映画は戦中の心のよりどころ

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)273
映画は戦中の心のよりどころ

 昭和のはじめは、映画というより活動写真(活動)という呼び方が一般的であった。国産映画のトーキーがはじまったのは昭和六年(1931)、それまでは楽士や弁士のいる無声映画が主流だった。また、映画館も活動写真館と呼ばれ、東京市の統計でも十四年まで活動写真館として集計が続いた。
 活動写真館観客数(以下、映画館観客)は、元年(大正十五年)に1,469万人もあり、市民最大のレジャーであった。以後も増加し、六年には1,846万人(市人口、208万人)と、元年に比べて377万人も増えた。

 昭和七年、東京市は周辺地域を合併。そのため、映画館数が倍増し、観客数も2倍近く増えた(なお七年より、観客数は映画館だけでなく、劇場などの映画観客も含む)。以後、十一年頃までは、観客数の大きな増加は見られなかった。

・開戦に向かって異常に増加する映画観客数
 昭和十三年(1938)、日中戦争が本格化し、南京陥落に続いて武漢三鎮攻略戸祝賀会が大々的に催されるなど、東京市民が戦争気分に駆り立てられていくなかで、市内の映画観客は異常なくらいに増加した。昭和に入って映画館の入場者数は、年を追ってふえていき、なんと前年(十二年)より3,347万人も増加したのである。当時の東京府の人口は687万人であったから、一人で約5回分の増加ということになる。もともと映画館入場者数は、ヒット作がでると急激にふえる傾向があったが、この時は前年の十月から公開されたアメリカ映画「オーケストラの少女」か大変な人気を呼んでいた。続く十三年九月、それを上回る人気を呼んだ「愛染かつら」が封切られるなど、映画への関心が高まっていた。
  この映画観客の増加は、本格的な映画統制の第一歩となる「映画法」が制定されるなかで、十四年には、さらに2,100万人に増加し9,182万人となっている。昭和十五年になっても映画観客の増加は続き、9,868万人となった。この観客数を東京の人口で単純に割ると、一人の人間が一年間に約14回も映画を見たことになる。毎週のように映画館に通う人もいる一方で、活動写真などまったく見ない人もいるはずで、一月に1回以上という数値は驚異である。ちなみに、昭和元年(1926)の鑑賞回数を計算すると約3回なので、高々十五年の間に四倍以上、延べ人数にして約8,400万人の増加である。これは、映画が東京の人々のレジャーを制覇した証と考えていいだろう。 

                          
  映画が東京市民の心を完全にとらえたことから、戦争遂行のためには、映画を国家管理下に置く必要が生じた。そのため、昭和十六年(1931)、フィルムの統制検閲を強化するべく、情報局は、劇映画を製作していた十社を松竹、東宝大映の三社に統合させた。当然、敵国であるアメリカ映画の上映は禁止され、厳しい検閲を通過した映画しか見ることのできない状況になっていった。これによって、東京市内の映画観客数がどのように変化したかは、東京市統計年表が作成されていないので不明であるが、おそらく増加していたものと思われる。それは、全国レベルの統計「活動写真フィルム検閲年報」(内務省警保局)では増加しており、市内の映画館数も増加しているからである。

  太平洋戦争に突入しても、映画館の数はほとんど変わらなかった。東京の空襲は、十七年から始まっており、昭和十八年(1943)には、防空法によって繁華街にある木造の映画館は強制疎開させられたり、取り壊しをうけたりしてているが、昭和十九年の映画館数の数(「生活水準の歴史的推移」NIRA編による)は、それまでの最高値(369館)を記録している。この年、疎開命令が出され、警視庁は、高級料理店(850店)、待合芸妓屋(4,300店)、バー・酒店(2,000店)を閉鎖させている。さらに、東京の映画封切館は二十六地区に一館とすることが決まり、昭和二十年には102館に減少している。東京の人口が348万人と半減する中、映画観客もそれに伴って激減しているとも考えられる。

