江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)271
戦前世相の解説1
終戦までの昭和初期については、数多くの本が出されている。その多くは、当時の国際関係からはじまり、政治体制、軍内部の抗争、事変の発端から戦争の経緯などが書かれている。国が激動した様子は詳しく書かれているが、国民の心情についていたかはあまり触れていない。あるのは困窮生活の実情でくらいで、「苦しく大変であった」という健気な庶民の訴えである。
と言うより、昭和初期の歴史は、国家、国という視点から書かれ、国民、それも大衆からの視点は無視されていると言っても良いだろう。国民の大多数を占める大衆は、確かに過酷な生活を強いられた。が、戦時中でも楽しいことや面白いこと、生き甲斐がまったくなかったはずはない。東京は東京の、大阪は大阪の、地方によって様々な生活があった。しかし、記録として残される重要な歴史には、その日一日を楽しく過ごした大衆の営みなど無用なようである。
かなり昔ではあるが息子の歴史の教科書を見たときも、奈良時代の庶民は貧しく、苦しい生活をしていたと書かれていた。しかし、当時の人々も、ただ苦しいだけの毎日ではなかったはずだ。また、自分たちのことを、わずか一言で語ってほしくはないだろう。歴史とは、往々にして大多数を占める大衆を軽視する傾向がある。
常識的に考えれば、「民」あっての「国」であり、「国」あっての「民」ではないだろう。ところが、「国」が「民」を無視することがあるから問題が起きる。たとえば、「国を愛する」という文言についても言えそうだ。「国を愛する」ことは、国民として当然のことであると思える。が、残念ながら国を愛しても、民を愛することに結びつかないことがあるからだ。
国を愛するという前に、国民を愛することが前提としてなければならないだろう。しかし、国民を愛することが抜け、国を愛することだけが一人歩きをする危うさがある。それは、まさに昭和初期、軍部や政府が国のためを考えて進めた施策である。指示した人たちは、国を愛し、国のためを思って行ったかもしれない。が、戦局が悪化してくると、「一億玉砕」を国民に押しつけた。国を守るためには、民はすべてを犠牲にしろと。事実、沖縄では、犠牲者は軍人より島民の方が多かった。
昭和初期は、まさに国家を最重要視する時代であった。民は、国に奉仕するもので、レジャーを楽しむなどもっての外と規制した。そして、政府・軍部は、大衆レジャーをどこまで制限できるかを追求しているようであった。現代でも、レジャーを厳しく制限している国は、レジャーに伴って流入する自由な情報を制限するためである。
レジャーを制限する理由は、国民、大衆の低俗化や怠惰防止などを掲げている。一見、制限を正当化しており、国民にあたかも善政のごとく信じさせているようだ。しかし、レジャーの可否について、それを判断するのは誰であろうか、政府や軍部の一部で決めるべきではないと思う。確かに、レジャーには行き過ぎた流行や浪費などはあるものの、いずれ収束するものである。
それでも制限するのは、レジャーが巻き起こす大衆の勢いをコントロールできないことに起因している。大衆の勢いは、レジャー以外にも波及することを政府・軍部が恐れているのである。花見の茶番を始めとする、政府批判の芽になるものを事前に摘むため、レジャーは戦争の妨げとなる可能性が少しでもあれば取り締まられたのである。
ここで総括するのは、レジャーが昭和初期の大衆社会でどのように展開していたか、大衆レジャーを通して庶民の生活での重要性を確認するためである。大衆は、昭和初期という特異な時代の中でも、思い思いのレジャーを楽しんでいた。どのくらいの人々がどのように楽しんでいたか、できるだけ正確に後世に伝えたい。レジャーとはいえど、数量的に把握すれば、そこには一定の規則性や法則性を見いだすことがきでる。戦争に翻弄されたもの、時代を超えて共通するもの、レジャーならではのものを、大衆の社会行動として示したい。
・世相の変化と大衆レジャー
昭和初頭から敗戦までの、たかだか二十年にも満たない間に大衆レジャーは激変した。ふつう、変化といえば、進歩したとか、世の中が豊かになったとか、良いほうに変わったと考えがちであるが、この間の変化は、どう見ても衰退としかいえない。特に東京では、最も大衆レジャーらしい花見や花火、海水浴までなくなってしまった。
レジャーが激変したのは、社会が大きく変わったからである。そこで、五年くらいのスパンで、社会の推移とそれに伴うレジャーの変化について見てみよう。
最初の期間は、昭和五年(1930)の「帝都復興祭」くらいまで。その頃までのレジャーには、まだ自由で闊達な大正時代の名残が漂っていた。東京は、昭和に入っても、関東大震災からの復興に追われていた。とはいえ市内は、不景気ながら帝都復興事業が着々と進められ、地下鉄の開通など発展への新たな動きもあった。したがって、帝都復興というスローガンのもとに、市民は日々の生活に追われながらも将来への希望を抱くことができた。
次の段階は、昭和十年頃まで。1929年(昭和四)にニューヨーク株式市場の大暴落にはじまった世界恐慌が起き、東京にも不況の波が押し寄せてきた。労働争議の激化、失業者の増大など、市民生活にも不況の影響が出てきた。昭和六年(1931)には「救済法」が成立し、老人や子供などの貧困者の救済をはじめたが焼け石に水。市民の所得は、賃金指数が示すように、実質は二割近く減少。デフレによる収入減は、低所得者ほど激しかった。
六年の満州事変勃発で、市民は戦況の行方に一喜一憂するようになる。七年には、東京市は周辺町村を合併し、人口497万人の世界第二位の大都市となった。新聞には、満州国承認や中国での戦勝など晴れ晴れしい記事が多くなる一方、大島三原山での女子学生自殺をはじめ自殺記事も目立つ。こうした記事を見ると、家族を背負った働き盛りの人もいるが、若い人も多い。当時の自殺の原因は、経済的な困窮だけではなく、思想弾圧や社会の急変など社会的な重圧による、精神的な破綻が引き金になっているようだ。
八年頃から「東京音頭」流行、競馬や拳闘観戦などに熱狂する市民が増えている。また、正月、花見、海水浴、秋の行楽など季節ごとにドッと人が出かける傾向も強くなった。日々の重圧から逃れようと、ストレスを解消するためのレジャーが顕著になった。つまり、現実の苦しさにどのように対処するかという時に、耐えきれなくなって死を選ぶか、あるいは上手に忘れたり、気をまぎらわすために娯楽に走るかという違いであろう。
注) グラフに十五年までしか無いのは、データが無いためである。