明治後期の庶民レジャー

江戸・東京庶民の楽しみ 144
明治後期の庶民レジャー
・日清・日露戦争で縮む後期のレジャー
 我が国は、明治二十年代半ばから、富国強兵策が軌道に乗りはじめた。国内産業は、繊維工業をはじめとして重工業、化学工業が成立、産業革命が展開された。日本の産業は、アジア諸国に比べて飛躍的に発展する。それは戦争によってもたらされたもので、国民の生活向上を伴うものではなかった。東京市内には、多くの工場が作られ、農村部から人々が流入した。その結果、市民の構成で見ると、江戸時代から住んでいた職人の影は薄くなり、新たな賃金労働者という層が大きなウエートを占めることになった。また、代々続いた商家というような階層は少なくなり、企業・会社の事業家・経営者といった新たな階層が台頭してくる。そして、東京には、明治になって生まれた学生や兵士などが実数以上に目立っていた。
 東京市民の構成で言えば、まず、下層者に変化が起きた。下層者も工業労働者として雇用されるようになったため、薄給ながら最低の生活は送れるようになった。下層の上であった江戸時代以来の職人層は少数派となり、技術を持つ工業労働者がこれに取って代わった。また、ホワイトカラーが増加し、中流層にも所得差が生じ、工業労働者と同じくらいの生活レベルの人々もでてきた。したがって、当時の東京の人口は、上流者1割、中流者3割、下層上5割、下層者下1割のような割合になったものと思われる。
 行楽や娯楽などの形態にも、新たな変化が現れた。まず、中流者には、インテリ層と呼ばれる人々が生まれ、文芸だけでなくレジャーにも積極的に活動しはじめた。特に学生は、時間があり先端情報が得られることから、行楽や娯楽なども率先して行い、オピニオンリーダー的な役割を担った。当時のレジャーは、欧米のものであれば何でもいいというわけではなかった。また、江戸時代の郷愁に浸る、というのとも違う新たな傾向が見られるようになった。大衆レジャーも、工業労働者の増加で、休息や気晴らしを求めるという現代のレクリエーションと同じような傾向を示しはじめた。なお、この時期、戦争のために兵営に集められた兵士は、その多くが歓楽街に流れて刹那的な楽しみに浸っていた。
 明治後期のレジャーは、日清・日露戦争の影響を大きく受けている。寄席や観劇などは、戦争中は観客が減少するが、終わると急激に増加する。また、戦時中ということで、たとえレジャーであっても楽しむことだけではなく、戦争遂行に供することが暗黙のうちに求められていたようだ。市民の自主的な祭礼が抑えられ、戦捷祝賀会や凱旋祝賀会など上からの行事に参加せざるを得ないように仕組まれた。
 政府は、戦争に必要な兵の体力補強を考慮して、武道を含めたスポーツを体育として奨励し、振興を進めた。スポーツ振興は、運動会というかたちで小学校、さらに一般市民にまで広がった。これによって、運動会は、祭礼同様に東京の年中行事として定着することになった。しかし、市民参加の可能な運動会も、労働組合の活動色が強くなると禁止され、市民が自主企画して楽しむとまでには至らなかった。
 市民のレジャー熱は戦争によって冷やされるが、日清・日露戦争の合間には、演劇や寄席の観客数は、それまでの最高を記録する。明治三十二年(1899)、劇場観客数は430万人を記録した。ちなみに、その年の劇場観客数は、大劇場一日平均で全幕を見る木戸観客が755人、一幕限りの観客が569人、小劇場でも木戸観客543人、一幕限りの観客が568人となっている。このような観客数の増加には、前年正月興行の大入場の料金が高くても10銭と寄席や見世物と変わらなくなり、料金の大衆化が進んだことが大きく影響していた。
 観客数の増加によって、演劇の内容にも幅ができ、新しい芸術表現や西洋戯曲などが上演された。演劇界や新聞の論調は、明治になって芝居が歌舞伎から近代演劇に発展し、観衆もかなり理解したように書かれている。しかし、欧米演劇の影響を受け、人物描写にしても新しい視点の「新劇」、歌舞伎に対抗した「新派」などを本当に理解できたのは、一部の市民でしかなかった。話題性があるから足を運びはするものの、そこに求めている楽しみは歌舞伎と何ら変わりはなかった。観客は荒唐無稽な筋立てやパターン化された演技と、まさしく古典歌舞伎を望んでいた。