・戦争中でも映画を見たい
 東京市の映画館入場者がほぼ一億人(現代の全国入場者数と同じくらい)であり、この数が社会的に、教育的にどのような意味を持っているかを知っていたのは、映画制作関係者よりもむしろ内務省の役人の方であった。そしてこれだけ多くの人々の心を捕らえていた映画を大衆から取り上げることは、不可能なこともわかっていた。つまり、政府は、映画が大衆に与える影響を積極的に利用すれば、戦争の宣伝には効果絶大であり、戦意高揚の恰好な手段にもなると踏んだ。そこで次に情報局が着手したのは国策映画の作成で、国民映画・演劇脚本の募集コンクールと委嘱作品の制作を企画した。
 情報局は脚本の募集にあたって、「時局下映画及び演劇に課せられた使命は極めて重大である」として、映画等は「高邁なる国民的理想を顕現し、芸術的価値において高く、且つまた国民生活に喜びと潤いを与えるものでなければならい」ことを情報局の機関紙『週報』(昭和十六年五月)に載せた。しかし、本音は、軍部の高邁なる理想を高らかに掲げて、戦争遂行の意思を強く表し、かつまた戦争に喜びと楽しみ与えるものでなければならいという時局に便乗するような映画脚本を募集と考えてよいだろう。賞金は、「情報局総裁賞」が一篇、金一千円。「情報局賞」が二篇で、各金五百円であった。ちなみに、もうひとつ、日本映画雑誌協会に働きかけ情報局後援という国策映画脚本募集があつた。この募集には、情報局の狙いが、具体的に、ハッキリと示されていた。それは、「軍事映画」「防諜(スパイの活動や侵入を防ぐこと)」「時局下の新生活体制」など7つのテーマで、戦争遂行に役立つための映画脚本を作れというものであった。賞金は、当選作一篇・情報局賞(副賞金二千円)、他に選外佳作三篇に各三百円となっていた。また、委嘱作品の制作は、情報局総裁賞が賞金三千円、情報局賞が賞金一千円、奨励賞が五百円であった。なお、文部省も選奨映画として、同じような映画作品の推薦をしていた。
 昭和十六年(1941)の日本全国の映画館入場者数は、4億4千万人から4億6千万人、約2千万人も増加している。東京の映画観客数は、資料がないので推測するしかないが、当時の全国的の趨勢からしてこれも増えていて、1億人を越えていただろう。情報局は、十七年の元旦の新聞に、それまで許可しなかった「真珠湾暁の奇襲」の写真を解禁した。新聞の一面が「ハワイ海戦」の写真で埋められ、元旦から映画館で上映されること、歌舞伎座などでは入場料を取らないことも掲載された。当日は、朝八時には長蛇の列ができ警察官が整理するほどの騒ぎであったのに、情報局が「ハワイ海戦」映画のプリントを上映館に配給したのは、その日の朝8時半であった。平常ならフィルムは、前日渡しであるのにわざとギリギリまで気をもたせる方法をとった。十七年正月の映画館入場者はどのくらい増加したかというと、おそらくそれまでの正月の中で最も多かったと思われる。また、一方では、映画を国民学校の正式科目とし、巡回映画を行った。たとえば、大日本映画界の協力で毎月一回開催された「大東亜戦争日比谷映画会」がそれで、第一回の昭和十七年二月の映画会には超満員で入場できなかった人が2千人も出たという。さらに、巡回映画の変形として日比谷映画劇場や日本劇場、東京宝塚劇場を使用して定期的に行われ「少国民映画講堂」というの催しもあった。
  昭和十七年、「欲しがりません勝つまでは」のスローガンからもわかるように、国民の娯楽は日を追う毎に少なくなっていった。映画が数少ない晴れ晴れしい楽しみになっていくなか、第一回情報局募集国策映画脚本の入選発表があった。209篇にも昇る応募作中、最高位の情報局総裁賞には該当するものがなかった。情報局賞(賞金五百円)は、「母子草」「静なり」「土生玄磧(はぶげんせき)」の三作。佳作賞(賞金百円)は、「曾津幼学所」「天使の顔」「警備隊の人々」「国境の祭礼」「欅」の五作であった。ついで、もう一つの国策映画脚本当選発表は、当選作(情報局賞並びに副賞金二千円)が「雪」。選外佳作(各篇賞金三百円)は、「野戦患者療養所」「遥かなる修水」「生くる日の限り」の三作であった。次いで、情報局の国民映画委嘱作品は、情報局総裁賞(賞金三千円)が「ハワイ・マレー沖作戦」、情報局賞では該当作品がなく、奨励賞(賞金五百円)が「鳥居強右衛門」「姿三四郎」であった。
