『大正二年日記』

『大正二年日記』

 この年、鷗外五十一才。『阿部一族』『佐橋甚五郎』などを発表、『ファウスト』『マクベス』などを刊行。
 三月
イメージ 1「五日(水)。晴。稍暖・・・芍薬の芽出づ、福壽草開く。」
「十六日(日)。半陰。園を治す。芍薬、貝母の芽長ぜり。・・・」
「二十三日(日)。半陰。園を治す。・・・」
「三十日(日)。晴。・・・午後園を治す。・・・」
 鷗外は、三月に入って三週連続、日曜日に庭の手入れを行っている。花畑の大改造をしているようで、これはよほどのガーデニング好きでないとできないことだ。
 四月
「二日(水)。晴。櫻花盛んに開く。・・・」
「三日(木)。晴。終日園を治す。夕より興津彌五右衛門に關する史料を整理す。・・・」
 ところで、鷗外にとってガーデニングはどのような意味を持っていたのであろうか。この日の庭仕事は、『興津彌五右衛門の遺書』の史料整理を後回しにするほど重要であった。
「六日(日)。晴。阿部一族等殉死小説を整理す。桃、山吹咲き初む。」
 この日は逆で、小説の方が先。何といっても、歴史小説阿部一族』の原稿の整理がようやく終えたというのだから、鷗外としては、いの一番に書き留めたいできごとだったのだろう。
イメージ 4 日記の記述として、「阿部一族等殉死小説を整理す。」だけでは味気ないが、「桃、山吹咲き初む。」を加えることによって、何とも心地よい安堵感が伝わってくる。
 このように、開花の記述は、日記の中で一見無駄のように見えるかもしれないが、実は鷗外の心情をよく表している。彼は意図的に開花を加えたもので、天候のようなお決まりの季語にとどまらず、時として重要な意味を持つ。さらに言えば、鷗外作品においても、草花は単なる添え物ではなく、深い意味を持つ小道具として印象的な光を放っている。たとえば、『山椒太夫』に登場するスミレなどは、鷗外が草花に関心を持っていたからこそ、彼ならではの味わいを出すことに成功したのではないか、と思われる。
「十四日(月)。薄曇。葉櫻。・・・」
「十六日(水)。陰。・・・杜鵑花の莟。・・・」
「十七日(木)。陰。・・・麻布賢崇寺に往く。・・・椿、山吹の盛なり。・・・」
 桜は葉桜となり、シャクナゲの蕾もふくらみ、ツバキやヤマブキの花が盛りとなった。その後、開花の記述は五月末までない。鷗外の庭への関心が低くなったのかとも思ったが、翌月に入るとそうではないことがわかる。
 六月
「一日(日)。晴。園を治す。妻、茉莉、杏奴、類三越に往く。」
 妻と子供たちは三越に出かけた。いつもなら、鷗外も一緒に行くはずだが、この日、一人花畑で作業をしていた。この時期はガーデニングに熱が入っていたらしく、三月二十三日も妻子だけで出かけている。その日も「園を治」していて、洋行する知人の見送りすら自分は行かずに人を遣わしている。
「五日(木)。陰。・・・白花の石竹を買ふ。」
 この日購入したセキチク、いつ植えたかは日記に書かれていないが、庭のどこかに植えたに違いない。この年は、日記書かれただけで五日間も庭で本格的な作業をしている。その他にもセキチクのように軽作業はしており、当然のことながら花畑の見回りや植える場所の草取りをしていた。さらに、害虫が発生すれば、それらも対応したはずである。
 そのような時、鷗外は、庭作業をしながら何を考えていたのだろう。単なる気晴らしであったはずがない。『大塩平八郎』など以後発表される作品の量から推測して、花を見ながら頭の中では作品の構想を練っていたと思われる。
「八日(日)。晴。・・・予杏奴、類を伴ひて植物園に往く。」
「十九日(木)。晴。暑。灰色の雲。風僅に木葉を揺るがす搖す。・・・」
「二十日(金)。晴。暑。虞美人艸開く。・・・」
イメージ 2 この虞美人草ヒナゲシ)は、前々年に購入した罌粟(ケシ)ではないかと思われる。この年の一月に発表された『ながし』の中に、「虞美人草の間の草をむしつてゐた。」という文章がある。
 鷗外は前年、実際にヒナゲシの除草を行ったのだろう。そして、この作品の中に登場する花は、ヒナゲシだけである。それがヒナゲシでなければならない理由は特にない。鷗外は、虞美人草の花が好きで個人的な興味があったので、他の花ではなくこの花を選んだのだろう。
「二十四日(火)。陰。・・・月見草開く。・・・」
 以後花が咲いたというような記述はない。この年も鷗外は、十一月二日(日)に「妻、茉莉、杏奴、類を伴いて、午後植物園に往く。」と一家仲むつまじいところを見せる。また、十一日(火)には観菊会のため赤坂離宮に出かけた。
 ガーデニングとは直接関係ないが、十二月二十五日の日記には、「・・・夜樅の木に燭火を點してNoël の祭の眞似をなす。」とある。この樅の木はどこから入手したのだろうか、息子の類(『鷗外の子供たち』「茉莉の結婚・父の死」)によれば、「冬は植木屋が来てビールの空箱に樅の木を植えて洋室にはこぶと、すぐにクリスマスが来た。」とある。当時の新聞を見ると「我家のクリスマス」という記事(23日付読売新聞)はあるが、家族でクリスマスの行事を楽しむとなどという習慣はほとんどなかったようだ。クリスマス・ツリーを自宅の室内に飾ることは、まだ大正時代の初めにはごく稀であった。このことから、鷗外の嗜好は、ドイツ留学が深く影響していることがわかる。