 寄席も三十二年に、それまで最高の527万人の観客を迎える。なお、寄席の数は、減少しはじめ150程度になった。神田や日本橋、芝などの寄席はあまり減少しなかったが、四谷や本郷などでは半減した。人口が急激に増加した地域や人口移動の激しいところほど寄席が消えた。観客の嗜好も変化して、落語や講談に変わって義太夫浪花節が人気を増してきた。特に義太夫は寄席の大きな位置を占めた。現代では、義太夫、特に娘義太夫を聞くことはほとんどない。だが、当時の義太夫人気は著しく、都新聞では明治二十六年(1893)の五月から「寄席案内」から「義太夫案内」が独立し、落語や講談などの紹介欄が消えてしまったほどである。義太夫全盛と言っても過言ではない。
 関西では、義太夫浄瑠璃というように、人形浄瑠璃をもとにしたものであるが、東京では娘義太夫が注目された。当時は、娘義太夫を「女義(たれぎ)」と呼び、「ドースル連」という学生親衛隊が会場を占拠し、学業がおろそかになるなど社会問題になったほどであった。もっとも娘義太夫の人気は、若さや美貌を売りものにしているのであって、芸内容は伴っていないというのが世評であった。 なお、義太夫の本当の実力者は、明治三十六年(1903)の都新聞「演芸三傑投票」によれば、竹本羽太夫であった。上位は男性が多く、義太夫が学生人気だけでなく、幅広い層に観客のあったことがわかる。明治中期に落語の笑いが求められたのに対し、日清・日露の戦争期間に涙の義太夫が人々の心をとらえたことは興味深い。当時の人にとっては、寄席で涙を流すことは少しも恥ではなかった。
 「演芸三傑投票」の結果を見ると、当時の寄席人気を反映して、最多得票は浪花節の鼈甲齋虎丸で16万9千票と浪花節人気を裏付けている。二位は前述の竹本羽太夫で16万8千票と570票差である。三位は落語で、柳亭燕枝が14万票。四位、講談の昇龍齋貞丈が8万票であった。各部門の総投票数も、同じ順位で浪花節が61万票、義太夫が42万票、落語が33万票、講談が27万票(但し、千票以上の投票があった芸人の合計票数)であった。また、投票された芸人の人数は、浪花節が96人、義太夫が305人、落語が60人、講談が43人であった。芸人数からは、義太夫が最も多く、2千票以上獲得した芸人が43人も選ばれている。義太夫には、個性豊かな芸人が多く、様々な芸風に応じた熱心な観客がいたものと思われる。

・活動写真が流行る明治終期
 日露戦争後の不況ははなはだしく、明治四十年(1907)に支払い停止に至った東京の主な銀行は五行、翌年も六行という未曽有の大恐慌であった。物価は高騰し、失業は急増、明治四十二年は、東京の人口が数字の上で25%も減少するという事態に陥った。四分の一もの人口が東京から脱出すれば、都市機能がマヒしそうなものであるが、そうはならなかったところを見ると数字どおりではなかったのかもしれない。減少の理由は、寄留人口を整理したからだとされているが、実際にもかなりの減少があったと推測される。
 明治四十三年(1910)、人口は11%増加。翌年が6%、その次の年が5%と、再び東京に地方から人が集まってきた。これら農村から流入してきた人々は、下層、それも大半が最下層を形成していった。人口の流動と不況によって、東京の人口は、上流者1割、中流者3割、下層者上4割、下層者下2割といった割合に変化していったものと思われる。
 明治終期は不況を反映して、お金のかからない行楽が盛んになった。明治四十一年(1908)の川開きは、納涼客がてら川岸を埋めた人々が多く「無量十万」との見出しがある。四十三年の花見時には、東京朝日新聞や読売新聞が「東京を包囲せる花」「花は真盛」などと連日記事を掲載し、花見の人出が年々増えていることがわかる。また、四十二年に国技館ができると、相撲の観戦客が増えるだけでなく、国技館を舞台にした菊人形の見世物観客も著しく増加した。
