御開帳2

江戸庶民の楽しみ 14
★御開帳2
・宝永四年(1707年)二月、遊女の町中徘徊・抱置きを禁止する。
 ・三月、回向院で伊勢朝熊岳が開帳を催す。
 ・三月、日本橋亀井町出火し中村座が全焼する。
 ・三月、山村座で『傾城見顧(ミカエリ)本尊』が大当たりする。
 ・四月、常磐橋の北町奉行数寄屋橋に移転し、南町奉行と呼ぶ。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・七月、町中での辻相撲・踊を禁止する。
 ・十一月、富士山が噴火する。
 ○浅草大護院・護国寺などの地内で繰芝居行われる。
 ○山村座森田座、役者揃いで興行が大当たりする。
 
・宝永五年(1708年)二月、人不足で地方より奉公人を募集する。
 ・八月、疱瘡や疫痢が流行する。
 ・九月、神田明神祭礼が催される。
 ・九月、触太鼓、火災時の太鼓と紛らわしく、祭礼日以外禁止する。
 ・十月、築土明神本地仏観音が開帳を催す。
 ○目白不動・品川海蔵寺などの地内で繰芝居行われる
 ○浅草清水寺開帳を含め3開帳(開帳期間不明)が催される。
 
・宝永六年(1709年)一月、町中での賭博を禁止する。
 ・一月、生類憐れみの令を解除する。
 春頃、三芝居共『曽我』狂言を仕組み、その都度大入り、これより春狂言は『曽我』に定まる。
 ・五月、徳川家宣、六代将軍になる。
 ・四月、深川八幡が開帳を催す。
 ・五月、江戸城内で徳川家宣将軍宣下能、以後五日間が定例化する。
 ・六月、町中での夜間の踊を禁止する。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・七月、回向院で洛東浄花院が開帳を催す。
 ・九月、町中での独楽廻しを禁止する。
 ○女巡礼と称する町中の勧化を禁止する。
 ○四谷南寺町真成院が開帳を(開帳期間不明)催す。
  
・宝永七年(1710年)一月、神田柳原から出火、中村座市村座も焼失する。
  ・二月、森田座で『藪入隅田川』大当たり、6月~10月まで興行する。
 ・三月、中村座で『二河白道』が大当たりする。
 ・三月、向島木母寺で梅若丸七百三十五年忌の大念仏回向を催す。
 春頃、回向院での稲毛薬師開帳を含め3開帳が催される。
 ・七月、市ヶ谷八幡宮で嵯峨法輪寺開帳が催される。
 ・八月、山村座で『鳴神』二代目団十郎初めての大当たりする。
 ・七月、女巡礼の町中の勧化、念仏講中の提灯をかかげて歩くことを再禁止する。
 ・九月、神田明神祭礼が催される。
 ○護国寺・小塚原天王之社などの地内で繰芝居行われる。
 
・宝永八年(1711年)一月、中村座で『関白角田川』の歌念仏が大当たりする。
 ・三月、辻駕籠が600挺に制限、その内町方は300挺になる。
 ・一月、森田座で『けいせい逆沢潟』錣曳大当たりする。       
 ・三月、浅草で近江土山田村神社が開帳を催す。
 ・四月、永代寺で安房清澄寺開帳が催される。
 宝永年間○駒込富士参詣土産に麦藁の蛇、疫病のお守りとして人気となる。
・正徳一年(1711年)五月、闘鶏を禁止する。
 ・五月、売太女の取締強化する。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・六月、商家が相撲取りを召し抱え、人集をめて相撲させるのを禁止する。
 夏頃、回向院で甲斐八日市大聖寺開帳(両国橋東詰で飛び団子が売られ初める)が催される。
 ・十一月、将軍ら、朝鮮人の曲馬を田安門内馬場で観覧する。
 ・十二月、大火で36町に米5万俵貸し出す。
 ○三崎稲荷で神道七夜待の行事始まる。
 ○浅草茅町に人形店(現在の吉徳)が開業する。
 
・正徳二年(1712年)二月、日本橋材木町から出火し中村座が全焼する。
 春頃、市村座で『曽我邯鄲枕』羽織着流しの対面が大当たりする。
 ・五月、雑司ヶ谷鬼子母神に三箇津大関になった松風瀬兵衛能忠が額を奉納する。
 ・九月、神田明神祭礼が催される。
 ・十二月、町方での博打(富突・大黒突・俳諧冠突・三笠突なども)を禁止する。
 ○芝神明・牛込三光院などの地内で繰芝居が行われる。  
 ○深川洲崎弁天開帳(開帳期間不明)
 ○江戸半太夫堺町繰座興行が三年にして休座、後辰松座となり品川にて興行する。
 
