好景気に釣られる十二年の冬市民レジャー

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)229
好景気に釣られる十二年の冬市民レジャー       

 昭和十二年、一月に広田内閣総辞職、二月に成立した林内閣は三月に衆議院議員を解散する。四月の選挙で政府側が議席を減らし五月に林内閣総辞職、六月に近衛内閣が成立し、政局は目まぐるしく変化した。忍び寄る戦争、まだ政府はもちろん、軍部も予期していなかったのであろう。となれば、東京市民はなおさらのこと、今を楽しむことに現を抜かしていた。
 東京市民のレジャーは、軍需インフレに酔うように、正月から浮かれて活発であった。映画・演劇、相撲・野球などの興行は、前年を上回る観客数の大盛況。それに対し、行楽活動は、天候不順と花見などの規制よって盛り上がりを欠いた。また、現在では信じがたい映画館での男女別席が廃止され、二月から同席が自由となる。
 新聞は、年中行事となった建国祭、「帝都は奉祝の一色」との見出しで報じている。どの程度市民の自主的な活動であったかは検証できないが、楽しむ祭りとして認めざるを得なかったのであろう。休みの少ない当時にあって、貴重な休息日で、映画館など娯楽施設が満員であったことから推測できる。また新聞は、建国祭の盛り上がりを引き継ぐように、「征旅十カ月、勇姿竌爽と都入り」と、歓迎の様相を写真と共に報じている。征旅十カ月がどの様なものであったか、市民はその実態を伝えること無く、まるでオリンピック選手の凱旋を彷彿させる印象を操作している。

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昭和十二年(1937年)一月、広田内閣総辞職(21)、陸軍火工廠板橋火薬製造所大爆発(23)、軍需インフレに誘われて、第一次世界大戦以来の好景気に市内は物凄い人出
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1月3日Y 「爆発した春景気 歓楽街は『人』で満腹」
  5日a 観音様、軍需インフレでお賽銭箱が満腹
  5日a 上野動物園、三箇日の入園者数約五万人、四日は一万八千人で賑わう
  5日a 浅草電気館等「雪夜の謎」他満員御礼
  6日A 蒲田梅屋敷身売り、さびしい“安売り”の立て札
  6日a もみくちゃ水天宮、朝の人出「十万」を超え、正午までに御守り1万5千枚、腹帯2千本
  9日A 西新井大師、七草迄に「ざっと百五十万」の参詣者
  10日a 浅草帝国館等「花嫁かるた」他満員御礼
  15日a 出初式、消防署員一千三百人・消防組員六千一百人参加、日本橋では前日に管内出初式
  16日a 浅草電気館等「美人国のぞ記」満員御礼
  16日a 大相撲初日、朝六時に入場券売切り
  17日A 「ブタ汁を乗せて」初のスキー列車動く
  22日a 日本劇場・東横映画劇場「女人哀愁」満員御礼
  29日a 深川の初不動、「夕刻までに人出四十万」
                                                
 浅草は、元日から一日「平均三十万人」もの人出。「高島田に結いたる娘多し。近年の流行なるべし。・・・路地を一めぐりして浅草雷門に出づ。遊歩の男女織るが如し」。二日、「この夜境内には夜店つらなり活動館はいずれも満員の札をかかげ出したり。数年前の寂寥には似もやらぬ好景気なり」。と、永井荷風は日記に書いている。
 エノケンは、「浅草の景気はこの数年にない素晴らしさ」A⑦、軍需インフレで、煙草をはじめとする諸物価は値上がり、生活が苦しくなっている反動による“ヤケ景気だ”と観察している。この人出によって、正月五日間の市電と市バスは、446万人と152万人を運び、前年より五分と一割の収入増加で「思わぬ儲物」。東京鉄道局も、乗車人員843万人で94万人増加、202万円の収入増となった。
 お賽銭も人出を反映して、浅草観音では十日までに「八千円は下らぬ」a⑫。賽銭の大半は一銭であることから、一人一銭としても80万人、二人に一人が賽銭を投げ入れたとすれば160万人が浅草を訪れたことになる。また、西新井大師はこの年の恵方に当たることから、七草迄に「ざっと百五十万」の参詣者があった。守護札は45万枚で20余万円の売上げ、海運積盛守り25万枚は三日の朝になくなり、20余軒の茶屋も素晴らしい売上げとなった。
 大相撲春場所の初日、十五日の午前二時からの切符の売出しを前日の午後十一時半に繰上げ、朝六時に売切るという「物凄い相撲景気」。20軒の茶屋、70軒の売店、混雑しすぎてお客が来れないとのグチもあるが「どこもホクホク」。その後も「相撲の興味に大入続く」a⑲。十六日、「浅草に至るに土曜日と藪入とを兼ねたる故にやおびただしき人出」ka⑯、藪入りの混雑は、映画館の方が凄まじく、警視庁はなんと“補助椅子もよい”と「粋なお許し」が出た。

