★天明三年春・一月~三月

江戸庶民の楽しみ 65
天明三年春・一月~三月
★一月
十二日○九少過よりお隆同道浅草へ行、塗名倉前より二十間計泥濘深(略)神明拝す、お隆は駕のうちにて拝み(略)いろは迄下駄(略)戸繋いせ屋に休み(略)観音参詣、今日群集、御手洗へ饅放し御堂を廻り榧八幡拝し、因果地蔵へ参詣(略)七の鐘聞ゆるゆへ起行、前路を帰る(略)佐倉屋にて菜飯・田薬云付(略)六半前頃起行、雨少降出、法華寺庭通り佐竹脇一丁(略)爰より惣て泥濘深し(略)奥口より帰る
廿五日○四半過観音参詣(略)お隆・熊蔵同道(略)瑠璃殿薬師拝し(略)車坂より下る、塗中賑也、御堂前橋側通樋普請有(略)大松寺前より田原町二丁メ通り並木へ(略)観音参詣、御手洗へ鰻放し(略)伊勢屋へ行、弁当つかひ浅草餻取寄皆にも喫せ、石等皆土産買に出(略)並木を下り二丁過三問町より西行(略)孔雀尾を広けし由云ゆへ立寄見る、白鵬・錦鶏等在、暫休み車坂より(略)七半頃奥口より帰る
廿八日○九時より(略)雑司谷(略)和泉境、稲荷小路塗所々あしく砂利場の橋より(略)大学境(略)本伝寺坂迄塗大にあしく田の如く下駄のはを越す、漸々本伝寺へ到(略)護国寺の外を廻る、町外本乗寺に芭蕉翁月見塚在ゆへ磴下より見る(略)今日御縁日ゆへ賑なり、直に内陣にて拝す(略)和泉屋へ行弁当つかひ(略)田畝にて各娵菜を摘、和泉やの客此方を見て皐(睾)丸を出せしよしいふて掌を打大笑するゆへ何事やらんと思ひしに、高田さかさまに成娵菜をつみ、はつちの間より陰具皆出驚き起つゆへ皆々大に笑ふ(略)坂下にてお隆初め摘草するうち本乗寺に入月見塚を見る(略)安藤前(略)氷川坂より白川侯門前直行、横原町へ出、大原町(略)西門を入時六の鐘聞ゆ、遠はんき打東南にうすく火の手見へ程なく消火、
廿九日○八時よりお隆同道西郊へ摘草(略)今年初ての春色、螢沢向にて娵菜摘、無最寺前へ摘行、無量寺参詣、二丁はかり西迄行、蒲公も有、笠志出る(略)弁当遣ひ(略)暮前起行(略)牡丹舖前毎度立寄し民家脇にて草をつむ、向反畝に病犬らしき物在、昨日も飛脚を噛したと聞たる故早々たち山王山より帰る
 この年の正月は、「如例年礼」を受け、お隆達と羽子板をするなど、いつもの年と同じように十五日に「万歳来る」となっている。また、あまり寒くなかったと見えて、悪路にめげず浅草や雑司ヶ谷などへ出かけている。そして、出かけた先で摘み草をし、その翌日には本格的に摘み草に出かけている。江戸の盛り場は、そこそこの人出があったものと推測される。
★二月
四日○八時よりお隆同道東郊へ草つミ(略)庄八辻より大沢前径間の坂を下り田間の畦伝ひに山王山下の道へ出行々草を摘、上田畑村へ出(略)下田畑村へ下り、光明寺前畑に田夫菜を摘居たり、路側娵菜多く、爰にて摘艸、雲東北へこみ忽大に晴日出暖なり、薬師観音拝し爰にて七の鐘聞く(略)田間より田畑の橋へ出、富士裏より帰る、七半過なり
七日○九時よりお隆同道浅草参詣(略)瑠璃殿へ参詣(略)山下にてお隆うき世絵かけ物求め、御堂前の末並木横町最中通樋掛居たり(略)伊勢屋(略)薩捶参詣(略)芥子之助鉄輸切を立なから見、榧八幡拝し又いせ屋にて弁当、浅草餻皆々喫(略)孔雀又尾を立る由にて(略)見る、車坂門(略)下寺宝勝院太師参詣(略)今日所々稲荷行燈なと出、太鼓うち賑也、七半前帰る
