★安永二年二月・三月

江戸庶民の楽しみ 27
★安永二年二月・三月
 『宴遊日記』から江戸の気象状況が見えてくる。信鴻の天候について詳細な記述は、変わり行く季節の様を克明に表している。これは、信鴻の自然への関心の深さを示すものであろう。信鴻は、六義園ではなく、まだ城の南側に住んでいたので、江戸の町の気象と見て良いだろう。当時の江戸は、今より寒かったといわれている。確かに、寒そうな感じがする。
 正月(1773年1月23日~2月21日)の天候は、「日和好」「晴」が13日もあって、雪は2日、雨は4~5日と穏やかであったと推測される。二月に入って七日(1773年2月27日)に雪が降るものの、九日(1773年3月1日)には「春一番」が吹いているようだ。その後二月中に5回の雪が降っている。三月六日(1773年3月28日)に雪、さらには閏三月十三日(1773年5月4日)にも雪が降った。
 江戸の春は、想像以上寒そうだ。それでも春が待ち遠しいというのが庶民の気持ちであろう。正月の十六日を「斎日」として、信鴻は「今日斎日にて信明・信古、蔵前閻羅堂に遊ふゆへ瀬左衛門・仙順供に行」と記している。また同日、「八百・要・りよ・たか、恵方へ参り増上寺閻羅堂へ」と恵方参りも行われている。武家も庶民と同様のことをしていたのだろう。
 そして二月に入り、十日に「明日初午ゆへ昨日より街中鼓声終日蘐躁」と町中の賑わいを記している。十六日には、「初午 春にひかれて午又午の行衛かな」と記している。だが、江戸の新春の風情を示す、稲荷祭りについての特別な関心はなかったようだ。二月は雪が多く、外出する気にならなかったのだろうか。
 二月も末になって、「廿七日  南風暖気 ○誠・せの、浅草辺へ行」とある。暖かさに誘われて出かけたのだろう。たぶん、庶民も大勢出たと思われる。また、「夜莱駒出、垂桜造花を貰ふ、阿隆雛挾箱遣す」と。「卅日  雨水くもり寒し○・・・お隆も逢ひ、付きの者を定め、雛を見する」。「三日 ○部屋にて年寄用人雛酒饗応」とある。三月の節句は、もともと武家の行事であり、それなりに催されたと思われる。
 三月に入り、九日「○信明・信古浅草辺へ逍遥するゆへ仙順呼に来」と暖かくなったことがわかる。また、「○鳳巾あくる」と、信鴻は凧揚げをしている。気に入っていたのだろう、以後何回となく凧揚げしている。
 春は着実に進んでおり、サクラは、三月二十日(1773年4月11日)頃咲き始め、廿四日「○寒松院より桜花貰ふ」、廿五日(4月16日)「花陰」と満開であった思われる。現代に比べ少し遅いようだが、寒いだけではなく、ヤマザクラ系のサクラであったためだろう。なお、当時はソメイヨシノが存在していない。
 なお、『武江年表』によれば、「●江戸中にて三月より五月まで凡十九万人疫死といふ、大方中人以下なり」と庶民は惨憺たることになっていたらしい。

二月
朔日  陰り大に寒し昨日の如し
二日 辰雪それ未に蒼天見ゆ次第快晴寒透骨
三日 霙昼過より雨蕭
○九翠維来、宮さき御とも、海鮮・紅梅鉢うへ・姻袋を貰ふ
四日 雲あり夜四(午後10時)過いたうないふるふ
五日 快晴
六日  くもる
○九ツ(正午)過、母君御入、興津・昌御供、花やより海石榴三鉢(濡ふれ・両雨紅・胡蝶仇介)を求む
七日 夜中より雪森々漫終日不止夜より繊雨
八日 くもり折々繊雨次第に空あかみて晴かかる宵より雨蕭々
九日 雨蕭々夜南風大猛屋梁を揺かす夜
十日 暁より雨止風なお烈しされとも半を減す快晴夜より雨蕭
○郡治を金毘羅へつかハし、梅鉢うへを買ふ(八重児・紫絞・十のうめ)
十一日 雨沛然
○鞍岡より真紅梅鉢殖を貰ふ
十二日  空くもる
○今朝姉君より梅鉢うへ二ツ(児遊・□雪の雪)賜ふ
十三日 陰雨森々
十四日 大に陰る風颯々夜猛風
十五日 陰
十六日 暁雪少し終日くもる夜更より雪
十七日 雪森漫昼過止月色清し寒甚
十八日 快晴寒如冬
十九日 陰
二十日 四前ない少し暫く雨蕭
廿一日 晴て風大猛夕凪
廿二日 くもる八(午後2時)過地震宵暴風出四過やむ
廿三日 快晴暴風烈
廿四日  今朝より風少し陰る
○平衡、石川を此程雄島と改るにつき梅鉢うへニツ貰ふ(田子浦・ひよく)
○交如をあたこへ遣し、梅鉢植二を求む(花かみ・菊川)
廿五日  陰
○交如天神へ行、梅鉢うへ六ツ求め来(豊後二・未開紅・和泉紅・式部紅・飛入紅)
廿六日  快晴大麗宵馭                                    ○八畳間東橡梅鉢を並ふ
廿七日  南風暖気
○誠・せの、浅草辺へ行
○千元浮世かゝみ・海石榴鉢置を進む
○夜莱駒出、垂桜造花を貰ふ、阿隆雛挾箱遣す
廿八日  花陰暖
廿九日 くもり寒し夕より繊雨夜更より雪屋根につもる
卅日  雨水くもり寒し
○・・・お隆も逢ひ、付きの者を定め、雛を見する

