茶花の初見

茶花    4 茶花の種類その1
茶花の初見
  「花は野にあるように」など、茶花には様々な決まりがあるように伝えられている。だがその大半は伝承によるもので、利休の没後かなり後になってから成立したような気がする。では、実際に茶花はどのように活けられていたかを知りたくて、図書館などで探してみたが、茶道の門外漢である私には見つからなかった。そこで着目したのが茶会記である。茶会記には、茶の湯で活けられた花が数多く記されている。それなのに茶花を論じる人は、『松屋会記』や『天王寺屋会記』などの茶会記からなぜ解析しようという試みがなかったか、不思議に感じた。
  茶会記の信頼性を今一つ信じきれなくてしなかったと言うのであれば、一理はあるが、茶花の実態を伝える資料としてこれ以上のものがあるだろうか。「小座敷の花」などともっともらしく論じた南坊宗啓は、茶会記の花をどれだけ調べて述べているのだろう。どうも、茶花に関する決まりや種類は、茶会記に記された花にはあまり捕らわれることなく論じているように思われる。現代の茶花に関する本についても、利休の時代の茶会記をどのくらい参考にしているのだろうか。伝承によって観念的に形成された「茶花」と、それに基づいた茶花論が展開されているような気がする。
  たとえば、「古い会記に見える花の種類はおどろくほど少ない。天文から天正にかけての会記に現れる花はわずか数種類にすぎない」という記述を目にした。だが、これは本当であろうか、『天王寺屋会記』などの茶会記を見ると天文年間(正確には1549~51年)だけで16~20種ある。期間が3年間と短く茶会記の数が元々少ないのであるから、登場する茶花の種類も少ない、その辺の事情を考慮すれば当然であろう。さらに、利休の時代になっても著しい増加はなかったような考察が続く。だがその後の天正年間までに3倍以上、少なくても60種以上記載されている。数が多い少ないということは、あくまで主観にすぎないので言及してもあまり意味がない。ここで言いたいのは、茶会記の茶花から誰も考察しようとしないという不可解な事実である。茶会記からは真実は何も出ないのだろうか。
  そこで、実際に茶花がどのように活けられたかを、茶会記から初見を年代順に追ってみたい。

マツ・・・・・・・1549年・天文十八年正月九日「松」『天王寺屋会記』他会記
ウメ・・・・・・・1549年・天文十八年正月九日「梅」『天王寺屋会記』他会記
キンセンカ・・1549年・天文十八年二月十一日「金仙花」『天王寺屋会記』他会記
ツバキ・・・・・1549年・天文十八年二月十三日「うす色のつハき」『天王寺屋会記』他会記
カキツバタ・・1549年・天文十八年卯月七日「かきつハた」『天王寺屋会記』他会記
キキョウ・・・・1549年・天文十八年六月四日「きヽやう」『天王寺屋会記』他会記
ササ・・・・・・1549年・天文十八年六月四日「さヽ」『天王寺屋会記』他会記
チガヤ・・・・・1549年・天文十八年十月廿二日「あさち」『天王寺屋会記』自会記
キク・・・・・・・1549年・天文十八年十月廿三日「菊」『天王寺屋会記』他会記
センリョウ・・・1549年・天文十八年十一月十四日「仙寥花」『天王寺屋会記』自会記
ヤナギ・・・・・1550年・天文十九年二月廿四日「柳」『天王寺屋会記』他会記
フキ・・・・・・・1550年・天文十九年二月廿四日「ふきのたう」『天王寺屋会記』他会記
