馬琴のガーデニング 2

馬琴のガーデニング  2
 
馬琴の花壇
  このように馬琴の庭を見ていくと、果樹園や家庭菜園があったりして現代のガーデニングと似たようなものであったことがわかる。当時、自分の庭で果樹や野菜を作るのは、馬琴だけでなく下級武士なら誰もがやっていたことであった。江戸近郊の農家は、野菜の苗を大量に生産し、江戸の町で売り歩いていたが、武家屋敷がそうした人々の最大の得意先であったことはあまり知られていない。また、武家屋敷に下肥をもらいにくる百姓から、下肥の代価として野菜の苗を受け取ることもあった。
  したがって、実際にはかなりの野菜を自給して家計の助けとし、下級武士ほど家庭菜園に頼っていた。馬琴がブドウ作りの名人であったように、下級武士の中にもプロ顔負けの野菜作りがいてもおかしくない。植物栽培に長けた人は、果樹や野菜だけでなく園芸植物や鉢植なども手がけていた。馬琴は、サクラソウフクジュソウなどの鉢植えに関して、貰ったものを育てる程度であったが、武士の中にはそれを専門に作っていた人もいた。中には、大久保百人町のツツジで名をあげた伊賀組の御鉄砲百人組のように、町をあげて園芸にはげんでいたセミプロの武士もいた。ガーデニングが本当に好きでやっていたのなら幸せだが、大半の下級武士の台所は苦しく、内職としてやっていた人が少なくない。それを思うと、下級武士のガーデニングは優雅な趣味とばかりはいえなかったかもしれない。
野山草より
イメージ 1 現代人から見れば、江戸のガーデニングで最も注目したいのはやはり花壇である。馬琴の庭には、アサガオ、キク、キキョウ、クロッカス、ケイトウ、コオモト、シオン、シュウカイドウ、スイセン、ツリガネソウ(ツリガネニンジンか)、トラノウ、ナデシコ、ノコギリソウ、フジバカマ、ユリ、ワレモコウなどの草花にクチナシ、チンチョウゲ、ツツジ類、ハギ、ヤマブキ、ロウバイ等の花木が植えられていた。                                                     野山草より
イメージ 3  下級武士の庭にも、草花は植えられ、四季折々の花が見られた。しかし、当時の花壇は、現代のように花の美しさだけを求めて育てていたのではない。植物は、たとえ雑草と言われるものにも大抵は何らかの薬効がある。当時は、まだ医療体制が整っていなかったので、各家庭で薬を常備しておく必要があった。そのため、人々の植物への関心は、食料の次に薬として使えるかという点にあり、何種類も薬草が庭に植えられているという光景は珍しくなかった。馬琴の息子は、いちおう医者であったから、花壇には薬草が多かったと推測される。医者であれば、百種程度の薬草があっても不思議ではないであろう。当時の薬草の中には現代のハーブと言えるような植物がたくさんあり、ハーブコーナーのような場所もあっただろう。
 
ガーデニングは馬琴の生き甲斐
  庭の手入れは、馬琴の趣味であったらしく、執筆に疲れた頭を休めるため、時々小山の掃除や草むしりをしていたという。草むしりと言えば、誰でもできると思うかもしれないが、実は違う。草むしりができれば、ガーデニングのプロである。実際に草むしりをしたことのある人ならわかると思うが、闇雲にひっこ抜けばいいというものではなく、残そうとする植物を随時確認しながら行わなければならない。しかも、腰が痛くなるほどやっても、わずか数日で、元のもくあみ、またもや同じことを繰り返さなければならないという作業である。
野山草より
イメージ 2 草むしりの好きな馬琴は、人との交際が苦手で外出を好まないこともあって、ガーデニングが唯一の楽しみになっていたのではなかろうか。ある時には、息子とともに花壇を耕し、肥やしを入れ、キクやキキョウその他の植物を植え替えたり、丸一日庭仕事を行っていたこともあった。それだけ庭の手入れをしても、やり尽くすことはなく、植木屋の手も必要とした。
 植木屋が来れば来たで、馬琴は、朝十時から作業に立ち会った。馬琴は植木屋が来るのを朝早くから心待ちにしていた。そして、どのように庭の手入れをしてほしいか、植木屋に事細かく指図した。少ない年は一日という年もあったが、多い年には十一日、平均して七日程度植木屋を出入りさせている。最も多く植木屋が入ったのは、旧暦の四月、五月で、これは現在の五、六月にあたる。主な作業は、高いところの剪定整枝で、マツの緑つみ(新芽を短く揃える)など、年寄りにはできないことが大半であった。年末に植木屋を頼むこともあったが、新年を迎えるにあたっての庭の手入れは、馬琴と家族で行っていたものと思われる。
 馬琴の庭に植えられている植物は、知り合いから貰ったり植木屋が祝儀に持参したもの、植木見物に出かけた際に買い求めたものが多い。なかには、知人からウメの一枝を貰って庭のウメの木に接ぎ木したりもした。もちろん馬琴自身が行ったもので、やはり彼のガーデニングの技量はなかなかのものである。では、馬琴は、防虫や施肥などの園芸技術をどこで学んだのであろう。馬琴は器用な上に勉強熱心であったから、たくさんの参考書を繙いて独学で習得したものと思われる。江戸時代には二百冊以上の園芸関連書が書かれており、このことからも庭作りや園芸が非常に盛んであったことがわかる。
 神田に移って五年後、馬琴は根岸の方へ引っ越しを考えたことがあった。その時、自宅の植木を移植しようと植木屋に見積もりを取らせている。結局は引っ越しそのものを中止したのだが、馬琴は自分が手をかけていた木は、大した価値のないものでも持っていこうと考えた。今よりも人件費は割安だったが、それでも生け垣などは移植したほうが高くつく。新たに植えた方が見栄えや後の手入れも楽なのだ。植物への愛着が強くて打ち捨てることができなかったのだろう。
 天保七年(1836)、神田から信濃町に移ってからは、徐々に視力が失われていったことによって、馬琴のガーデニングも以前のようにはできなくなったに違いない。それでも庭への関心はあったと見えて、亡くなった喜永元年(1848)にも回数にして四回、延べ十一日間も植木屋を入れている。晩年は、以前にも増して困窮していたにもかかわらず、植物への愛着が庭の手入れを続けさせたといえるであろう。