『明治三十一年日記』2

森鷗外ガーデニング  15
『明治三十一年日記』2

・『花暦』との比較
 明治三十一年の鷗外は、三十六才。公務では、近衛師団軍医部長兼医学校校長。その年、『審美新鋭』を『めざまし草』に訳載、『智慧袋』を時事新報に連載、『美学史抄』を寄稿、『西周伝』を出版、等々と執筆。『公衆医事』(日本医学会)の編集を担当。また、楷行社編集部幹事を嘱託され、亀井家の貸費学生選考委員も勤めるなど、まさに油の乗った活躍ぶり。
 鷗外の生活は、二十九年頃から多忙になってきたと思われる。そのような中でも、日記のガーデニングに関する記述のウエイトは高い。鷗外は、明治三十一年まで記していなかった日常の日記を書くにあたって、初めから花暦を入れることを念頭にしていたと思われる。逆に三十年の『花暦』は、日記に変わるものであったと言えそうだ。だからこそ、『花暦』は気まぐれで書いたり、忙しいので省いたりというようなことがなかった。
 植物に関連した記述は、二月二日から九月八日まで約七ヶ月間、四十五日におよんでいる。自庭の開花については、三十五日分もある。注目するのは、日記の記載が開花だけ終わっている日は十九日もある。さらにガーデニング、庭での作業だけの日が四日もある。なお、文頭に開花が書かれている日も六日ある。『花暦』より開花の記録は八日少なくなっているが、庭作業などの関連することを記述した日を含めれば逆に二日も多い。
 最初の「大森に梅開く」は、自庭のウメの開花を待ちこがれていたことを反映している。その二日後に、自庭での開花を確認しているように、数日前から観察していたのだろう。その後、一月以上花の記述はない、それは、毎日のように庭を見ていたが、降雪が多く花が咲かなかったからだと思われる。三月の半ば過ぎに花畑のヒヤシンスが咲くと、庭の花は続々と咲きはじめた。
 開花の記録は、五十三種におよんでいる。明治三十一年当時、日記に自庭の花暦を記した人は、おそらく他にはいないだろう。ご隠居の身分で、盆栽や庭いじりに専念できる人ならいざ知らず、公私ともに多忙な鷗外がよくこれだけ丹念に記録できたと思う。そう考えると、彼が開花日記を付けたのは、無類の花好きだったからだと断定してもさしつかえない。
 現代でも、ガーデニング日記を付けている人なら経験することだが、開花を見落としてしまうことが多々ある。鷗外もそれらしき箇所がある。六月八日の記述は、四種あるが、たぶん数日前から咲いていた花も一緒に書いている感じだ。それでも、五月二十日から二十四日まではその日ごとに書いている。こまめに開花の記録をつけるのは、なかなか大変なことである。
 鷗外は、花の咲くのを楽しみにして庭を探して歩いているわけだが、その一方で、病気や害虫の発生もチェックしていた。もちろんこのこと自体は、ガーデニングをする人なら当然のことだが、観潮樓の敷地は三百坪余と広く、隅々まで見ることは容易なことではない。したがって、かなりの見落としがあったものと思われる。また、六月十五日に「玉露叢」を購入しているが、ジャノヒゲ(リュウノヒゲ)を植えたという記述はない。どこかに植えたに違いないが、たいした時間をかけていないので記さなかったのだろう。このように、鷗外は植物を観察しながら、草取りや簡単な作業を日常的に行なっていたと思われる。
イメージ 1 三十一年日記に記された花と『花暦』の花数を比べると、十種増えて、二十五種減っている。これは、『花暦』を書いた年に見落としたものが増えて、三十一年には書かなかった花が幾つもある、ということであろう。特にサラノ木(ナツツバキ)は、三十一年にも咲いていたことは間違いなく、鷗外が記さなかっただけである。また、『花暦』には無かった、百日紅サルスベリ)や桐(キリ)が三十一年日記に記されている。これらは樹木であるから、『花暦』の記された三十年にも当然あったと考えてよい。
