★安永六年四月~九月

江戸庶民の楽しみ 43
★安永六年四月~九月
★四月
朔日○六本木上邸へ(略)四半頃起行(略)白山より伝通院うち、隆慶橋(略)牛込門(略)赤坂門、一ツ木氷川前、(略)飯倉片町、土器町より切通し、愛宕聖徳太子堂水茶や(略)松山候前より井上遠州わき、日蔭町通、芝口三町目へ出、木挽町猿やへ(略)五町目橋銀坐(略)三町目(略)弥左衛門町の通りを日本橋迄行、直に本通り本郷より暮前帰
六日○九過(略)富士脇より谷中(略)車坂より行、往来群集(略)報恩寺開張へ行、参詣多し、霊宝・佛像等を拝し、寮に面掛弥陀有、開帳、出家縁起をよむ、浅草大群集(略)本堂参詣、堂後に見せ物七色娘人魚羅沙緬と幟を立、水犬を看板に書たる有、友世見せ仕廻、堂前東側葭囲にて乞食相撲、見物多し、友世八丈縞に駒下駄にて来りみる、友世か出るを待ちつきて山門を出、友世ハ弁天へ行、戸繋うらより馬道へ出、又友世を見る、勢至開帳へ(略)姥か池開帳へ行、堂後姥池にて水茶やに休み参詣、夫を待て霊宝神女ノ鏡・石枕等を見る、夫より藜堂開帳へ行、僧の掛地に絵ときするを聞、花川戸より駒彩へ出、並木町群集分かたし(略)大六天内より両国へ行、とんた霊宝と幟出したる見せ物を見る、人叢分かたく木戸込合ふ、干魚・貝物等にて三尊弥陀・不動・役行者・鷹・龍・虎等を作り、細工趣向感するに堪たり、橋を渡り廻向院へ行、備中千体弥陀開帳の幟を立、南側に仏像あまた開帳、夫より村松町(略)ふきや町(略)楽屋新道より人形町直行、お玉か池通り、油島(略)土物たなより挑燈つけ暮過帰る
十六日○九比より川東遊行(略)富士前より谷中上野内、屏風坂、柳稲荷(略)浅草参詣、塗中群集(略)吾妻橋を渡る、橋左右亀戸花園大明神開帳、挑燈出せり(略)妙見参詣・裏門より出、亀戸開帳へ行、霊宝場観音・吉祥天等在(略)新坂町、入江町にて西折、津軽前、廻向院(略)両国とんた霊宝の南に同断とんた霊宝の幟建たる見せ物在、入て見れハ隣の細工に小シも違ハす手際あしく(略)柳原堤より新橋を出、洞津侯門前(略)池端通り(略)六過帰廬
三十日○七ツ少前(略)土物店より本郷加賀裏より油島へ(略)女坂より中町通広小路梅本に(略)五条の天神開帳ゆへ立寄、甚賑し、神子名代ゆへ神楽上るを見る、裏口より竹町へ(略)車坂より暮前帰る(略)太師谷中より下寺へ移坐ゆへ山中賑し
 四月は開帳の季節、『武江年表』には「○四月朔日より、回向院開山護念佛、備中千體佛惠心作、阿彌陀如来、境内藁苞并辨天、一言観世音開帳、○同日より、青山善光寺一光三尊彌陀佛開帳、○渋谷長谷寺二丈六尺観世音、腹籠の像、其外古佛霊寳開帳、○四月より、下谷寺町蓮城寺祖師日親上人作開帳、○橋場不動院不動尊良竹作開帳、○四月八日より亀戸社内花園明神開帳、○中野法仙寺不動尊開帳、○芝金杉正傅寺にて、牛込寺町久成寺船寺祖師開帳、○下谷五條天神天満宮開帳、○愛宕山圓福寺にて、出羽湯殿山黄金堂玄良坊、佐久間おたけ大日如来開帳、○椛町平河天神内にて、北澤淡島明神虚空像菩薩開帳」が記されている。これら開帳の賑わいは、付設される見世物や市などによって盛り上げられ、信鴻はその様子を記している。
 信鴻が前年の八月、三月十一日、廿一日、四月六日と「友世」の名を記している。六日は、「又友世を見る」とまで関心を持っている。これは、風来山人(平賀源内)が『力婦傳』(
https://blogs.yahoo.co.jp/koichiro1945/28884236.html参照)に記された「女力持友世」であろう。
 このころ最も人気のあった見世物は、両国橋広小路に出された「とんだ霊宝」である。信鴻も詳細を「干魚・貝物等にて三尊弥陀・不動・役行者・鷹・龍・虎等」の細工と、記している。その他にも、色々な見世物、開帳を覗き、楽しんだものと思われる。それに付けても、信鴻の庶民感覚は、江戸の町の動向を紹介してくれている。そのような例として、廿六日の日記には、「五味、尾沢等御蔵前相撲見物に行」と加えている。
★五月