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昭和十二年(1937年)二月、林内閣成立②、京成バス罷業④、軍需景気によって東京株式市場は152万株と取引最高を記録(22)、追儺式の人出最高、建国祭は興行も盛況
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2月2日a 一高記念祭の幕開く
  4日a 豆撒き列車合戦、成田行き大賑わい
  4日A えらい“豆撒き人気”浅草約二十万
  5日a 帝国劇場等「新しき土」他満員御礼
  11日ro 宮城のあたり建国祭の行列にぎやか、座は開場前にもう満員(有楽座「荒神山」他)
  12日a 建国祭、七万人動員「帝都は奉祝の一色」
  12日y 「東京部隊輝く凱旋 東京駅から宮城へ無慮三万が団旗や国旗で埋め尽くす
  20日a 征旅十カ月、勇姿竌爽と都入り、沿道は日の丸の波
  21日a 浅草電気館等「鳴門秘帖」他満員御礼
 
 正月の人出が追儺式頃まで続いた。成田へは上野・両国から69本もの列車が発車され、それに負けじと京成電車が増発をした。市内でも、浅草が「約二十万」、水天宮が「約十万」人などの人出、「物価の勝騰、何処吹く風」の盛況。
 十一日の建国祭は、靖国神社芝公園神宮外苑・上野公園・隅田公園錦糸公園・深川公園の7式場に266団体「七万人動員」した。その様子は、建国祭絵巻物として「少年武者」「国防婦人会発会式」「修養団の鉢巻行進」「女高さんの颯爽たる音楽隊」「凧揚げ会」の写真で掲載。終了後は、戸山学校軍楽隊を先頭に宮城前へ行進。また市内は、早朝より明治神宮へ多数の参拝者、「劇場・映画館は 大入り満員」であった。

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昭和十二年(1937年)三月、市議会議員選挙⑯、衆議院議員解散(31)、市民のレジャー気運は高いが、天候不順で人出は湿った
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3月1日ka 銀座に来れば夜店の雛市賑なり
  6日A 「仮装は法度」警視庁の花見準備
  7日a 婦人報国祭、靖国神社から皇居前広場まで二万の行進
  11日Y 陸軍記念日、州崎埋立地で「大航空ページェント」地上数万の観衆
  11日a 靖国神社から銀座へ軍楽行進
  11日a 浅草電気館等「牡丹くぐるる時」他満員御礼
  13日a 帝国劇場等「女だけの都」他連日満員
  19日a 帝国劇場等「ターザンの逆襲」他満員御礼
  22日Y 多摩川園「つゝじ人形」「押出した二万人」
  29日A 「チラホラの桜便り」郊外電車のそろばんに現れた人出は「ザッと百五十万」
  26日a 日比谷映画劇場「目撃者」他満員御礼
 
 インフレ景気で市民のレジャー気運が煽られているためか、警視庁は花見の「仮装は法度」と取締り強化。盛況なのは映画だけで、市内の人出は、婦人報国祭の「二万の行進」や陸軍記念日の「大航空ページェント」や軍楽行進などのイベント程度。
 それでも彼岸になると、多摩川園「つゝじ人形」に市民が出かけはじめ、二十八日の日曜は、久しぶりの晴れということでドッと市民が戸外に出た。交通機関から推測で「ザッと百五十万」もの人出。