吉宗の粋な計らい

江戸庶民の楽しみ 15
★吉宗の粋な計らい
・正徳四年(1714年)三月、江島生島事件に連座して山村座断絶、以後は江戸三座となる。
 ・三月、寺社内の見世物、その他芝居(宮芝居は27座)等を一切停止する。
 ・三月、木戸で人寄に役者の声色が流行する。
 ・四月、芝増上寺山内常照院が開帳を催す。
 ・八月、深川永代寺門前の私娼を禁止する。
 ・八月、猪牙船(吉原通いの舟足の早い小船)禁止する。
 ・九月、将軍、根津祭を吹上御覧所で見る。
 ・十一月、市村座で顔見世『円満太平記』が大当たりする。
 ○白金西光寺開帳(開帳期間不明)を催す。
・正徳五年(1715年)一月、中村座で『坂東一寿曽我』初演。評判で半年余の大入り。
 ・一月、旗本らに弓馬を奨励する。
 ・一月、江戸・諸国に三笠附を禁止、九月にも再度禁止する。
 ・一月、火事が頻発し中村座市村座類焼する。
 ・二月、根津の御旅所に野暮太郎が出演する。
 ・二月、堺町見世物小屋一寸法師の見世物が興行される。
 ・三月、芝居三階取り払い、宮地30余軒の小芝居を停止する。
 ・九月、中村座で『和合太平記』が連日大当たりする。
 正徳年間○正徳より享保の初めまで、中橋広小路で盆中夜に集まり踊る。
     ○俳人園女、富賀岡山内へ桜を三十六株植え、歌仙桜と称される。
     ○風折烏帽子に面を付け門口で夷舞が踊られる。
     ○染井植木屋伊兵衛が霧島躑躅などを育て評判となる。 
 
享保一年(1716年)五月、徳川吉宗、八代将軍になる。
 ・五月、享保の改革始まる。
 ・九月、市村座で『近江源氏』大当たり十月まで興行する。
 ・九月、神田明神祭礼が催される。
 ・九月、将軍吉宗、江戸近郊の鷹場を復活する。
 ・十一月、森田座でかおみせ『嫁入都の繫馬』のセリフ大当たりする。
 ○疫病が流行し死者8万人。
 ○鷲や猪などを見世物として興行する。                                 
 ○深川花街のひとつ、越中島古石場に料理茶屋が開店する。

享保二年(1717年)二月、大岡忠相町奉行に任命される。
 ・三月、吉宗、参府オランダ人のフェンシング・ダンスを観覧、パーティー開く。
 ・五月、吉宗、麒麟丸に乗船、亀戸隅田川で初めて放鷹、自ら鉄砲で鵜などを撃つ。
 ・五月、江戸三座で『国姓爺合戦』競演(市村座、十月まで大当たり)する。
 ・五月、隅田川の木母寺前から、寺島村上り場に至る堤上にサクラを植樹する。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・六月、鉄砲洲船松町から駒込富士に花万度を棒げる風習始まる。
 ○品川御殿山にサクラが植えられ、遊覧の地となる。   
 
享保三年(1718年)一月、市村座で『七種福寿曽我』七月晦日まで大当たりする。
 ・一月、森田座で『若緑勢曽我』公演し、団十郎の「外郎売」が大当たりする。
 ・二月、深川本誓寺鼻缺地蔵尊がはやりだし貴賤群集する。
 ・三月、吉宗、戸田志村に追鳥狩へ出かけ、勢子に農民三千人を使う。
 春頃、伊勢参り流行りだす、この年お蔭参り流行する。
 ・五月、町方の華美な服装を禁止する。
 ・六月、山王・神田二社の祭礼を隔年の挙行とする。
 ・九月、神田明神祭礼が催される。
 ・十二月、町火消の組合を設置する。
 ・十月、宿屋の旅籠屋の飯盛女を取締(一軒に二名以内)。 
 ・十月、内藤新宿の宿場を廃止、淫らな花街となったため。
 ・十一月、中村座で『平仮名嫁入伊豆日記』相撲が大当たりする。 
 ○王子金輪寺の開帳(開帳期間不明)が催される。
 