九日○八半過(略)浅草参詣(略)富士前覚成院(略)車坂(略)塗中甚賑し、風神門内にて閉帳也とて人走り行ゆへ御堂へ上る、参詣夥敷各小音に念仏唱ふ(略)奥山を廻る、見せ物こや半ハ崩す(略)堂中一面群集(略)海老やに休む(略)寺町より屏風坂(略)神明わきにて六の鐘聞へ、暮過帰廬
十九日○四ツ時より浅草参詣(略)富士裏にかかる(略)屏風坂門(略)鈴木屋へ(略)浅草群集なから少しすきたる方内陣にて拝し(略)本道より帰る、車坂より入、山内(略)谷中門(略)山内にて九の鐘聞へ、九過帰廬
二十日○七過二分頃(略)閑歩(略)延通寺へ(略)本郷にて日既傾き甚涼し(略)加賀脇より行、塗中賑し、伊勢屋に休む、今閉帳之様子(略)女坂より下り、中町(略)広小路(略)池端通りより帰る、法住寺前にて挑燈をつけ、酒井わきにて六の鏡聞へ、六過帰る
 五月の信鴻は、先月の開帳などの賑わいを回想するかのように、浅草や湯島に訪れている。見世物小屋が壊され、開帳は閉帳、そのような中でも盛り場には、そこそこの人出のあることを記している。
 その他として、江戸への農民の出稼ぎが増えたことで、奉公稼ぎが禁じられる。
★六月
七日○七過より(略)閑歩、谷中通より上野へ入(略)黒門より中町通り油島へ行、伊せやに休む(略)加賀脇より帰る、吉祥寺前にて六の鐘聞え、挑燈付け、六過帰廬
十日○七過二分頃より北郊閑歩(略)庭如前より御用やしき前、道灌山、日暮里見晴にて休み、六前帰廬
十三日○七過(略)湯島辺閑歩(略)森川宿(略)加賀裏にかかる、湯島(略)暫休み女坂下(略)中町(略)女太夫の小屋にて豆蔵喧嘩の容子、人立有、車坂より入谷中門内にて六の鐘聞ゆ(略)谷中門にて挑燈(略)動坂(略)六半頃帰家
十八日○七半過(略)浅草参詣(略)富士前(略)法住寺辺にて両正遠寺六の鐘(略)谷中口にて挑燈消す、門主御門前(略)太師ハ下寺現龍院にて参詣多し、立寄参詣、屏風坂(略)三河屋に休み直に観音参詣(略)群集の中(略)伊勢屋(略)太神宮前(略)山下(略)三橋へ出、六阿弥陀わきの水茶屋に休む、今日早朝ゆへ植木や甚少く、右菖二株買ふ、五の鐘弘徳寺前(略)谷中門(略)五半前帰廬
 六月の信鴻は、夕方から六義園近在に「閉歩」、夕涼みであろう。『武江年表』には、「○六月より本郷丸山興善寺胤師開帳」が記されている。
★七月
三日○七半前より日幕へ涼に行(略)青雲寺にて牛を庭に繋き置、見晴しの床机に休む、前路を暮時帰る
十六日○入相前より閑歩(略)和泉境より本通りへ出、巣鴨真澄寺へ行、斎日、塗中甚賑し、門前より左右菓子売列居、門内大群集難押分(略)本通り(略)土井侯門前にて六の拍子木打、土物店へ出、大観音へ拝し閻魔堂拝す、甚賑なり(略)身代地蔵前より土物店へ出、六半前帰廬、
二十日○七半頃(略)吉祥寺施餓鬼見に(略)門前菓子売立参詣多し、玄関前施餓鬼壇を飾り四神の帋幟、五色小幟立燭光赫々、石道上倚子に和向坐左右僧相対合掌、誦経二百五十人中襷せし僧行列を定む、和尚壇前にて水飯を供し往返数廻、畢而左右僧二人宛施餓鬼を行ひ、畢て衆僧行道千鳥掛に歩、暮過すむ、(略)直に起行、虫やにて松虫求め帰る
廿一日○七半前(略)浅草参詣(略)富士前より行、池端吉田侯邸わき(略)弘徳寺前にて挑燈消す、茶屋皆不開鄽ゆへ直にゆく、参詣甚少し(略)御堂廻り裏門(略)御堂前(略)車坂より帰る、千駄樹花やへちよと立寄、帰廬五ツ過、
廿三日○晩鐘頃(略)閑歩(略)富士前より行(略)動坂樹屋へ立寄、首振上より西折、世尊院へ入観音を拝し、光源寺裏門より入大観音へ詣、本堂御輿の燈籠白丁着たる人形神、輿かき人形六七、廻り燈籠左右に在、参詣多し(略)身代地蔵四万六千日参詣多し(略)左右売物並居、六過帰廬
廿七日○七過より湯島へ行(略)目赤明日縁日故参詣、加賀前湯島にて伊せ屋主母出迎へ若松屋(略)中町(略)上野内を帰る、谷中口にて挑燈を点し六過帰廬
