大戦を前にした大衆最後の楽しみ

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)284
大戦を前にした大衆最後の楽しみ
 神話に始まるわが国の紀元、二千六百年にあたるその日は、昭和十五年(1940)の十一月十三日である。当時の日本政府は、紀元二千六百年の祝いを国家行事として設定した。そうなると、当然、記念の祭典を開催しなければならなくなり、国民の意思とは関係なく独り歩きをはじめた。大半の国民は、たとえ「紀元二千六百年」が、史実としてあまり信頼できないとは思っていても、国を挙げてのお祝いに異を唱えることなどできない。となれば、大衆の側に言わせれば記念行事に託つけて楽しんだほうが勝ちだと思う人が多くなっていったに違いない。そこで、次に大衆が紀元二千六百年記念奉祝を楽しむことが出来たのかどうかという点について見ていきたい。
 これから紹介するように、紀元二千六百年記念奉祝は、日本にとって建国以来のビッグイベントであった。昭和十五年は元旦からすでに奉祝がはじまり、そのクライマックスが十一月十日に挙行された式典であった。当日はみごとに晴れわたった秋空の下で、宮城外苑(皇居前広場)に約5万人の人々(駐日大使、武官、官公庁や各種団体の代表者たち)が集まり、天皇・皇后臨席の式典が行われた。式典は十一時頃から、近衛首相が「寿詞(ヨゴト) 」を読み上げ、天皇が「勅語」を述べ、「紀元二千六百年頌歌」の演奏や「天皇陛下万歳」三唱など、30分程度で終了した。翌十一日午後2時頃から宮城外苑で奉祝会、「奉祝詞」「宣旨」に続き宴席(食事中に各種の演奏あり)が設けられ、最後に万歳三唱して3時前に終了している。この時の食事のメニューは、清酒、鯛、蒲鉾、大豆、昆布、干瓢、竹の子を合わせた缶詰、携帯用の米飯、インスタントの味噌汁、餅、「航空用薬酒」と「航空用葡萄酒」、乾パン、さらに、酒のつまみとしてソーセージ、のしイカや干し鱈等の魚介類の燻製や栗など、デザートには興亜パンとミカンが出された。これらの食べ物を天皇と約5万人の人々が、戸外で同時に食べる趣向であった。
 さて、このような晴れ晴れしい式典に招待されなかった大衆は何をしていたかというと、十二日付の新聞によると「……午前から夕刻にかけて行われた市民の行事は、神輿、太鼓の渡御巡行五百五十二台、音楽行進十団体六千八十名を始め二百二十八団体二十一万二百八十名に上る旗行列等市内各区各町思ひ思ひの行事に、日の丸の小旗に埋められた街々には朗かな奉祝の歓声が挙がつたが、引続き夜に入ってからは華やかに彩られた街々を繕つて市民の足どりも軽い提灯行列が繰展げられた……」(東朝)という状況だった。この人出は、「……警視庁の調査によれば奉祝市民の団体関係だけでも三百七十六団体、その人員三十万一千四百六十名に上つたが、東鉄の調べによると、省線電車を利用して市内に殺到した市民は約二百五十万……」(東朝)とある。また、「……この夜は宮城前の行進が許されなかったが板橋区管内十二団体七千八百名を筆頭に 荏原管内十三団体二千八百七十名、州崎署管内四団体三千三百五十名、上野署管内十三団体一千九百三十名等全市百三十八団体八万五千百名がそれぞれの各町内を行進……」(東朝)などとも報じられている。
  当時、市民生活に対する統制強化が進み、飲食店の午後5時以前の酒類の提供は禁止されてた。また、食堂や料理屋などでの米食使用が禁止され、販売時間の制限が実施されていたさなか、この日だけは十一日付の新聞によると、「……ビヤホール、おでん屋等は久しぶりの電飾と大入り満員の盛況に、目盛り付きのジョッキや杯を挙げて新体制の感激だ。お客の顔触れも夫婦づれ、親子づれ等平常はあまり見かけない組が多く、“早くお汁粉屋へ行きましょう”等と促されながら飲んでいるおとっあんもいる明朗な風景だ。十日と十一日に備え、平常の二、三倍の量を用意してあった各ビヤホールも、夕方六時頃はもう“売り切れ申し候”の貼紙で、つめかける御客さんを断るに大汗をかいていた。それでも豊富な日本酒で奉祝気分をいやが上にもそそられた人の群れはあちらにもこちらにも三々五々、人波に交ってそれも出張している交通整理のお巡りさんにもお世話をかける酔漢もない明るい銀座八丁だ。また浅草、新宿方面もぱっと輝く祝いの光のなかを練る人の渦……」(東日)と久しぶりに賑やかに遊ぶ大衆の姿があった。
