★天明三年夏・四月~六月

江戸庶民の楽しみ 66
天明三年夏・四月~六月
★四月
五日○九半頃よりお隆同道浅草参詣(略)瑠璃殿外にて拝し車坂より下る、山下より塗中大熱閙群集分かたし、広徳寺開帳へ行、十七八の巫女二人神楽を上る、女人形からくり有(略)誓願寺歯吹弥陀開帳へ行(略)弥陀を拝し(略)報恩寺親鷺上人六十三歳御影開帳へ(略)参詣多(略)浅草参詣、風神門内大熱閙、市の時の如し、進退人にもまれ行伊勢屋に休む(略)観音参詣(略)群集ゆへ直に帰る(略)又茶屋裏より伊勢屋へ(略)客多く来休む様子ゆへ芳屋へ行、(略)前路を帰る、田原町(略)車坂(略)内海辻(略)七半過帰る
六日○七過よりお隆同道牡丹花屋へ(略)妙喜坂手前に稲付大黒や平八引越在、今日一六の日ゆへうけに来る者不絶、牡丹屋半ハ散落見物あり、庭の山を廻る、笠志新宅にて休み晩鐘にて起行、暮前帰る
八日○七過より仏生会に参詣(略)表門より出る(略)富士脇材木屋河内やみせをかり襲着、吉祥寺へ行、中門にて来る人に問ヘハ灌仏済し由ゆへ引返す、常徳寺地蔵灌仏会江参詣、養源寺も同し、僧衆休息すへき由いふ、帰掛松悦方へ穴沢立より尋しに不残留守のよし由ゆへ円通寺脇植木屋へ寄植樹を見、橡側にて烟を弄し帰る
十三日○九半過よりお隆同道廻向院開帳(略)谷中より池端通(略)六阿みた脇岩附屋に休み(略)松坂や脇より与力町和泉橋迄直行、河岸通り柳橋(略)両国へ出、見せ物、卵女狼曲馬等の看板有、回向院甚淋しく参詣少し、開帳場例の通、鎌倉永谷天満宮御丈五寸許内陣にて拝す、僧正坊木像・十一面観世音像はかり也、本堂拝し一言観音・子安弁財天参詣、一つめ弁天へ詣(略)出川端柏屋二階にて休む(略)屋根舟にて帰る(略)橋わきにて水垢離を取居たり(略)昌平橋東の上り場より(略)本郷二丁目にて挑燈(略)天念寺(略)五ツ前奥口より帰る
二十日○八過二分頃よりお隆同道浅草参詣(略)富士(略)谷中門(略)屏風坂より出、光岩寺参詣、裏通り幡随院門前、妙音寺脇東折、西光寺日限地蔵開帳参詣、田原町より行、群集なから込合ハす甚賑也、いせ屋に休み薩埵参詣、内陣開帳前にて一盃人群集ゆへ外にて拝む、明日御成にて見せ物等皆仕廻、鰻を放たせ奥山廻り、又堂後へ来る頃同音大念仏聞へ(略)熱閙にて拝し難し、上下着たる世話人来り人叢中を伴ひ不動尊の内にて皆々拝す(略)東の磴道より下り又伊勢屋に休む(略)茶屋後ろの軽業にて喧嘩有し由(略)帰路(略)山下(略)池端北の端の茶屋(略)清水門前にて挑燈つけ六半頃奥口より帰る
廿三日別録○森田座頑要
 四月は、『武江年表』によれば、「○四月朔日より、湯島圓満寺十一面観世音五大尊開帳、○同日より、浅草寺町柳稲荷本地十一面観世音開帳、○同日より、浅草日輪寺にて、奥州曾律西光寺日限地蔵尊開帳、○同日より下谷五條天神天満宮開帳、○四月八日より、芝愛宕権現境内にて、下総國米倉山等妙寺十一面観世音開帳」と5の開帳が催された。信鴻もこれらの開帳をいくつか巡っている。どこも人出があり、開帳よりも見世物が人を集めているようで、十三日は供の者たちが両国の見世物を見に行った。信鴻は彼らの帰りを茶屋で待っいた。
 市村座で『花川戸身替りの段』大当たり、森田座で『鏡山旧郷錦絵』大当たりとあり、信鴻も廿三日に観賞に出かけている。
 ★五月
三日○九半頃(略)浅草参詣(略)谷中口元光院太帥参詣(略)山内群集、車坂下(略)三河屋に休む(略)霊符尊玅見天満宮開帳へ行、姥池開帳参詣、姥の像・石枕等を見、黎堂より出、此辺通樋普請なり、聖天参詣、霊宝常後に在、堂右狭き磴道を下り、布帆にて大象造りしを見る、泉池上に八間計の水搬欄干付風雅に見ゆる、其次に本の織殿の離亭在、其余ハ皆なし、聖天町より矢太臣門へ入、観音大士拝す、今日群集なから熱閙ならす(略)鞠を蹴るからくりに人立有故行てみる、余り初らさるゆへ奥山脇琴を弾する人形へ行、是も休みの様子故、左の隅唐船にて笛を吹大鼓を打、帆を揚舟を漕からくりを床机にて見る、人閙漸々入る、織殿へ入り風通毛留を女二人して織を暫く見る、糸車一つくれハ数十のわくに巻を見る、粟餅をつく所群集故入て見(略)芳屋に休む(略)軽業初るゆへ(略)お隆皆連て行(略)伊勢屋にて休む(略)前路を帰る本法寺へ町裏より入る、開帳すみたれハ表門へぬけ、柳稲荷開帳へ行稲荷拝し飾物を見る(略)孔崔屋(略)山下より池の端(略)首振坂(略)村尾茶屋へ立寄水をのみ酒井下舘前(略)動坂(略)奥口より帰る
