梅にまつわる話

梅にまつわる話 その1                            
・ウメの人気は万葉の昔から
  「梅は咲いたか、桜はまだかいな」と唄の文句を引き合いに出すまでもなく、ウメはサクラと並んで、古来から多くの人々に愛されてきた。ウメは万葉の中期に日本に伝わったと言われているが、アッという間に当時の人々の心をさらった。万葉集にはウメを詠んだ歌が多く、実に119 首も登場する。サクラの41首と比べるとはるかに多く、当時はウメの方が人気が高かったものと思われる。その理由としては、当時の日本では何事も中国をお手本とする風潮があり、かの地で貴人たちにもてはやされていたウメを、日本でも尊ぶという傾向が強かったこと。また、万葉集に「春されば先ず咲く宿の梅の花・・」とうたわれたように、他の花に先んじて「先ず咲く」というウメの性状が、とりわけ人々を喜ばせた。なにぶん当時は今よりはるかに寒い上に、殺風景な季節に切り花を買ってきて楽しむというようなこともできない。長く厳しい冬をじっと耐えて暮らしてきた人々にとって、馥郁とした香りとともに、白やピンクの可憐な蕾をほころばせるウメは、春の到来をつげる何者にも変えがたい存在だったに違いない。
      ベニチドリ
イメージ 7  加えて、ウメに備わっていると言われる呪力、難除けの力が広く信じられ、大切にされたという事情も無視できない。たとえば「梅の花しだり柳に折り雑へ花にまつらば君に逢はむかも」(万葉集)と、あるようにウメの花には特別な力があり、その力を借りて恋人に会えるようにと願ったり、ウメの花がよく咲いた年は米が豊作になるとか、花が下向きに咲くと天候が安定する、逆に上向きに咲くと日照りになるなどと言われ、農産物の収穫や気象を予知する指標としても注目されていた。
 また、「梅はその日の難のがれ」という古い諺もある。昭和の初め頃までは、帰路の無事を祈って、客人に梅干しを供するという習慣が各地で見られたようだ。してみると、いま、私たちがおにぎりに何気なく梅を入れるのも、おかずになるとか、傷みを防ぐという理由の他に、旅自体がまだ大変な難行であった時代に、梅を食べることで、せめても旅先でつつがなく過ごせたら、という意味が込められていたとも考えられる。
 
・ウメの木一本が家計の助けに
 ウメの普及に貢献した要素としてもう一つ忘れてならないのは、利用価値が高いことである。日本人にとってウメは梅干しなどの保存食品として、また調味料として欠かすことのできない重要なものであった。また、樹皮は染料、実は口紅に、材は床柱や櫛、将棋の駒に、さらに生薬は鎮咳・止瀉薬としての効能も高い。食欲不振や暑気あたりにもよく効き、一日一粒の梅を食べると体に良いという生活上の知恵は、かなり古くから行き渡っていたらしい。さしずめ健康食品の元祖といったところか。「使途の多い木」として需要が高まった上に、ウメ本来の丈夫な性質とも相まって栽培木として好まれたのだろう。現在でも梅の名所として知られる奈良県の月ヶ瀬では、室町時代にすでに村人たちがこぞってウメを植えて、それがやがてウメの名所となったと伝えられている。                                                                                                          金生樹譜より
イメージ 1 こうしてウメの実は、生食こそしないが梅干しなどとして日常ひんぱんに利用されるため、どこの庭にもたいてい一本以上は植えられていたようだ。江戸の人気戯作者で、ガーデニングの先駆者でもあった滝沢馬琴の日記によれば、不作であまり取れない年でも一升五合(2.7リットル)程度の収穫はあったと書かれている。当時、梅干しは食卓に欠かすことのできない食品であったから、これは大いに家計を助けたに違いない。( 実際、江戸中期頃、ウメの木一本分の実は銀四匁ほどで、これは当時の平均的家庭の一日の糧に相当するとされていた) そのため、ウメの改良は花だけでなく、ブンゴウメなど実の成るウメの改良も江戸時代の中ごろからさかんに行われるようになった。ウメの品種は、『花壇綱目』に52種、『韻勝園梅譜』(春田久啓)に96種あり、明治になると300以上にものぼった。品種の分類は、大きくは、野梅系、紅梅系、豊後系(杏系)の、三つないし、四つに分けられる。                                                                                           ブンゴウメ
イメージ 5 野梅系のウメは、ウメ本来の性質が強く、時に刺状の小枝を出すのが特徴。枝は細かく出て、葉はやや小形で緑色が濃い。花は香りが良く実はやや小形。紅梅系のウメは、幹や枝を切って中心部を見ると、髄が赤いのが特徴。花の色は赤が多いが、ピンクや白もある。豊後系のウメはブンゴウメに代表されるように、実の大きなウメで、葉が大きく、丸みがあり、花は大形だが、香りは少ない。杏系のウメは、アンズとの交配雑種だろうと言われ、淡紅の花が多い。
 
