★納涼・安永三年

江戸庶民の楽しみ 35
★納涼・安永三年六月七月八月の楽しみ
 江戸市中の六月以降の出来事を信鴻の日記と対照させて見てみよう。信鴻は、五月からの大当たりの中村座『恋女房染分手綱』を六月三日に出かけている。その日の帰りは午前様であった。六月は天変地異とまで言えないが異常気象が記され、『武江年表』六月六日には「大雷三十七ケ所に落る」とある。さらに、六月廿三日には「大風雨家屋を損じ樹木を倒す」とある。
 信鴻の日記には
、「六日 朝陰蒸暑昼より次第に快晴微風出又陰七より雷強弱渾百余声五過止」とある。さらに詳細は「○七頃より幽雷乾方に轟く、芝辺山の竿の草を刈、太陰山より雲を望む、南東晴空西北雲多、西と乾と幽雷十声計響ゆへ奥へ帰る、雷不止日暮より雷光如画、中雷数声無程強雷坤と北にひゝく、六半過より五前迄強雷暫も止す、五過忽止、雷うすく東へ去り幽雷二三声忘れたるか如し、六半より雨静に至る、雷の強声五十計、中者二三十、渾而百余声、近年の電光強雷」と、その日の雷について記している。確かに雷は江戸市中に落ちており、信鴻も夕方4時から8時までの様子を観察している。
 「廿三日 大陰四過より雲うすく日色出北風やかて南風大猛日出雲多昼より風大に烈夜に入大ニ暴風雨少」とある。信鴻は六義園内のことしかわからなかったのだろう、「○南風大いに烈しく林樹大に鳴りさわかし」としか感じなかったようだ。風が強かったものの、突風の吹いた場所は一部の地域であったと推測され、場所によって被害に差があったのだろう。
 次に、『武江年表』には「小石川伝通院山内福儒院大黒天、夏の頃より江戸中へ講中を結んで、甲子の参詣今年より始る」とある。この件については、信鴻は触れていまい。また、六月恒例の「山王権現祭礼」についても触れていない。
 この年の信鴻は、夏の暑さを避けて夕方から夜中に物見遊山に出かけている。まず「朔日  陰涼」とさほど暑くないが、夕方4時頃から
「○七過より(略)富士前込合ゆへ北行、権兵衛わきより谷中へ、神明(本駒込天祖神社)原人叢群集、谷中道行人多し、山王へ行晩鐘聞ゆ、女坂より広小路にて瞿麦・宮城野を求め、(略)中町横小路にて村井先達而待ち居たる弓鄽に在り、行過て、弓鄽へ立出見送る様子、油島参詣、南より三間めの水茶屋に休む、程なく起行、梠娘水茶やへ寄厠へ行、単物に着替、鄽に旗本衆来り在り、那処に休むうち行燈を点す、無程起行、塗中甚賑也、本郷より町々不残丸挑燈出、所々に大□挑燈、富士近所大幟数所あり、肴たなより挑燈付る、六過帰家」と2時間ほどの散策をしている。
 次が新暦の7月18日の夕暮れより午後9時頃まで、「十日  朝うす曇四比より快晴烈暑○入相より(略)吉原を廻らんと思ふ、富士裏より出、いろはにて家々燈を点するゆへ、吉原ヘハ遅かるへしとて上野へ入、東門より山下を廻る、天晴尽し南風大にすゝしく月色清し、飄然夏を忘る、広小路虫うり(略)東側一面灯を掛賑し、橋南西側二間目茶やに休む、夜色大に涼し、暫休み(略)中町通り油島東女坂上の茶屋に休む、南風ゆへ風入らす忽帰路、加賀前にて相撲取廻燈龍を買しむ(略)、大番町大口茶やに小休む、土物店にて五ッを聞、半前帰宅」。この日の記述で注目したのは、「広小路虫うり」である。以前、江戸市中の虫売りは、寛政年間から盛んになったことを聞いたことがある。信鴻は十五日に、キリギリスを売っているのを見ると、安永三年以前から売られていたのではなかろうか。