三月
朔日 雲あり
二日 雲多く冬より寒し
三日 朝快晴昼より雲出風猛
○部屋にて年寄用人雛酒饗応
四日 南風大猛昨より風勢愈烈し夜更凪快晴
五日 晴
●三月五日より、牛島長命寺辨財天開帳、
六日 朝雪少寒雨繊々
七日 快晴
八日  雲あり
○交如萱場町へつかハし、つはき三鉢を求む(羅氈・百官・星くるま)
九日  快晴暁より長閑八過艮風一面陰
○袖岳・せい・町・たを、木挽町見物に行
○六本木よりつはき二鉢被下(繻子・かさね・わひすけ)
○信明・信古浅草辺へ逍遥するゆへ仙順呼に来
○鳳巾あくる
十日  快晴南風大に暖夜艮風
○文より西王母桃貰ふ
十一日 一面雲る
十二日 快晴
十三日 てんきよし夜九前少地しん
十四日 一面陰雨折々少し落ちる夜大雨折々来
十五日 暁はこひ雨沛然四過よりやみ昼より快晴南風颯々
十六日 晴て風烈夕風凪月清月食
十七日  晴て霞
○喬松院白かねへ八比行く、五加蔵供、五加蔵昏過かへる、桜・つはき・桃華、庭のよしにて貰ふ
○園の菜を摘む
十八日  薄雲あり
○植村長純二源平桃鉢うへを貰ふ
○鉢植花畢る計、庭へ出す
○尾沢喜太夫雑司谷へ行、杉菜みやげに貰ふ
十九日  曇り雨折々
○梅鉢置三十本駒込へ預る
○幾浦・袖岳・嫋に、つはき貰ふ
廿日 雨森々晩繊雨
○たを来、土筆・萱草・桜桃を貰ふ
廿一日 陰
廿二日  雨粛々
廿三日  雲あり夕かた霂霡至
○六本木より唐にしきつはき・干牒・香物賜ふ
○六本木より海石榴たて花賜ふ
廿四日  孤雲あり艮風
○暖龍よりつはき鉢植貰ふ
○寒松院より桜花貰ふ
○交如あたこへ遣し、つはき二鉢を求む(緋車・出羽大輪)
廿五日  花陰次第に快晴
○暮誠帰、唐錦つはき鉢置貰ふ、お隆へ酒を贈る
○四ツお隆かへる、さ二れ浪・乱拍子、つはき二鉢を貰ふ
廿六日  有雲南風大猛揺屋舎
廿七日  快晴大暖気初て服ひとつ
○木俣に桜草貰ふ
廿八日  陰八過少地しん不知東風
廿九日  大陰八より繊雨折々至龍風
○羅氈つはき、駒込へつかはす
三十日  鰯雲多し寅風
○栄蔵ニ海石榴鉢置貰ふ(名寄)
○石燈籠・庭石、駒込へ車にてつかハす
★三月、深川八幡で勧進相撲が催される。
●三月より、回向院境内、一言観音開帳、
●同、高輪庚申堂□面金剛開帳、三月末より、疫病行れ人多く死す、
●江戸中にて三月より五月まで凡十九万人疫死といふ、大方中人以下なり、御救として朝鮮人参を給る、
筠庭云、疫病は去年の冬より引続きてなり、品川新宿の内計り、死するもの八百余人と云、江戸町々へ一町につき人参五両づゝ下さる。
(以上、○は『宴遊日記』から、●は『武江年表』、★はその他)