庶民の遊びが始まる

江戸庶民の楽しみ 2
★庶民の遊びが始まる
・慶長十五年(1610年)八月、琉球人江戸で三味線を弾く。
 六月、疫病流行する。
 ○日本橋のたもとに西川甚五郎(近江商人の四家に選ばれ)が出店する。

・慶長十六年(1611年)五月、江戸城修築で日雇い仕事多く、庶民の懐が潤ったという。

・慶長十七年(1612年)三月、江戸など直轄地にキリスト教会の破壊と布教の禁止を布告する。
 六月、京・堺の町人を新開地に移住さす。
 七月、かぶき者少年の首領らを死刑。
  ○庄司甚右衛門、遊里吉原の設立を請願する。
 ○京橋に銀座ができる。
 
・慶長十八年(1613年)三月、浪人・農民等の振売の禁止触れ。
 六月、伊達屋敷で能上演する。
 六月、神田明神社の天王神輿が江戸城に入る、天王祭の起こりとなる。
 ○家康・秀忠ら、各地で鷹狩りを行う。 
                           
・慶長十九年(1614年)九月、浄瑠璃・三味線流行(三味線は庶民の楽器として普及、語り物の伴奏楽器と成る)する。
 九月、伊勢から伊勢踊流行り始まる。
 十月、大坂城冬の陣開戦。
 ○三浦浄心『慶長見聞録』刊行。その中に、「今は町ごとに風呂あり。びた拾五文廿銭ずつにて入る也。湯女といいて、なまめける女ども廿人、三十人並びいて垢をかき、髪をそそぐ。さてまた、その他に容色よく類なく、心ざま優にやさしき女房ども、湯よ茶よと云いて持ち来りたわむれ、浮世がたりをなす。こうべを回らし一たび笑めば、百の媚びをなして男の心を迷わす」と記されている。
 ○町人の輿(コシ)乗りを禁止。 
                                
・慶長二十年(1615年)五月、大坂城夏の陣開戦。
 六月、山王権現祭礼、山車・神輿が初めて江戸城に入る。
 ○湯女(ゆな)風呂が流行する。
 ○隅田川の涼み船が始まる。

・元和一年(1615年)七月、辻談義(辻説法)を禁止。
 七月、武家諸法度を制定する。
 七月、禁中並公家法度を制定する。
 ○長唄が江戸で始まる。

・元和二年(1616年)三月、江戸・駿府では歌舞伎法度となる。
 四月、徳川家康亡くなる。
 ○神田川が開削される。
 ○浅草寺周辺に人多く参詣する。
 ○大木戸が設置される。
  ○杉山七郎左衛門、繰浄瑠璃興行する。
 ○日本橋堺町で孔雀や鸚鵡などを見せる。

・元和三年(1617年)三月、吉原に遊里開設が許可される。
 五月、秀忠の前田邸御成りに能七番、能は以後成りに付物となる。

・元和四年(1618年)一月、大奥への男子禁制となる。
 十一月、遊里吉原営業開始する。

 慶長十六年(1611年)は、江戸城修築工事が進捗する中で、日雇い労働者の需要が多くなり庶民の懐も潤ったらしい。慶長年間(1596~1615年)は、江戸の町には15万人程の人々が住んでいたようだ。江戸の町は、まだ武士の町で、建設途上の地方都市と言っても差し支えなかったとされている。そこで、慶長十七年(1612年)、商業を盛んにし、江戸の町を活性化させようという狙いから、幕府は京や堺の商人を多数江戸に呼び寄せた。新たに加わった商人は、在来の江戸町人とは全てで違っていた。当初から一定の経済力があり、上方仕込みの遊びのセンスが備わっており、徐々に遊びの事情は変わることになる。商売上手で遊び上手でもある彼らの影響力は大きい。慶長十八年(1613年)六月には「神田社地天王、南傳馬町へ始めてお旅であり」と記録にもあるように江戸三大祭りの一つである「天王祭」の発端ともいうべき行事が始まった。
  大坂冬の陣(1614年)、大坂夏の陣(1615年)と武士が戦場に駆り出されていく最中に、江戸の町人は徐々に行楽に出かけ始めている。元和元年(1615年)の山王権現の祭礼で、山車や神輿が初めて江戸城に入った。後の天下祭りとされるもので、祭りの主役は町人である。警備も進行もすべて町人で、武士は関与していない。そして、その頃から隅田川の涼み舟が始まる。
 林羅山(儒者)は、誘われて出かけた浅草観音の賑わいについて、著書『林羅山紀行』(1616年)に、「京の清水よりも多くの人出であった」と書き記している。この記述によって浅草周辺は、わりあい早い時期から町人の行楽地として親しまれていたことがわかる。このような庶民が勝手にお参りに出かけるようなことは、西欧では教会の許可がなければ許されない。
 元和三年(1617年)、江戸吉原町(元吉原)に遊里の開設が許可された。そして、翌元和四年十一月、遊里吉原が営業を始める。幕府を開いた(1603年)頃には、すでに30軒以上(50軒という説もある)もの遊女屋があったという。これは江戸の町が圧倒的に男が多かったという事実を考えれば当然のことであろう。吉原という公認の遊廓ができたからといって他の施設が消えたかと言えばそうではなく、大流行した湯女風呂や怪しげな私娼窟が山の手、下町を問わず繁盛していた。
 むろん、幕府は何度となく禁止例を出したり、捕まえて処罰したりした。が、需要がある限り、いくら目を光らせても所詮いたちごっこにすぎない。他にも女浄瑠璃や女舞、女歌舞伎の禁止(1629年)、衆道・若衆狂いの禁止(1648年)、若衆歌舞伎の禁止など、性的刺激が強く、風紀の乱れにつながる芸能集団に対して、幕府は取り締まりを強化していった。