武士のガーデニング

武士のカーデニング
 
・意外に広かった下級武士の庭
 園芸に並々ならぬ執着を見せた武家は枚挙に暇がない。それでは、下級武士と呼ばれた人々はどうだったのだろうか。これが実は、上級武士にも劣らぬ打ち込みようであったらしい。下級武士にそれほど土地に余裕があったのかと不思議に思う向きもあろうが、彼らは意外にも広い敷地に住んでいたのである。例えば、三十~五十表取りの下級クラスの武士(役名でいえば諸組同心、学問所勤番、小普請世話役、伊賀者などがこれに当たる。ちなみに同心と並んで時代劇などでお馴染みの諸組与力は二百俵取で三百坪もある広い屋敷に住んでいた) で百~百五十坪、それ以下の武士でも七十坪程度はあったというから、現在都内に七十坪の敷地を持つ家を所有することの難しさを考えれば、下級武士といえども住環境の面ではなかなか恵まれていたといえる。
 では建坪はどのくらいの広さかといえば、御家人クラスで大体二十~三十坪程度。家だけなら現代の建売の方が広いが、マンションと比較すれば決して狭くはない。しかも、現代の一戸建てだと必ず駐車場にスペースを取られて、庭にできる部分は狭くなってしまう。が、一方、百坪以下の敷地に住む下級武士は馬を所有していないので、敷地の半分以上は庭として利用することができたはず。したがって、案外余裕があったようだ。五百坪から広い場合になると、千八百坪ともいう広大な敷地を持つ旗本たちは、築山山水はいうに及ばず、日本各地から銘木・名石を取り寄せ、自邸の庭のパンフレットをつくって、知り合いに配ったり、月に一~二度、日時を決めて近隣の町人に自慢の庭を公開したり、と思い思いに個性豊かなガーデニングを楽しんでいた。もっとも皆が皆、○○の桜、○○の梅、と冠名がつくような木や草に夢中になれたのかといえば、むろんそんなことはない。例えば慶安四年(1651)に江戸城内の堀や石垣近くでの菜園づくりが、禁止されていることからもわかるように、意外なことに屋敷内で野菜をつくらせていた武士が大勢いたのだ。下級武士は当然のこと、格式・プライド共にも高い大名や旗本の中にも野菜作りに励んだ人は少なくなかったようだ。
 
・園芸は貧乏旗本の手内職だった!?
 下級武士ならいざ知らず、大名や旗本までもが、ナスやキュウリを植えていたことを想像すると、なんとも妙な感じだが、もちろんこれには理由があった。「広大な屋敷に住み、樹や花に囲まれて・・」などと聞けば、金と時間を持て余す優雅なリッチマンかとうらやみたくもなるが、現実はそう甘くはなかった。つまり、旗本と一口に言っても、本当に豊かな生活が保証されているのは、ちゃんとした役職につくことができた家の、しかも「跡取り」に限られていたのである。次男、三男(時代が後になるほど、暇な旗本たちは女色に耽りがちになる。したがって九男、十男などというのもさして珍しいことではなかった) ともなれば、もうほとんど居候、厄介者でしかない。“おいしい”養子の口でも見つけてこない限り、一生「若隠居」として跡取りである兄の一家に気兼ねしながら、時折いくばくかのこづかいをもらってしがない生活を送るしかなかった。イメージ 6 草木錦葉集より
  そんな彼らが目をつけたのが園芸、つまり市場価値の高い鉢物づくりであった。子供の機嫌をとりながら読み書き、そろばんを教えてわずかな礼金を得るよりもをはるかに格好のよいアルバイトである。幸い園芸のために割く時間はいやというほどあるし、うまくすれば一攫千金も夢ではない。そこまで望むのは無理だとしても、跡取りの兄貴にしたって、弟がフリーターのままうろうろしているよりはずっと世間体がいいわけだから、園芸用の土地くらいは喜んで提供したに違いない。
   草木奇品家雅見より
イメージ 1 というわけで、旗本やら御家人やらが、趣味と実益を兼ねて園芸の世界に入り込み、江戸の園芸界においてオピニオンリーダーとして活躍することになったのである。例えば御家人の内職として有名な、大久保百人町のツツジの栽培。これは現在の新宿区百人町の一丁目から四丁目にあった伊賀組の組屋敷で、宝暦年間(1751~53) に行われたものである。『遊暦雑記』によれば、組同心飯島武衛門の屋敷がとりわけ見事で、三尺から一丈ぐらいまでの色とりどりのツツジが数千本も植えられていたという。全体としては東西八間、南北二町ほどの長さに及び、花の盛りの時分には諸公の奥方の乗物や、武士、町人までが群集し、大変なにぎわいだったようだ。
 イメージ 2また、『武江年表』が伝えるところの大番組与力・谷七左衛門は(下谷御徒町の住人) 草花好きの母親の影響で園芸を始めたらしい。初めのうちはサクラソウをつくっていたが、文化五年(1808)ごろから変化アサガオを手がけるようになり、知人らに見せて自慢したりしていた。それが徐々に評判を呼び、いい小遣い稼ぎにもなると踏んだのだろう、文化十二年(1815)ごろからは、近所に住む組屋敷の同心たちが競って、変化アサガオを手がけるようになった。そのため下谷御徒町の屋敷は「朝顔屋敷」の異名で呼ばれるようになり、見物人で大いに賑わったという。後日談によれば、彼はその後大坂城勤番となったが、その時もアサガオの種を持って赴任し、大坂にもアサガオを流行させ、同時に自分の名もあげたというのだから、なかなか大した御仁である。
 
