江戸時代初期の三園芸書の特徴
『花壇綱目』『花譜』『花壇地錦抄』の三書は、江戸時代初期の園芸書として優れた著作である。三書は、著者の関心の違いによりそれぞれが特徴のある記述がなされている。そこでまず、『花壇綱目』の植物の記述を詳細に見る。最初の「福寿草」は、「ふくしゆさう」と仮名が振られている。花は黄色。花形は小輪。開花は正月(旧暦)初より咲き、「元日草」「朔日草」とも言われている。植栽土壌「養土」は、肥沃な土「肥土」に砂を少々混ぜる。肥料「肥」は、茶殻「茶から」を乾燥させ粉末にして植栽土壌に混ぜる。植栽時期「分植」は、早春「二月末より三月節迄」と秋「八月末より九月節迄」とある。寛文四年(1664)当時は、以上のような内容でフクジュソウを植栽できたと思われる。
もう少し詳しく個々の内容を検討する。花の色は、「黄」だけしか記されていないが、実際は白もある。また、花形も一重だけでなく八重もある。著者・水野元勝は、知っている情報と、育てたフクジュソウを観察して記述したものと推測する。なお、『花譜』『花壇地錦抄』も花の色は「黄」だけ、八重は記されていない。
開花時期は、当然であろうが三書とも同様である。『花壇綱目』の表示は、旧暦で示しているため現在の時期に当てはめにくい。その点、『花壇地錦抄』は、春を「初・中・末」の3区分し、フクジュソウを「初中」としている。この区分だと今の季節(早春・春・晩春)に当てはめても違和感がない。
続く俗名や別名は、『花譜』が「ふくづく草」「元日草」、『花壇地錦抄』が「元日草」「ふくづく草」と三書とも同様であり、呼び方には深みがあるものの現代ではあまり聞くことが少なくなっている。
次に『花壇綱目』は、「諸草可養土」と「諸草可肥」を記している。なお、「養土」とはあるが、『花壇地錦抄』では「土」とあるように、土壌についての記述である。『花壇綱目』の土壌は、「真土(壌土か)、砂真土(砂壌土)、野土(黒土)、赤土(赤土)、肥土(畑土)、沙、田土、合土(混合土)、しのぶ土(赤沙にしのふ草を切交てはたきふるい)」と分けている。著者の体験による『花壇綱目』ならではの記述であるが、種類は細分化されすぎている。『花壇地錦抄』では、「忍土(腐葉土)、真土(砂壌土)、野土(黒土)、赤土(赤土)、砂、肥土(畑土)、田土」と分類が一つ少なくなってはいるけど煩雑である。また、「肥土」は土壌の物理性と養分を含んだもので、他は土は物理性による分類で、物理性と養分は分けなければならない。なお、『花譜』には、土壌に関してまとまった記述がない。貝原益軒は、植える土に関心がなかったのであろうか。実際に植えていたのであるから、それぞれの植物に対応する土を使っていただろう。その理由として、益軒は文献をたよりとしており、土壌に関する参考書がなかったからではなかろうか。または、土壌について述べる自信がなかったためではなかろうか。技術書であれば、欠くことのできない項目であり、独自の考察があって然るべきだ。
肥料は、『花壇綱目』は「馬糞・下肥・田作・溝水土・魚洗汁・荏油糟・小便・馬便・猫鼠類・油大器・茶から・業(藁)灰」と12種に分けている。『花譜』ではさらに多くなり、「人糞・人尿・洗浴の水・鳥糞・鶏糞・魚の洗汁・ほし海鰛魚(干鰯)・かまどの灰・死猫・死鼠・溝泥・河の泥・せせなぎの泥水・米泔・油かす・せんじ茶滓・豆腐のかす・竃の焼土・くさりたるすすかや・くさりわら等」と20種ある。『花壇地錦抄』では、「合肥・くだし肥(下肥)・魚洗汁・田作(干鰯)」と4種に分けている。
土壌についてまとめなかった貝原益軒は、肥料では体験をもとに詳細に区分している。正直言って分けすぎ、煩雑になっている。その点、『花壇地錦抄』は少なすぎて、抜けているものもある。植物の肥料は、窒素・燐酸・カリが三大要素であり、これらを踏まえて見る必要がある。そのような視点で見ると、『花壇地錦抄』にはカリ肥料が抜けている。伊藤伊兵衛は、草木灰を使っていなかったのだろうか、それとも肥料という認識がなかったのだろうか、不思議である。また、「茶から」は、肥料効果はあまりなく、『花壇地錦抄』には出てこない。何故か「茶から(茶殻)」は、『花壇綱目』では多用されている。茶殻は、肥料効果、窒素・燐酸・カリとしての有効性はあまりなく、土壌改良的なものである。