享保四年(1719年)三月、浅草寺の開帳が催される。
 ・五月、浅草寺本堂修復の十万人講始まる。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・七月、町方・武家・寺社の博打まがいの三笠附を禁止、町方の辻相撲・踊りを禁止する。
 ・九月、中村座で『菊重金札ノ祝儀』の異見せりふが大当たりする。
 ・十月、吉宗、吹上の御覧所で朝鮮人の馬の曲乗りを観覧する。
 ・十一月、御殿山の上り口で繰芝居興行が催される。
 ○上野厳高寺の開帳が催される。

 町人が勢力を伸ばし、遊びの文化が飛躍的に発展した時期といえば、やはり「元禄」をおいて他にないだろう。が、それは幕府が町人の遊びを奨励したとか、寛大さを示したからというわけではない。むしろ、綱吉は、町人の台頭を快く思っていなかったらしく、治安維持の名目で舟遊びに関する規制や辻相撲、辻踊りなどを禁止した。また、「生類憐みの令」に背くとして、動物の見世物や釣りの禁止など、実に頻繁に禁令を出している。
 もっとも、「生類憐みの令」に関するものを除けば、小うるさく注意するわりには、効果は上がっていなかった。それが証拠に舟遊びに関する規制にしても、辻相撲や辻踊りの禁止にしても、同様の禁令を六回も七回も出している。町人たちにしてみれば、いかにお上の言いつけとはいえ、一旦覚えた遊びや贅沢を、やめる気などさらさらなかった。
 さすがに禁止令が出された当初は、おとなしくしているが、その間にも彼らは抜け道探しに知恵を絞り、取り締まりが緩くなるとまたぞろ自分たちのペースで遊びはじめた。経済力を身につけ、勢いづいた町人は幕府にとっては、侮りがたい、厄介な存在に育っていたのである。
  さて、同じ将軍でも、八代吉宗は奢侈禁止、質素倹約を押し進める一方で、庶民の遊びやレクリエーションに対しては意外なほど理解を示している。吉宗の治世に出された触を見る限りでは、辻相撲や辻踊りの禁止(1720年)、節句の飾り物等の華美禁制(1721年)、隠し遊女禁止(1722年)など、綱吉の時代と大差ないように見えるが、実際の政策をみると両者はかなり違っている。
 たとえば、享保二年(1717年)品川御殿山に桜を植えて遊覧地とし、その翌年には、当時人気の江戸三座に屋根を架け、上桟敷をつくるのを許可している。さらに、享保二十年(1735年)には、芝神明社地で四つの宮芝居百日興行をはじめ、湯島天神など7ヶ所余に16の芝居興行を許すなど、庶民に甘い所も見せている。
 これによって、吉宗は庶民の花見を公認、また歌舞伎の隆盛(1725年ごろから芝居茶屋ができはじめる)についても寛大なところを見せた。さらに、享保十七年(1732年)には、後の「川開き」行事につながる水神祭を催し、享保二十年には谷中の感応寺で富突(とみつき)を許可した。むろんこれは、庶民のためにということではないが、それでもやはりある種の「親心」は感じられる。
 とくに、遊覧地(現代の公園ともいえる)の造成についてはかなり前向きである。前述の御殿山に加えて、隅田川の木母寺前から寺島村上り場にいたる堤に桜を植え(享保二年)、飛鳥山にも桜を植樹(享保五年)。さらに綱吉が市中の犬を収容した中野の跡地には桃を植えたが(享保二十年)、これらはすべて江戸でも指折りの行楽地として栄えた。
 しかもそうした遊覧地はいずれも、お城から2里(8㎞)程度と町人が無理なく日帰りできる距離、それも東西南北に一ケ所づつという配置である。やはり吉宗は綱吉とは違って、庶民のレクリエーションについて本気で考えていたのではないかと感じ取れる。
 ところで吉宗以前に花見は行われていなかったのかといえば、むろんそんなことはない。花見の歴史自体はかなり古く、九世紀初めにはすでに行われていた(宮中の公式の桜花宴は812年より)。
 ただし、庶民が行っていたのは、陽気の良さに誘われて春の野山に思わず足が向く、といった万葉スタイルの「野遊び」である。桜の花を眺めて楽しむことを第一の目的とした「花見」とはちょっと趣が違う。この場合は見るべき花がなくてもかまわないし、仮に花が咲いていたとしても、それはたくさんある「野遊び」の要素の一つにすぎず、花についてはほとんど意識していなかったようだ。
