江戸庶民の楽しみ 庶民の遊びが始まる前

江戸庶民の楽しみ

  江戸時代は、遊びの時代の始まりである。江戸や大坂を皮切りに、日本全国に城下町が成立し、都市で生き生きと生活する人が急激に増えていった。都市生活で重要なことは、ものを生産したり蓄積することだけではなく、どんどん消費することである。幕府やそれに連なって大名らは、城下町の商工業を盛んにし、都市が繁栄することを期待した。
 そうなれば、当然のことながら商売の担い手である町人にも富が集まる。町人たちが商いに励むのは、何も幕府のためではない。自分たちが綺麗な着物を着て、旨いものを食べて、立派な家に住みたいからである。財産を蓄え、お金を稼ぐことだけが商人の道だと説く人もいるが、それだけではつまらない。
 もつとも、いくらお金を使っても、それだけでは遊びの醍醐味は得られない。さらに欲張って、もっとおもしろい遊びをしたい、人と違ったことをして目立ちたいというような欲が出てくる。そういった遊びのおもしろさを、庶民が追求し覚えたのが江戸時代である。それも、下層階級の庶民が主導することになっていく。
  さて、21世紀の庶民は、江戸っ子より楽しく生活しているであろうか。現代は、いつ起きるか知れない地震におびえ、また老後のためにせっせと稼ぐことに汲々とする毎日。日本人は、のびやかでゆとりある遊びを忘れてしまったのではないか、と感じられる今日この頃である。
  安政の大地震 倒壊家屋14,346戸、死者は町方で4741人、これに寺社領武家屋敷を含めると1万人くらいになる。被害は甚大であるが、復興の足どりは素晴らしく、庶民の遊びは盛ん。軍団の席220軒、落語の席172軒。浅草奥山の活人形が大当たりするなど、地震の被害に負けていなかった。それは、生活再建が容易であったことと、彼らの生きる目的は、働くことではなく、遊ぶことであったからである。
  勤労、働くことにウエートを置いたのは、明治になってからである。国民を働かせて、国力をつけようとしてからである。特に過酷な労働をしていたとされる江戸時代の百姓、本当に休みなく働いていたのであろうか。農繁期は忙しく休めなかったけれど、四季折々に祭りや湯治など、もしかすると現代よりゆとりのある生活をしていたのではなかろうか。特に、西欧の農民に比べれば非常に恵まれていた。世界の中で、日本の下層の人々ほど素晴らしい生活をしている国民はないと、江戸時代に訪れた西欧人が記している。

★庶民の遊びが始まる前
 徳川家康は、天正十八年(1590年)八月朔日、駿府(静岡)から転居し江戸に入ったとされている。江戸の街づくりはこの頃から始められたとされ、慶長八年(1603年)に征夷大将軍に任官し江戸幕府が開かれた。

・慶長五年(1600年)九月、関が原の戦い
 ○銭湯で武士同士の喧嘩が起きたのをきっかけに銭湯通いが禁止された。
 ○鈴ケ森八幡社前に茶店(遊女屋との説もある)が出たとのこと。

・慶長六年(1601年)、○タバコの種子が徳川家康に献上されたという記録がある。当時のタバコは高価で、下層庶民の手の出るものではなかった。
 ○諸大名が江戸に屋敷を構える。

・慶長七年(1602年)、○徳川秀忠茶の湯の指南役であった古田織部、白玉、唐木瓜、すいようひ、白れんけ・うす色ハス、水仙、梅などの茶花を挿した茶会を正月廿五日、二月九日、五月十三日、六月二日、十月十八日、十二月十四日の茶会記に記す。
 ○喧嘩口論・博奕を禁止する。

・慶長八年(1603年)二月、江戸に幕府が開かれる。
 ○女歌舞伎(演劇というより踊りが主であった)が上演される。厳密には念仏踊りや風流踊りといったもので、この時の観客も武士を想定したものとされている。この頃には、麹町と神田鎌倉河岸に10数軒、柳町20軒など各地に遊女屋散在していた。
 この年江戸町割を命じたという。神田の山を崩させ埋め立てさせるため、日本六十余州の人歩を集めたとされ、江戸庶民が増加しはじめたと。