 昭和十八年(1943)に入ると、映画制作に検閲が強化され、国民映画賞には軍事色の強い「海軍」「決戦への大空へ」「愛機南へ飛ぶ」が選ばれた。これらの映画制作には、軍部の協力が不可欠なこともあって、国策映画に対する軍部の関与は目に見えて増していった。そうして、映画への力の入れ方は、民間の映画製作者よりも軍部関係者の方が熱心になっていったと思われる。ところが、昭和十八年の正月映画では、「伊那の勘太郎」が圧倒的な人気をさらい、前年の情報局総裁賞を受賞した「ハワイ・マレー沖作戦」の興行成績をいとも簡単に破ってしまった。もっとも、大衆の人気が、軍部主導の国民映画より、荒唐無稽のやくざ映画の方に集まるのは当然であろう。これに対抗すべく、情報局は「決戦への大空へ」「愛機南へ飛ぶ」を一億必見の国民映画として積極的に見せる措置をとった。この年の映画観客数も残念ながら不明だが、かなり減少しているものと推測される。
 正月には、一年に1回しか映画を見ないような人が映画館にでかけたりする。奮発して映画館や演芸場を覗いた人は、他の月よりかなり(5割程度)増加している。そのため正月興行にこそ、最も優れた作品を投入すべきだと考えている映画関係者が多かった。しかし、昭和十九年(1944)になると、正月の新作映画は「浪曲忠臣蔵」と「坊ちゃん土俵入り」しかないという状況だった。その後の上映は、「剣風連兵館」「勝鬨音頭」「菊地千本槍」「韋駄天街道」「雛鷲の母」「決戦」「加藤隼戦闘隊」「母の瞳」「あの旗を撃て」「天狗倒し」「不沈艦撃沈」「父子桜」「水兵さん」「ベンガルの嵐」などが続く。その当時の映画興行時間は、1時間40分に短縮され、そのうえ東京では19の映画館が興行を停止された。ちなみに、使用されなくなった日本劇場や国際劇場などでは、学徒動員の女子学生たちがアメリカ本土を爆撃するための風船爆弾を作らされていた。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      昭和二十年(1945)になると、実際もう映画制作どころの話ではなくなっていた。生フィルムの生産は底を尽き、配給する映画が半数になったのである。そのような中で、「かくて神風は吹く」「野戦軍楽隊」「雷撃隊出動」「陸軍」「宮本武蔵」「狼煙は上海に上る」「竜の岬」「天晴れ一心太助」「勝利の日まで」「姿なき敵」「海の虎」「名刀美女丸」「必勝歌」「後に続くを信ず」「撃滅の歌」などが上映され、敗戦を迎える。この時点においてもまだ、軍部は映画が国民の士気を高めるものと信じていただろうか、それとも単なる惰性で映画を上映させていたのだろうか。しかし、なんといっても、映画を見たいという大衆がいたことは確かで、その情熱は称賛に値する。
 三月九日から十日にかけての「東京大空襲」では、死者が約十万人あったという。約一月後の四月十二日、浅草六区では、焼け残った電気館と帝国館で無料公開の興行が三日間行われた。焼け野原に映画を見にくる人がいるだろうかと危ぶまれたが、二館はたちまち満員になった。帝国館は十九日から有料興行をはじめて、初日が403人、三日目が1,308人、一週間目には2,630人と増加した。五月からは、電気館、常磐館、千代田館、木馬演芸場等、14館が続いて開館した。終戦直前の七月の観客数は、660,176人、一日平均約33,000人である。この年、一体どのくらいの人々が映画を見たのだろうか、もし、最盛期の半分(5千万人)だったら驚くべき数字であるし、その半分2,500万人であってもやはり凄いの一語に尽きる。

