『書簡に見られる花』

森鷗外ガーデニング  17
『書簡に見られる花』

 明治三十五年四月以降、四十一年まで鷗外の日記はないが、妻・志げなどに宛てた書簡に、花に関する記述がある。
 明治三十七年、日露戦争に従軍先から、
 三月二十九日 森しげ子宛
「・・・廣嶋に来てから八日目・・・桃が咲いて居る。・・・」
 七月十日 森しげ子宛
「・・・今とまつて居る家は植木ずきでいろいろな花をつくつて居る。多くは西洋花だが其の中に高さ二三尺の合歓木の鉢植があつて花が眞盛に咲いて居るのはなかなか見事だ。・・・」
 九月二十六日 森しげ子宛
「・・・時候は雨でも降ると寒いが晴れた日は丁度菊の頃の日和のやうで好い心持がする。昨晩など満月だから庭に出て長く見て居た・・・」
 十一月十五日 佐々木信綱宛
「・・・(九月の櫻花とは今年九月末東京にかへり花咲きぬとの事をいふ何日頃なりや)・・・」
 明治三十八年
 四月十五日 森於菟宛
「おとろへの秋ならなくにまづ黄ばむ青柳の芽をもてはやすかな」
 四月十五日 森於しげ子
「・・・けふはじめて柳の木の少し靑く見える。又草の芽も少し出て来た。・・・」
 四月二十五日 森しげ子宛
「・・・こちらも草がだんだん靑くなつて来た。しかし柳に黄いろい芽が出たきりで木はまだ葉が一枚もない。・・・」
 五月四日 森しげ子宛                               
「・・・こちらは今が春の初と春の中頃と一しよに来たやうなぐはひで桃だの杏だの李だの皆花がさく。・・・」
 五月九日 森しげ子宛                               
「・・・草や木の花がみんな一度にさく。しかし梅や櫻は一本もない。一番多いのは杏の花だ。これはおとうさんはごぞんじのとほり支那では艶な花としてあるのだが赤いのが一ぱいさいたところは中々きれいだ。草ではおきな草といふ紫の花が一番多くさいている。此中におきな草を一りん入れてある。・・・」
 五月二十日 饗庭與三郎宛
「御書状花いろいろ入りしまゝ花恙なく到着いたし候。・・・高粱の穂を・・・大抵おやじが犂の方をやり子供が種をまき候。・・・當地草花はすみれたんぽぽの外おきな草といふ紫の花のみ其外は見あたらず候。」
 五月三十日 森於菟宛
「ゆく春や楡の莢浮くにはたづみ」
 六月一日 森於菟宛
「あやめさく畦を枕に戰死かな」
「すみれさくつかぬし美人なりけらし」
 六月四日 森しげ子宛                               
「・・・おきな草を送つてやつたら園藝雑志を見て知つてゐるなんぞは實に意外だ。・・・」 
 六月七日 森於菟宛
「菖蒲すこし蓬おほくぞ葺いたりける・・・」
 七月十二日 森しげ子宛                              
「・・・野原にはほうずきがひとりでにはえてみが少しづゝ大きくなつてゐる。土地がちがふと日本では作らなくては出来ないものもそこらぢゆうにはえるからおもしろい。・・・」
 七月十三日 森潤三郎
「みるかぎり芍藥赤き長白の梺路ゆかばあつくともよけん
 註云、琿春地方野生の芍藥路に遍し」
 七月二十五日 森しげ子宛
「・・・○野菜ものでささげや胡瓜が出たのでおかずがうまいのが出来るやうになった。○いまに茄子が出るだらうとおもつて待つてゐる。しかし奉天からこつちでは畠でとんと茄子を見ないからあまりあてにはならない。○草原は鳳仙花で相變わらずきれいだ。よその村には百合がさくとこがあるさうだがおれはまだ見ない。・・・」
 八月七日 森於菟宛
「野にさめてさすかたしらぬあこがれにうつむき立てる姫百合のはな
 あした媚ぶる紅鳳仙花ひとり野にわれそだちぬとひそめきかたる
 こと草に丈はおとらぬ葉鷄頭すくすくしさよまだ色づかぬ」
 八月初 小金井きみ子宛
「・・・普通は『ひぐるま』とは『ひまわり』即ち向日葵の別名のやうにおもふが『ひまわり』の花なら少くとも直徑かね一尺以上ある。其莖はにんじん牛蒡の根くらゐある。あれを髪にさす女の顔は正圓形と假定して直徑かね五六尺はなくてはかなふまい。それとも別に『ひぐるま』といふこがねいろの花があるのかしらん。拙者は記憶してゐない。又旅中でしらべることも出来ない。『ひあうぎ』即射干は名は似てるが、赤とか朱とか樺色とかいふ外ない。『こがね』とはいはれない。・・・」
 八月七日 森於菟宛
「西瓜黄なる核は瑇瑁のくろ斑哉」
 十月二十二日 森しげ子宛
「・・・十月十七日にこちらははじめて霜と氷とを見たがすぐ十九日には初雪がふつた。・・・野菜はもう菜葉が少しの外に何もない。・・・」と。
 以後の書簡には、花が咲いたという記述はない。
 鷗外は、翌三十九年一月九日に東京に戻った。もともと三十九年に書かれた書簡が少なかったこともあるが、庭の植物に関する記載はない。また、四十年はさらに減って三通しかなく、これも植物などの記載はない。

