★遊び場で対立する武士と町人

江戸庶民の楽しみ 6
★遊び場で対立する武士と町人
・慶安三年(1650年)二月、山王権現が城内より麹町に移る。
 三月、市ヶ谷八幡に小芝居始まる(一人前12文・半畳3文)日々大入り。
 六月、浅草寺観音堂の普請始まる。
 七月、将軍の誕生日に江戸町奉行が花火を献上する。
 十二月、丹前風呂停止される。
 ○伊勢参り盛んに行われる。
 
・慶安四年(1651年)一月、城内で中村座等、歌舞伎上演(四月まで続く、狂言の外に放下や枕返しもある)。
 一月、かぶき者を逮捕する。
 三月、子供らの伊勢詣、箱根の関所越え六日間で千五百余人にのぼる。
 五月、猿若座、堺町に移される。
 七月、慶安事件で丸橋忠弥ら逮捕される。
 七月、町々に相撲取の醜名禁止が伝えられる。
 八月、徳川家綱、四代将軍となる。
 十一月、城石垣際での菜園・植木を禁止する。
 
・慶安五年(1652年)一月、風呂屋遊女(湯女)を一軒三人に制限する。
 一月、かぶき者を追放する。
 四月、堺町村山座が市村羽左衛門に買い取られ、市村座と改称する。
 六月、山王権現祭礼催される。
 六月、若衆歌舞伎役者の前髪を剃らせ、大名・旗本の男色禁止する。
 七月、歌舞伎を禁止する。
 九月、承応事件浪人別木庄左衛門死罪となる。
 秋頃、上方の舞仕手役者追々江戸に下り、諸座に出て評判高く見物増え、芝居の繁昌はこの時代より。
 慶安年間○七月盆中に、市中の人々が踊りを催し夜な夜な賑わう。
・承応一年(1652年)十月、湯島天神下茶屋で、浪人・風呂・火の番・僧侶などが博打で多数逮捕される。
 十二月、繰座三座、小芝居八軒興行停止される。       
 
・承応二年(1653年)二月、玉川上水開削奉行に代官伊那忠治命じられる。
 三月、歌舞伎芝居、物真似狂言尽し興行を許可(野郎歌舞伎のはじめ)する。
  五月、城内で公卿供応の猿楽、町人の観覧許されず。     
  五月、町中の衆道(若衆道、男色)・売太女を取締まる。
 閏六月、御家人の若者、湯女との戯れや町人と争論するもの多い。
 八月、丹前風呂の勝山が吉原の太夫になる。
 十一月、風呂屋の終業を午後6時とする
 ○市村座で玉川千之丞の『高安通い』翌年七月まで興行する。
 
・承応三年(1654年)二月、凧遊びを禁止する。
 六月、山王権現祭礼(松平摂津守の従者が祭り警護の者を斬り殺し、町廻り同心に捕らえられる)催される。
 七月、盂蘭盆会が近づき、町々の往還者に不法者の所を取り締まる。
 ○利根川、付替工事で太平洋に流れる。
  ○浅草寺、初の居開帳が行われる。
 ○伊達男が横行する。
 
・承応四年(1655年)一月、子供らの凧遊びを禁止する。
 二月、かぶき者に逮捕令。
 承応年間○隅田川で舟遊びが流行する。
・明暦一年(1655年)五月、狂言尽しの者が屋敷方へ行くことを禁止する。
 七月、玉川上水ほぼ完成する。
 八月、山村座で『曽我十番切』甲冑鎧で立廻り、日々大入りとなる。
 ○「辻放下」「鳥獣の見世もの」莚張小屋で木戸銭凡十文。
 ○「辻能」小屋は小芝居の如く、木戸銭六四文又は四十文。
 
