七草 続

秋の七草ナデシコに注目
 では、江戸の庶民は「秋の七草」とどのような関わりをもっていたのだろうか。庭を持たない圧倒的多数の人々にとっては、七草を眺めて風流を気取ろうと思えば、鞠塢の百花園にでも出かけるしか術はなかっただろう。もっとも、七種の草花を一か所で見ようと欲張りさえしなければ、江戸の周辺で普通に見ることのできるものばかりではあったが。案外、「秋の七草」のうちのいくつかを寄せ植えにした鉢など、縁日で見かけることができたのかもしれない。
イメージ 1 また、江戸時代の「秋の七草」をモチーフにした作品として、歌川豊国の「小村井梅園 秋の七草」同じく豊国の「東京都年中行事八月向島花屋敷 秋の花園」、鞠塢と親交があった酒井抱一の手による「秋草図屏風」などがあげられる。これらの作品が当時の七草人気を背景に描かれたものであることは、むろん言うまでもない。
  文化文政以降、それまでは「秋の七草」の一つに過ぎなかったナデシコが一躍、園芸界の注目株になった。当時の江戸の園芸界においては、折しもツバキ、カエデ、キク、アサガオなどのいくつかの大流行を経た後、好事家たちは一様にいわゆる「狭く深い」世界を志向するようになっていた。具体的にはセッコク、マツバラン、サクラソウミスミソウなどが該当し、それぞれその一種類の植物だけで立派な園芸本が出版されたほどである。中でもナデシコ天保年間に愛好者による花合わせが催されたほどの熱狂ぶりが見られた。
イメージ 2 もっとも、この場合の「ナデシコ」は伊勢ナデシコやトコナツという種類のものをいうのであって、「秋の七草」のあのピンクの可憐な花をつけるカワラナデシコとは別種のものである。江戸時代に出版された『撫子培養手引書』(文久三年、長谷川酔香著)の解説によると、伊勢ナデシコとはその原種と思われるセキチクが中国から薩摩に渡り、それがまた伊勢に伝わってその地で紀州藩士継松栄二(1803~1866)が栽培中、偶然にも花弁の深く切れて、しかも極めて長いものを発見。さらにこれに改良を加え、それが伊勢ナデシコの発端と言われている。渡来した経緯からトウナデシコ、サツマナデシコ、洛陽花などとも呼ばれた。
 現在の伊勢ナデシコでも花弁は長く、優に10センチを越える。現物はまた印象が違うかもしれないが、モノクロ写真を見るかぎり、まるであの世の者が現れて、髪を振り乱しているような異形の花である。(伊勢ナデシコは昭和二十七年に天然記念物に指定、赤、白、紅白絞りなどの色があり、現在五十種ほどが保存されている)官軍の総大将としても知られる有す川宮から光格天皇に献ぜられ、愛好されたというぐらいだから、園芸界における地位の高さはわかるが、現代人の目から見れば、なるほど珍花には違いないと思うものの、この花がそれほど好事家たちを熱くさせたというのは、やはり不思議としかいいようがない。これもやはり、江戸っ子の「新しもの好きで天の邪鬼」という性格が生み出した産物と言えよう。