ペリー来航と庶民

江戸庶民の楽しみ 88
ペリー来航と庶民
 嘉永六年(1853)六月三日、ペリーは四隻の戦艦を率いて江戸湾に入った。幕府は予期してはいたものの、ペリーが最初から戦闘も辞さない高圧的態度であったため、狼狽した。幕府は、旗本、御家人にただちに非常出陣の用意を命じた。町奉行所も市中の取り締まりを強化し、非常の際の海岸町々の者の立ち退きなどを決めた。これらの緊迫した対応は、物価の高騰、買い占めなどを発生させ、江戸庶民にも黒船の脅威が実感として伝わった。そのため、ことの真相がわからぬ庶民の間に、流言蜚語が飛びかい、市中は不安に襲われた。
 たとえば、同年五月十日より60日間の予定で始まった本所回向院の國府あみだ如来の開帳は、参詣人も多く賑わっていたが、黒船騒ぎのために六月十日で閉帳となってしまった。七月三日より、再開帳したが、人の訪れが少ないために、二十二日には再び閉帳せざるをえなかった。さらに混乱の余波は続き、七月の佃島沖での狼煙稽古がなくなり、八月の十五夜の宴や彼岸祭りも寂しかったと斉藤月岑は、武江年表のなかで書いている。
 このように黒船騒ぎは庶民に不景気と不穏な空気をもたらした。國府あみだ如来の再々開帳は、九月十八日まで延期された。庶民が楽しみにしていた神田明神祭礼は、二年も先に延びてしまった。九月十七日に幕を開けた市川座の芝居興行、また同月二十四日に幕を開けた中村座も当初は不入りであった。そして、このような状況は、年末まで続いた。
 もっとも、江戸から少し離れた生麦村あたりになると、黒船停泊中に村祭りが日延べになった程度で、村の日常生活が大きく乱れた様子はなかったようだ。
 翌年(1854)正月早々、十四日にペリーは江戸湾に入り、十六日には羽田沖に停泊した。幕府は予想より早い再航に狼狽し、昨年以上の苦境に陥った。幕府は再度、非常体制をとるように命令した。一方、町奉行は昼夜にわたって市中見回りを行い、市民の動揺を諌め、物価が高騰しないようにと腐心した。
 ところが、市中は前回とはうってかわった冷静さで、騒ぎたてる様子はなかった。町奉行の説明や指導はあてにならないことを庶民は知っていた。彼らは幕府の弱腰を見抜いて、戦いは起こらないと見ていた。また、黒船に対して脅威は感じるものの、まさか庶民には発砲するまいと思っていた。そのため、庶民のなかには見物船を出してアメリカ船に近づく者もいたし、陸地から見物する者も多数出現した。もちろん、異国船見物の禁止の触は出ていたが、人々は川崎詣でと称し黒船見物に出かけていた。夥しい群衆が見物にむかったため、大森の茶漬けが売り切れたという話があるくらいだ。
 江戸市中は年末からの不景気で、正月の芝居興行の見物人が少なく、中止したり、興行を見合わせたりした。ところが、奉行所は今休んでは世間体が悪いから、芝居興行を行うようにと申し渡した。そして、町奉行所は芝居に関係のある者たちに金を出させて、ただちに興行をはじめるように命令した。仕方なく、市村座は、市村団十郎の扮する和藤内の「国性爺合戦」を興行したところ、この芝居には、和藤内が唐の王を生け捕りして縛り上げる場面があったことから、大当たりとなったという。
 このように、江戸の町人は、一時は幕府の命令にしたがったが、黒船騒ぎが自分たちに直接悪影響を及ばさないとわかれば、それを楽しむという方向に素早く転換している。黒船の時に限らず幕末の出来事は、国家の一大事であったが、必ずしも国民の全てが実感しているものでない。その影響は、すぐ生活にはねかえるのではなく、後になって徐々に反映してくる。ペリー来航の意味やその影響は、当時の誰もが正確にはとらえることができなかったと言ってよいだろう。
 ペリー来航に始まった幕末は、政治的な混乱に加えて、安政の大地震コレラの流行、諸物価の高騰など、江戸の人々にとって平穏な生活を送りにくい時代であったと思われる。安政の大獄桜田門外の変、打ちこわし、十四代将軍、孝明天皇の相次ぐ崩御大政奉還、「ええじゃないか」騒動・・・、と目まぐるしく事件が起きている。
 文久年間には、生麦事件によって幕府は窮地に陥り、再度の非常体制をとるよう命じている。これによって近郊へ避難する人々があり、混乱に乗じて盗賊が出没するなど、江戸市中の混乱が伝えられている。事実、両国橋際には木戸ができ、西広小路の小屋は取り払われ番所が建てられた。向島のサクラの見物人に武家の姿はなく、人出も少なかった。押し込みや殺人が多発し、文久三年十一月には、夜間の提灯なしでの通行が禁止された。さらに、人目につきやすいところに「天誅」などと書かれた幕府批判の張札が多く貼られた。この時期、庶民は、不景気の上に物価の高騰、生活苦による不満が鬱積していたものと考えられる。そして、慶応二年、品川宿から江戸中に広がった打ちこわし、豪商などに施しを求めた貧窮民の騒動が起こった。それに続いて関東の村々の打ちこわしや百姓一揆が十万人規模で行われた。都市下層民や没落小農民のこうした行動は、世直しを求める多くの人々の声を代表するものであり、庶民も動乱に積極的な参加をしていたとの見方もある。そればかりか、江戸住民の自治とも言うべき動きが芽生えつつあったなどと、民主主義の目覚めととらえる見方もある。
 これまでの歴史の解説では、幕末の混乱は新しい時代を待ち望む民衆のエネルギーの発露で、それが維新に結実したのだとするものが多い。徳川幕府封建社会が崩壊し明治新政府が成立した流れだけをみると、明治になって、士農工商身分制度が改められ、四民平等の下、庶民は初めて自由を獲得したなどと理解してしまう。はたして、江戸の打ちこわしをはじめとする一連の騒動を、庶民の民主主義の目覚めや解放運動の実例などと見ることができるだろうか。実はもっと違った性格を持っていたのではないだろうか。幕末から維新にかけての出来事を庶民の立場から見直して、幕末期の騒動や維新後の社会についての真の姿を捉えてみたい。それには、庶民の誰が、どのくらいの人数で、どのようか形態で、打ちこわしや「ええじゃないか」騒動に参加していたかを見る必要がある。