五日○七過よりお隆と園中より長屋幟見に行(略)庵の門より出、膳路次へ入庭を見る、留守の様子、鞍岡方へ行、茶・煎餅等出す、暫在、亘之助方へ行、式三郎独在、陶酒遣し五十嵐口迄行、るす也、福原方にて幟を見、妻等出る、高田長屋裏より入庭を見、野田方へ行暫在、又村井方にて暫在尾沢庭へ行、穴沢方にて暫休み暮前又庵の門より帰る
十八日○八半前より(略)浅草参詣(略)富土裏(略)千駄樹(略)谷中門(略)太師縁日ゆへ人叢大熱閙(略)塗中上野より人叢続ヒ、戸繋きいせ屋に(略)観音参詣、内陣込合、裏を廻り立て拝し(略)神楽堂前水茶屋に美人出る由云故廻り見る、又伊勢尾に(略)掌中に燈明点する僧布由ゆへ笠守開帳へ入るに爰にハ非れハ引返し、仏舎和開帳へ行、もはや済し由云、新堀橋際に去年より大垣の者の由七歳の児揮毫をなせ共いつも群集故見す、今日格子先人少ゆへ立寄、扇子に書を見る、甚能書也、車坂門へ(略)山下へかかり広小路春日野床机に休、池端より帰る(略)清水門外にて千垢離の幣を大勢振行にあふ、首振坂にて挑燈とほす(略)六半頃帰家
廿三日夏至○七過よりお隆・米杜同道東へ出る(略)増見郎上の植樹を見、皇角林辻より山王山、田畑村へ入、一丁計北行道灌山より下り又東の坂より上る(略)日暮辺忍冬を取り、佐倉屋へ行楽等云付、入相聞ゆ暫休み六過法華寺門より挑燈にて帰る、田畑僑を越反畝にて螢を取、六半過帰家
三十日○七過より富士へ行、供穴沢(略)不二辻にて藤等に逢ふ、女坂より参詣、野通り神明へ行、原に清兵衛茶鄽出す、虫売多し、甚賑也、帰路原にて又藤等に逢ひ光岸寺前迄召連(略)七半過帰る
 五月の信鴻は、四月の「女人形からくり」「卵女狼曲馬」に続いて見世物を追いかけているようだ。特に三日は、開帳もさることながら話題の見世物をいくつも巡っている。
 五日の「幟見」は、端午の節句に「幟」を立てるもので、信鴻が「鯉のぼり」とは書いていないところを見ると、この当時は「鯉のぼり」はまだ浸透していなかったものと推測する。
六月
六日○七過よりお隆同道近郊閑歩(略)制札脇より右折、大沢脇にて車前を摘、山王山より旧畑、並志茶鄽に休む(略)笠灯方にて今日並志月次会今済し様子にて客帰る容子、甲馬かへる、幕少前帰る
廿二日○九過より(略)浅草参詣(略)谷中門(略)車坂より(略)左方寺町ハ水湛へ見ゆる、田原町二丁メより並木へ出、風神門(略)伊諮屋に休む(略)観音参詣の内又小雨至、今日参詣甚少し、御手洗へ鰻放し直にいせ屋へ行傘さす(略)前路を帰る、上野見幽院前林にて暫休み(略)首振坂下(略)七少過帰る
廿四日○七過よりお隆同道日暮里へ(略)富士裏より御鷹部や裡間径、余楽寺弥陀参詣、青雲寺より見晴しへ行、佐倉屋へ行山下寺の庭にて涼み茶屋へ行田楽・鴨焼・菜飯等云付け六過起行、寺の門より出、内海前にて五の鐘聞へ五過帰る
 『武江年表』によれば、「○六月十五日より、湯島社内にて、小日向茗荷谷明照寺地蔵尊聖徳太子不動尊開帳、○春より霖雨、晴天は稀也、○六月十六日より、大雨降續、十七日別で大雨、千佳、浅草、小石川辺出水、大川橋、柳橋墮る、小日向大洗堰石垣崩れ、祁田上水切る」とある。この年は、春より天候に恵まれず、晴天が少なかったとあるものの、庶民の遊びは前年にまして盛んになっていた。しかし、この月あたりから影が忍びよつて来た。月半ばの大雨はあちこちに被害をもたらし、信鴻も「左方寺町ハ水湛へ見ゆる」と「今日参詣甚少し」と記している。