 菊人形は、明治中期に団子坂周辺に44軒もの小屋が並んだという市民レジャーだった。その後も大名行列の菊人形(二十九年)、回り舞台迫り出し菊人形(三十二年)、日露戦争菊人形(三十七年)など趣向を凝らして観客を増やしていった。さらに明治終期には、国技館や浅草清島町、浅草公園常盤座裏などを舞台にした大がかりな菊人形があらわれた。旧来の見世物は、ほとんど衰退したようにみえたが、その中で、菊人形は一人気を吐き、一大ブームをまき起こした。
 演劇や寄席の観客が減少する中、活動写真の人気はうなぎ登り、観客数は500万人以上に達したであろう。活動写真は、新しい世界を開く見世物として熱をあげ、市民の半数以上が見るレジャーになった。市民は、活動写真を奇術や菊人形などの見世物とはジャンルの違うものとして認識していた。しかし、統計上は、活動写真を大正五年(1916)まで見世物として扱った。
 明治四十年代を明治終期としてそれ以前と区別したのは、活動写真の急速な流行があったからである。大正期のレジャーを先取りする映画全盛時代はこの時期に始まった。活動写真の流行は、他のレジャーに多大な影響を与え、特に、観劇と寄席の観客数を減少させた。活動写真を見たのは、主に大衆と呼ばれる中流と下層上の人々である。
 明治終期の新聞紙上を賑わすレジャーは、相撲や野球、海水浴、アイススケートにスキーなどと、現代と大して変わらないような内容である。もっとも、東京市民の誰もがやっていたというわけではなく、最下層の人はもちろん、大衆と呼ばれる人々にとっても無縁なものが多かった。アイススケートやスキー、汽車などの新しい乗物を利用した行楽やスポーツは、いうまでもなく中流以上の有産階級のレジャーであった。舞踏会や園遊会などは上流階級のみに限定されたレジャーであったことはいうまでもない。

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明治四十五年までの主な事象
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明治三十年 1897年三月足尾鉱毒被害者二千人上京
           十月金本位制度実施
明治三十一年1898年六月隈板(わいはん)内閣成立
           八月尾崎行雄の共和演説
           十二月地租増徴案成立
明治三十二年 1899年 三月義和団事件勃発
           七月明治天皇東京帝国大学卒業式で銀時計授与
明治三十三年 1900年 五月皇太子成婚式
           六月義和団事件で日本出兵
           九月立憲政友会結成
明治三十四年 1901年 二月福沢諭吉死去
           五月社会民主党結成も2日で禁止
           六月星亭暗殺
明治三十五年 1902年 一月八甲田山で青森歩兵第五連隊遭難
           一月日英同盟調印
明治三十六年 1903年 四月政府対露方針決定
           十月小村外相とローゼン露公使の交渉開始
明治三十七年 1904年 二月日露戦争勃発、日韓議定書締結
           三月旅順で広瀬中佐戦死
明治三十八年 1905年 一月旅順のロシア軍降伏
           五月日本海海戦
           九月日露講和条約締結
明治三十九年 1906年 三月鉄道国有法公布
           十一月南満州鉄道株式会社設立
明治四十年 1907年 二月足尾鉱山で暴動
          七月第三次日韓協約調印
明治四十一年 1908年 六月赤旗事件
           十月戌申詔書
           十一月高平ルート協定成立
明治四十二年 1909年 四月種痘法公布
           十月伊藤博文ハルビンで暗殺
明治四十三年 1910年 五月大逆事件検挙開始
           八月日韓併合
           十一月白瀬中尉南極探検に出発
明治四十四年 1911年 一月大逆事件被告24人に死刑判決
           九月平塚らいてう青鞜社結成
明治四十五年 1912年 一月孫文臨時大総督就任
           七月明治天皇崩御大正元年改元