 次に、『花暦』と共通する花が四十二種あったことからも、『花暦』と書かれた時期の近いことがわかる。前述で、『花暦』は三十年に書かれたと推測したように、三十一年日記との比較からも、この年を挟んで前後三年以内であることがわかる。
 鷗外は、『花暦』をもとに、三十年の秋と三十一年の春に、種をまいたり、花の移植を行っていると思われる。『花暦』は、花の色の組み合わせを考えたり、同じ時期に咲く花をまとめて植えたりするために必要であった。三十一年はその出来栄えを確認するために日記に記したように思える。そのため、三十一年の日記は、『花暦』に加えて庭作業を記しており、一年分がそのままガーデニング日記と呼んでも良い。
 庭の掃除を頻繁に行なっている人なら、花が咲いたり、散ったりするのを当然のことながら見ている。さらに、その人が日記を付けていれば、たまには花の名前を記すのも当然であろう、と思っていた。しかし、花を本当に愛していなければ、どんなに美しい花が咲いていても、日記に記すようなことはしないようだ。そのような人の例として、鷗外の母・峰子がいる。彼女は、鷗外が留守の間はもちろん、ふだんでも暇さえあれば草むしりや掃き掃除やっていた。始終庭の手入れをしていたことは、峰子の日記を見るとわかる。
 特に、鷗外が日露戦争に出征している期間の明治三十七年と三十八年は、庭の掃除や管理に関する記述が多い。三十七年は、26日間も庭や植物に関することを日記に記しているが、庭の花については3回しかない。それは、「さらの木に花咲く」「朝顔の花二鉢にて四十五咲く」「鶏頭丈は次第に赤く成り」である。三十八年は25日も記しているのに、花の開花については全く書いていない。それも「支那の草花の種もまきて見たり」「買置きたる草花のなへを植る」「百花園に行き、草花の種を求む」と、3回も草花の植栽に関する記述があるにもかかわらずである。娘の喜美子によれば、母は、「暇な時はしじゅう庭にでて草むしりをしていた」とある。峰子は、観潮樓の庭に愛着が強かったことは確かなだけに不思議である。
 庭の花を見ている人はいくらでもいるが、それを日記に記すのは本当に花の好きな人である。鷗外のように、花の開花を日記に書いている人物は他にもいたのだろう、しかし、明治・大正時代の日記となると容易に手に入らない。同時代の作家の日記は読むことが可能なので、探してみたが、鷗外に匹敵するようなものはほとんどなかった。ただ、森鷗外と交流が深く、先生と尊敬していたと思われる永井荷風の日記には、ガーデニングの記載がかなり見られる。
 たとえば、荷風の『断腸丁日記』には、開花と共に庭作業の記録が数多く登場する。大正七年五月十三日の日記には、「八ツ手の若芽舒ぶ。秋海棠の芽出づ。四月末種まきたる草花皆芽を発す。無花果の実鳩の卵ほどの大さになれり。枇杷も亦熟す。菖蒲花開かんとし、綿木花をつく。松の花風に従って飛ぶこと烟の如し。貝母枯れ、芍薬の蕾漸く綻びんとす。虎耳草猶花なし。」とある。ガーデニングに対する取組みは、鷗外よりむしろ熱心ではなかったかと思われるような節もある。鷗外の開花日記とするなら、荷風は庭仕事日記とでも言うべきで、ガーデニングを愛好する者としては興味をそそられる。荷風の日記には、庭に植えられている花をすべて記載しようというような気負った感じはない。多少気まぐれで、たまたま目についたり、自分の気が向いた時々に記しているような傾向さえ感じる。それでも、作家の中で鷗外を除くけば、日記にガーデニングに関する記述を残した人物と言えば、永井荷風を揚げなければならないだろう。