★正月の楽しみ(安永二年一月)

江戸庶民の楽しみ 26
★正月の楽しみ(安永二年一月)
 江戸庶民が日々どのような暮らしをしていたかはなかなかわからない。底辺の庶民には、日記を記すなど無理なことで、また江戸の町全体を広く見渡して考察することなどできない。そこで参考になるのが、『武江年表』である。『武江年表』(ぶこうねんぴょう)は、斎藤月岑によって天正十八年(1590年)から明治六年(1873年)までの江戸の出来事を綴った年表である。月岑は名主であったことから見識があり、他にも『江戸名所図会』を刊行しており、江戸の遊びや遊び場については熟知していた。ここでは、『武江年表』の江戸の世相や風俗、特に開帳や祭り、見世物などに注目する。
 次に参考にしたのは、柳沢信鴻が著した『宴遊日記』である。信鴻は、柳沢吉保の孫にあたり、大和郡山藩主を隠居した後に染井の別邸(現六義園)で生活した。日記には、信鴻の身辺に起きた出来事がこまめに記録されている。その内容は、六義園での四季折々のガーデニング、物見遊山、観劇などが庶民感覚で綴られている。信鴻は庶民ではないが、四角四面の武士とは異なり好奇心が旺盛で、進んで庶民の遊びに興味を注いでいたようだ。そのため、日記から庶民の遊びぶりが見えて、当時の江戸の状況を読み取ることができる。
 そこで、以上の2書(宴遊日記、武江年表)をベースにして、その他の資料を参考にしながら安永二年の江戸の遊びの様子を探ってみたい。なお、日にちに続く天候は、『宴遊日記』から記す。

・安永二年癸巳正月
元日 日和好
○用人已上年始の礼を請
○藤田西都福寿草を進む(藤田西都は家臣)
二日 曇り冱寒夜小雨折々風出
三日 大曇り暖気七比小雨少し
四日 日和よし風大猛
○姉君より御文、海石榴鉢うへニツ・白梅一ツを賜ふ(姉君は六本木に住む千賀子)
五日 雲あり
六日 雲あり
七日 日和好
八日 日和好冱
九日 一面陰雲満昼より雨森々七過より快霽
十日 日和清明
○土肢侯御内証お秀より年玉、盃二貰ふ
○五加蔵金毘羅へ殖木買に行
○阿隆、幾浦・袖岳・住・町・森衛門より梅鉢うへ五ツ貰(阿隆は側室、幾浦以下は侍女)
十一日 日和好
○八過信明・信古来、近辺遊行する(信明は息子)
十二日 大曇る
○八過信古来る、昨日芝辺遣蓬につき鉢殖接分梅を貰ふ
○西都より鉢うへ梅三ツ貰ふ
十三日立春 快晴
十四日 大に曇り冱寒夜更より雨森々
十五日 雨四過沛然やかて止み八比より日色明々、夕かた空霽る
十六日 霽て雲折々日色を覆ふ夜寒威冬より厳し
○今日斎日にて信明・信古、蔵前閻羅堂に遊ふゆへ瀬左衛門・仙順供に行
十七日 日和快晴寒冬よりも厳し清光
十八日 日和よし月色清明
十九日 日和好月色清し
○姫路侯大つか別荘の香ふかき白梅の穂を給ふ
二十日 暁より雷少しやかいて雨折々降り大いに陰る
○鉢うへ台ニツ仲衛門造り出来○月桂寺より大垂小垂梅の穂来
廿一日 快晴朝馭
廿二日 大曇り朝六半よほとの地震四過より雰霏折々ふる夜大暖気
○山本段兵衛より接木梅鉢うへ十五株来
○妙仙院よりかすていら貰ふ(妙仙院は娘の千賀子)
廿三日 暖気雨蕭
廿四日 うす曇八過霎時小雨降る
駒込より接木梅十二種来
○交如あたこへ遣し梅鉢うへを求む(紅・白牡丹内・筆裡紅・白児)
廿五日 鍬浦姐砿馳城順炊剛もり東風暖気夜五過より小雨
○成慶院より仏法僧三鳥掛物・白梅接穂・雷除呪貰ふ、お隆へ紅梅・柔紙来る
駒込花屋弥三郎より鉢殖梅三株(陶朱公・俳梅・舞姫)海石榴四株(春宵・唐錦・関守・迦陵頻・岩根・松嶋)を貰ふ
廿六日 快晴暖昼より大にくもり八過村雨折々降る
○今井谷文来 鉢うへ梅三ツ、目六を進む、お隆へ盃を進む
○五加蔵鉢置西書紅筆二鉢を進む、七半過かへる、目六遣す
駿河大谷屋より箪笥出来、届く
○花屋より鉢うへ梅(難波鶯宿接分・八重源氏)二株来る
廿七日 雲冥々風爽々雨森々夜より終宵雪
廿八日 雪昼よりやみ空明かなり八頃より日色朗々
廿九日 快晴寒烈し手沍不便寒中より甚だし
○高野寺より貰えし白梅花萎故駒込へ遣し土へうつす
        