八日○四半過より上邸へ行、明日初午ゆへ所々幟建、太鼓うち、塗中賑し(略)本郷真正寺聖廟恵方故参詣(略)御茶水河岸、昌平橋日本橋三丁目柳川屋茶屋に休(略)南伝馬町三丁メ一心稲荷参詣、例の如く賑し、中橋江行稲荷三ケ所幟建賑ハし(略)山下門より入、新道へ忠窮迎に出、九半着(略)八半起行(略)土橋に烏森御旅に神輿在甚賑し、木挽町猿屋へ行少休み看板を見る(略)三十間堀(略)夷屋向店稲荷参詣、三十間堀旭稲荷より直行、竹町より通りへ出日本橋三丁め(略)筋違橋(略)旭山に休む(略)湯島六丁目西側腰物師店をかり帯を仕直し(略)七半過頃奥口より帰る
十五日○九過より吉祥寺涅槃像参詣(略)玄関より出雨蕭々、吉祥寺門前にて菱屋太左衛門に逢ふ、涅槃像拝す(略)神明原より内海脇へ出、富士裏畦中にて花屋権兵衛に逢、八前帰る
二十日○八過よりお隆同道西郊へ出(略)和泉長屋前の初の道より北折(略)西福寺へ出、地蔵・聖天拝し寺東の坂を下り植樹や前にて娵菜等をつみ(略)草を摘ながら無量寺へ出、行々岡芹・薄等を取、寺外花子出、山門下にも乞食願人多参詣は少し、弥陀・観音拝し坐敷にて衣類襲着、山門より右折摘草多し、三葉・芹を摘(略)西原町蕎麦屋等出賑也(略)暮前帰る
廿五日○九半前よりお隆同道浅草参詣(略)瑠璃殿へ日光法親王御参詣、皆下坐の様子故常行堂廻り行抜ける(略)山下広徳寺手前通樋水吹出し塗悪し(略)浅草群集、伊勢屋に休む(略)無程薩埵へ参拝、榧八幡拝し又伊勢屋へ(略)帰路前塗に同(略)弘徳寺前(略)山下へ出塗中甚賑也、中町槌屋雛鄽へ立奇、客多し(略)女坂下にて通人豆を買ハせ、煎香地蔵拝し、人叢分かたし、植樹を見廻り(略)聖廟大群集故階下にて拝す、弄玉に逢ふ、西門より出切通し(略)本郷(略)白山手前(略)薄暮奥口より一所に帰る
廿六日○九半頃よりお隆同道東郊へ草摘に(略)御用屋布前より娵菜・蒲公・薺を摘々ゆく(略)白髭のあての瞭野田畦飯菜一面傅芝の如し、爰にて八の鐘聞へ半時はかり草をつみ(略)尾久八幡参詣、塗中摘草一面也、弁天拝殿にて休む(略)爰にて魚游持参の品開き弁当つかひ居るうち、社寺の僧来り拝殿の戸を開く、各酒を飲暫休み、杜の後ろ願勝寺と云真言寺参詣、観音大士安置、徹前大樹の彼岸桜開く、八幡へ又参詣、大門先より田畦中西へ草をつみつみ閑歩(略)此頃日暮相撲有故見んとて急ゆく召連来るうち相撲果太鼓聞ゆ、日暮シに見物多く来在、角抵取もあり、佐倉屋床机へ休む、町人客所々に在甚賑し(略)佐倉やにて菜飯・田楽等云付、六前起行、法華寺門より帰る(略)帰慮六半頃
 二月はさらに暖かくなったと見えて、盛んに摘み草に出かけている。娵菜・蒲公など収穫に恵まれ、文面に楽しかった雰囲気が伝わってくる。また、「日暮相撲」なるもの、詳細はわからないがそこそこの人気があったと思われる。その他、浅草などの人出も一月より賑わっているようだ。
 なお、二日には大地震があったとされ、信鴻も「八半前地震に起」と記しているが、それだけの記述で被害はなかったようだ。『武江年表』によれば「○二月より、吾妻森妻権現開帳」「○二月廿日より、亀戸天神普門院正観世音開帳」とある。
★三月
四日○八過よりお隆同道西郊へ摘草に(略)山王山より田畑辺桃花満開(略)道々摘草、白髭坂を下り尾久へ反畝径道、尾上村本道辺にて氈を弁当・酒肴を開き、又間径より蠣売山へ出、御用舘前より六少前帰る
