自然を守った先人の知恵

自然保護のガーデニング16

自然を守った先人の知恵
  入会利用は、村と村の争いを起こし、血なまぐさい戦いまで引き起こした。しかし、村の中での入会利用は、現代の我々が想像する以上に民主的かつ平等であった。それは、対外的には非常に厳しく対応したために、内部の権利者はしっかりと結束せざるをえず、結果的に内部の権利者たちの利用権についてはあまり差のないものとなった。また、利用規則は、「掟(おきて)」、「定(さだめ)」、「申合せ規約」などと呼ばれる「山仕法(やましほう)」によって、資源を荒廃させることのないように取り決められてはいたが、実際の運用についてはそれほど四角四面ではなく、むしろ比較的ゆるやかなものであった。
 そして、この入会利用は、明治以降、昭和の中頃まで続いた地域もあった。特に入会山を多く持っている村は、入会山の利用をめぐる規則が慣習的で、おおむね権利者の利益になるような形で成立していた。また、入会山の利用は、同じ地域であっても内容が同一のものであるとは限らない。そこで、次は大内宿という江戸時代の宿場風景を今に伝える、福島県南会津郡下郷町の入会山の利用に関連する記述について見ていきたい。(『下郷町史』第五巻民俗資料編 による)
 薪取りに関しては、広い入会山がある村では制限なく自由に伐採していたが、あまり余裕のない村では、不公平のないように、薪の長さを三尺、幅五尺、高さ五尺に決めて、それを一棚として四棚までとしていた。また、取る場所についても、どこでも自由に取れる村もあったが、公平を期するため、良い木や良い場所を籤で決めるような村もあった。なお、このようにして配分された立木は、その年のうちに切らないと流れて無効とするような、村内での差を生まない配慮もあった。
 萱は春、火をかけて地上の枯れた部分を燃やし、それを肥料として育てる。「山の口」(解禁日にあたる)を設け、村中で揃って山に行き、あとは刈りがたで刈っていた。次の日からは自由に取らせる所もあれば、各戸から一人か二人という具合に人数を決めて取らせる所もあった。期日を決めることによって、刈りはじめを平等にするとともに、萱の生育を待ち資源の有効利用を計っていたわけだ。
  家が焼けた場合は火事見舞いと称し、自由に用材をとって新築していた。改築に対しては、用材が昔ほど豊かでなくなっていたという事情もあって、新築のように無制限というわけにはいかなかったようだ。この場合は、たとえば土台となる材だけもらえていたりしていたらしい。
  以上のように、入会は、強者や支配者が勝って専有するという論理ではなく、林野も利用者も共に存続させるという考えがある。また、林野 (自然)を個人の所有物とは考えず、天からの授かり物ととらえ、畏敬の念をもって利用するというような自然利用のスタイルが形成されていた。さらに言えば、欲張って自然を痛めつけるような利用をすれば、必ず天罰が下り、他の人にも迷惑をかけるという意識が誰の内にもあった。これは、農民たちの間で林野利用の倫理観として広く成立し、自然を破壊せずに効率的に活用することこそが、豊かとまでは言えなくても一定水準の生活を永続きさせることに結びついていた。
 そして、もう一つ、自然との共存に大きく影響したのは、日本人の自然観である。人間は草木や動物と同じ「生き物」とであるということ。これは、西欧に先立って、人間が自然の一員であることを悟ったものである。つまり、命はすべての生き物にとって平等である、この生命を粗末にしてはならないという精神だ。ここから、人間の奢りは悪しきもので、自己本位な振る舞いは自重すべきであるというような、自然への謙虚な行動が起こる。当時の人には「自然保護」という概念はなかったが、このような精神・感情こそが自然と共存するため役立っていたと考えられる。
 農民は生き物を育てることと殺すことという、相反する矛盾を両立させるため、自分たちの置かれた自然環境にどう対応していくかを考え実践していた。たとえば、毎年、田畑を荒らすイノシシを間引かれた子の生まれ変わりで、子供が食い分を取りにくるのだと考える。食害対策には、イノシシ柵を作るような駆除しかしなかった。西欧であれば、農作物に被害をあたえれば、害獣を絶滅させようとしたであろう。江戸時代の農民は、自分を含め、生き物すべての命を大切にし、無益な殺生を行なわなかった。この命を粗末にしてはならないという規範は、いまの日本人にとっても、自然保護などよりずっとわかりやい。江戸時代、それこそ毎日生物と接していた農民は、生きるためには少なからず殺生をしなければならず、生命の尊さを実感して暮らしていたのだろう。