★祭礼と菊見を楽しむ、安永三年の九月十月

江戸庶民の楽しみ 36
★祭礼と菊見を楽しむ・安永三年の九月十月
 九月、幕府は物価の下落を図るため、鋳銭座での鋳造を停止、真鍮銭も半減させた。江戸市中への影響がどの程度あったか、庶民の生活はさほど変化があったとは感じられない。たとえば、『武江年表』によれば「○九月朔日より、市ヶ谷八幡宮内茶の木稲荷開帳」「○九月廿日、眞土山聖天宮祭礼、産子の町より出し練物を出す」「○九月廿一日、小石川白山権現祭礼」と、楽しみは続いている。翌月のイベントとして、深川八幡の勧進相撲がある。また、「○大川橋始て掛る、俗に吾妻橋といふ、十月十七日、渡り始め」と新しい橋の出現がある。この橋は町人らで建設したものである。これらからも、幕府の鋳造停止などが直接庶民の営みに影響した様子は窺えない。
 大川橋の名は幕府の正式名、吾妻橋は庶民の通称である。町人が整備したこともあって、通行料は2文である。但し武士は無料。不満を感じるかもしれないが、当時の橋は、両国橋(万治三年1660架橋)を除いて、新大橋(元禄六年1693架橋)も永代橋(元禄九年1696架橋)も有料である。橋の通行料をとることは、橋の管理や修繕のためで当たり前と感じていた。さらに言えば、西欧に比べれば割安であり、民主的であった。詳細は後日記す予定。
 さて、信鴻の九月はどうしているかといえば、前年同様六義園内で栗拾いと茸狩り、それにツツジの作りに精を出している。また、外出も八日、十五日、十六日、十八日、廿三日、三十日と、行楽シーズンらしく出かけている。その中で注目するのは、十五日に記された「三嶋の祭礼」である。信鴻は、「真崎神明祭夜宮」に出かけたのであるが、途中で「金杉の森のうち十余町はかりの程のほり立て賑ハし」「金杉一町目へ出、舟のやたいにて太鼓うち居たり、時口提燈等出、一町一町幟たち、竹にしめかさり大に賑し」と祭を楽しむ光景を記している。江戸では、『武江年表』には記されていない出来事が幾つもあり、このようなローカルな祭礼が盛んであったことを証明している。
 信鴻は
、「八日 大快晴涼し 今暁天気良故六半に起」、お出かけ日和ということで新堀の母の住まいに向かった。その気分は、途中で気になっている森田座や新銭坐を覗こうとする物見遊山である。「○五を聞て出、供(略)筋違より須田町通り、大道の西の側より本町一町目にて西折、常盤橋前へ出、御溝の側より京橋手前横町へ入、(略)森田へ行今日休み、明日より狂言をする由張札有ゆへ猿やへより、(略)是業鄽を見、木挽町裏通脇坂前より新銭坐にかかり、神明参詣、煎餅求め香煎も買ふ、増上寺うちより中の橋新堀(母宅)へまいる、(略)八半比御暇申上直に起行、中の橋より切通し、御幸小路、松山侯脇より東行、日かけ町中川裏門わき本通り、今川橋かつらきや大和ちや二休み、筋違木戸内醸やにて単物脱袷を着、昌平橋内より町かこにて暮少前かへる(略)」。
 「十五日 快晴暮前西北雲あり宵に雲うき五半頃より清光○九半より珠成同道真崎へ行、富士前より神明、夜宮故里童太鼓打ゆへ社へ立寄、裏へぬけ不動坂を下り、秋天大にはれ西天白雲水のことし、田もみた刈鷹声絶す、日暮里へかかり崖上より北東を望む、筑峯晴色愛すへし、水茶屋に休む、金杉の森のうち十余町はかりの程のほり立て賑ハし、鄽主に問ヘハ坂本の三嶋の祭礼のよし答ふ、浄光寺より東阪を下り根岸へ出、山伏松にかかり金杉一町目へ出、舟のやたいにて太鼓うち居たり、時口提燈等出、一町一町幟たち、竹にしめかさり大に賑し、四丁めより戸田邸東側を廻り、裏茶やより土堤にかかり、白玉やに休む、若者主妻糀町辺へ出、家に有さる由答ふ、それより真崎へゆく、途中行人多し、皆生姜を手にさぐ、問ヘハ真崎神明祭夜宮のよし、稲荷へ詣、裏門より神明へ行、去〃年類焼借殿也、うり物みせ多く参詣も多し、かしこにて椎実・生姜を買ひ川口やに休む、菜飯(略)○月清く初出甚大なり、暮前起行、西北横雲多し、犬門前にて日暮、戸田前にて六つの鐘聞ゆ、金杉町提燈家々にとほす、坂本左側横丁三嶋のやしろに詣す、類焼借殿、扉風坂通り(略)谷中通り(略)五過帰家」。