 
・園芸三昧の余生を送った定信公
                                                                                     草木錦葉集より
イメージ 2 江戸時代になってからも、今で言う「文化人」の間でウメの人気は衰えることがなかった。江戸前期に活躍した、儒者にして優れた博物学者でもあった貝原益軒は、その著『大和本草』において「其香色形容百花ニスグレタリ、故花中第一トス、園ニハ必先ヅ梅ヲウフベシ」と、最大級の評価を下している。とりわけ江戸中期にはウメ人気は格段に盛り上がった。そうした風潮を受け宝暦10年(1760)には松岡玄達がウメ60品について図説を加えた『梅品』を、谷文晁は寛政五年(1793)に62品の梅を写した『畫学斎梅譜』を著した。また、寛政の改革を断行した松平定信は、隠退後は「楽翁」と号し、築地の下屋敷にこもり、花鳥風月を友とする風流三昧の日々を過ごしていたが、その広大な園内には、様々な植物を植え、多くの盆栽を陳列し、唐の文人にならって鶴を遊ばせていたという。定信は文政の始め(1820ごろ)に文晁の協力を得て『花の鑑』(サクラ124点)、『梅津之波』(ウメ58点)、『清香譜』(ハス90点)、『衆芳園草木譜』(アザミ、ボタン、ツバキ、ハナショウブなど)を全園の鳥瞰図つきで制作した。そして、その目的はどうやら園内の花々を季節にかかわらず楽しみたいという個人的な欲求から出たものであったらしい。現役時代は「白川の清きに魚も住みかねて元の濁りの田沼ぞ恋しき」と揶揄されるほど、厳しい政道を目指した定信ではあるが、辞して後はもっぱら得意の和歌や絵画にいそしみ、園芸に明けくれる毎日であったようだ。現代の政治家と比べると、どこか清々しい気さえする。楽翁はこうして71歳で、当時としては長命の部類に入る生涯を終えている。
 楽翁は植物全般を愛したようだが、中には「梅顛」「桜顛」などと称して(今なら、梅マニア、桜マニアとでも言うのか)特定の木をなかば偏愛気味に愛好する大名や旗本も多かった。旗本春田久啓はその代表格で、四谷御門外の広い屋敷を梅の木で埋め尽くし、私設梅林のはしりとなったというから、豪勢なことこの上ない。しかも、彼の豪気なのは、その自慢の庭園(韻松園)を大多数の庶民に公開した点である。花好きといってもせいぜい鉢物を買ってきて世話をする程度であった当時の庶民にとって、久啓の奇特なふるまいは、喝采ものだったのに違いない。
 
・梅屋敷と錚々たるパトロンたち
  東都歳時記より
イメージ 3  江戸時代の終わりには、江戸周辺には数カ所のウメの名所が存在したが、中でも最も大きな梅林といえば、蒲田の梅屋敷であった。この梅園は元は農家の庭先や田畑の周辺に植えた程度のものにすぎなかった。梅干しをつくり、農民の収入を少しでも多くするというのが目的であって、花を楽しむためのものではなかった。が、やがてこの地は江ノ島や川崎大師などに向かう街道筋に近いことから、人々が注目しはじめた。当初大きな梅林を持っていた助左衛門という農民は来訪者にただでウメの花を見せたという。梅屋敷として梅園の経営に着手したのは、薬舗をやっていた和中散という者で、梅の実がなりにくくなった古木を買い集め、三千坪(約1ha)の梅園を作ったのが最初だと言われている。また、江戸における元祖梅屋敷、亀戸は売り物のウメが「臥龍梅」であることから、初めから鑑賞用だったと考えられる。                       向島百花園
イメージ 4 文化2年(1805)には、日本橋の骨董商、佐原平兵衛が寺島村(現在の墨田区東向島)に三千坪ほどの旧武家屋敷を入手、敷地にウメ約360本を植えて「新梅屋敷」を開設した。(これはむろん、亀戸の梅屋敷に対する「新」の意味)る兵衛は骨董商として成功を修める過程で、諸大名や当代きっての通人たちと懇意になっていた。彼自身も風流人としての評判、つとに高かったと言うから、本業を退いて向島に隠居するにあたっても、何か変わった趣向で世間をあっと言わせたいと考えたに違いなかった。そして彼は、自ら鍬をかついで土地を耕し、花畑を作り、天神様の祠を勧請した上で、付き合いのある文人、茶人らにウメの木の寄付を依頼した。このあたりはさすが平兵衛オジサン、運び方がうまい。「この趣向、おもしろいと見て皆のってくるはず・・」その読みは見事に当たり、またたく間に360株ものウメの木は集まるわ、寄付した通人たちはその後も、何かにつけ園に立ち寄ってはアイデアを授けてくれるわ、というわけで一春にして易々と梅林のオーナーにおさまってしまった。
江戸名所花暦よりイメージ 6
しかもそこは江戸の風流人たちのサロン的存在でもある。中には狂歌、戯作者として有名な太田蜀山人や、国学者の村田春海、画人の酒井抱一らがいて、良きパトロン、良き助言者として、梅屋敷の運営に参画していった。時には、園主である平兵衛(後に鞠塢と号した)の意見を退けて、自分たちのアイデアを通すことさえあった。ウメの木を寄贈したという事情をさしひいても、個人が経営する園地でこのようなことが可能であったとは、今の感覚からすると驚くべきことである。
 また、あずまやを設けて、そこで梅干しと渋茶を提供。お茶代は「思し召し」と称して、そばの竹筒に客の好きなように支払わせたり、土産用の梅干しや箸置きを売らせたり。しかもいずれも世間の評判は上々。趣味人ではあったがそれに溺れることなく、ビジネスとしても成り立たせた平兵衛は、現代でも立派に通用する名プロデューサーと言えるだろう。