五日○九前よりお隆同道浅草参詣(略)谷中観成院不動(略)桃満開、山桜半開、瑠璃殿にて門外より拝す(略)戸繋伊せ屋に(略)薩埵拝し鰻を放し、矢太臣門より(略)聖天参詣(略)河東を眺望道哲へ行、高雄しるしを見、団左衛門門内を行ぬけ自雲堂へ参詣(略)真崎反畦通仙石屋離亭へ(略)田楽等云付、芸者おかよ来在(略)七八年前お隆来りし時覚えし由いふ(略)稲荷へ詣直に帰る、白玉や(略)越前屋へ行、桜皆植る、揚屋町江は楓を植甚賑し、扇屋花扇・丁字屋丁山等を見る(略)平吉杜若諷ふ、文三浮世物まね、眠子扇所作をする(略)二人へ祝儀遣ハす(略)六過起行、京町一丁めより東河岸、江都町一丁メ夜鄽を見、大門前にて男女道を隔行(略)大音寺前にて六半(略)感応寺(略)四時奥口より帰る
十六日○九半過よりお隆同道雑司谷参詣(略)大原町、猫また橋所々八重桜真盛、単ハ過半散落、姥か床机に休み護国寺仁王門瓦普講故抜門より入、桜真盛、飛花如雪、薩埵拝す、賑也、直に鬼子短神参詣、甚賑、和泉屋に休む(略)七頃起行(略)石橋より右折、鬼子母神出現の所、村家の裏坂下に在、立寄、三角の穴在、後ろに四株叢生の杉注連を張在、土井能登下舘前(略)公菜前より目白不動参詣、崖上より水車みる(略)大日坂より大学館前、氷川拝し西門より日暮帰る
十九日○八少前よりお隆同道観音参詣(略)首振坂植樹屋外に遠乗五六騎馬を立居たり(略)谷中門内より群集也、覚成院(略)御普請小屋場前原にて暫休む(略)車坂を下り(略)塗中群集、広徳寺稲荷開帳へ立寄、参詣多し、左へ出て霊宝場在、本地十一面観音の像(略)田原町(略)人叢分かたく風神門内市の如し(略)薩埵拝し内陣甚込合、御堂うしろより出鰻放し、飯綱開帳を拝み、三杜にて神楽上けさせ(略)又いせ屋に休み(略)三河やより南行(略)根岸珠成方へ(略)茶つげ等出す(略)暮前帰る(略)竹町へ出中町より切通し(略)本郷五丁目にて六半(略)五半少前奥口より帰る
二十日○四半頃より森元町六本木へ行(略)水道橋外水茶屋にて着替(略)一橋より和田倉、西丸下、内桜田虎の門(略)野村茶屋に休む(略)裏門より入(略)九半過来八半前起行、山の門より十番、長坂、六本木表門へ入る、北小坐敷褥上にて御対面、元泰に逢ふ(略)表門より七過起行、飯倉長井町、増上寺馬場前(略)土橋より丸屋町、数寄屋河岸へ出、弓町通り、銀坐二丁めへ出、中橋(略)白銀町(略)筋違旭山客多き故昌平橋外水茶やへ寄(略)土物店(略)六前奥口より帰る
廿三日別録○市村座頑要
 三月は花見、「山王山より田畑辺桃花満開」「谷中観成院不動(略)桃満開、山桜半開」「猫また橋所々八重桜真盛、単ハ過半散落」「護国寺仁王門・・・桜真盛、飛花如雪」など、中旬まで続いている。当時は、飛鳥山や墨堤などの名所ではなくても、人々の集まりそうなところならどこも花見のできたことがわかる。
 人出も、『武江年表』によれば、「○三月十四日より、下谷正法院稲荷丼本地十一面観世音開帳、○同十五日より、浅草誓願寺歯吹彌陀如来開帳、○三月十五日より、回向院にて鎌倉永谷貞昌院天満宮法性坊本地観世音開帳、○青山善光寺彌陀如来開帳、○浅草報恩寺親鸞上人遺物拝せしむ、○三月十八日より六月八日迄、浅草寺観世音開帳、○同日より、駒形堂にて下總國東三井寺地蔵菩薩開帳、○三月より、浅草本法寺にて、駿河岩本実相寺祖師開帳」と、開帳が8箇所も催された。なお、信鴻はこれらの開帳とは異なると思われる「広徳寺稲荷開帳・飯綱開帳」を訪れている。また、信鴻も廿三日に市村座へ出かけているように、江戸市中のイベントは数多く大いに賑わったことと推測される。
 事件としては、「○三月廿三日、南品川大火、○同廿五日霊岸島火事」が『武江年表』に記されている。