 十六日は、別録からの記載で、観劇についての詳細は省き、行程における事柄を示す。明治になっても芝居興行は、午前6時ころ(明け六ツ)から、夕方五時(暮七ツ半)までかかるのが普通だった。観劇は丸一日がかりということで、信鴻は八時ころに出発し、午後11時に帰宅している。「○今日、天気薄曇(市村座頑要)すずし。五つより(略)広小路、交如茶やへ寄、少し休み、お玉が小路より、新橋、弁慶橋にて、吉野やを人に問ふ。知らずと答ふ。本丁通大丸を過て人形町を問ふ。右折れ一町、直に人形丁の由教ゆ。夫より松屋へ行。二階に、石みゆるゆへ、直に這入。少時先へ来りし由。暫有て、(略)狂言此前の通り。初幕(略)。五つに起行。お隆同道。人形町へ出、楽屋新道より、和国もちの前橋をわたり、お玉が池とほり、聖堂前にて、江戸や水茶やに休む。(略)かしこにてお隆駕にのる。先へ行。土物店にて烟を弄す。(略)四過、四半時にて帰る。」
 「十八日 快晴寒終日無雲朝夕寒○九半より月桂寺参詣する故、新井先番に行、供(略)辻番わきより猫又の上橋大学やしき坂上にて煙を弄する時、幽霊橋の道より松平雅楽頭忍ひにのて閑歩通る、護国寺の坂にて榊原世子通る、人叢湧か如し音羽町にて深川塩に逢ふ、三町目右側水茶やに休み、橋をわたり右行、一興橋より和瀬出榎町宗山寺前(略)、加賀やしき五段前にて右折、月桂寺少手前より駕に乗、松井庵へ行、衣服着替、御墳墓拝礼、祠堂を拝又庵へ帰り衣服着かへ歩行、是より新井供、門外より右行、尾侯下邸前、し、若松丁大久保(略)願満の前越侯後下邸より穴八幡へ詣す、男女行人甚多し高田馬場遠的あり、姿見橋より雑司谷華表前右側に珠成先へ来待うけ(略)直に同道本堂へ行、堂北の上の茶やへより蕎麦を喫、鳥居わき南側茶や宮城備前奥方休息、北側徳永平兵衛息女休息、徳永ハ無程帰らる、天鵞絨つつみのり物後道十人計、七半過起行、生酔三人途中にて劔ゑほしおとり、頓而藪そは前の茶やに入をとる、護国寺へ入、人既散す、安藤侯脇より大学門前幽霊橋氷川坂にて夜に入、六の鐘聞ゆ、やしき七八町前にて由兵衛に辻番迄直にゆき左折せよと教へ、帰宅を知らせに先へ行しむ、程たく先行の挑燈行かたしれさるゆへ、由兵衛か外の小路へ迷ひ入しと思ひ皆々駈行てみれハ、一町先の土物店の道へ右折して一町はかり行過るゆへ呼かへし、清兵衛をつけて先へゆかしむ、六半過帰宅」。
 「二十三日 快晴(中村座頑要)○五前より出。供(略)富士町道(略)。今日、白山祭礼ゆへ、谷中を廻る。上野谷中にて一所に行。広小路にて行越し、交如が茶やにて、小袖を一つ脱。老姥鄽に在、跡より娘来。住等、八橋前荼やに休む。(略)御なり街へ行。此方は中通りを行。二町ばかりにて、(略)洞津侯前より、和泉橋、弁慶橋にて、住等、吉野やへ些と寄る。大丸より人形町ヘ(略)松やへ上りて、程なくお隆来る。本郷通り也。供(略)四過に桟敷へ行。見物なく、甚淋敷、初るべき(略)、暮過、打出し。(略)五つ前起行。路次より永楽やへ立より、お隆、目録遣し、直に楽や新道、新材本丁にて初夜の拍子本聞ゆ。油島幾竹に休む。油島にて、祭のやたい口口通る。古経の辻にて、お隆番今立寄、小袖を着。駕にのるゆへ、先へ行。矢場浄心寺門内にて、烟を弄する内、お隆、先へ行。富古朋にて四つをきく。(略)」。以上は別録で、日記には「○今日白山祭礼ゆへ留主に誠・要・様・由兵衛・森衛門本郷よし野やへ行○白山十六年ふりにて祭礼甚賑しく山王につつきたる祭の由(略)」とある。
