大江戸野菜事情・続及び捕捉

大江戸野菜事情・続及び捕捉
 
・「取りたて」が並ぶ江戸の食卓
 初物人気と並んで中後期の江戸野菜の大きな特徴は、唐来物の普及である。例えば大衆料理キンピラゴボウに欠かせないトウガラシ、目黒名物タケノコも、登場したのは十八世紀の末と遅いが、季節感と歯ごたえの良さでたちまち受け入れられた。「このカボチャ野郎」などと悪口の材料にもなったカボチャも寛永以降の新種である。栽培が簡単で日持ちがよく、栄養に富んでいて腹の足しになるということで瞬く間に大衆野菜として普及した。また、「甘薯先生」の名で知られる青木昆陽享保年間に薩摩から江戸に新種のイモを取り寄せ、小石川植物園で試作した後、飢饉用の食物として全国的に普及させた。これがカライモ、リュウキュウイモからさらに名前を変えたサツマイモである。
 もっとも、カボチャやサツマイモは当時、下品な食べ物とされていたらしく『江戸風俗誌』には「延宝の初頃はサツマイモ、カボチャ、マグロは甚下品にて、町人も表店住まいのものは食することを恥る躰也」と書かれている。また戦国末期に入ってきたアフリカ原産のスイカも、夏に涼味をもたらす水菓子として人気が高かったが、これも上品な家ではおおっぴらに食べるのを恥じたという。いずれにしても、江戸には実に様々な野菜が流通していた。しかも近郊の「取りたて」が当たり前、農家の人々が毎日新鮮な野菜をかついで家の前まで売りにきていた。下肥を使って作った野菜は安全で滋味も豊か。こと野菜に関しては、江戸の人々の方が現代より恵まれていたといえるかもしれない。

