★花より団子の花見スタイル

江戸庶民の楽しみ 16
★花より団子の花見スタイル
享保五年(1720年)一月、市村座で『釜鳴振曽我』かけ合いのセリフが大当たりする。
 ・一月、森田座で『楪根元曽我』団十郎の矢の根の五郎が大当たりする。
 ・一月、中村座で『一富士礼拝曽我』(おふさ徳兵衛十七回忌で三座も)大当たりする。
 ・一月、堺町から出火し中村・市村座焼失する。
 ・六月、町方での辻相撲・踊を禁制する。
 ・七月、花火を禁止する。
 ・八月、町火消組合改正、いろは47組にする。
 ・九月、白山権現祭礼が催される。
 ・九月、吉宗の命により、飛鳥山に初めて桜の苗木が植えられる。
 ・十一月、市村座で『万代子宝今川状』餅つきの所大当たりする。
 ○三田春日明神開帳(開帳期間不明)

享保六年(1721年)一月、森田座で『大鷹賑曾我』初演大当たり、二代目市川団十郎の給金が千両に。
 ・一月、中村座で『吉祥鷙(ナオトリ)曽我』が大当たりする。
 ・二月、御殿山での狼藉が禁止される。
 ・四月、倹約のため、祭礼において屋台を引き回すことを禁止する。
 ・六月、上巳の飾物(破魔弓・羽子板・雛人形など)の華美を禁止する。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・六月、森田座で『心中天網嶋』団十郎が大当たりする。
 ・七月、調度の新奇・精巧化を禁止、書籍・絵草子新刊を規制する。
 ・閏七月、評定所に目安箱が設置される。
 ・閏七月、新奇の書籍出版禁止、農村での賭博・遊戯を禁止する。
 ○甲斐板垣村善光寺(開催地・開帳期間不明)

享保七年(1722年)一月、中村座市村座で『大竈商曽我』上演、団十郎が大当たりする。
 ・一月、一橋御門外明地の遊覧許される。
 ・二月、飛鳥山滝野川堤上に染井の伊藤伊兵衛が紅葉を植える。
 ・三月、吉宗、戸田で追鳥狩り、徒士勢子5千・農民勢子4千人を動員する。
 春頃、浅草寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・四月、回向院での飛騨高山国分寺開帳を含め4開帳が催される。
 ・七月、回向院での甲斐善光寺開帳を含め2開帳が催される。
 ・八月、江戸の隠し遊女を禁止(抱主は家財没収・手鎖百日)する。
 ・九月、神田明神祭礼が催され、城では禁煙・禁飲食となる。
 ・十二月、小石川薬園に養生所が開業する。
 ・十二月、心中を取り扱った読売(瓦版)禁止、猥褻書の禁止などの出版統制する。

享保八年(1723年)二月、中村座で元祖中村勘三郎百年忌、『寿太平綱引』を上演する。
 ・二月、心中を扱った著作・演劇禁止する。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・七月、芝神明で女太夫が軽業を興行、日々大入り(翌月華美な服装で手入となる)する。
 ・七月、町方での辻踊を厳く禁礼。
 ・八月、火の見櫓設置が義務づけられる。
 ・十月、湯島天神造営し遷宮する。
 ・十一月、隠売女取締で根津門前町取払い。

享保九年(1724年)一月、京橋加賀町カラ出火、森田座焼失する。
 ・二月、物価引き下げ令発令する。
 ・四月、回向院での摂津総持寺開帳を含め5開帳を催す。
 ・十一月、中村座で『太平御国歌舞妓』団十郎が大当たりする。
 ○武蔵府中大盛寺開帳(開催地・開帳期間不明)
 ○深川富岡八幡宮前に二軒の茶屋が開店する。

享保十年(1725年)二月、森田座で『深草少将』四月一杯入りづめとなる。
 ・二月、地代・店賃の滞納が深刻になる。
 ・三月、吉宗、小金の牧で猟、鹿・猪800を獲る。
 春頃、愛宕下長者弁天開帳を含め四開帳を催す。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 夏頃、不忍弁天開帳を含め6開帳を催す。
 ・七月、回向院での板橋村願成寺開帳を含め4開帳を催す。
 ○この頃から芝居茶屋ができ始める。

享保十一年(1726年)一月、①都一中浄瑠璃、道行にて『都見物左衛門』が大当たりする。
 ・三月、吉宗、小金原で猟、列卒3千、総勢3万余人を動員する。
 ・四月、回向院での荏原郡天照山大吉寺の開帳を催す。
 ・五月、伝統ある劇場以外、新たな狂言座・操り座の設立が禁じられる。
 ・六月、永代橋維持のため渡銭2文を徴収する。
 夏頃、森田座で『傾城桜物語』団四郎が大当たりする。
 ・九月、中村座で『報恩日蓮記』が大当たりする。
 ・十一月、市村座で『雛ヅル常盤源氏』三五郎が大当たりする。
 ・十一月、芝居茶屋から出火、中村・市村座焼失する。
 ・十二月、独楽を回す歯磨き売り評判になる。
 ○江戸浄瑠璃の河東節さかんになる。

