の開花を記した『花暦』は、二十七年ではない。
 翌二十八年は、『徂征日記』にあるように、鷗外が東京に戻るのは十月四日である。その年の庭を見ることはできず、『花暦』を付けることは無理である。
 明治二十九年は、前年十月に戻った鷗外がすぐに草花の種を蒔くなどの作業ができたか、可能性はあるが難しい。さらに、四月四日に鷗外の父静男が亡くなり、当然のことながら長男の鷗外は葬儀などに追われていたと考えられる。そのため、開花の多い四月に、花を見たとしてもメモすることは難しかったと思われる。したがって、やはり『花暦』を書くことはできなかったと思われる。
 明治三十年は、多忙であったものの観潮樓から離れることなく、庭の花を見ることができた。消去法から、鷗外が『花暦』を記したのは明治三十年だと推測できる。なお、それ以後に『花暦』を書いた可能性もあるので検討してみる。
 三十一年は、日記があり、日記に綴られた開花日と『花暦』とを比べると一致しない。したがって、三十一年ではない。
 三十二年から三十五年まで小倉に居たわけで、『小倉日記』があり、この年ではあり得ない。
 三十六年は、六月十一日に信州上田に出かけていることから、翌日の開花は見ることができなかったと思われ、この年の可能性も低い。
 三十七年・三十八年は、日露戦争で東京に不在であり、庭の花を見ることができない。
 三十九年は、母・峰子の日記に、四月十二日に「桜は散り、山吹咲始め」とある。鷗外の『花暦』のヤマブキの開花日とは異なる。また、五月十二日には、鷗外は出張しており、開花を記すことはできなかったのではと思われる。よって三十九年も違う。
 四十年も、五月十三日から十八日まで足利や熊谷などに出張しているため、難しいだろう。
 四十一年以降は日記が残っている。その日記には、開花が記されており『花暦』の日付があわないこともあるが、さらに『花暦』を書く必要はないと思われる。
 したがって、『花暦』は明治三十年に記されたものと判断した。