 公式行事が終了した十一日の午後6時からは、式場(紀元二千六百年記念の式典会場)への入場が許された。十二日付の新聞から「……幾万とも知れぬ人々の波が馬場先門からお壕端道路を早くも埋めつくしてしまった……綱がサッとばかりに開かれると、二日間にわたってたぎりあふれてゐた民草歓喜の濡は今こそ堰をきってどよめき流れ出した……」(東朝)と式典会場を見ようとする大衆がかなりいたのがわかる。そして、「提灯行列は華北交通会社支店の百五十名を第一陣に、目黒無線講習所の生徒一千名をはじめ約二万、これがためのお壕の水もさながら『光の饗宴』╶╴この他市内各所各地では神輿九百四十台、団体行進約九千名、旗行列二十七万余、各区の提灯行列七万余、これら各部隊は互の部隊の進駐を阻みつゝ歓喜の交錯又交錯、かくて帝都の夜は十時十分頃から都心を皮切りに濡らしはじめた時雨に爽かに更けて行ったのであった」(東朝)とある。このイベントでは、大衆は整然と行動し、予定通りのスケジュールが進行し、江戸時代のお祭りにみられたようなハプニングもないままに終了した。
 さらに翌日は十三日付の新聞によると、「・・・二千六百年を迎えた市民の歓喜は絶頂に達し十二日夜、前夜に続く提灯行列の灯の海、万歳ののどよめき・・・火の長蛇とも見える月島疏菜報国会一万人の提灯、成蹊高校の五百名、東京百貨店組合の三百名、日本旅行協会の五百名、額縁に似た大提灯をあげて額縁工業組合、遠くからトラックで馬場先門までやって繰る提灯行列の機械化部隊・・・」(東朝)という状況だった。見出しには「大内山に揺れる聖灯 昨夜も止めどなき民草の歓喜」とある。「昨夜も絶え間もなき火の流れ」というキャプションがついた五段抜きの写真には、学生というより生徒と呼んだほうが相応しいような子供たちが提灯を振っている。そして、最終日の提灯行列への参加人員は、かなり少なくなっていたのだろう具体的な人数があまり示されていない。さらに、提灯行列を見物する人々についての記述はないものの、「……遠い大陸で日本の喜びを偲ぶ戦地のお父さん、お兄さん、故郷では貴方がたの分の提灯も宮城前で振りました!」(東朝)と締めくくっている。
  以上、新聞には紀元二千六百年記念奉祝を「・・・“世紀の歓び”奉祝の群、二百五十万」(東朝)などと、さも盛大なイベントであったように書き立てているが、実態はそれほどのものではなかったのではないだろうか。まず、中心となる式典は、30分以下と短く、簡素ともいえるものだった。もっと厳粛な何かがあると思っていた人が多かったのではなかろうか。翌日の奉祝会については、天皇と5万人の人々が皇居前広場で会食するという前代未聞の大行事で、その後も例のないことであろう。ただ、食事のメニューを見ると、飽食の現代感覚からすると、二千六百年の記念する食事としても、あまりにも質素と言うか、味気なく感じる。たぶん、式典には、食い意地の張った大衆は参加していないことから、おいしい物を食べることより、陛下と共に食事をするということに意義があったのだろう。もっとも質素とはいえ、この5万人分の食事を用意するのは大変なことで、前日の午後2時から6時までの4時間をかけている。まず、食材等を運ぶのに大型トラック六十台、それをテントまで運ぶのに600人である。そして当日、食饌の分配は午前5時から始まり、10時近くまで、約千人の職員によって行われるというものだった。
 ところで、提灯行列や式場見物などに参加した人々は、本当におもしろかったのだろうか。一応、自由参加とはいえ、実際はなかば強制であった。動員しやすい学生や生徒が数合わせのため大勢参加していたことは、十二日の提灯行列に子供ばかりが写った写真が証明している。単調で、規則的な生活を強られていた子供にとっては、運動会や旗行列など、非日常的な体験が味わえ、夜遅くまで騒ぐこともできたことから、楽しかったに違いない。もちろん、大衆にとっても、奉祝の名をかりて昼間から酒を飲んだり、大手を振って映画や劇場へ出かけられるというお楽しみがあった。徐々に締めつけられていた当時の日常生活に一息入れることのできたのは、とてもありがたかったのではなかろうか。つまり、紀元二千六百年記念奉祝は、対米戦争が始まるわずか一年前という時期にあって、大衆に許された最後の楽しみと言っても過言ではない。