★町人が遊び場を制する

江戸庶民の楽しみ 7
★町人が遊び場を制する
・明暦二年(1656年)二月、華美な服装などの奢侈を禁止する。
 二月、かぶき者や太い緒の編笠かぶり者を逮捕する。
 五月、町に端午の菖蒲の兜などの飾り物の華美を禁止する。
 六月、神田明神の法楽に、筋違門外で勧進能の興行許される。
 六月、山王権現祭礼催される。
 六月、将軍の病気平癒を祝い、家門・諸大名を供応し猿楽を催し町人の観覧も許す。
 七月、御家人子弟が鶺鴒組と称し横行する。
 八月、大風で船50隻破損等市中に被害出る。
 ○浅草山門の仁王尊、よだれを流した奇瑞により貴賤群集する。
 
・明暦三年(1657年)一月、明暦の大火発生する。
 二月、大火による焼死者10万余の埋葬塚を本所に造る(回向院)。
 二月、建設ラッシュで賃金が高騰し公定とする。
 五月、江戸城再建に着手する。
 六月、風呂屋に遊女(湯女)を置くことを禁止、二百軒の風呂屋が取り潰しとなる。
 七月、旗本奴水野十郎左衛門成之、町奴頭領幡随院長兵衞を殺害する。
 八月、長崎町の吉原遊郭が浅草千束吉原町(新吉原遊郭)に移転する。
 八月、江戸城二の丸が竣工する。
  ○火災後、かぶき大芝居4軒、物真似小芝居8軒、糸繰からくり芝居5軒、土人形子供手踊2軒出願する。
 
・明暦四年(1658年)四月、松平大和守、堺町の左近所などへ家臣を見物にやる。なお、松平大和守は、松平直矩(寛永十九年1642年生)のことで、生涯で幾度も国替をさせられ「引越し大名」とまで言われた。自身は江戸を離れず、芝居や文芸に熱をあげていた。その様子は、17歳から54歳(元禄八年1695年)で没するまで『大和守日記』などに記している。その中に、自邸に役者などを招き、芝居や狂言などを催したこと、自分が出かけることができなければ、家来を遣わせたことなどが記されている。
 四月、山王権現社を溜池の松平忠房邸跡に移す。
 五月、内藤摂津守邸で「島原狂言」と「放下」あり。
 明暦年間○初めて猪牙船を作り、山谷通いがこれに乗る。
・万治一年(1658年)九月、江戸定火消制度が創立する。
 
・万治二年(1659年)一月、町中の凧揚げ・辻立・門立を禁止する。
 十一月、松平大和守(以下大和守)邸で狂言を興行する。
 十二月、隅田川に両国橋が完成する。
 
・万治三年(1660年)五月、木挽町森田座がつくられ歌舞伎興行する。
 六月、山王権現祭礼催される。
 七月、日向太夫座で『四天王』、九月にも『源四天王』を興行する。
 ○茅場町駒込等に前菜市場できる。
 ○鱗形屋孫兵衛が本屋開業し、古浄瑠璃黄表紙等を出版する。
 
・万治四年(1661年)一月、大火、木挽町森田座など焼失する。
 二月、伊勢参り多し。
 万治年間○金比羅浄瑠璃が流行する。
     ○浅井了意『東海道名所記』刊行。
     ○酒楽、江戸に下り八人芸を始める。
・寛文一年(1661年)六月、キリシタン禁教令出される。
 十月、茶屋・煮売の夜間営業(午後六時以降)を禁止する。
 十二月、町中での勧進相撲・滅多的禁止、勧進能は町年寄の了解が必要となる。
 十二月、見物の芝居ものは堺・葺屋・木挽の三町に限定する。
 ○大和守邸などで操りや浄瑠璃、度々有り。
 ○古へ日向太夫座・古伝内座・いにしへ座など興行する。
 
・寛文二年(1662年)一月、若衆歌舞伎取締る。
 二月、亀戸天満宮が創建される。
 二月、市村座で『海道下り』大当たり、百余日興行となる。
 六月、山王権現祭礼催される。
 十一月、町奉行の支配領域が広がる。
 ○浅井了意『江戸名所記』刊行される。
 ○大和守邸などで操りや浄瑠璃狂言他、度々有り。
 白木屋日本橋に材木商で出店する。
 
