古田織部茶書・宗湛日記・今井宗久茶湯日記抜書の茶花

茶花 3  
古田織部茶書・宗湛日記・今井宗久茶湯日記抜書の茶花
古田織部茶書の茶花
 『古田織部茶書二』(市野千鶴子)には、「織部茶会記」が掲載されている。その茶会記は、「目録」から見ると二つに分けられる。最初のグループは、『今井宗久茶湯書伐』(静嘉堂文庫所蔵本)と『宋及茶湯日記』(茶道古典全集第七・八巻)等、七つの茶会記を底本としたもの。その茶会記には、天正十一年十月十五日から慶長十九年十月廿九日までの98回が記されている。もう一つは、[古織会附](東京大学付属図書館所蔵旧南葵文庫本)で、慶長十五年十一月十六日から慶長十六年二月十一日までの49回が記されたものである。
イメージ 1 最初のグループの茶会記には、茶花が記されている茶会が64(出現率65%)ある。この割合は、松屋会記「久好茶会記」に比べて5倍以上も高く、茶会の選定に偏りがあるのではないかと思われる。ただ、茶花は、ほぼ年間を通して記されており、茶会記の出典は異なるものの種類や傾向を把握するには適していると思われる。登場する茶花は18種程あり、主な茶花はウメ、ツバキ、スイセン、ヤナギの順である。それに対し、もう一つの[古織会附]には、48回のほぼすべての茶会に茶花が記されている。だが、使用された茶花の種類は7種と少ない。これは、茶会の季節が十一月から二月の冬期であるため、咲く花が限られていたからであろう。主な茶花は、ウメ、ツバキ、スイセン、キクの順である。
  主な茶花の種類は、双方とも大きな違いはないものの(使用頻度の相関係数は0.85)、[古織会附]には春から秋までに見られる茶花が少ない。したがって、両者の茶花を単純に合わせて、古田織部の茶会で活けた茶花は、このような茶花だと言い切るには多少問題がある。
 最初のグループとほぼ同じ時代、天正から慶長年間の茶会記、「久好茶会記」との相関係数を求めると0.91と高い値になる。「織部茶会記」には『松屋会記』の茶会が含まれてはいるが、その回数は2回である。また、もう一つの[古織会附]の茶会記も『松屋会記』との相関係数は0.87である。織部の二つの茶会記の茶花が『松屋会記』の茶花との相関係数が高い理由は、時代がほぼ同じという理由によるものと思われる。また、『天王寺屋会記』自会記との相関係数は0.82、他会記とは0.88とやはり高い値をしている。ちなみに、遠州の茶花との相関係数を求めると、最初のグループは0.71、[古織会附]は0.68となる。相関係数の差が時代の違いによるものか、趣向の違いによるものかは、サンプル数が少ないこともあって即断できない。
  市野千鶴子による「織部茶会記」は、当時の茶花の状況を知るには興味深いデータではあるが、統計的な有為性には問題がある。そのため、「織部茶会記」だけで当時の茶花について言及することは危険であり、捕捉的な資料に留めておくべきだろう。
 
宗湛日記の茶花
  『宗湛日記』は天正十四年(1586)十二月の上洛する行程から書き始められているように、純然たる茶会記ではない。しかし、その後には数多くの茶会が記されており、その他の記述を含めて全体として茶道史上貴重な茶書(茶会見聞記)として評価されている。茶会記には、当然のことながら様々な茶花が記されており、当時の茶花を知る上で興味深い資料である。
  日記であるとはいえ、行われた茶会をすべて記したかどうかは判断できないが、ここでは茶会として数えることにした。なお、ここでの対象は、天正十四年十二月から慶長十八年十二月までの445回とし、その後に記された天正十四年等の日付がある茶会については、前記の茶会と重複する茶会もあり除いた。
イメージ 2  『宗湛日記』には445回の茶会に、45回(出現率10%)茶花が登場している。年代順に茶花の出現状況を示すと、天正年間(1586~93年)の248回の茶会に20回出現(8%)。文禄長年間(1593~96年)には80回の茶会が記され4回茶花が出現(5%)。慶長年間(1596~1613年)には117回の茶会に21回茶花が出現(18%)している。
  茶花の種類は、14種で、最も多いのはツバキである。続いてウメ、スイセン、ハス、キク、オグルマ、ヤナギ、ヤナギ、ヤマブキ、ススキ、シャクヤクツユクサヤブコウジ、フキ、ヤクモソウ(メハジキ)の順になっている。日記の茶花について感じることは、茶会に登場する割合が同時期の『天王寺屋会記』や『松屋会記』と比べ低いこと。また、茶花の種類も少ないことである。茶会に茶花があることを確認できても、「花生テ」「ハナ入テ」「草花入テ」などと書いた茶会が14回もある。たぶん、宗湛は植物にあまり関心がなく、植物名もあまり知らなかったのだろうと思われる。
  また、記された茶花の名前を見ると、『松屋会記』などの茶会記に比べて偏りがある。たとえば、秀吉や利休などの茶会で使用された、当時としては珍しい茶花、オグルマ、ツユクサ、ヤクモソウなどが記されている。その理由は、彼がもともと知っていたのではなく、茶会で覚えた花の名を記したからではなかろうか。
  なお参考に、遠州の茶花との相関係数を求めると0.61と相関は低い。だが、「久好茶会記」との相関は、0.88とやや高い値を示した。サンプル数が少ない上に、データそのものにも問題があるので、考察は控える。『宗湛日記』から言えそうなのは、使用頻度の高いツバキやウメ、スイセン、キクが茶花の主流であったことである。また、それらの茶花に加えて、ツユクサなど様々な植物も使用されていた可能性があることを示唆している。
  宗湛ならではの話として、茶花でも秀吉との関わりを示すエピソードがあり面白い。ただ、宗湛は植物についての関心や知識があまりなかったようで、茶花の記述には物足りなさを感じ、特別貴重な資料とは言い難い。
 