 夕方から出かける信鴻の帰宅時間は、だんだん遅くなっていく。十日は五ツ半前(午後9時)だが、十四日は、四ツ半(午後11時)である。「十四日 薫風猛大快晴七半前西北黒雲微雷十数声忽東に去雲根浮七半前白雨一通忽快晴月清○五ツより近郊すゝみに出、供(略)門より北行、田ン中にて烟の火を貰ひ火縄にうつし、平塚明神の前にて少すゝむ、風凪大に蒸、薄雲西南に満東北快晴月折々雲に隠る、明神の列樹へ入、滝不動の坂を下り山里とかや云ふ村を過、左ハ平田右に渓流樹林欝々、七八町にて右側の山坂を越し小径に入、露ふかく大に塗狭し、御用やしき前より又平塚の前に出、前路をかへる、仲問向ふより来、着替単物持参、四ツ半時帰家」。
 そして、「十五日  快晴白雲大烈暑○晩鐘より池端弁天参詣、供(略)富士裡より行、千駄樹にて夜に入、月色清朗風なし、いろは前にて右折、池端へ出、門鎖すゆへ外にて祈請、去らんとする足下に松に鶴の扇子拾ひ大谷取上るゆへ、吉兆なれハ持参、広心路にて□を山崔籠に入たるを求め、南の末和国やに小休み、又例の中村や(略)に暫休み、三枚橋より左折山下を廻る、月弥清し、又黒門へ入、微風折々(略)、五半帰」。注・(□)は草冠の下に久その下に虫、キリギリスと思われる。
 七月に入ると、暦は秋に入るが現代では八月、納涼の物見遊山はエスカレートする。三日は「薄陰涼八より快晴日色明暑夕快晴北に雲有夜に入一挙の雲なく大に寒し」と、寒いくらいなのに、午後5時過ぎに出発し午後10時過ぎに帰宅している。「○七半過より他行、供(略)日除通り、金杉より夜に入、白玉やへ行、無程五町町燈籠見物、白玉や女房提燈先に立、大門入口中村舞台顔見せ挑燈の飾物、江戸町角より屋根上丸挑燈、朱衛山の燈龍、碧ヒイトロ霞、屋根の上紅白縮純帆掛舟、堺町向より軒下銅燈肢、屋根上松の並木、軒より軒へ反橋、揚や町角より尾根上八景の気色、人形堅田瀬山駕道へはり出し、角丁より鄽先へさきにつくり棟舟の額に燈を点し賑ハし、されと大群集にあらす、京丁一町目を見、引返し又中の町より江戸町一町め、(略)四過帰家」
 信鴻の納涼遊行は、十四日、十七日、十九日、二十二日と続く。十四日は午後9時であるが、十七日は午後5時から11時過ぎまでの物見遊山である。当初、両国を目指していたが、新吉原の「替し燈籠」を見ることにした。中の町の燈籠見物は、「大に込合ゆへ左右見る事不能」と、あまりにも混雑していて片側ずつ見ることになる。途中では「籬より見」と、遊女を覗いていており、「啜龍・米社か知りし娼婦も有」と、馴染み?の遊女もいたようだ。龍は三男・武田信明、米社は四男・六角広籌である。珠成・五男里之については、「珠成か逢しハ格子の側に立て立寄ん事をいふ」     と記されている。信鴻は見物後、「釣瓶そはを喫し」帰路につく。ただ、あまりにも夜分遅いことで、「上野新門明たる故入んとす、門番札なげれハ通さぬ由」と回り道をして、11時過ぎに家に着いた。
 「十四日 晴れて雲多大炎暑次第に晴尽す清光○七半過より珠成同道涼に出、供(略)土物店より身代地蔵、根津にてにて夜に入、清光昼のことし、中町通り、広小路夷屋に休み、上野に入、谷中通り五半過帰る(略)」