・大衆は映画に夢と希望を託す     
  日本の映画観客数は、昭和六年(1931)に2億人を超えた。国民一人当たり約4回の映画を見たことになる。昭和七年には、2億2千万人人と前年の一割も増加している。以後、昭和十年を除いて一貫して増加を続けた。特に、昭和十二年(1937)頃からの増加率は、約2割という急激な増え方である。観客の増加に対して全国の映画館も増えているが、その増加割合は7%程度と意外と低い。つまり、一館当たりの入場者数が著しく多くなっている。この映画館及び観客数の変化は、東京でも同じことで、全国的な規模で起きていたものと思われる。

   さらに言えば、東京の映画観客の動向は、全国の変化をより明瞭化したものである。東京の映画観客数は、昭和十二年(1937)には、全国の16%を占めていた。それが昭和十五年には22%に達している。全国の増加率より高い割合で進んでいる。また、東京の中でも、映画館の最も多い浅草の観客数は、東京中でも際立って多くなっている。浅草のある浅草区の映画観客数は、昭和十二年、全国の2.7%しか占めていなかったが、昭和十五年には4.2%と1.7倍に増えている。浅草の一館あたりの観客数は、昭和七年の1,054人から昭和十五年の2,155人へと二倍になっている。浅草の映画館は、もともと観客数が多かったのに、前にもまして観客が多くなった。これは、映画を見るなら、混雑している映画館で見ようとする大衆の心理が働いたためだろう。  
   二・二六事件(昭和十一年)、日中戦争の開始(十二年)、国家総動員法(十三年)、第二次世界大戦開始(十四年)、紀元2600年(十五年)を祝って、日本がアメリカとの戦争に突入する中、映画館に足を運ぶ大衆が著しく増加している。これは、大衆が映画を見る時間がまだあって、経済的にも余裕があったということである。こうした様々な事情を当時のレジャーを考えるにあたって心に留めておきたい。次に、増加した観客がどのような形態で映画を見ていたかを想定してみよう。大衆の生活は、日々に苦しくなり、戦争の重圧から逃げられない重苦しい空気が漂い始めた。そうした迫りくるつらい現実を紛らわしてくれる存在が映画ではなかったか。大衆は、浅草六区に集まり、超満員の映画館に入っていった。真っ暗な中、混んでいれば混んでいるほどよく、それでいて隣は誰だかわからない方がよい、そのような中で映画を観賞したかったのだろう。     

 映画館というのは、空いていて静かだと、回りの人々との一体感は得にくい。できるだけ多くの人と同じ映画を見ることによって、同じ感動を分かち合い、大衆の安心感を高めた。さらに、映画には現実からの逃避だけでなく、これからの将来がどのようになるかを知る手掛かりがあった。戦争に勝てるかどうか、生活はどうなるか、占いではないが、映画はそれを教えてくれるような気がしたのだろう。映画製作者も、軍部検閲の眼をかいくぐるように映画のなかで訴えていた。たとえば、昭和十六年のキネマ・ベスト6位に選ばれた「江戸の最後の日」では、板東妻三郎演じる勝海舟が必死になって、物量も優る官軍との決戦を避けようと訴えているシーンがでてくる。アメリカとの戦争を目前にして、最終的に和平を選択する「江戸の最後の日」という映画を制作することはどのような意味を持っていたのだろうか。

  もちろん、大衆のうちどれだけの人々が製作者の意図を理解できたかは、疑問である。しかし、たとえ大衆が娯楽映画として見たとしても、やはり何らかを感じることはあっただろう。本来ならば、国民に正しく、正確な情報を提供しなければならない新聞やラジオなどのマスコミは、真実を伝えず、大衆の望む方向を一切無視した。暗雲が垂れこめる中、当時の映画は、唯一、希望の光を与えるものであったと言えるのではないか。昭和十六年には、平均すると国民一人が一年に6.4回(二月に1回以上)も映画を見ていた。日本人が映画を心のよりどころにするという傾向は、戦後はより顕著になり、昭和三十五年頃まで続く。