スイセン・・・・1551年・天文廿年正月十九日「水仙花」『天王寺屋会記』他会記
フジ・・・・・・・1551年・天文廿年七月五日「藤?」『天王寺屋会記』自会記
ナデシコ・・・・・1551年・天文廿年七月五日「なてしこ」『天王寺屋会記』自会記
ミヤマシキミ・・・1551年・天文廿年十月十七日「みやましきひ」『天王寺屋会記』他会記
ススキ・・・・・・1556年・弘治二年五月三日「スヽキ」『天王寺屋会記』自会記
セキチク・・・・・1556年・弘治二年五月三日「セキチク」『天王寺屋会記』自会記
リンドウ・・・・・1556年・弘治二年十月八日「りんたう」『天王寺屋会記』他会記
アサガオ・・・・1558年・弘治四年七月十八日「あさかほ」『天王寺屋会記』他会記
ヤブコウジ・・・1558年・弘治四年十二月二十五日「山たちはな」『天王寺屋会記』他会記
ハギ・・・・・・・1559年・永禄二年八月廿二日「萩」『天王寺屋会記』自会記
ユリ・・・・・・・1562年・永禄五年卯月卅日ひめゆり」『天王寺屋会記』自会記
ムギ・・・・・・・1568年・永禄十一年三月十日「麦」『松屋会記』
カイドウ・・・・・1568年・永禄十一年三月八日「海堂』『天王寺屋会記』自会記
イチハツ・・・・・1569年・永禄十二年五月五日「白一八」『天王寺屋会記』自会記
モモ・・・・・・・1571年・元亀二年三月三日「白桃」『天王寺屋会記』他会記
フヨウ・・・・・・1571年・元亀二年八月十一日「フヨウ」『天王寺屋会記』自会記
バラ・・・・・・・1571年・元亀二年十月廿六日「薔薇」『天王寺屋会記』自会記
シャクヤク・・・・1572年・元亀三年三月廿八日「シヤクヤク」『天王寺屋会記』自会記
ヤマブキ・・・・・1572年・元亀三年八月十五日「山吹ノ返花」『天王寺屋会記』自会記
イネ・・・・・・・1574年・天正二年五月廿七日「なへ」『天王寺屋会記』自会記
オウバイ・・・・・1575年・天正三年正月九日「黄梅」『天王寺屋会記』自会記
カンゾウ・・・・・1575年・天正三年八月七日「くわんさう」『天王寺屋会記』自会記
タケ・・・・・・・1577年・天正五年四月十三日「竹」天王寺屋会記』他会記
ボタン・・・・・・1578年・天正六年三月十日「牡丹」『天王寺屋会記』他会記
アブラナ・・・・・1579年・天正七年二月十三日「ナタネノ花」『天王寺屋会記』自会記
ケシ・・・・・・・1579年・天正七年四月廿八日「けしの花」『天王寺屋会記』自会記
ユウガオ・・・・・1579年・天正七年五月廿九日「夕かほ」『天王寺屋会記』自会記
チャ・・・・・・・1579年・天正七年十一月十六日「茶ノ花」『松屋会記』
セリ・・・・・・・1579年・天正七年十月廿一日「セリ」『天王寺屋会記』自会記
ウツギ・・・・・・1580年・天正八年三月十二日「卯の花」『天王寺屋会記』他会記
ヘチマ・・・・・・1581年・天正九年七月廿日「へちまの花」『天王寺屋会記』自会記
ヒョウタン・・・・1582年・天正十年八月六日「瓢干ノ花」『天王寺屋会記』自会記
クズ・・・・・・・1582年・天正十年八月十七日「くすの花」『天王寺屋会記』自会記
ツユクサ・・・・・1582年・天正十年九月三日「露草」『天王寺屋会記』自会記
アザミ・・・・・・1583年・天正十一年五月廿四日「鬼あさミ」『天王寺屋会記』他会記
キウリ・・・・・・1583年・天正十一年六月十六日「黄瓜花」『天王寺屋会記』自会記