・慶長九年(1604年)二月、日本橋五街道の起点とし、一里塚を築き街道の両側に松を植える。夏は木陰に休らぎ、冬は風を防ぐためという。

・慶長十年(1605年)四月、徳川秀忠征夷大将軍になる。
 ○柳町周辺の遊女屋が元誓願寺前に移転させられる。

・慶長十一年(1606年)、○神田駿河台三河稲荷が本郷昌清寺に移る(本郷は下級武士が住む)。江戸における稲荷信仰の初見。

・慶長十二年(1607年)二月、城内で観世・金春の勧進能(猿楽)興行が許された。さらに、その数日後には、出雲の神子“阿国”による勧進歌舞伎興行が行われ大人気となる。
 閏四月、江戸城天守閣が造営される。
 閏四月、朝鮮通信使が初めて江戸に入る。
 ○喫煙の習慣が広まる。

・慶長十三年(1608年)三月、家康・秀忠、本因坊算砂らの囲碁、大橋宗桂らの将棋を観戦する。
 ○江戸城と周辺の内曲輪(うちくるわ)など江戸の町並みを描いた「慶長絵図江戸」が作成されたとされる。ほんの一部であるが、町屋の記載もある。

・慶長十四年(1609年)、○江戸城内の新舞台で猿楽が行われる。
 ○国という女勧進能、芸を盡くす見物市の如しとなる。
  七月、喫煙が禁止される。

 江戸時代の初頭、『慶長見聞録』『武功年表』などから探ると、市中では、江戸城の大改築や市街地の拡張整備などが着々と行われていた。政情がまだ不安定な中で、十七世紀中頃まで幕府は、浪人や当時流行した「かぶき者」(異様な風体をして町中をうろつく若者の総称)の取締りに重点を置き、町人の生活や娯楽にはほとんど関心を示さなかった。
 逆に言えば、まだ町人は目立つような存在ではなく、遊んだり、派手に金を使ったりということとは無縁であった。そのため、幕府としても警戒したり、取り締まったりすることはなかった。ことを起こしていたのは武士で、銭湯で喧嘩をしたので銭湯通いが禁止される。銭湯というと庶民の憩いの場という思い込みがちだが、最初の頃に通っていたのは武士が多かったようである。ちなみに江戸市中に銭湯ができたのは、天正十九年(1591年)といわれている。なお風呂といっても、湯の中に入れる風呂ではなく、蒸し風呂形式で煙が立ち込めるというものであった。また、銭湯通いの目当ては湯女で、禁令の効果は薄かったようでいっそう盛んになった。武士に加えて町人が通うようになるのは、それから15年程後のことである。
 江戸の外れになるが、鈴ヶ森に赤前垂れの美女が出るという茶店(遊女屋との説もある)が設けられたという。鈴ヶ森は、鈴ヶ森八幡や鈴ヶ森刑場のある場所として知られていた。刑場は慶安四年(1651年)開設され、約1,000㎡(間口40間奥行9間)の広さがあった。江戸の町中から15㎞程離れた場所にあるこの茶店、町人がわざわざ訪れる場所ではない。関が原に出陣する供侍を目当てにしたらしい。
  当時の江戸の町には、町人の人口も少なく、町人が遊ぶ場所は少なかった。慶長八年(1603年)に女歌舞伎(演劇というより踊りが主であった)が上演されたものの、この時の観客も武士を想定したものだった。町人が演劇らしきものを観るようになったのは、慶長十二年(1607年)に観世・金春の勧進能(猿楽)興行が許されてからである。また、その数日後には、出雲の神子“阿国”による勧進歌舞伎興行も行われた。歌舞伎は大人気となったが、興行された場所が「城の辺」とされ、観客は町人よりも武士のほうがはるかに多かった。