祭は庶民のものに

江戸庶民の楽しみ 87
祭は庶民のものになる
 江戸の祭は、慶長十八年(1613)神田明神から神輿が渡ったことからはじまる天王祭と、元和元年(1615)に山王権現から山車練物がはじめて江戸城内に入った山王祭が特に有名である。神田明神山王権現は、将軍家の産土神(うぶすながみ)で、天下様を氏子としていることから、両者ともに天下祭と呼ばれた。これに、正徳四年(1714)に根津権現の宝永祭が加わって三大祭となった。なお、享保三年(1718)からは、山王と神田の二社に戻った。
 古来、祭は生産や生活の折節に神霊を迎え祭るもので、農業生産の暦に沿っていた。しかし、江戸の祭はそうした古来の祭とは性格を異にしていた。また、祭の時には祭場が作られ、そこで行われていたものが、江戸時代には神輿渡御や山車行列などといった移動する祝祭空間を形成し、華々しい祭礼となった。特に江戸の祭は、祭事を盛んに行う傾向が強くなっていった。江戸の祭としては他に、赤坂氷川神社祭礼、佃島住吉神社祭礼、富岡八幡宮祭礼、浅草三社祭などがある。先ほどの天下祭は別名御用祭とも呼ばれたが、それは幕府の命によって祭事が盛大に執行されるからであった。天下祭の天王祭は九月に、山王祭は六月に、それぞれ隔年で、天下に公認された祭として江戸の町をあげての盛大な祭となった。
 文政年間には、出し物については幕府の方から金百両ずつの補助が出るようになった。そのため、各町では金に糸目をつけず、練物に様々な工夫をこらすようになった。しかし、天保以降になると、派手な出し物は次第に影をひそめ、節約の方向に向かった。また、幕府もあまり派手にならぬよう指導した。祭は読経に始まり、祝詞、神楽の演奏後、町を練り歩いた。その際には、百以上の町がそれぞれ山車を飾りたてた。そして町内を回って江戸城内に入り、上覧所の将軍の拝謁を給り、城を出て、また町内を抜けて、本社に戻るというものであった。
 祭の三日間は、町全体が盛り上がり、興奮のるつぼであった。祭の許可権は幕府にあったが、祭の主役は江戸庶民であるとの自負があった。このように、民間主導による祭を、誰もが揃って同じ楽しみに浸るということは、江戸時代にしかなかったのではなかろうか。祭は一年置きであったが、祭の用意は半年前からする町もあって、祭が終わると次の祭が待ち遠しかっただろう。天下祭は、天王祭と山王祭があることから、年に一回は庶民が馬鹿騒ぎできるようになっていた。このように、将軍の庇護の下ではじまった祭だが、時代がたつにつれ、主役は将軍から町の人々に移っていった。 
 ただ、江戸時代末期になると、世相を反映して、庶民が催す祭にもトラブルが多く発生した。幕末には、政情不安や将軍不在のため、中止や延期が多くなった。

嘉永1年1848年
春頃 芝高輪泉岳寺開帳(朝比奈大人形ノ見世物ガ出ル)を含め開帳4    
6月 回向院で嵯峨清涼寺開帳(万年時計等ノ見世物ガ大入リ)開帳     
7月  山王権現祭礼、獅子一団と長州藩警固の者が衝突・乱闘 
7月  浅草本蔵寺での甲斐青柳村昌福寺開帳を含め開帳2   
8月  角の芝居市川猿松座で『三国大市川対恋』初演     
8月  中村座で『高木織右衛門武実録』大当たり       
8月 女芸者の規制         
9月 神田明神蔭祭                    
11月 回向院で勧進相撲                   
12月 癇癪玉や好色絵商売の取締り実施
人情本が再び流行
○岡場所復活                              
☆この年のその他の事象
11月 普請中の新大橋、足場が崩れ、けが人多数
  