 その証拠に天和三年(1683年)に刊行された『紫の一本』という江戸の名所案内記には、「道灌山  この山に花はなけれども 春は花見とてこの山群集す」と書かれている。この山は日暮里から王子に至る道筋にある見晴らしの良い小山である。厳しい冬をじっと耐えて過ごした当時の人々は、ようやく巡ってきた春に、身も心も弾むような気持ちで戸外に繰り出していったのだろう。道灌山に桜の花はなかったわけだから、厳密に言えば、これは「野遊び」ということになるのだろうが、花がなくても「花見」と呼んでいたところがおもしろい。
 では、桜の花をメインにすえた本来の意味での「花見」は誰が行っていたのか。『江戸雀』(1677年刊行)に「暮中うちつゞく花の下は敷島のむしろを見張りて、連歌催すものあり、ほうつえにかほをすかめて俳諧をつらねとものするもあり、歌を謡、詩を吟じさゝめきさゝのむさまざま」と記され、『江戸名所記』(1662年刊行)の「牛込上衛門桜」の挿絵にあるようなスタイルで、花見を楽しんでいたのはこの当時はまだ、侍や僧侶、そして一握りの上層町民に限られていた。桜の花を鑑賞しながら歌を詠んだり、漢詩を作ったり・・・というかなり教養を要するものであったらしく、仲間入りするにはカネと時間と教養が必要だった。
 したがって、江戸初期の花見には、長屋の八つぁん、熊さんのような庶民が紛れ込む余地はなかったとみるべきであろう。また、対象とする桜も、今のように1000本もの桜がここぞとばかりに咲き誇るのを見るという派手なものではなかった。一本ないしは数本、多い場合でも数十本程度の桜を少人数でながめるというこじんまりとした催しだったらしい。
  それでは、庶民が実際に花見を始めたのはいつ頃からかというと、吉宗が、享保十八年(1733年)、飛鳥山に花見客のために10軒の水茶屋の設置を許可している。したがって大体この頃からだと思えばよい。また、このことから享保五年(1720年)に植樹した桜が13年後(享保十八年)には観桜できるくらいに順調に育ったことや、さらに飛鳥山の花見客について吉宗らがかなり期待していたことなどがわかる。5年後(元文三年)には、今度は何と一挙に水茶屋54箇所を許可した。これは、10軒程度ではおっつかないくらい、飛鳥山の花見客が急増したからに違いない。
 こうして、享保年間(1716~36年)の頃までは、花見は上野に限ると思っていたのが、元文年間(1737~41年)の初めには飛鳥山に気押されてしまったと、書物に書かれるほどに飛鳥山の人気が高まった。と同時にこの頃から、花見のスタイルも、宮中に端を発した「花を愛でて歌を詠む」といった風雅なものから、花見の開放感を味わったり、にぎやかに飲食して楽しむという、手軽な誰もが参加できるようなスタイルに変わっていった。
 また、中野のモモ園についても、周辺の農家に対して11軒の茶屋を出すことを許可したが、これは農家の現金収入を考慮し、と同時に周辺の管理を期待してのことだろう。
  ところで、隅田川の土手を除くと他の遊覧地は、いくら江戸時代とはいえ、 歩いて行くには少々遠いような気もする。が、これはもしかすると町人にも運動が必要だという、吉宗の考え方が反映していたのかもしれない。紀州家の三男坊として、野山を駆け回って育った吉宗は、乳母日傘の他の将軍たちとは、気質もものの考え方も大きく違ったようだ。体格もよく頑健だった彼は、釣りや鷹狩りを好み、家来にもそうした「武道」につながる戸外レクリエーションを奨励した。
 吉宗は将軍になってからも、再三鷹狩を行ったが、これらの遊覧地はいずれも狩場に近く、いわば自分の遊び場みたいな感覚だったのだろう。そんな場所に庶民が集まってきて、楽しくい時間を過ごすということは、吉宗にとってはおそらく理想的な民の姿だったのではなかったか。
 そういえば彼は、鷹狩りを催すにあたって家来たちが、草鞋の履き方も知らず、狩場を走る姿はまるで女子供のようだ、と嘆いたという話がある。武士たちの軟弱さに失望したからというわけではないだろうが、せめて庶民には戸外に出て歩くことで、質実剛健を身につけさせようと考えたのかもしれない。