ガマ・・・・・・・1583年・天正十一年九月十六日「蒲」『天王寺屋会記』他会記
サクラ・・・・・・1584年・天正十二年二月七日「熊谷ノ櫻」『天王寺屋会記』自会記
サクラソウ・・・・1584年・天正十二年三月四日「櫻草」『天王寺屋会記』自会記
ミョウガ・・・・・1584年・天正十二年三月十二日「みやうか」『天王寺屋会記』自会記
タケノコ・・・・・1584年・天正十二年三月十二日「竹子」『天王寺屋会記』自会記
ムクゲ・・・・・・1584年・天正十二年八月六日「白ムクケの花」『天王寺屋会記』自会記
ハナショウブ・・・1586年・天正十四年卯月廿日「花シヤウフ」『松屋会記』
シモツケ・・・・・1586年・天正十四年卯月廿二日「シモツケ」『松屋会記』
ヤクモソウ・・・・1587年・天正十五年六月十四日「ヤクモノ花」『宗湛日記』
オグルマ・・・・・1587年・天正十五年十月廿一日「ヲ車ノ花」『宗湛日記』
ケイトウ・・・・・1590年・天正十八年七月十二日「ケイトウ」『天王寺屋会記』他会記
ナンテン・・・・・1590年・天正十八年十一月十四「ナツテン」『松屋会記』
ツツジ・・・・・・1591年・天正十九年四月十三日「ツヽシ」『松屋会記』
ボケ・・・・・・・1599年・慶長四年二月廿三日「白ボケ」『松屋会記』
ハス・・・・・・・1603年・慶長八年七月三日「蓮」『古田織部茶書』
スゲ・・・・・・・1603年・慶長八年八月十七日「白すげ」『古田織部茶書』
サザンカ・・・・・1605年・慶長十年十月十日「山茶花」『古田織部茶書』
コブシ・・・・・・1611年・慶長十六年二月十一日「こふし」『古田織部茶書』
クチナシ・・・・・1625年・寛永二年九月二日「くちなし」『小堀遠州茶会記集成』
フクジュソウ・・・1627年・寛永四年十一月十七日「ふくつく草」『小堀遠州茶会記集成』
キスゲ・・・・・・1628年・寛永五年三月廿日「キスゲ」『小堀遠州茶会記集成』
コウホネ・・・・・1628年・寛永五年卯月十六日「河骨」『小堀遠州茶会記集成』
アヤメ・・・・・・1628年・寛永五年卯月廿六日「菖蒲」『小堀遠州茶会記集成』
オモダカ・・・・・1628年・寛永五年六月十六日「おもたか」『小堀遠州茶会記集成』
ラン・・・・・・・1628年・寛永五年六月十八日「蘭」『小堀遠州茶会記集成』
キンポウゲ・・・・1629年・寛永六年六月五日「キンホウゲ」『松屋会記』
エビネ・・・・・・1630年・寛永七年卯月朔日「エヒネ」『松屋会記』
テッセン・・・・・1631年・寛永八年三月廿七日「テツセン花」『松屋会記』
アオイ・・・・・・1636年・寛永十三年五月廿一日「アヲイ」『松屋会記』
アジサイ・・・・・1636年・寛永十三年五月廿一日「アジサイ」『松屋会記』
サワギキョウ・・・1640年・寛永十七年七月廿日「サワキキヨウ」『小堀遠州茶会記集成』
タンポポ・・・・・1641年・寛永十八年二月二日「タンホホ」『松屋会記』
シャガ・・・・・・1646年・正保三年二月廿五日「シヤカ」『松屋会記』
ヒルガオ・・・・・1652年・慶安五年七月十九日「昼かほ」『金森宗和茶書』
シュウカイドウ・・1652年・慶安五年七月十九日「秋かひとう」『金森宗和茶書』
ガンピ・・・・・・1653年・承応二年六月 「かんひ」『金森宗和茶書』
ミツマタ・・・・・1653年・承応二年極月廿日「三また」『金森宗和茶書』
トラノオ・・・・・1654年・承応三年九月三日「虎の尾」『金森宗和茶書』