日本流の自然保護

自然保護のガーデニング17

2002年(平成14年)6月30日(日曜日)毎日新聞朝刊の書評を示します。
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日本流の自然保護
 明治以降、西欧へでかけた日本人たちは、西欧の自然科学を驚異の眼差しを持って礼賛し、いわば盲目的に自然保護や森林の造成管理などの研究について学んできた。が、なぜ西欧で植物生態学などの学問が発達したのか、という背景には関心を持たなかった。さらに、日本より遅れている面や、劣る部分については、ほとんど見ようともしなかった。
 西欧諸国の方が日本よりも自然を大切にし、保護してきたかのように思っている人もいるが、必ずしもそうではない。西欧諸国は、古くはローマ、ギリシャの時代に、近くは17世紀ごろに徹底的に森林を破壊しつくした。そして、後に、是が非でも再生しなければどうにもならないことに気づいた。これは、西欧の森林が、一度破壊されると容易には回復せず、場合によっては更に悪化し、回復不能になりやすいということに起因している。(西欧の森林が生育する自然環境は、降雨量、日照・気温などに恵まれていないために、非常に厳しい。)
 また、西欧では、有史以来とぎれることなく民族間の争いが続いていて、それが自然破壊を一層進めた。ゲルマン民族の大移動からもわかるように、占領によって民族の入れ替えが起こった。しかもそれは支配階級だけでなく、下層階級にまで及んだ。末端の技術や技能が伝わりにくかったのはこのためでもある。
 日本では、17世紀の中頃(1666年)に「山川の掟」(川の両側の山で草木の根まで掘り取らないこと 伐採跡地での植林義務 焼畑農業の禁止 川の流れを妨げる工作物を設けないこと)という総合的な環境保全策を徳川幕府が出している。また、将軍および大名は、禁猟、禁伐などの措置をとって林野の利用制限をして、自然の保護に大きな効果をもたらした。このような上からの支配的な施策による自然保護が効果をあげていたが、それを遵守した人々のありようによるところが大きい。彼らは、禁令のない場所でも、自然を慈しみ、破壊することなく、「共存」していく方向で積極的に自然と接していた。特に、山林原野においては、いかに自然の恩恵を享受し、永続させていくかを真剣に考えて生活していた。
 たとえば青森県津軽半島の西側、日本海に面する屏風山では、なんと17世紀末から海岸の森林造成が行われている。これは、江戸時代には珍しいことではなく、西欧以上の規模の、独自の方法による森林の造成は鹿児島県の薩摩半島の西海岸沿い、吹上浜海岸など、北は青森から南は鹿児島、沖縄まで全国各地で行われていた。
  これはいわゆる西欧流の自然保護とは異なり、自然との共存のために行なわれてきたのである。「自然との共存」に必要な動植物に関する知識や技術は、日本独自のスタイルで着実な発達を遂げ、外国から導入すべきものはほとんどなかった。そして、生物に関する知識や技術は一部の知識階層だけのものではなく、多くの人々、それこそ農民にまで普及していて、決して特別なものではなかった。
 西欧と日本での自然保護の違いは、食料生産の効率の差からも生じている。米より生産性の低い麦類をつくり、その上多くの家畜を飼う西欧では広い土地が不可欠である。都合の良いことに西欧の地形は緩やかで、土地を隅々まで合理的に利用することができる。そのため自然は、残そうとしなければ残らない。西欧の自然科学は、西欧社会と自然条件などによって形成されたものである。
  『産物帳』(『江戸諸国産物帳』安田健著)などを見ると江戸時代の自然が非常に豊かであったことわかる。さらに『産物帳』には、様々な動植物について地方の生物相が示され、それが元々あったものか、あるいは他所から入ってきたものかということがわかる。これを見ると、生物相が変化していることは確かだが、江戸時代に消失したり、絶滅したりした動植物種はほとんどなかったようだ。トキなどは東北では害鳥として狩猟を許されていた一方で、それまで見られなかった金沢や備後国阿波国などで、新しく生息地をふやしている。野生生物の保護は、残す保護だけでなく、つくり出すとことも積極的に行なっていたことがわかる。