・平安貴族のおしゃれなガーデニング
 最近「ガーデニング」などと称され、若い女性にも人気を呼び、高級な園芸グッズもそこここで見かけるようになったが、つい数年前までは全く地味で、注目度も低く完全なオヤジ趣味とみなされていた。が、江戸時代は違った。上は将軍様や御老中のような偉い人までが手を染める、高尚で世間体の良い趣味だったのである。貴人に人気の高い趣味という点では、すでに平安のころからその傾向は顕著だった。
イメージ 5 たとえば『源氏物語』の住む六条院の庭の様子については、「南の東は、山高く春の花の木、数を尽して植え、池の様、面白くすぐれて、御前近き前栽に、五葉、紅梅、藤、桜、山吹、岩つつじなどやうの春のもてあそびをわざと植えて、秋の前栽をばむらむらほのかまぜたり」となかなか風情のある様子だ。また山里めかして、呉竹や卯花を植えてみたり、昔を思い返すことのできる花橘、撫子、薔薇(そうび)、くだに(上原敬二氏の『樹木大図説』によると加茂真淵はこれをクチナシと解釈している、とある)などの草々を植えて、一年を通じて巧みな庭の演出を行っていたことがわかる。なお、賀茂真淵は、『武江年表』に明和元年(1764)「加茂の眞淵、翁濱町へ家を移し、庭を野邊又畑に作りてあがた居となづく」とある。
 また同時代の『枕草紙』には「木は桂、五葉、橘、柳」という有名な一節に始まり、紅梅、桜、藤、壇、檜、かえで、ねずみもち、白樫、柏、棕櫚の木など実に様々な樹木が、清少納言の眼鏡にかなったようで称賛されている。これらは必ずしも庭木としての評価ではないが、いずれにしても、当時の貴人たちの好みを反映しているのは間違いないだろう。植物の評価について相当長い記述を残しているところをみると、平安貴族たちの多くは園芸にかなりの関心を持っていたものと思われる。そういえば、時の関白藤原道兼は、神殿造りの豪奢な館の周囲に“遣水”を巡らせ、そこにハナショウブを植えて鑑賞していたという。現代の感覚から見てもなかなかオシャレなガーデニングである。
 時代は下って、鎌倉時代に『徒然草』を書いた兼好法師の手にかかると、「家にありたき木は・・・」という書き出しで始まり、庭木への関心と評価は清少納言よりさらに具体的である。まず、法師は桜と松の二つを挙げている。桜は一重が良いという。「吉野山の桜も宮中の右近の桜も皆一重にてこそあれ」と強調し、八重桜はあくどくて素直でない感じなので、植えなくても良いだろうとまで書いている。梅についても白梅の花の一重のが他のよりも早く咲くのを趣があるといって褒めている。またそこで有名な歌人藤原定家が一重の梅を気に入って、軒近くに植えていたこと、また定家が亡くなった後も、京極の邸宅の南面に二本存在していると書き記している。さらに法師は柳楓の若葉、橘、桂なども称賛している。
 ついでに言えば、法師はいわゆる日本的なシンプルなものがお好みだったようで、「世に稀なるもの、唐めきたる名の聞きにくく、花も見慣れぬなど、いとなつかしからず、大方、何も珍しくありがたき物は、よからぬ人のもて興ずる物なり。さようのもの、なくてありなん」(世間で珍しいものや中国風のわかりにくい名前で、花も見慣れないものなどはあまり親しみは感じられない。大体、何にしても珍奇でめったにないような物というのは、身分や教養の低い人がもてはやすものなのだ。そのようなものは持たなくていい。)概して舶来の花や珍花奇葉といったものに背を向けている様子から、法師の少々へそ曲がりな性分がうかがえて興味深い。アサガオ、オモトなど斑入り、葉変わり・・と変化花を栽培し、珍花奇葉を求めて、プラントハンティングにも余念がなかった、江戸の人々の姿を法師が見たら、どんな反応を示しただろうか。
 
