娯楽再建も始まる昭和二十年六月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)268
娯楽再建も始まる昭和二十年六月
 六月は、沖縄が日本軍10万人、一般人15万人もの犠牲を出し占領された。それでも戦争を続けようとしたのは、地方都市が残っていたからではなかろうか。東京は壊滅的な状況であったが、古川ロッパが六月に慰問で訪れた青森(一日)、弘前(三日)、秋田(四日)、鶴岡(五日)、新潟(八日)、加茂(十日)、松本(十一日)、富山松本(十四日)、高岡(十六日)、金沢(十七日)、福井(十九日)、敦賀(二十一日)、小松(二十二日)、大野(二十三日)、片山津温泉(二十四日)など、まだ空襲の大きな被害はない。戦時中であるため、物資不足はあるものの、東京のような食料難ではなく、人々の生活は豊かとはいえないが平穏な生活が保たれていたようだ。
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昭和二十年(1945年)・六月、あくまで本土決戦断行を決議⑥、沖縄守備隊全滅(23)、市民に潤いをと、レジャーの制限を緩和。
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 戦局の悪化は、もう否定しがたいものであった。それなのに、不利な戦況を隠す報告は、いつまで続けるのか。六月の朝日新聞一面最初の見出し、一日付に首里 那覇近郊激戦」と勇ましいが、戦いは敗れているのに、どのようになっているかを報告が無い。二日付は、「悪天候を冒し猛攻 五十一隻を撃沈確」と、日本軍が勝っているような印象を感じさせる。
 五日付は、「沖縄戦局いまや重要段階」の見出し、勝ち目が無い、負けているとの表現が無い。二面には「明るい壕舎生活へ 総合配給を強化」と、人々への不安を払拭させようとしている。
 七日付は、「泥濘の沖縄に血闘 山野埋む敵屍累々」とある。日本軍の被害はどうなのかについては、全く触れていない。
 八日付は、「戦災吹飛ぶワッショイ」、と、品川神社荏原神社で祭が催された。十五組の神輿がでて、海に飛び込む「渡御」の儀もあり、盛大な祭になったものと思われる。また、十五日も、山王日枝神社例祭「お神輿はポンプだ 縁起をかついで戦災地をねる」A⑯と、朝から夕方まで都心部を練り廻った。これまでも地域の祭は行われていたのだろうが、この時期になって新聞が取り上げるようになった。
 八日付の読売新聞には、「延期されていた奉納相撲初日」と、ガランとした国技館で開かれる。延期されていた大相撲夏場所が七日から国技館で開かれた。相撲は当初、五月二十五日初日、明治神宮奉納ということで、無料公開という話も合った。五月十五日付の新聞Aに「毎日一万人の行列がもしP51に狙われたらどうなる」とあった。そのような検討がなされたためか、一般公開されず、ラジオ放送もなく、六月十四日千秋楽を迎えた。
 沖縄での戦いは、勝てないことがハッキリしたのであろう。それを踏まえてだろう、朝日新聞九日付は、「強力政治を急展開 本土決戦即応の諸法案」と、今後の新たな展開を図ることが示された。また、「私事旅行お断り、あすからの列車時刻改正」と、人々の活動も制限が強化されそうだ。
 十日、十一日の一面には戦果が無い。
 十二日付「我戦線を整理敢闘、敵殺傷七万二千六百 二敵艦轟沈破 振武特攻隊猛攻」。沖縄での戦果を示しているが、わが軍の被害が推測できるのは、特攻隊員の死傷ぐらい。無謀な戦いが続けられていること、なんとも言いようがない。
 十四日付沖縄県民の血闘に学べ」と、沖縄の民間人が戦ったということを初めて言及したと思われる。県民の被害などについては、全く触れていない。その悲惨な状況が、もし本土の国民に伝わっていれば、十五日付の一面に「本土決戦こそ最好の戦機」などと書くことは出来ないと思うのだが。この日も戦果は記されず。
 十六日付には、「本土決戦一億の肩に懸かる 我に大陸作戦の利」とある。軍部の指示によって書いているものであろうが、国民はまだ勝利を信じさせられているのであろう。本土決戦とは言うものの、攻める戦いと守る戦い、その違いを軍部が分からないわけはないと思うが。
 では、都民はどのように生活していたのであろう。十六日に浅草を訪れた高見順は「仲店はまだ焼跡のままだった。けれど、人は出ていた。そして露店の物売り・・・観音様は、仮普請の準備中だった。この辺一帯、焼野原のままで、人は住んではいないのに、参詣人が出て来ているのは、異様だった・・・六区へ行ったが、ここではまた大変な人出に驚かされた。浅草の魅力!」と。
 花月劇場の前には行列ができており、灰田克彦(楽団、坊屋三郎の漫謡)と伴淳三郎(『縁談十五分前』『無法松の一生』)が出演し、入場料が大人3円60銭であった。その他劇場では、大都座が小林千代子一座、常盤座が杉山昌三九、金竜劇場が木戸新太郎一座の興行。映画は、松竹館・富士館(『還って来た男』上映)、電気館・東京倶楽部(地下では「お化け大会」もやっていた)が開いていた。高見順は「どこから来るのか、人がいっぱい集っている。浅草の不思議さ!」と書いている。
 また、十七日付の読売新聞には「日比谷旧音楽堂で慰問激励演奏会、大入満員」と、東京は至って平穏である。
 地方に出ている古川ロッパは、十六日の日記に「・・・新聞を見る、もう見ない方がいゝんだが、女が手榴弾の稽古してゐる写真あり、『笑って散らん大和撫子』とある。もういかん。九時前、人力来り、駅へ着いて、ホームへ。漸く列車が入ったら、大満員、窓から出入りしてる。二等、殆んど軍人で、皆腰掛けてるのが、何だか嫌だった。立ちんぼだが、三十分間だ、何のこともなく高岡着。」とある。
 朝日新聞は、十八日付では「荒鷲、沖縄へ反復猛攻」とある。十九日付、「捨てよ都会生活の垢、集団帰農にこの覚悟」と、前日の記事と同様、今後の方針や施策について場当たり的である。                    
 二十一日付、「B29の中小都市攻撃激化」とあり、これはもう本土決戦が始まっていると考えられないのであろうか。何を以て「本土決戦」とするのか、理解に苦しむ。二面には「代替配給 お米と抱合せて 玉蜀黍や高粱も登場」と、食糧事情の悪化を示している。
 二十三日付、「帝都義勇隊に 初出動指令 必ず耕せ・一坪以上」。これが「本土決戦」にどのくらい役に立つのであろうか。
 二十六日付、「沖縄陸上の主力最終段階 廿日敵主力に対し全員最後の攻勢 殺傷八万撃沈破六百隻」との見出し。戦いの成果が示されているものの、日本軍は敗れたのではないだろうか。
 二十九日付、「航空部隊 廿七日も沖縄敵艦連襲」とあるが、戦果に触れていない。そして、三十日付、「長参謀長と共に牛島中将自刃 沖縄海辺に従容の最期」。末期的な状況をこのような見出しで表現するのに、新聞は抵抗がないのであろう。
 三十日付には、「映画や演劇どしどし再建 街や職場へうるおいの進出」とある。「生活のきびしさに堪え、戦列に踏止って明るく戦い抜くためにはすさび勝ちの心をうるおす慰安機関の再建こそ第一であると」娯楽施設の復興をはかることとなった。映画や演劇などの娯楽を再建させて、街や職場に「うるおい」を取りもどそうとの掛け声である。これまでの禁止一辺倒ではなく、臨機応変に映画や演劇を行うことができそうになった。