『大正三年日記』
 この年、『大塩平八郎』『曽我兄弟』『サフラン』などを発表。
 一月
「二十九日(木)、晴。寒。庭の福壽草華く。」
イメージ 3 三月に出された『サフラン』によれば、ヒヤシンスやバイモが花壇に芽を出している。鷗外の書斎に置かれたサフランも、鉢から緑の糸のような葉を垂らしていた。
 『サフラン』によると、鷗外は幼い頃から知識欲に溢れ、植物への関心も高かったようだ。子供の頃からサフランに興味を持ち、この二三年前にも上野花園町付近で見つけている。ただそれまでは、図譜で知ったいただけで、本物を見たのはこれが初めてであった。季節は冬の真っ盛り、温室以外は全く花のない時期で、それだけにサフランの花が咲いていることに鷗外はかなり驚いたようだ。
 そういえば、前年の十二月にも、白山下の花屋でサフランを見つた。この時鷗外は、わざわざ散歩の足を止めて二球購入した。値段は二銭。もり・かけ蕎麦の値段が一銭五厘、あんパンが二銭という時代である。今から見ると、けっこう高価な気がする。
 三月
「八日(日)。晴。終日異様に暖なり。園を治す。・・・」
「二十四日(火)。雨。・・・桃、木瓜の莟。」
 この年は、暖かったと見えて、花の開花が少し早いようだ。ただ、毎年のように記されている、サクラの開花の記述が見あたらない。気がつかないうちに散ってしまったようだ。
 四月
「十二日(日)。晴。微寒。園を治す。・・・」
「二十三日(木)。晴。寒。暄。櫻花八重のも殆皆散る。山吹、杜鵑花、櫻草咲く。・・・」 このあともヤマブキ、シャクナゲサクラソウと咲く。鷗外の庭は、春の花が咲き乱れているという光景が目に浮かぶ。
 五月
「一日(金)。晴。白雲。・・・官衛の藤花開けり。」
 四日より東北出張、十九日に帰る。その後、開花についての記述はまったくない。