戦前世相の解説2

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)272
戦前世相の解説2

 第三段階は、軍需産業の発展が軌道に乗った十年頃から十五年まで軍需産業は、まるで十二年の中国との全面戦争を予定していたような勢いで発達した。国内の景気は、軍事予算の増大とインフレで金回りがよくなったと見えて、東京市民は遊びに夢中。あたかも軍需インフレに酔うかのように、市内から不景気の様相が消えていった。
 戦争がその後十年、昭和二十年まで続くとは想定していなかっただろう。と言うより、十年先どころか三年先すら予測できなかったと言いたい。国政、国を担う人であれば当然のことで、たとえ予測通りにならなかったら、すぐ是正しなければならない。中国での戦争は、当初「事変」と称していた。それが泥沼の戦いになり、負けはしないが先行きの見えない状況が続いた。その間、政府・軍は局部の勝利を国民に誇示し、あたかも完全な勝利は目の前という情報を発信し続けた。
 戦いは、どのような経緯で進め、どのような形で収束させるかいう展望を示さなかった。と言うより、展望を持っていなかったのではなかろうか。詳細な作戦を示せというのではなく、国民に理解できるようなプログラムがなかった。先ず、敵の状態を把握できていなかったこと、敵国の国力、民衆の力などを日本の国民に正確に伝えず、「敵は悪」と言うようなプロパガンダで誤魔化していた。そして、中国や朝鮮、さらにはアメリカを侮るように仕向けた。

                             

 また十年頃から、軍需景気で市民がレジャーに熱中することを見据えていたかのように、警視庁は花見の大騒ぎにブレーキをかけはじめた。さらに、支那事変以降は、戦時下という理由でレジャーの自粛が叫ばれた。が、これはむしろ逆効果の様相。まだこの頃は、市民が自由に遊ぶことのできる余地が残っており、川開きやお会式に最高の人出。映画・演劇、相撲・野球などすべてが前年を上回る勢いで観客数を増加させた。
 そして、昭和十五年には、劇場・映画館の早朝興行が廃止された。他にも六大学野球は試合数の削減、ダンスホールの閉鎖など、国民精神総動員運動などによりレジャーの自粛が進むなか、紀元二千六百年奉祝の行事だけは逆に、盛大に催された。この頃の市民の行動を見ると、その先さらに遊べなくなることを肌で感じたのか、食いだめならぬ遊びだめをしているかのように見える。市民の間で遊ぼうという気運が続くのは、十七年頃まで。
  戦争に勝っているうちは遊べても、負け出したら遊べなくなる。それは分かりきった話、だから、いっそ遊べるうちに遊んでおこうと思ったとしても不思議ではない。また、苦しい生活を忘れる、戦争の重圧をたとえ一時でも避けるためにも遊びが必要だったのだろう。市民は、軍部推薦の武装大競争などより享楽的な娯楽である、映画や演劇を貪るように楽しんだ。芸能よりもさらに享楽的なカフェーも、十七年まで増加し続けている。なお、当時のカフェー(喫茶店)というのは、女給さんがいて、お客の接待もするし、酒も置いてある洋風酒場のような趣であった。

 

 四段階は十六年頃から。太平洋戦争へ突入する頃には、華やかなイベントはなく、花見や避暑まで制限され、市民が心置きなく羽を伸ばせる機会は少なかった。街行く人の服装もモンペやゲートルなどを身につけた非常時服が多く世の中全体が暗いイメージになった。それでも、十七年までは市民のレジャー気運はまだ持続していた。
        

 それは、実際の戦況は悪化していたが、市民にはその事実は知らされず、日本は勝ち続けていると信じていたからである。しかし、十八年に入ると、市民の耐久生活は限界に達し、レジャーどころではなくなった。映画や演劇の観客数が減少しはじめ、上野動物園ですら入園者数の減少しはじめた。
 さらに十九年には、その日の生活どころか、空襲で生きるか死ぬかという事態に陥った。政府は、相変わらずレジャーの自粛を訴えていたが、市民自体は窮乏生活に疲れ果て、遊びどころではなく、戦意すら低下していた。それでも、日々の生活を少しでも楽しく過ごそうとする気持ちは消えなかった。ラジオから流れる娯楽番組や映画・演劇などに生活の潤いを求め、数少ないレジャーで心の空白を埋めようとした。また、食料にしても、空腹感を紛らわせるには、配給よりも依存する闇や買い出しの方がはるかに役立つような状況であった。
 二十年になると、東京は空襲で焼け野が原。本土決戦での勝利を信じた市民は、一体どのくらいいたのであろうか。政府は、意気消沈した市民に戦意を向上させようと試みた。が、それは、叱咤激励ではなく、娯楽の自粛解除であった。その頃の市民は、すでに一歩先んじて、焼け残った映画館に長蛇の列をなし、祭りを催し、安堵感に浸っていた。
 さらに、古川ロッパが五月に記しているように、映画・演劇などの開放は、「此の前も、乳の見えるような衣裳を着ていたが、今日は背中まる出し、露出狂なのか。それで若い客はワーワー喜ぶ」とうような、かつては見られなかった情景を出現させていた。娯楽には気ままな自由がある。最悪な状況にあっても希望をもたらし、生きる力を生み出す助けとなってくれることを証明しているようだ。
 敗戦間際、娯楽が、市民の心を支える大きな力になっていたことは間違いない。二十年八月十五日以降、東京で最も先に復興に向かったのは、闇市(買い出し)とレジャーである。