 慶安三年(1650年)には、おかげ参りが流行し、七月の将軍の誕生日に江戸町奉行が花火を献上している。翌慶安二年、服装の違反・かぶき者は逮捕するなど武士への取締りを強化していく中、三月には伊勢詣でに行く江戸の子供らが、箱根の関を六日の間に千五百余人も越えていったとある。おかげ参り、伊勢参りは12年前にも発生しているが、慶安のおかげ参りは以後六十年周期で起る先駆けとされている。箱根の関の通過から推測して、一日平均500~600人が参詣したと推測されている。子供を含む庶民が行ったということは、道中の安全、治安の良さを証明するものである。もちろん、いつの時代でも盗賊やスリなどはいるものの、西欧では考えられないことである。それも、何も江戸時代に限らず、奈良・平安時代から日本の旅路は、かなり安全であった。たとえば天平勝宝元年(749年)、東大寺小治田禅院の婢(右頬に黒子あり)が下総国香取郡まで、同僚の婢(頸の右と右手に黒子)を連れて逃げ帰っている。二十歳前後の女が二人連れとはいえ、奈良から千葉まで何も持たずに旅することができた。安全や治安に加えて、旅路の庶民の支援と心遣い無しには考えられない。
 慶安五年(1652年)秋頃、上方の舞仕手役者追々江戸に下り、諸座に出て評判高く見物増え、芝居の繁昌はこの時代よりとされている。また、慶安年間の七月盆中には、市中の人々が踊りを催し夜な夜な賑わうと、庶民の遊びは年を追うごとに盛んになっている。同年の十月年号は承応に変わり、湯島天神下の茶屋で、浪人や僧侶とともに風呂屋や火の番などが博奕で捕らえられた。そろそろ町人も遊びが理由で処罰され始め、武士と町人の争いも目につくようになる。
 幕府は、元和五年(1619年)頃から、武家屋敷に町人・浪人を住まわせることが禁止した。これを境に幕府は武士と町人とを区別しはじめた。さらに元和九年(1622年)には武家屋敷に町人・浪人を居住させた者は、宅地没収と厳しい禁止令を出した。もっとも、武士と町人との居住地は分けられたものの、武士が町中で遊ぶのをきっぱりやめたというわけではなかった。幕府は、寛永九年(1632年)に中橋の猿若座禰宜町に移したり、明暦二年(1656年)に吉原を移したりしているが、これはおそらく武士が出かけにくい所に移転させたと思われる。しかし、幕府の思惑に反して武士は相変わらず町中で遊んでいたようだ。
 この時代、江戸の町で積極的に遊んでいたのは、むしろ武士の方。町人が遊んでいる所にも我物顔で入っていった。そのため、武士と町人との間にトラブルが多発。大半は町人が折れたと思われるが、元和六年(1620年)には大事件が起こった。出羽山形の大名、最上義俊は隅田川で派手な舟遊びをした際、船手方の水主と口論になり、屋敷の前まで追いかけられるという醜態を演じた。この話はそれ以後の町人と武士の関係を暗示させるようで興味深い。
  寛永二年(1625年)には、江戸の町人の大脇差の帯刀が禁止。この頃になると、町人が武士に立ち向かうことも珍しくなくなった。この禁令は、武士の体面を保つのと同時に、市中の治安維持のために定められたものでもあった。実際、当時の町人は向こう気が強く、相手が武士だからと言って負けてばかりはいなかったようで、中には大事件に発展するケースも出てきた。
 寛永十九年(1642年)、飯田町の相撲見物に金を払わずに入ろうとしたのがきっかけで、間宮正次配下の徒士二十余人が町人に打ち伏せされた。しかも、事件はそれだけでは終わらなかった。翌日、徒士らが飯田町へ仕返しにいって大騒動となり、結局、双方から一名ずつ斬首、徒士一隊は追放、名主・月行事も監督不行き届きで投獄・家財没収という厳しい処分が下された。
 また、慶安二年(1649年)には、浅草三社祭の際に、老中堀田正盛の若党が町人相手に喧嘩。町人五人にけがを負わせて自らも切られ、結局、正盛の家人が三人を切り殺すという事件が起きている。また、承応二年(1653年)には、御家人風呂屋で湯女と戯れ、町人といさかいを起こしている。こうした一連の事件から、当時は武士も町人と同じ場所で遊んでいたことがわかる。
 このように武士が、町の遊び場でトラブルを起こすという記録はしばしば見られる。むろん、大半の武士は、余暇に武道の稽古に励むなど、質実剛健の生活を送っていた。武士の独立心は強く、自分の生き方は自分で決めるという気概を持っていた。
 しかし、平和な時代になると逆に、浪人の増加、旗本・御家人の窮乏、男女割合の不均衡などの様々な社会問題も加わって、世の中の急激な変化についていけない武士が多くなった。このような武士が町中で、鬱憤を晴らし、自分たちの存在をアピールする行動に出て、しばしば問題を起こしてた。