・江戸野菜関連の年表


年  次       野菜関連の事象     


天正年間       砂村(江東区)でネギの栽培始まる                                 イメージ 3
慶長年間初め    駒込土物市場で青物市が立つ
慶長4年(1599)   中国からスイカ(西瓜)が渡来、中身が赤く気持
                          ち悪いと食べなかった
慶長10年(1605)   長崎で初めてタバコ(煙草)栽培成功
慶長年間        オランダ船がジャワのジャガタラ港から長崎に
                          ジャガイモが渡来、鑑賞用に栽培され、食用には
                          ならなかった
元和6年(1620)  中近東からイチジク(無花果)が渡来
元和年間      徳川家は、美濃国真桑村から農民を呼び、新宿
                         の鳴子と府中是政村(府中市)に幕府御用畑を設
                         け、真桑瓜を栽培
寛永4年(1627)  薩摩にスイカの種が渡来する
寛永7年(1630)  江戸大根河岸に青果市場ができる
寛永8年(1631)  ホウレンソウの名イメージ 4
寛永11年(1634) 長崎にマルメロ、カボチャ(南瓜)が渡来する
寛永15年(1638) 植物園の始め(品川と牛込に薬園が設けられる
                         後にこの二つが合併し、 移 転 して小石川植物
                         園となる)
寛永16年(1639) ポルトガル船の来航禁止(鎖国)
寛永20年(1643) 田畑永代売買禁止令
慶安1年(1648)  川辺にある小屋や便所の撤去する規制
慶安4年(1651)   城石垣際での菜園・植木の禁止
明暦1年(1655)  塵芥の投棄禁止、永代島へ廃棄し埋立
万治3年(1660)  ヒマワリ(向日葵)が渡来する
                    茅場町駒込等に前菜市場できる
寛文1年(1661)  茶屋・煮売屋の夜間営業(午後六時以降)禁止
寛文12年(1672) 魚介類・野菜・果実など三十六種の販売季節を限定、初物の規制
貞享1年(1684)  この頃より江戸大森で海苔を作り始め
貞享3年(1686)  野菜・果物の売出し期日決定
貞享5年(1688)  神田市場が統合して開設される
元祿6年(1693)  神田青物市場・日本橋魚市場が盛況
元祿10年(1697)  『農業全書』刊行
元禄11年(1698)  甘藷が渡来、琉球を経て薩摩に伝わる、江戸に伝播したのは享保年間で、
                          一般に及したのは延享年間、1735年、青木昆陽が甘藷の試作を命じられる
元禄12年(1699) ごみ捨て場を越中島に定める。以後もしばしばごみ投棄禁止例が出る
元禄年間       トマト(蕃茄)、キャベツ(甘藍)、カリフラワー(花野菜)、落花生(南京豆)、                    パセリー(和蘭芹)など渡来
                     砂川村で砂川ゴボウの栽培が始まる
                        滝野川村(北区)で牛蒡の栽培が始まる
享保3年(1718)   中川へのごみの投棄が禁じられる
享保19年(1734)  江戸城吹上御苑で薩摩芋の試作、救荒作物として
享保19年(1734)  幕府『諸国産物帳』編纂の指示
享保年間        練馬大根の栽培が盛んになる
                吉宗が、全国から野菜の種子を集め、優秀な人参品種として選んだものが、
                          その後、滝野川(北区滝野川)で栽培され、「滝野川人参」と呼ばれた
元文1年(1736)   孟宗竹が中国から渡来する
寛保元年(1741)  魚鳥野菜の初売りの利を抑制
寛延年間        タマネギ(玉葱)、酸漿が渡来する
明和元年(1764)  加茂の眞淵、翁濱町へ家を移し、庭を野邊又畑に作りて「あがた居」とする
明和4年(1767)   五日市周辺でのらぼうの種を配る
明和8年(1771)   東捕塞瓜の小さいものを、唐茄子と號してはやり出す
安永8年(1779)    薩州侯、品川の前邸に琉球産の笋(竹)を植える。世に孟宗笋と称す
天明1年(1781)   長崎にオランダ船がアスパラガスを渡来するが、鑑賞用
天明年間          野菜の促成栽培が盛んになる
寛政2年(1790)   夏蜜柑が渡来する
享和年間          滝野川村で滝野川ニンジンの種を販売
                      西小松川でブドウ栽培が始まる
文化年間        吉祥寺でウド(独活)の栽培が本格的に始められた
            薩摩芋を焼き、看板に八里半と書いて売り、大いに売れた
文政年間        マジョラム(茉沢刺邦)、ペパーミント(西洋薄荷)、カモミール(加密列)、
                           セージ(來路花葱)、ピスタチオが渡来
天保13年(1842)   江戸端々の二十余ヵ所料理屋が取り払いを命じられ、初物の売買禁止
弘化元年(1844)   江戸東部の農村が下肥の値下げを訴え
嘉永年間           紅花隠元豆、チコリ(菊苦菜)、レモン(檸檬子)が渡来する
萬延元年(1860)   イギリス人ロバート・フォーチュン来朝し、数多くの園芸植物を収集する
文久2年(1862)    幕府が米国から種子を輸入
文久年間         福井藩主松平公の江戸巣鴨別邸に米国種苹果(リンゴ)を植栽する
文久年間         オランダからオリーブ(橄欖樹)渡来
                  亀戸周辺で亀戸ダイコンが盛んにつくられた
                         
☆「江戸野菜」とは
  江戸時代に江戸や近郊の野菜づくりが盛んな地域で改良された野菜の品種全体を「江戸野菜」と呼んでいる。
 たとえば大根の場合、練馬大根や大蔵大根、亀戸大根などがある。
  江戸以来の品種が、それぞれの地域の農家の努力で、現在も栽培されているものもある。
 一般に、江戸野菜は、根菜類が多い。
 それは、土、厚い関東ローム層が根菜類の栽培に適しているからである。火山灰土壌のため味のしっかりした作物ができる。
 また、河川周辺の堆積土には、ネギやコマツナなどの葉物も適している。小松菜のように全国ブランド(江戸だけの地域ブランドでした)になったものもある。
 江戸野菜とは、主に東京周辺で伝統的に生産されていた野菜(在来品種)である。明治以降の急速な農地転用により消滅品種も多い。
 