森鷗外・母の日記』
 なお、鷗外の日記のない間の「観潮樓」の庭については、母の峰子が日記『森鷗外・母の日記』に綴っている。日記は、明治三十二年七月二十二日~大正四年四月二十九日まで記されている。日記は断片的だが、庭に関する記録があり、特に、明治三十七年と三十八年は庭の記述が多く、鷗外が日露戦争に出征している期間の庭の状況がわかる。以下に、観潮樓の庭や植物に関する記述の主なものを示す。
 三十七年四月「三十日 晴、植木屋花物を植変をする。・・・」
 植木屋が来て、花の咲く植物を植え替えている。「花物」は、草花が多かったと推測するが詳細はわからない。
 十月「七日 曇り、けふより植木や来る。垣根の竹等持込・・・」
「十一日 晴天となる。けふも垣根をする・・・酒屋との間八間計り出来る。・・・」
「十二日 曇り、けふも植木や来る。」
「十三日・・・午後に植木や来・・・」
「十四日・・・表門前の右方垣の無き方よろしければ、銀杏の木迄は本の通りの垣をし其先はまるく大竹の四ツ目にする。」
「廿日 曇り、表に植木や石をすゑる。・・・」
「廿七日 植木や来る。・・・」
「廿八日 朝、駒込の石屋に行く。飛石をすゑる考へなりしが、けふ戦地より来たる手紙を見れば、敵と対在して居る由なれば、何と無く心配故飛石をすゑる気の無く成る。その日にて垣も刈込みも済みなれば暫く休むこととする。」
 これらの日記から、十月には植木屋が入り、垣根造りを主に庭の改修が行われてことがわかる。この年、峰子によって南側の主庭に飛び石を敷く計画が立てられ、翌年に完成。
 三十八年四月「八日・・・今日は上天気ゆゑ植木屋来て種をまく。・・・けふ支那の草花の種もまきて見たり。はえたらおもしろし。・・・」
 この年も植木屋が花畑の手入れを行なっている。鷗外が不在の年は、植木屋によって花畑が維持されていたようだ。花畑の花は、自然に消えて行くと同時に新たに増えるものもあり、少しずつ変化していたのだろう。なお、支那の草花については、峰子が種を蒔いたものと思われる。彼女もまた、花畑のどこかに自分のコーナーをもっていたのかもしれない。
 十月「十五日・・・石屋は石を持込・・・」
「十六日 雨天、植木屋半兵壱人来る。小降りなれば松の手入れ・・・」
「十七日 晴、植木や来る。・・・」
「廿日・・・けふ植木や来たらず、・・・」
「廿一日 晴、植木や来る。・・・」
「廿七日 植木や終る、袖垣迄出来る。・・・」
「廿八日 植木やの仕事済み漸く裏表の掃除をする。・・・」
 この年、鷗外の庭では、石が入るなど改造が行われた。それ以後は、庭の形はあまり変わらなかったのだろう。峰子の日記から、鷗外の留守中も観潮樓の庭は様々な花を咲かせ、荒れるどころかさらに美しくなっていたのだろう。また、植木屋の関わりや、峰子がまめに手入れをしている様子などもわかる。