 「十七日  晴雲有西風微昼爽々暑八過大に晴乾に雲流夜大清光南より雲飛更て小雨○七半過より珠成同道他行、供(略)天気大に晴乾より北へ雲少流れ南風にて孤雲飛ふ、兼て両国に遊んと思ひしに首振坂の下にて晩鐘聞れハ、両国にハ遅き故娼門の替し燈籠見んとてゆく、感応寺中より日よけにかかり、坂下右側に一つ屋茶鄽道にやすむ、(略)暫休み暮時に白玉やへ至り直に燈籠を見る、大ニ群集人叢分難し、中の町左右ちや屋多く、人形からくり・屏風・ついたてなと思ひ思ひの燈籠也、大に込合ゆへ左右見る事不能、左側はかり鄽にそひて見る、京町一丁目にて珠成此程遊し俵屋みせにて格子を見る故、浅野と二人のこし、末まて行、かへりに俵屋へ立寄て籬より見、啜龍・米社か知りし娼婦も有、珠成か逢しハ格子の側に立て立寄ん事をいふ、直に中の丁へかへり、揚屋町燈籠を見る、(略)夫より中の町右側の燈を見、江戸町二町目より西河岸新町、京町へ又出、東河岸江戸町より大門へ出る頃初夜過也、白玉や二階にて釣瓶そはを喫し、半前起行(略)夜色月色明に天水のことく白雲流る、甚秋の気色ふかし、萩寺あたりより南風孤雲飛事はやく、折々月を翳して飛ふ、大垣侯邸にて五半の拍子木聞ゆ、金杉を直行、坂本に至り上野新門明たる故入んとす、門番札なげれハ通さぬ由答ふる故、出て中の門より入り、屏風坂にかゝり(略)四半(午後11時)過帰家」
 この年の最も暑かった日は十九日(新暦の8月25日)らしく、納涼に湯島へ出かけた。「五過帰家」と8時過ぎに戻ったのであるが、暑くて眠れなかったのだろう、「四過より半迄」と11時まで六義園内の妹背山で涼んでいた。その後も暑い日があったらしく、納涼は続き「四半かへる」の八月三日(9月8日)が最後だと思われる。一連の信鴻の納涼は彼だけの特別な行為ではなく、江戸庶民であれば誰もが夕涼みなどを行っていただろう。その賑わいは、町中では子供が鼠花火を楽しむなど、家族や近隣の長屋などの住民ぐるみで騒いでいたものと推測される。
 「十九日  大快晴○今年の大烈暑○七半過より珠成同道涼みに出、一拳の雲なく晴尽、供(略)鰻縄手より油島(略)広小路夷屋に休む(略)前にて児とも鼡花火とほす、かへり上野に入、黒門より町かすをふむ、首振上迄十七丁半余、染井迄都而卅一町余、酒井北州脇にて五の鐘聞ゆ、動坂樹木や裏にて月の出を見る、五過帰家○四過より半迄妹背山に涼む」
 「廿二日  夜明村雨陰大に涼し四過に次第快晴夕より大快晴○七半過より珠成同道涼に出、供(略)動坂より東岳寺石の仁王を見(略)直道をとり余楽寺前より佐竹館へかゝり、日暮門しまるゆへ門前直行、左右生垣寺々計、内藤志摩邸より谷中酒やの前へ出、いろはにて夜に入、屏風坂山下より広小路恵比すやに休み、無程谷中通りを黒門よりかへる、暮に風凪一拳の雲なし、六半頃北風出、備後前にて五ツを聞、半前かへる」
 八月「三日 快晴白雲流○八半過より珠成同道浅草へ行、供(略)上野水茶屋の火を貰ひ姻を弄し、山下門より行、柳稲荷三河や大和茶に休み、門跡の内よりぬけ、境やに休(略)岑疣の願にて賓頭盧の顔を拭ひ、帯を浅野持参、御堂を廻り並木正直へ浅野立寄聞しに、二階物置たれハ客の坐に成らぬよしいふ、川端にて舟を見、竹町に橋かゝり半出来、直に並木叶やへ立寄(略)六過起行、御堂うしろへ廻り、浅野・由兵衛残し茗荷や軽焼買しめ先へ行、御堂橋向へ出、三河やへよる(略)暫く休み、浅野来ゆへ直に起行、道にて作松に直をつけ買しめ、山下門より屏風坂より入、初夜聞ゆ(略)酒大和前(略)、四半かへる」