・寛文三年(1663年)一月、堺町葺屋町狂言、日向太夫座・勘三郎座興行する。
 二月、上野周辺の猪を鉄砲で狩りをする。
 三月、中村座で『四季惣踊』古今の大入り、5月まで興行する。
 四月、旗本・御家人奢侈禁止令
 五月、家綱日光社参り後、大名らを招き猿楽、町人ら観覧、銭、下賜などを下賜する。
 五月、殉死が禁止される。
 六月、江戸で花火の製造・使用を禁止する。
 七月、猿楽宝生が鉄砲洲で勧進能を催す。
 九月、幕臣・大名の饗宴の奢侈を禁止する。
 十一月、塵芥の運搬に料金を徴収する。
 十一月、吉原と三崎築地の遊里が遊女争奪戦の乱闘する。
 
・寛文四年(1664年)一月、悪魔払いと称し、軒毎に廻り太神楽を演じる。
 一月、市村座は三番続き四番続きの狂言を始め、見物一日見となる。狂言『今川』続狂言『忍び車』間狂言『竹生嶋』大当たりとなる。
 三月、旗本水野十郎左衛門、切腹命じられる。
 五月、表店に茶屋を設け女を置くこと、また「ござや」と称する街娼を禁止する。
 六月、山王権現祭礼催される。
 九月、博奕厳禁とする。
 十月、新吉原の遊女や処々の私娼に自由廃業を勧奨する。  
 十二月、番士らの春秋休暇・親族看病の制規示達する。
 ○大和守邸などで操りや浄瑠璃、度々有り。
 ○蕎麦切りやけんどん、売り始め価8孔となる。
 ○狂言で引幕・大道具立など始まる。
 
 町人の遊びが盛んになる中で、不満の鬱積した「旗本奴」と呼ばれる一団が江戸の町を徘徊する。正保年間(1644~48年)頃から平和な社会に適応できない者たちが徒党を組み、異様な風体で町をうろついては、反社会的行動を繰り返していた。幕府は、刀・脇差の寸法の違反者や風俗不良の者の切り捨て指示、頭髪・髭の規定違反者を取締り、先手頭の榊原職直らに府内を巡回するように命じた(1645年)。
 その後も、承応三年(1654年)のかぶき者の逮捕、承応四年のかぶき者の追放、明暦二年(1656年)のかぶき者の捜索と、取締りは続いたが、さほどの効果は得られなかった。やがて、対抗勢力として「町奴」が登場。そして「旗本奴」と「町奴」の対立は、遊び場における武士と町人の勢力争いでもあった。
 このあたりについては『極付幡随院長兵衛』(河竹黙阿弥)に詳しい。長兵衛があたかも正義の人のように脚色され、その死についても水野の卑怯な手口にひっかかって非業の最期を遂げたというような書き方がほとんどである。が、真相は「町奴」の首領である幡随院長兵衛が、「旗本奴」の首領水野十郎左衛門の屋敷を訪れて、遊廓に誘ったが、断られたことに腹を立て水野を罵倒。それに水野が頭に来て、長兵衛を手にかけたという話らしい。
 事件を知った奉行所も当初は、町奴の一人や二人、ちょうどいい厄介払いぐらいにしか思わなかったのだろう。事件当時(明暦三年)は、水野に対してはまったくお咎めなしであった。その後も「旗本奴」と「町奴」の争いは止むことなく続くが、7年後の寛文四年に、水野は五千石の領地を没収され、切腹を命じられた。
  このように武士が力を誇示する例は、あちこちで見られた。たとえば、慶安年間(1648~52年)頃から流行した隅田川の舟遊びでは、たとえば旗本が10人いれば、鎗10本を簾の蔭へ並べて武士の威勢を示そうとした。これほどまでに存在をアピールしなければならなかったのは、町人の台頭に対する危機感がそれだけ強かったということだろう。
 もっとも武士が自らの力を誇示していたのは、せいぜい十八世紀の初頭までで、享保年間(1716~36年)には見られなくなっていた。それは遊びの主導権が武士から町人へ移ったという事実が、もはや動かしがたいものになったからだろう。実際、その間には、「町奴」の勢力拡大がめざましく、幕府も取り締まりを強化。貞享三年(1686年)には二百人を越える「町奴」が逮捕されている。
 遊び場の勢力争いは、吉原でもはつきりと現われてきた。もともと揚屋は、畳をあげると能舞台に早変わりするようになっていて、大名らが登楼してはよく能を演じていた。それが宝暦年間(1751~64年)には、能舞台揚屋も姿を消した。この事実もまた、吉原の主役が武士から町人へ移っていったことを示している。
 娯楽の場における勢力争いは、すなわち世上での勢力争いでもある。日々を楽しく暮らしている者が真の勝者だとしたら、表向きはは武士の方が偉くても、実質的に人生を謳歌していた町人の方が勝者だと言えるかもしれない。