・野菜作りで家計の助けに
 話は元に戻るが、武士たちの多くは、木や草花と共に果樹や野菜などを植えて、生活の足しにしていた。園芸に才のある者は、鉢植えの逸品をつくって小金を貯めたりもしただろうが、大半の凡庸な者たちにとっては、日々の食卓に欠かすことのできない野菜や果物を作って、貧しい家計の一助としていたようだ。江戸も中期になると、困窮にあえいでいたのは下級武士ばかりではなかった。財政改革に立ち上がった米沢藩の九代藩主上杉鷹山は、侍屋敷にウコギの垣をつくることを奨励したが、それは趣味としての園芸を勧めたものではなかつた。ウコギの葉の小さく分かれた新芽が、貴重な食料となるからで、米沢藩では上役たちもウコギの芽を和え物やお浸しとして食したという。
イメージ 3 もっとも、一般的には武士が野菜作りに精を出すのは体裁が悪いと思ったのか、武士が書いた日記や手紙類はたくさん残っているものの、園芸についての記述は意外に少ない。下級武士で国学者でもあった平田篤胤が、秋田に単身赴任していた折り、根岸に残した家族から胡瓜、芋、白瓜などが上作だという知らせを受け取り、返事に「メデタシ」と書き送っている。また秋田にはなかった薩摩芋を植えて実らせ、味もよく喜んで食べたことなども書かれている。
イメージ 4 これらは武士の家の庭で野菜をつくっていたという数少ない証拠であり、しかも作物の出来不出来が少なからず一家の関心事であったことを示す資料でもある。当時、江戸近郊の農家では、野菜の苗を大量に生産し、江戸の街々で売り歩いていたが、その時もっとも大きな得意先が武家屋敷であったということはあまり知られていない。武士たちのほとんどが、ぼてふりの苗売りからキュウリやナスの苗を買って自宅の庭に植えていたわけである。その時、玄関の近くにそれだけを植えたのでは、あまりに露骨で味気ないので、人目につきやすい場所には、たとえば春ならサクラソウツツジ、秋ならナデシコやキクといったように見目の良い草花を育てたのであろう。
 また、当時は医療事情が良くなかったので、庭に薬草を植えて一家の救急薬として備えていた家も少なくなかったはずだ。今では自分の家の庭で野菜や果物を作る、といえばそのほとんどは無農薬野菜を求める安全指向性や少しでもおいしいというものを、というグルメ志向から、発したものだろう。だが江戸時代は経済上の切羽詰まった理由から、園芸に手を染めた人が多かったのだ。そしてそうした人の中から、大久保百人町の飯島(ツツジ)や御徒町の谷(変化アサガオ)のような成功例も出てきたのである。江戸時代、園芸の達人が続々と登場すると同時に、栽培技術も著しい進歩を遂げた。これも一種の「必要は発明の母」なのだろうか。現代の園芸マニアたちが、江戸時代の園芸人たちの水準に追いつくことができずにいる背景には、もしかするとそうしたハングリー精神が圧倒的に不足しているということと、無関係ではないのかもかもしれない。