 七月の行事は、七夕とお盆(閻魔)が主なものであり、信鴻の日記にも記されている。七夕については、八日「七夕の挑燈配分遣ハす」があるくらいである。お盆に関しては、施餓鬼、四万六千日が記され、特に吉祥寺施餓鬼の様子がよく書かれている。江戸の町は、例年通りにお盆の行事が行われていたものと思われる。その他として、森田座で演じられた『奉納新田大明神』かしくの狂言が大当たりであった。
★八月
三日○七過より(略)大師参詣(略)谷中通り山内屏風坂より下る、甚群集、車坂下勧善院大師へ参る、直に黒門外へ出広小路大に賑なり、植樹あまた出(略)作松宮城野求め(略)男坂より湯島へ(略)暮時起行、加賀わきにて挑雌つけ六過帰盧
五日○七半前より北郊閑歩(略)妙喜坂より平塚仁左衛門か出茶屋前(略)暮少前起行(略)龍志門(略)幕時帰慮
十日○七半前より北郊閑歩(略)牡丹花や前より左折西原権左衛門へ行(略)夫より王子道へ出六時帰る
十五日○七すき東郊閑歩(略)富士裏より出御鷹部や北林中を出東覚寺中萩を見、田畑八幡祭の笛聞え人声賑也、日暮崖上より月出を望み青雲寺左側畔中の道より帰らんと一町余り行(略)引返し例の道より暮時かへる
廿日○明六前眠醒俄に思立六半より浅草参詣(略)富士前より行彼岸故阿弥陀参多し、谷中門(略)屏風坂門(略)御堂うちより行田原町源水前越後獅子舞ひ児輩数十人跡につき行、浅草参詣甚少し(略)堂内参詣(略)御堂橋(略)南行観蔵院(略)柳川侯館裏よりやま下、車坂山中にて四の鐘響く、谷中前三辻(略)清水門より出四半前帰慮
 八月の信鴻は、江戸北部の郊外に「閑歩」し、途中で目にする光景を綴っている。『武江年表』には「八月十五日より、回向院にて、江州粟津義仲寺木曾義仲朝臣守本尊朝日儒陀如来、芭征翁像開」が記されている。
★九月
十日○八半過(略)浅草へ行んと法住寺前迄行し(略)千駄樹にて七ツ聞たれハ根津へかかりてハ浅草ハ遅くるへし(略)根津杜内より中町通りの鄽を見(略)湯島へ行、女坂下(略)市村櫓下忠臣蔵不残出中村新狂言恋女房櫓下貰ひ暮前起行、加賀裡へかかり土物店にて六の拍子木聞へ富士前より挑燈点し暮過帰廬
十三日○九前(略)月桂寺参詣(略)神明幟建る、白山より伝通院(略)隆慶橋、築戸明神前(略)御納戸町通(略)加賀館馬場にて騎射を見(略)御墓拝礼祠堂拝す(略)雑司谷へ(略)参詣月桂寺(略)落荷屋へ(略)向ふの茶やより権門駕に侍七八人女五六人帰る、主人六七歳の児なり問しむれハ水野土佐守家内の由(略)護国寺うちより野通り巣鴨へ出西門より帰る
十八日○九過(略)富士前町(略)湯島(略)松下町(略)久居侯・洞津侯前より松浦侯前、浅草見附、両国を渡り廻向院開帳へ行、甚寂し、江州義仲寺旭弥陀の大幟有、開帳構ひ例の場所朝日弥陀義仲鎧兜木曾八幡向ふに芭蕉翁木像(略)翁の香炉杖等有、翁の肖像板行を商ふ(略)両国見晴しの茶屋(略)第六天うち通をりぬけ浅草へ行、途中近年の群集(略)並木町二町(略)浅草へ行、群集分かたし、直に参詣(略)広小路(略)風神門より車坂迄人叢市の時の如し、屏風坂(略)感応寺内浜田屋(略)首ふり下(略)備後辻番にて六の鐘聞へ六過帰家
十九日別録○森田座頑要
廿一日○九過より上邸(略)白山祭にて土物店幟の床にて人集り笛太鼓賑し、本郷(略)今川橋(略)京橋(略)弥左衛門町(略)山下門(略)新道門より入米徳新道へ迎に(略)七半比帰る(略)又新道門より出幸橋より河岸通り数寄屋橋(略)八代曾河岸辰口(略)御曲輸うち大名被通甚騒かし、神田橋より昌平橋、本郷にて六の鐘聞へ、加賀前(略)土物店幟前後半町計の中群集、挑燈家々にとほし松悦前より淋し、六半頃帰廬
廿三日○九半頃(略)浅草へ(略)谷中通(略)車坂より行三河屋(略)直に参詣、内陣にて拝し奥山廻り裏門より餅屋かと馬場にかかり、今戸橋団左衛門構を行ぬけ妙喜庵(略)仙石屋へ(略)堤上俄見物にて行人多し、大雲寺茶屋へ(略)御隠居所前より挑燈付感応寺脇にて六の抽子木うち六半頃帰廬
 九月の江戸の出来事として、『武江年表』には「両国橋見世物の狼、檻より出て市中をさわがす」とある。信鴻の耳には入らなかったのだろうか、日記にない。先月からの回向院の出開帳は、気になっていたのかしっかり見ている。また、吉原俄も見ている。