植栽時期「分植時」は、経験から示したのであろう、三書とも的確な時期を記している。『花壇綱目』のフクジュソウでは、最初は開花後、葉の枯れる頃から完全に枯れるまで。次は、秋の芽の出る前、蕾が成長する前に行うとしている。『花譜』も春・秋の2期を記している。『花壇地錦抄』は秋植えを記している。現代では秋に行う方が多く、春の株分け植栽を記す園芸書は少ない。なお、三書の植栽時期の記載は、『花壇綱目』『花壇地錦抄』がすべての植物に示しているのに対し、『花譜』は植栽時期を示さない植物が目につく。益軒は、記した植物の中に植え替えをしたことがない植物があるのではなかろうか。
『花壇綱目』は以上の項目の他にはあまり記していないが、『花譜』『花壇地錦抄』は増殖法(挿し木、接ぎ木、播種など)に付いても記している。また、『花譜』『花壇地錦抄』は、すべての植物に付いてではないが、植栽後の管理にも触れている。さらに、植える場所(植栽地)の環境条件についても記している植物がある。『花壇綱目』が記さなかった理由として、水野元勝の自庭に植えていたため、環境条件の違いについてあまり感じず、関心を持たなかったのではなかろうか。それに対し、貝原益軒は文献を読み地方に出かけたり、伊藤伊兵衛は自分の庭や苗圃以外でも植栽していたため、自ずと環境条件の違いに気づいたものと思われる。
『花譜』のフクジュソウでは、「夏月は日かけよろし。五月には茎葉かれて根はかれす。九月に発生す。」など、植栽後の管理、生育形態にまでふれいる。『花壇地錦抄』も「十二月の比よりはへ出ル雪霜のあたらぬ様ニおほいをすべし」と管理に触れている。さらに『花譜』には、「平安城に多し。」「偏鄙にハ移し植れどもおほくハ生せす。但所によりてよろ地あるへし。」と、産地、植栽の難易度、適地のあることが指摘されている。益軒は、様々な情報をもとにして記述していることがわかる。
三書を記した水野元勝・貝原益軒・伊藤伊兵衛は、どのくらいの規模で栽培をしていただろうか。広さを知るため植物数から調べると、『花譜』の植物数は197品、『花壇綱目』の植物数は466品(上中184品・下282品)、『花壇地錦抄』は重複する植物がいくつかはあるが2140品(『花壇地錦抄』一が602品、同二が709品、同三が161品、同四・五が593品、同六が75品)となっている。
『花譜』の益軒は、品数から推測して少なく百~二百坪の広さであっただろう。ただ、益軒は野菜なども栽培しており、実際には草花と混在していただろう。そのため、全体の敷地面積は千坪くらいになる可能性がある。『花壇綱目』の元勝の栽培品数から見ると、二百~三百坪程度あれば栽培可能と推測する。伊藤伊兵衛については、「武江染井翻紅軒霧島之図」があり、四千~五千坪と推測する。
次に栽培法、地植え、鉢植の割合を想定したい。伊藤伊兵衛の敷地は「武江染井翻紅軒霧島之図」から見ると、来客の目にふれる場所には鉢植、背後や周辺部に地植えにしていることがわかる。鉢植はショーウインドウであり、適正な間隔で並べられその品数は500以上(2140品の1/4)あったものと推測する。『花壇綱目』の元勝は、土壌と肥料を詳細に記していることから、鉢植が多かったものと思われる。また、地植えでは栽培の難しい植物もあることから地植えより鉢植の方が多かったものと推測する。茶殻を盛んに入れて土壌の改良をしていたことも、鉢植が多いためであろう。それに対して、『花譜』の益軒は、地植えが多かったものと思われる。それは、197品の内100品が草花で残りの99品が樹木であった。樹木の大半は地植えされており、草花も大半が地植えしていたと推測できる。鉢植で育てた方がよい草花の数は少なく、路地栽培できる種類が多い。
三人の栽培技術を見ると、『花譜』の植物は樹木が多く、手入れが容易な植物が多い。また、草花にしても同じで、栽培の難しい植物が少ない。益軒は、野菜や果樹など食べられる植物に関心が高かったようである。栽培している関係で『花譜』を記したものの、他の二人よりもその熱意は弱く感じる。たとえば、アヤメを『花譜』に記さなかったり、ボタンやツバキなど当時流行した植物、ラン科の植物への興味があまりなかったようである。
それに対し元勝の技量は、伊藤伊兵衛のような幅広さはないものの、個々の植物については当時の最高峰であった。また、序文の中で心境を述べているとおり、技術を秘伝とせず公するほどの自信もあった。そして、伊藤伊兵衛については、『花壇地錦抄』以外の著書を見ればわかるとおり、あえて論評する必要はないと思われる。