今井宗久茶湯日記抜書の茶花
  永島福太郎は、『今井宗久茶湯日記抜書』の「解題」で「今井宗久の茶湯日記が、抄写本でなお創作かという一抹の不信はあるとはいいじよう、現存していることは幸せである。」と記している。この『今井宗久茶湯日記抜書』に登場する茶花を見ていくうちに感じたことは、『天王寺屋会記』と同じ茶会が幾つも記されているが、その中に不可解な茶会があることである。それは、『天王寺屋会記』の自会記に記載がないにもかかわらず、『今井宗久茶湯日記抜書』に宗及会(宗及が催した)の記載があるということである。そのため、茶花の史料としても真偽の点でかなり問題がありそうだが、『今井宗久茶湯日記抜書』が存在する以上見ることにした。
 茶会記は、天文廿三年(1554)から天正十七年(1586)まで記載されている。日記なので、全てが茶会記ではないが、大半は茶会記と言える。なお、茶会の回数は数え方によって異なるようで、83回とした。その中で、茶花が登場する茶会は36回(出現率43%)である。これは、『天王寺屋会記』はもちろん、『松屋会記』よりも高い。特に、天正年間の茶会記には半数の茶会に茶花が活けられ、出現率が高すぎるように感じる。なぜ『天王寺屋会記』などより高いのか理由がわからず、不思議である。
  茶花の種類は、18種で、最も多いのはツバキである。続いてウメ、スイセン、キク、キキョウ、ボタン、アヤメ、フヨウ、ウツギ、ヤマブキ、アジサイオミナエシ、ススキ、フジバカマ、ムクゲ、ワレモコウ、ナデシコ、ハギの順になっている。これらの花は、『天王寺屋会記』自会記と95%同じである。そこで相関係数を求めると、0.88とかなり高い値となる。また、他会記との相関も0.83である。同時代ということから類似した花が多いのは当然かもしれない。ただ、『今井宗久茶湯日記抜書』はサンプル数が少ないので、数値の信頼性はあまり高くないことは断っておく必要があるだろう。
 『今井宗久茶湯日記抜書』の取り扱いは、茶花でも注意が必要である。たとえば、永禄十年二月廿日の茶会記に「山吹」と記されている。これは、これまでの茶会記の中でのヤマブキの初見である。しかし、茶会記には宗及が同席したことが記されているが、宗及の他会記には当日の茶会記の記録がない。となると、その日に茶会が本当に催されたかという疑問が生じ、ヤマブキの初見を永禄十年とすることはためらわれるのである。同じく、天正二年四月三日のウツギも宗及の他会記には記録がない。ほかにも疑問がいくつもあり、『今井宗久茶湯日記抜書』の茶会記を茶花の史料とするには、さらなる検証が必要となる。
  中でも検討の必要な茶会記が、天正十二年七月七日の茶会の記述である。同日の茶会記は、『天王寺屋会記』にも記載があり、そこには、「同七月七日  七夕御遊アリ    花、七度生リ候、」と記述されている。それに対し、『今井宗久茶湯日記抜書』には、「同七月七日  於大坂御城  筑州様御会・・・一御床ニ・・・御廻り花七度アリ、芙蓉筑州様、花ススキ女郎花易、藤ハカマ及、キチカウ久、ワレモカウ・ナデシコ道、萩二、各生ケ申候」と『天王寺屋会記』より詳しく記載されている。それら8種の花の中に、オミナエシ、フジバカマ、ワレモカウの3種があり、これは茶花での初見となる。だが、この3種は、『松屋会記』『天王寺屋会記』『宗湛日記』はもちろん、『古田織部茶書』『小堀遠州茶会記集成』『金森宗和茶書』にも以後出現していない茶花である。さらに、オミナエシは宗易(利休)が活けたとあるが、この花は後に『南方録』で「花入に いれさる花」となる。利休においては禁花とされるオミナエシを、利休が活けた事実が本当にあったのか、不可解である。
  七月七日に七回、花が活けられたことは事実であろうが、その種類については不自然な形跡を感じる。それは、その日が七夕であるから、秋の七草を活けるのであれば、七草すべてがあるはずだがクズがない。もしかして、利休ら訪れた客は、手回しよく各自が異なる七草を持ち寄る、そのような打合せがあったのだろうか。そのような打合せが前もってないとすれば、主催者が用意していたものを活けたことになる。用意したとすれば、七草が全て揃っていないことはやはり不自然な気がする。したがって現時点では、この茶会記録を茶花の史料として採用することは避けた方が良いと思われる。