 「廿五日 快晴昼過より雲多南風夜更雨蕭々○八半頃より珠成同道油島参詣、供(略)谷中通油島参詣、例の茶やへよる、菊数種求む、帰路根津通り、油島人叢分かたし、首ふりより夜に入、千駄木西辻番より提燈を点し、暮過かへる(略)」。
 「三十日 晴雲流○八半より珠成同道菊見に出、供(略)表門前庄八菊を見(略)夫より和泉境より巣鴨西側四郎左衛門か菊を見(略)次に同側八五郎菊を見、家居甚劣れ共花ハ好し、爰にて佳花の名を書とむ、次に東側武右衛門菊を見、黄と白と中菊を求め、庚申塚へ出、日巳に落、西折畔道東行、又南折、伊兵衛前より洞津侯前を過、暮過かへる」。
 十月には入り、信鴻の物見遊山は、先月からの「菊見」が続き、キクに関する記載が目につく。まだこのころは、菊人形は作られておらず、鉢植の花を愛でる観賞。また、『武江年表』の八月に記された「浅草日輪寺に於て能狂言が日記に記されている。
 先ず、キクについて
「朔日 陰暮に快晴○八半過よりお隆菊見ニ出、供(略)○五前お隆かへる」と側室のお隆が供を18人連れて出かけている。その日には、「○喜太夫王子へ行し由、黄菊貰ふ」とキクを貰っている。翌日、「二日 陰四半頃より雨粛々○お隆昨日妙喜坂薪屋吟八へ立寄、今日あさみ菊鉢殖貰ふ、彼家の珍花のよし」と、またキクを貰っている。「四日  陰風爽々○お隆に菊二種貰ふ(雪下風・柿牡丹)○穴沢菊三種持参」。「五日  快晴○上邸にて上野か作りたる菊貰ひ、お隆へつかハす」とキクの遣り取りをしている。
 信鴻は、出かけたついでに植木屋により植物を購入したことがあったが、八日は植木を求めて出かけたようだ。
「八日 快晴○九過より珠成同道にて川東に遊ふ、供(略)天気大に晴れ春の如し、谷中通り感応寺のうち根岸茶やに休み、山伏松の方を石川近きといふ故由兵衛と二人東道へかかり、此方にてハ西道を行、金杉石橋を渡右折、二十間計にて石川等追つく、正燈寺のを見る、茶みせに休む、大関の世子忍ひにて来、石川に聞かしむ、白玉屋に休む、主婆家に非す、真崎へ行、田に鷹多し、稲やにて支度、大平(略)、八過かしこを起ち渡しをのり堤上を南へ下る、白髭より半町計過て左畔へ下り東行一町計、行人に問ふ、跡へ下り堤下に傍ゆくへき由いふ、一町計にて又東行、棒松数本有、民家へ一町計入て松を買へき由いへ共、高直にいひ売さるゆへかしこを出、又垣内に柊あり、松あり、穴沢に命し買しむ、明後日持参へき由約す、秋葉裏門より入、所々を見、先妣進献の石燈を見、表門より出、堤へ上り、竹町へ行、天大に晴芙蓉高く要に横雲有竹町橋出、来なからやらい未とらす、橋下足代あり渡しをのり浅草前より茗荷や前にて軽焼由兵衛に買ハせ、寺町通り板倉つの守前弘徳寺わきへ出、日くるる、谷中通り六半帰る○月昼の如し」。
 翌々日、雑司谷へ菊見に出かけ、生花展(立花会)も見ている。「十日 大快晴月清○八過より雑司谷へ行、供(略)、庄八菊へ行、和泉境より四郎左衛門菊を見、酒や脇より田畝道(略)観光寺前護国寺わきへ出、護国寺内後の茶やに休み、雑司谷へ行、塗中賑也、寺々飾物多し、人群集、本堂より千年堂次第に廻る内々投生会を見る、今いける老も有、立花会も有、鳥居前左側角の茶や北の角二階に休む、客間毎に在、堂左上の茶や(略)小松淡路母公来、向の一の茶やに安藤対馬息女来、供甚し、かしこにて蕎麦を喫す、予帰る頃安藤帰りの様子故暫見て居たりしか、手間取ゆへ帰る、護国寺内、安藤前、大学前、三宅前、巣鴨にて六を聞、六過かへる」。
 「十六日 快晴昼より坤風雲出没○袖岡初に戻、松折・菊鉢うへ貰ふ、お隆柑鉢うへ貰ふ」。 今の暦では11月21日であるが、小雪が舞う寒い日に信鴻は浅草に出かけた。「十八日 小雪快晴大寒○九過より珠成同道浅草へ行、供(略)谷中通、上野覚成院前にて先追ふ声する故、御三家成へしとて引かへし、観能院門中へかくるる、婦人処女等予と共五六人彼処へ来、無程済みて聞けハ日光大王也、大師ハ常行堂也、人群集す、中堂は御普請にて竹矢来を用ふ、車坂より行、塗中人分かたし、境やに客有ゆへ隣の常陸やに休む、お袖鄽上にて交語、奥山けしの介を見(略)裏門へ出、又雷神門より並木右側の茶屋にて喫飯(略)暮過起行弘徳寺にて提燈点す屏風坂にかかり帰る、帰家六半過○浅草日輪寺当年より五年の内毎月十日能狂言番附野嶋やにて求め帰」。