☆江戸野菜の種類
ウド-東京独活(もやし独活)(多摩地区)  吉祥寺で文化年間に栽培が始められた。
ウリ-鳴子瓜(新宿区)、東京大越瓜(中野区)  元和年間(17世紀初)に美濃国真桑村から農民を呼び、新宿鳴子と府中是政村に幕府御用畑を設け、真桑瓜を栽培させた。鳴子で育てられたことから「鳴子瓜」とも呼ばれた。
カブ-東京長蕪(滝野川蕪)(北区)、甘味あるので甘カブとも呼ばれた。
カボチャ-淀橋南瓜(内藤南瓜)(新宿区)、居留木橋南瓜(品川区)江戸中期より明治中期頃まで、居木橋周辺で栽培された。ごつごつして、縦に約15本の溝があった。
また、細かいしわがあったので縮緬南瓜ともいわれた。
キュウリ-馬込半白胡瓜(大田区) ただし、江戸初期のキュウリは相当苦かったようで、当時、キュウリは完熟させて黄色く熟したキュウリを食べていた。
クワイ慈姑には、地名を冠にしないが、葛西付近の湿地が産地だった。
ゴボウ-滝野川牛蒡(北区)元禄年間に栽培が始まった。
ショウガ-谷中生姜(台東区)
ダイコン-亀戸大根(江東区)、練馬大根(練馬区)、大蔵大根(世田谷区)享保年間に練馬大根の栽培が盛んになる。文久年間に亀戸周辺で盛んにつくられていた大根である。練馬大根の由来は、綱吉が下練馬村(練馬区北町)の農家にダイコンの栽培を命じたのが始まり。
ナガネギ-千住葱(足立区)天正年間に砂村(江東区北砂・南砂)でネギの栽培始まる。
ナス-『新編武蔵風土記稿』に駒込茄子として記され、江戸野菜としては砂村茄子(江東区)、蔓細千成(東京都下)も知られている。
コマツナイメージ 1小松菜(江戸川区)、三河島菜(荒川区)、のらぼう菜(多摩地区)コマツナ は、綱吉が鷹狩で当時の小松村(江戸川区小松川)に出向いた際に献上され、その美味しさに感嘆して命名したとされている。
ニンジン-砂村三寸人参(江東区)、滝野川人参(北区)がある。滝野川人参は、収穫時期が遅く根が長く、三尺ほどもあり、赤味が濃く、香りが強かった。
イメージ 2ミョウガ-早稲田茗荷(新宿区)、明治三十年近くまで名残の畑があったという。なお、茗荷谷(文京区)は茗荷を多く作っていたことから名がついたという。
 
 
★江戸野菜と今の野菜との違い
 伝統的な野菜は、一般にえぐみや苦みを含んだ複雑な味がある。
 化学肥料や農薬を使わない。
 今の野菜は、その大部分がF1と呼ばれる1代交雑種。昔は、農家の自家採種だった。そのため、他の野菜と交雑を起こし、一定の品質を保つことが困難であった。
  また、収穫量の予測が困難。F1の野菜は、マニュアル通りに栽培すれば、一定量以上の収穫が得られる。
 多くの人がコマツナだと思っているものは、みかけはコマツナだが、ターツァイやチンゲンサイなどと掛け合わされた種となっている。昔の小松菜は収穫後二日もすると、すっかり萎れてしまったが、最近の小松菜は1週間たっても見かけは新鮮そのものというものもある。
  青首大根も、朝鮮半島の大根と掛け合わせて、皮が固くて水っぽいもの(これも見かけはいつまでも新鮮で、育てるときもひび割れしない)になっている。