嘉永5年1852年
1月 市村座で『里見八犬伝』大当たり           
1月 河原崎座で『恋衣雁金染』大出来大当たり       
2月 千駄木七面坂坂下紫泉亭、梅園を開き来訪多し     
2月 回向院で勧進相撲
春頃 亀戸天神開帳を含め開帳8              
閏2月浅草奥山に鯨細工の見世物、喝采を浴びる       
4月 猿若町の結城孫三郎の繰芝居、不繁昌で休座となる
5月 夜毎に麦湯店の若い湯汲女の接待を禁止
夏頃 回向院での三河矢作村光明寺開帳を含め開帳3
6月  山王権現祭礼
6月 千駄木の植木屋六三郎の発案で、浅草奥山に遊観地を造り公開する
7月 佃島沖で合図烽火(ノロシ)調練(中島流火術名人ヲ偲ンダ)、水陸に見物人
7月 浅草本蔵寺での下総中山法華経寺開帳を含め開帳2   
7月 市村座で『名誉仁政録』立廻り評判大当たり      
7月 河原崎座で『地雷也豪傑譚』大当たり         
8月 麹町平河天満宮境内で子供芝居興行          
11月 回向院で勧進相撲
11月 小万年青が流行し、三両以上の鉢物の売買が禁止
11月 諸家に出入りする自称狂言師の出入り禁止

嘉永6年1853年
1月 深川永代寺境内で繰芝居百日の間興行する
春頃 浅草本蔵寺で鎌倉松葉谷安国寺開帳を含め開帳4
2月 回向院で勧進相撲
3月 伊勢町で一丈七尺の大烏賊が見世物に出る
春頃 夏にかけて、浅草奥山に曲馬の芝居興行
4月 深川仲町にオランダ渡りのオルゴールの見世物がでる
夏頃 回向院での伊勢安濃郡津大宝院開帳(灯心細工ノ大虎等ノ見世物モアリ送迎見物・参詣人多数、8月閉帳シ9月再ビ開帳)を含め開帳2
5月 両国東詰に見立女六歌仙の活人形の見世物出る
6月 子船町天王祭礼で出輿、赤坂氷川明神祭礼で山車練物出す
7月 浅草本覚寺で東葛西一ノ江妙覚寺開帳
8月 神田明神祭礼、翌年に延期
9月 河原崎座で『怪談木幡小平治』上演、宙返りの怪談好評
10月 上練馬村円光院開帳
10月 芝神明祭礼、先月より延びて執行
11月 回向院で勧進相撲
11月 西久保八幡宮祭礼、百日芝居興行あり
☆この年のその他の事象
5月 江戸の女髪結い(1400人)に転業教諭(奢侈禁止ノタメ)
6月 ペリーが浦賀に来航
6月 築地・鉄砲洲・芝・高輪の各藩邸の婦女子に避難命令が出る
10月 徳川家定、13代将軍になる
11月 三座芝居役者入替わり春に延びる

嘉永7年1854年
春頃 龜戸東覚寺開帳を含め開帳3
2月 回向院で勧進相撲
3月 河原崎座で『都鳥廓白浪』大出来大入り
4月 押上最教寺で什物、蒙古退治旗、曼陀羅を拝ませる
5月 市村座で『仮名手本忠臣蔵大切り迄大当たり
6月 中村座で『旅雀我好(アイヤド)話』大当たり大入り客留
7月 牡丹餅を食べれば、流行病にかからぬとの噂で牡丹餅が大量に売れる
閏7 芝金杉正伝寺開帳
閏7 延びた山王権現祭礼、23日に執行
8月 牛込赤城明神境内で、百日芝居興行
8月 外神田御成道大久保熊次郎屋敷の鎮守・儀明稲荷・寶珠稲荷・子安稲荷社へ願掛け成就すると、日毎に参詣者増える
8月 八代目市川団十郎が大坂で自殺し死絵が多数つくられる
9月 芝明神社で曲馬見世物でる              
10月 千駄木の邊、菊細工を見せる植木屋が六軒程出る
11月 三座芝居顔見世狂言、大火事で全焼し、春に延期される
11月 回向院で勧進相撲
○浅草田町の福徳稲荷が大流行
○この頃、朝顔が再び大流行する
☆この年のその他の事象
1月 ペリーが再び浦賀に来航
3月 日米和親条約が締結される
4月 伊勢町拍戸百川で卓袱料理始まる
5月 皇居造営に豪商が献金させられる
7月 日章旗を日本の総船印に定める 
秋頃 千駄木藪下の植木屋と浅草奥山人丸社前にも瀧が作られ、水浴させる
11月 畿内から江戸にかけて大地震
11月 中ノ郷業平橋の手前に庭に湯滝を設けた料理茶屋ができる