 「廿日 大快晴○四ツより六本木へ行、伝通院の中を通り卓蔵主参詣、牛天神の下より牛込門土堤四番丁(略)御厩谷、糀丁平河参詣、水茶やに休み裏門より出羽前、赤坂門、河岸、檜館、六本木、禅寺林仙寺にて本堂より袴を着、供も皆袴を着、爰より駕にて六本木へ行九過也、(略)七前御庭御門より歩行にて裏門へ出、飯倉片町馬具やかりて供袴を着、予も端折、土器町四辻へ出、切通増上寺馬場通り、隠岐前にて隠岐にあふ、通りへ出、今日珠成夷講にてさるやへゆく故猿やへ立寄、石も今朝来、夷講ハ明日の由、珠成ハ前剋来、原へ鶴市見に行し由、彼処にて暫休み直に起行、芝居にて役老の名みなかかり人群集、紀国橋にて提燈をつげ、通りよりかへる、油島三坂や水茶や休み何処より駕にて五つ時かへる」。
 「廿四日 大快晴寒八半頃強地震七比又少地震○四過より珠成同道新堀へ行、供(略)小石川通りより八代曾河岸(略)長門侯脇より新橋、愛宕縁日塗中人叢分難し左右植木一面、あたこ参詣女阪より登る、北の茶屋へ行、向より久留米侯歩行にて来ゆへ堂背へ隠れ那処に休み、本堂より所々見廻り、女阪より切通し、森元丁、新堀へ八前着、此程靫負末女おそへ(略)と御引取ゆへおそへ出る、八半頃甚つよき地震(略)哥に逢ふ、七前起行、中の橋手前にて地震の様子、震動の音響き土堤のらうの木震ふ、又前路を取る、愛宕下人叢倍甚し、松山侯前の街路へかかり、鳥森手前の横小路より、中川前より新橋河岸猿屋へ行、(略)紀国橋より卅間堀四丁め、京橋へ出、今川橋にて挑燈を付る、油島三坂屋にやすみ、かしこより駕にて五前かへる」。
 「廿五日 快晴星粲々更而粛雨○八過より油島参詣、珠成同道、供(略)谷中通り大円寺の先の横辻にて初音の里をたつね、此町のうらの由答るゆへ、左行、寺の門にて老僧に問ひ町家の老にもとふ、鷺谷ハ南側の崖辺のよしいふ故又右行、左右御家人の小屋也、坂を登りいろはの上へ出、観音寺にて石川初音森の石碑を掘出せし事を尋れハ、僧此所の由云ゆへ内へ入、碑のニツに破れしを見る、文字見へかたし、寺去々年廻祿にて小屋掛也、樹下の草しけりたる所也、程たく出、感応寺うちより上野に入、山門の外右側の門より出、弁天後の左の茶やに休む、鄽主老翁一人有、程なく中町通り(略)油島参詣、側の茶やに休み植木を見、鳥居わきの茶やにて衣装着替、女坂より中町の横より池の端へ出、池を廻り傭後中館辻番より根津へ出、首ふり坂の上へかかる、不動坂にて入相の鐘聞へ、お鷹へやにて挑燈をとほし、暮過かへる」。
 「廿八日 快晴昼過より西北鰯雲出次第に曇夜一面陰○九過より米杜・珠成同道他行、供(略)谷中より上野へ入、車阪山下より琶水へかかり、立花前、鳥越、松浦わきより酒井前堀端を両国橋へ行、水茶やに休む(略)、夫より薬研堀不動へ行、人叢分難し、左右植木鄽、村山町へか上り煎餅かハせ穴沢をのこし、高砂町の橋より堺町・ふきや町看板を見る人鰒の如し、松やへ行、家内不残祝儀、目録遣す、店主留主、無程かへり逢ふ、松屋並五軒五節句かさり物出す、長谷川町より持来る端午飾物、槲葉・燕子の丸四尺四方程中にあかり兜みせ先より直に二階の窓へあくるゆへ格子障子はつし、米社等手伝ひあくる、清八主妻の供してかへる、夕餉喫し七半過起行(略)路次より楽や新道を西行、途大に滑り行かたきゆへ市村裏迄ゆき述へ引返す、雷蔵を見る、人形町よりお玉池通り、穴沢述に残り昌平橋にて追就、三阪や休む、彼処にて提燈つける、途甚悪し、(略)六半頃かへる
」。