 七月・八月の出来事を見ると、『武江年表』には「七月朔日より、護国寺本尊、如意輪観世音開帳」「同日より、小石川大塚大慈寺観世音開帳」が記している。信鴻の日記からは、「七日  陰昼過ハラハラふる○七夕祝」とあり、赤飯が届けられたように、市中でも七夕(しちせき)が催されている。また、八日の日記には「蠱上亭にて雛むし」と、雛人形の虫干しを行っている。
 『武江年表』には「八月十五日、市ヶ谷八幡宮祭礼、御輿を渡し出し練物等出る」。「八月頃より毎月十日、浅草日輪寺に於て能狂言有、見物多し」とある。江戸市中に大きな騒ぎや事件はなかったが、杉田玄白などによる『解体新書』が刊行された。医学界においては大変な出来事と思われるが、信鴻は知る由もなかったのだろう。八月の信鴻は、江戸市中への納涼はなくなったが、六義園内で過ごすだけでなく、観劇や芝新堀の母の住まい、護国寺に出かけている。観劇は、七月から大当たりをしていた中村座へ八月十一日に訪れている。『宴遊日記』別録によれば、「表ハ菅原伝授手習鑑、裏ハ仮名手本忠臣蔵」とある。

 「十三日 陰涼乾風四過より次第快晴○九過より珠成同道新堀へ参る、供(略)土物店より六角前通、富坂牛天神にて水茶屋に休み、牛込門より直行、飯田町御厩谷(略)甘菓わきより平河参詣、水茶屋に休み、裏門より松江侯わき赤坂門、田町氷川相馬前、市兵衛町長坂より一の橋、八過着(略)、七過起行、中の橋萱野参詣、御幸イ門より啜龍門前にて乗輿、幸橋新道木戸にて下り、奥の路次より入、お永に真田帯を貰ふ(略)弁当なと世話、六過起行、広式門へ年寄共出、今夜清光西雲有、八代蘓河岸、小川町(略)にて六半拍子木聞ゆ、白山蓮華寺にて上野五つを聞、土物店にて八百屋八兵衛みせに休み、五過帰る(略)」。
 「十九日 陰から西に蒼天見少蒸八比より快晴雲東に流くれに西南雲靉靆○八半比より珠成同道他行、供(略)門内にて下駄に成、道如沼、和泉境大滑平衡滑る、西の板橋より大学径道の坂上に出茶屋有て休む、畔道大滑、波切不動へよる、爰より道少よし、塗中人行多し護国寺門前に豆蔵有、爰より大群集、右側門内護国寺玄関より入る、霊宝夥し、数間を過、庭の出茶屋に休む、本堂に毛氈を地とし四文銭を以観世音三字を押、へりひらうと甚見事也(略)本堂より下り右側葭囲軽業三絃太鼓囃し、十二三の童二人高き台の上に品々の軽業をなす、夫より堂右前曲馬を見る、馬上居あひ一番十一二の童甚愛すへきか様々の曲馬のるを見る、一番三馬縦横刀術の帥馬をみる一番、堂左の茶屋に休み七半過起行猫又橋よりかへる、塗泥甚し、南の辻より暮比かへる」。
 「廿七日快晴○九過より珠成同道他行、供(略)本郷通より天神参詣、茶やに休む、茶やの女雷子か短冊持参、いつも廿五日朝早く行けハ貰るゝ由語る(略)妻恋稲荷より横に小笠原前、洞津侯裏馬場より柳橋東角船宿へ雄島・石井さきへ行、舟をやとふ内船宿に休む(略)屋根舟平駄二艘かる・やね船に(略)雨ゆへ水漲舟行駛し、各鷗を韻として五絶を賦す、俄頃にして八幡前に着、社壇へ詣、松本やへよる(略)離亭乾浄、東西格子十二畳、泉池洲嶼松樹□面白く作れり、西隣客さわく声やかまし此方にも町家の客二三人挟縫の妓お今と今一人来(略)那処へ八半頃着、七半頃起行○中町通、新大橋より浜町、矢の倉にて日昏、提燈を点す、溝口侯に逢ふ○薬研堀より柳原土堤、新橋より一町下りて左折、又北行長者町通より御幸小路、交女か茶屋に休み(略)上野より谷中通り法住寺前にて上野の初夜を聞、五過帰る」。