・正徳三年(1713年)一月、市村座で『泰平女今川』初演、120日の大当たり。
 ・三月、二挺立・三挺立の造船禁止、屋形船は百艘まで、他の小屋形船も造作を禁止する。
 ・四月、徳川家継、七代将軍になる。
 ・四月、山村座で『花屋形愛護桜』を初演、団十郎助六が大当たりする。
 ・山王・根津・神田祭礼は天下祭りとし、三年に一回とする。
 ・閏五月、寺社開帳に夜間の大灯籠を防火上禁止する。     
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 夏頃、森田座で『義経一番続』が大当たりする。     
 ○湯島天神・浅草正福寺などの地内で繰芝居が行われる。
 
 ところで、開帳を成功させるには、宣伝が重要である。そこで、開帳を予定している寺社は、一人でも多くの人に来てもらうため、両国橋など人目に付く場所に、大中小様々な建札を設置し宣伝に努めた。大きいものになると一丈五尺(4、5m)ほどもあったという。
 享保四年(1719年)の浅草寺の開帳では、九カ所に建札を設置している。といってもこの時は、浅草寺自身が開帳する、すなわち居開帳の建札であるから、宣伝としては控えめな方であった。これが、出開帳ともなると江戸での知名度の低い寺社が多いから、どうしても宣伝活動に力を入れざるを得ない。出開帳の許可も居開帳と違って一年くらい前に下りるので、早くから準備することもでき、居開帳の倍以上建札が設置された例もあった。
 さらに、もう一つの宣伝方法は、江戸市中の開帳パレードである。これは出開帳の場合、江戸に開帳仏が到着したことを知らせるために行われるのだが、揃いの衣裳を身につけた講中が大幟を押し立てて団体で練り歩く様は、人目をひき、宣伝効果は抜群であった。わざわざ繁華街をコースに選び、裕福な商人から寄進を取りつけ、一方、商人たちも積極的に開帳パレードのスポンサーになって店のPRに結びつけたりしていた。また、開帳に伴って催される見世物も、人を集めるには有力な手段であった。
 寺社は開帳にできるだけ多くの人々を集めようと、商人や見世物などいろいろなものを利用しているが、逆に開帳を利用している人もいた。たとえば、享保十八年(1733年)の浅草寺の開帳の際、吉原の遊女たちは本堂裏に千本桜を寄進し、満開の枝に自分たちの名を書いた札や詩歌の短冊をつるし、参詣帰りの男たちに登楼を誘ったという。また、開帳に奉納した物の内容が「奉納物速報」として売り出されたが、その奉納物の大部分が吉原の遊女屋とその抱え妓によって占められていた。しかも、その主な奉納物は、遊女の名入りの提灯である。つまり、浅草観音には登楼客がふえるように手を合わせ、参詣客に対しては自分を売り込むという、一石二鳥を狙った作戦であった。
  さて、江戸では長らく、居開帳は浅草寺、出開帳は回向院と互いに張り合っていたが、両寺院が時を同じくして開帳を催すこともしばしばあった。また、開帳ではなくても浅草の縁日(四万六千日など)と回向院の開帳が重なることも珍しくなかった。このような場合でも、参詣者の奪い合いになるかと言えば、必ずしもそうではなかった。むしろ相乗効果となり、ともに賽銭額は増えたようだ。見世物については、距離的に近いこともあって、両方に足を運ぶ人が多かったので、プラス効果はもっとはっきり現れた。
 開帳による賽銭その他の収入は、善光寺出開帳の例で見ると、元禄五年(1692年)がもっとも多く一万二千両余。が、文政三年(1820年)になると三千両余とぐっと少なくなる。年代が後になるにつれて減少する傾向があるらしい。さすがに長くやっていると、ご開帳のありがたみも薄れていったのだろう。その上、後になるにつれて開帳の「宝物」にもかなり怪しげなものが登場し、「地方の名もなき小寺の開帳は、もっぱら資金集めのために急ごしらえで作ったイカサマばかり」というような有様で、人々の開帳熱も冷めていった。
  それにひきかえ、見世物などの賑わいは、逆に幕末に近づくにつれて一層の盛り上がりを見せた。さては、賽銭が木戸銭に化けたのだろうか。一回の開帳に訪れる人数は、多い時は三十万人から百万人近くに達したこともあっただろう。また、開帳に伴って催される見世物の入場者から想定すると、江戸では年間延べ百~二百万人の人々が開帳に出かけたと推測される。