嘉永2年1849年
2月 回向院で勧進相撲                  
3月 両国橋で独楽回しの竹沢父子が大がかりな見世物、盛況 
3月  河原崎座で『伊達競阿国劇場』上演、団十郎の七役   
春頃  回向院での羽黒山麓玄良坊開帳(女角力興行)を含め開帳5  
4月  牛込原町幸国寺開帳                 
4月 吹上御殿上覧相撲       
夏頃 葛飾郡堀切村、小村井村、寺島村、本所四目などで花菖蒲の遊覧多し
7月 深川浄心寺身延山奥院開帳、参詣群集する      
9月 神田明神祭礼、規則出る               
9月 富士講と称して異装登山、俗人の行衣着用を禁止           
10月 目黒茶屋町酒肆の茶店の園内、牛御前境内などに菊細工 
11月 回向院で勧進相撲
11月 浅草田圃鷲明神の酉の市、事ありて開帳ないが商人は例年通り出る
浄瑠璃、薩摩座・結城座合同興行             
内藤新宿正受院の奪衣婆(ダツエバ)へ願掛けに群集
○投扇が流行る           
☆この年のその他の事象
春頃 小金井の桜が植え継がれる   
○種痘が盛んに行われる

嘉永3年1850年
2月 吉原揚場町の寄席で曲独楽興行中、大入りで二階が落ち死傷者が出る
春頃 浅草寺観音開帳(参詣人多数)を含め開帳5 
3月 回向院で勧進相撲
3月 河原崎座で『難有(アリガタヤ)御江戸景清』大当たり
3月 向両国に全身に鱗を生じた小僧が見世物、大入り 
6月  本所御船蔵前東大寺換物勧仏所で大和東大寺二月堂開帳
6月 麦湯茶屋見世が、華美な掛行灯や湯汲女が風紀を乱すとして取締まり 
6月  山王権現祭礼
7月 中村・市村座両座で『菅原伝授手習鑑』評判よく大出来 
7月  東両国の観場に「熊童子」の見世物、評判高く大入り  
8月  目黒龍泉寺での秩父郡我野子権現開帳を含め開帳2   
10月  小石川一行院で徳本上人三十三回忌法会に参詣群集   
11月 回向院で勧進相撲
☆この年のその他の事象
6月 曇天が多く冷夏、病人増える
12月 国定忠治、磔にかかる
○斉藤月岑『武江年表』刊行

嘉永4年1851年  
1月 中村座で『彩一座劇(テゴト)の福引』浄瑠璃大出来大当たり
1月 河原崎座で『伊達競高評(ウワサノ)鞘当』好評大当たり   
2月 江ノ島弁財天開帳、江戸より参詣人多数        
2月 回向院で勧進相撲                  
春頃 谷中惣持院門前・湯島天神茅場町薬師などで芝居興行 
春頃 浅草幸龍寺での下総国木村成顕寺開帳を含め開帳5   
春頃 両国で浪速の幇間が「膝栗毛」の茶番を興行し見物人多数
3月 新吉原に遊女大安売り、現金、引手なしの広告出る          
4月 鯨の見世物、浅草奥山と両国橋畔に出る
夏頃 茅場町薬師開帳(天神ノ役者ノ芝居ニ見物多シ)を含め開帳4     
夏頃 両国橋西詰に曲馬の見世物出て繁昌する        
5月 回向院の開帳に見世物多く出る            
6月 小日向妙足院開帳に日暮れかたより参詣多し      
7月 将軍、大川で騎馬水泳を見物  
7月 門口に線香を立てる目の呪い流行
秋頃 回向院での甲斐初鹿村栖雲寺開帳を含め開帳2     
8月 中村座で『東山桜荘子』「佐倉宗吾」大当たり     
9月 市村座で『源氏模様娘(フリソデ)雛形』「田舎源氏」大当たり
9月 神田明神祭礼、喧嘩あり               
9月 巣鴨染井の里、造り菊甚だ少なし
10月 両国橋西詰に虎の見世物でる                        
11月 回向院で勧進相撲
11月 中村座で『嬾(クラベ)源氏謄張(ヒイキノ)取舵』大当たり   
11月 田舎源氏の仮装で大川端を練り、奉行所からお咎め
☆この年のその他の事象
2月 取組日数に不平を訴え、回向院念仏堂に力士百余名が籠城する
3月 風邪流行で窮民に米を賑給   
3月 幕府、株仲間の再興を許す   
10月 桜花、所々で咲く       
12月 18才の「狸小僧」逮捕、翌年死罪