太平洋戦争に向かう昭和十六年冬

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)245
太平洋戦争に向かう昭和十六年冬
 中国での戦争が行き詰まり、正月から暗いムードが漂っていた。国民の生活は日に日に追って劣化しているが、改善しようとする動きはなく、どこまで低下させることができるかを探っているようだ。それでも市民(国民)は、堪えているというより、進んで劣化に協力している。つまり、困窮生活することを、生き甲斐にその日その日を生きているようだ。
 東京の街は戦時色を強め、街行く人の服装もモンペやゲートルなどを身につけた非常時服が多く暗くなった。それを当然として、国の方針を守り、率先して行なう人が少なくない。商店には午後九時閉店が通達され、それを受けて商店員には早寝早起きが奨励されることになる。支配される大衆などと言いたくないが、どんなに苦しくても受け入れる大衆社会が成立したということなのだろう。ただ、それでも市内で遊ぶ市民が減らないようなのは、どういうことなのであろうか。

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昭和十六年(1941年)一月、西巣鴨に初の防空公園着工①、ニュース映画の強制上映実施①、新聞紙等掲載制限令交付施行⑪、正月気分はないものの市内には人出も多く、賑わっていた。
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1月2日Y 初詣の人波、明治神宮百五十万、靖国神社四十万、宮城前約五十万、恵方参りの浅草・神田明神日枝神社など五十万、成田山約四十三万
  6日a 観兵式予行、兵二万人、観衆数万人
  10日A 大相撲春場所、観客押し切って勝つ、昨夜九時には一万五千人入場
  12日ka オペラ館に去年より犬の見世物あり。算数をよくす
  15日a 電気館等「白衣の天使」他満員御礼
  15日y 日本劇場「昨日消えた男」他日延べ
  16日y 日比谷公園青年団第四回訓練運動大会
  16日y 前夜から藪入り部隊、早朝から満員御礼
  25日a 大相撲千秋楽、通算約二十数万人の盛況
  25日a 明晩から九時閉店、商店員には早寝早起きを奨励
  28日na 日本映画の行列、木村屋のパンの行列

 ロッパは、元日の日記に「此の非常時の正月は、みじんも正月の気分がない」と。それでも、市内の人出は物凄く多かったようで、明治神宮をはじめ盛り場は大盛況であった。「浅草公園の人出物すごきばかりなり。駒形辺または田原町辺より人波を打ちたり。赤十字の白き自動車は二三台警笛を鳴して飛び行くを見る。浅草にかぎらず今年市中の人出去年よりも甚しきがごとし。東京の住民は正月のみならず何かあれば全家外に出で遊び歩くものと見えたり。此れ近年の風俗なり」と、荷風は二日の日記に書いている。また、三日も「市中の混雑昨日の如し」とある。
 四日、ロッパは「自宅へも楽屋へも年始客というものが無い。酒気帯びた人というものを、一向に見ない」と。有楽座は元日から『新婚隣組』『ロッパと開拓者』などの満員が続き、十五日も「大満員、藪入り客で男多く、元気よく笑う」とある。大相撲の初日は、記録破りの朝六時に札止め。興行はすべて盛況なようで、有楽座は二十八日の千秋楽まで満員。
 市内の人出も、二十六日「日曜日の人出おびただしきが中に法華宗の題目をかきたる幟二三流押立てて人中を歩み行くものあり」。二十八日は「尾張町あたりの人出祭日の午後の如し。街頭宣伝の立札このごろ南進とやら太平洋政策とやらと言う文字を用い出したり」と、荷風の日記にある。

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昭和十六年(1941年)二月、日比谷で東亜子供大会開催①、李香蘭の人気のためか、市内のレジャー気運は高く人出が続いた。
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2月4日A 豆ぬき“福は内”、深川不動五万人、亀戸天神・堀之内妙法寺各三万人など
  5日ka 水天宮の賽日なり
  10日A 日比谷公園に見本農園
  12日Y 有楽街に閑人十万の怒濤
  12日A 建国祭、靖国神社など七式典場に「ざっと十三万」式終了後皇居前広場に向かって行進
  15日a 大森でサーカスのライオン、幼児を咬殺す
  15日ro 日劇のアトラクション『歌う李香蘭』を見て、帰宅

 とうとう節分に撒く豆も無くなった。市内の追儺式は、「人出こそ十五万を超えたが、蒔く豆はパラパラ」。二月になっても市内の人出は、あまり減らない。十一日、建国祭に「十三万人」が動員された。有楽町は、李香蘭日劇に初出演するということで、開演前から観客が殺到。劇場の切符売場に向かって先を急ぎ乱闘発生、警官が出動し混乱を整理。たが、今度は入れなかった人々が騒ぎはじめ、さらに、野次馬が集まり、警官の警戒が夜まで続いた。
 荷風は十五日の日記に、「土曜日なれば人出既におびただしく活動小屋の木戸口には群集堵をなしたり」と書いている。映画は市民の数少ないレジャーのなかでは最も人気があり、二十二日付の新聞Aに、前年の映画調査の結果を載せている。市民は一年に16回映画を見、映画館には毎日30万人の観客あると。

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昭和十六年(1941年)三月、国民学校令公布①、レジャーの制約が進むなか春の行楽がはじまる。
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3月7日y 婦人報国祭、一万六千余名宮城へ大行進 
  10日y 後楽園球場で軍用犬鍛練大会
  11日a 四たび迎える陸軍記念日、講演や行進等の催し
  15日a 大森でサーカスのライオン、幼児を咬殺す
  17日Y 後楽園球場、熱戦に酔う超満員の観衆
  22日Y 後楽園球場・羽田飛行場・多摩河原等に人出
  28日A 日本劇場・浅草帝国劇場「家光と彦左」他連日盛況御礼

 市民レジャーが制約されている中、まだサーカスがテント興行を行っている。楽しみを求める市民は、地久祭や軍用犬鍛練大会・陸軍記念日の催しなどに、出歩いたりして気晴らしのできるものであれば盛んに出かけている。
 荷風は、「春風暖なるに従って銀座通の人出日に増し甚しくなれり。芝居活動小屋飲食店の繁昌亦従って盛なりと云う。其原因はインフレ景気に依るのみにあらず、東京の人口去年あたりより一月に二三万ヅツ増加するに係らず、米穀不足のため町に出でて物喰わんとするもの激増せしが為ならんと云う」と、二十六日の日記に書いている。