 安永二年の元日は、西暦1773年1月23日である。まだ真冬であるが、江戸時代は新春を迎える。当時の人々の感覚としては、これから春という気持ちが優先していたのだろう。信鴻の屋敷では「年始の礼を請」と正月らしいムードに満ちていたものと思われる。また、フクジュソウの鉢植も咲いていたものだろう。では、江戸の市中の元旦はどうであったか。三田村鳶魚によれば、あまり面白いものではなかったようだ。というのも、町人たちは、大晦日は夜遅くまで非常に忙しい。それが一転、元旦は朝が遅い上に店が閉まっているので、静まりかえる。江戸の元旦はツルが飛んでいるのを見るのが一番といわれるが、これも見方によっては、他に見るべきものが何もなかったことを証明しているようなものである。また、初日の出に大騒ぎするのも、他に楽しいことがなかったからだと鳶魚は述べている。
 では武士はどうであったか、江戸在勤の大名全員とともにすべての役人が登城し、将軍に祝意を表した。信鴻の宅でもこれに倣った「年始の礼」であろうか。なお、初登城は、元日より三日までの三日間に身分、格式によって日を分けて行われた。信鴻のところにも、三日までに信明など息子たちが挨拶に訪れている。
 さて、元日に登城・参賀を許されていたのは、三家・三卿、親藩譜代大名高家に前田・藤堂など特別待遇の外様大名に限られていた。登城者は官位に応じた装束をつけ、格式によって御座の間、白書院、大広間などにおいて、将軍に謁見し、祝詞を言上し、その後で祝儀の酒と吉例の兎の吸い物及び呉服の下賜などの饗応が行われた。
 したがって元旦は、朝早くから江戸城周辺の通りに、大名の堂々たる行列が行き交う。その行列の先頭には、露払い(奴)、これに槍持、旗持、徒士と続く。大名は駕籠に乗り、身辺警護の家来に守られていた。さらに、主だった家来のうち、馬に乗った者は足軽たちを率い、歩いている者は、献上品を運ぶ供回りの指揮に当たっている。特別に登城を許されている親藩の大名を除けば、他のどの大名の行列も、階級に従い、指定された時刻に、どの大名も指定された城門から順番に登城する。そこから、城の中を、長い行列がおごそかに進み、将軍の眼下を必ず通過することになっている。
 この登城を見ようとする庶民たちは、こちらに一かたまり、あちらに一かたまりと土下座し、被り物をとり、やや離れた所から、大名行列を見物する。彼らは、新しい行列が来ると、それまで静まっていたのが、ほめそやすどよめきに変わる。やがてそれが、ピタリと止まると、低い声で、口々に囁き合う。それは、行列が現われて来ると、名のある大名ならすぐ誰かわかるので、その名が伝わるのである。