享保十二年(1727年)二月、戯曲『恋娘昔黄八丈』のモデルとなる白木屋お駒が処刑される。
 ・三月、角田川木母寺梅若丸の七百五十年忌開帳が催される。
 ・三月、中村座で『国性爺』団十郎が大当たりする。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・六月、本所香取神社で開帳の常陸阿波大杉大明神が乗り移ったと評判、参詣人が集まる。
 ・七月、大雨で浅草、千住辺が出水する。
 ・十一月、中村座で『八陣太平記』初演、セリ出しが大評判となる。

 江戸に住む住民のうち、実際に花見をした人々というのはどの程度いたのだろうか。まず、花の見ごろは一週間くらいであるが、天候に左右されやすいことから実際に花見ができるのは、「三日見ぬ間の桜かな」といわれるように、正味五日間くらいと意外と短い。次に、花見の人数だが、桜の本数によって、たとえば一本と百本では、当然のことながら集客可能な人数が違ってくる。十七世紀の江戸には、桜の名所と言っても、桜の木が一本しかないような所も珍しくなかった。また、敷物を敷いて花見の宴とまではいかないにしても、桜を近くからじっくりながめるとしたら、一日に千人以上の人が観桜するというのは容易なことではない。
 寛文年間から花見が流行するようになったと言われているが、おそらく、当時の江戸では同時に数千人もの人々が桜を楽しむようなことはできなかった。したがって、吉宗が桜を植栽する以前の桜の名所(三十三桜)での花見は、一カ所一日につき、二百人程度と想定して、一シーズンでは三万三千人(五日×二百人×三十三カ所)となる。したがって十七世紀頃の江戸の花見は、三万人以上はいるものの、五万人には達していなかったと思われる。
 享保年間に入ると、品川御殿山で寛文年間に植えられたサクラが見ごろになり、名所として大いににぎわった。それでも、この時期はまだ、花見の規模はそれほど大きくなかった。上野の花見にしても、肴と鳴物の類は御法度である上に、暮六ツ時には遊客はすべて下山させられ、夜間は閉門というから、とても夜ザクラ見物どころではなかった。
 十八世紀も半ばになると、飛鳥山の水茶屋五四カ所をはじめ、様々な営業許可が下りたことからもわかるように、花見の規模はかなり大きくなった。商売が十分成立したことから、この時点で飛鳥山の花見客は数千人単位に増加しただろう。当時花見でにぎわった場所は、飛鳥山の他には、桜の名所ナンバ-ワンの上野、花が最も早く咲く御殿山、それに浅草寺隅田川などである。これらの場所に生育していた桜は、合わせて数千本以上、一万本以下といったところか。『続江戸砂子』(一七三五年出版)には、桜の種類が「桜樹部」として22種、名所については30カ所程度が紹介されている。
 こうした名所での花見の規模は、桜の本数に加えて、水茶屋などの店が何軒営業できたかということからも推測できる。千本以上の桜がある上野や飛鳥山のように、多い日には千人以上の花見客を集めた所もあるが、逆に少ないところでは百人に満たないような所もあっただろう。そこで、桜の名所(30ヶ所)で花見を楽しんだ人は、一カ所あたり、四百人(百~千人より)として、江戸全体で、六万人(5日×400人×30カ所)となり、五万人以上だと思われるが十万人には及ばない、その程度である。
 さて、十九世紀に入り、文政十年(1827)頃、『江戸名所花暦』によると江戸にはすでに35カ所の桜の名所があった。花見の形態も、花を見ながら歌や俳句を作る教養講座のような観桜から、集団で木の下で飲んだり、食べたり、踊ったりというのが多くなった。また、賑やかな花見だけでなく、向島でしっとりと夜桜(墨堤の桜)を見て楽しんだ後、吉原へ繰り出すというような楽しみ方も定着した。
 十九世紀から幕末にかけては、桜を見るだけでなく、花見の宴に参加して自らが中心になって楽しむという人が多くなった。たとえば、手習の師匠が弟子とその親を連れて花見に出かける。子供の髪には造花をさし、そろいの手ぬぐいを襟にかけそぞろ歩く。この場合、楽しんでいる自分たちの姿を他の人に見てもらうのが一番の目的である。
 他人の視線を意識しながら遊ぶという、現代のレジャーに近い要素がそこにある。また、三味線の師匠が弟子を連れて行って桜の下で歌をうたい、それを周りの人々に聞かせるなど、以前の花見の楽しみ方からは明らかに逸脱していった。
 十九世紀半ばの花見は、桜の名所は数多くあっても、そのほとんどは大木が一本だったり、多くても数本程度。大勢が繰り出すことができたのは、御殿山、上野、浅草、隅田川飛鳥山などに限られていた。つまり、一日に数千人の利用ができたのは五カ所程度であり、十九世紀半ばの花見は、桜の名所(35カ所)で一日五万人(数千人×5カ所+200人×30カ所)くらいは訪れていたものと考えられる。したがって、一シーズンの花見は、三十万人(5万人×5日+α)程度だろう。江戸の人口の三割程度の人々が楽しんだものと推測されるが、庶民が大半とすれば町人の五割以上が出かけたことになり、その割合は現代より多いのではないか。