娯楽禁止が緩む昭和二十年一月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)263
娯楽禁止が緩む昭和二十年一月
 昭和20年(1945年)に入ると、戦局の悪化は米軍に対してだけでなく、中国でも始まっていた。しかし、軍部はまだ「本土決戦」に望みを抱いていた。国民のすべてが死ぬまで戦うというスローガン、「一億玉砕」はそれを端的に表している。
 空襲におびえる市民の心を支えていたのは、偽りの戦果、戦意向上の叱咤激励に加えて、ラジオから流れる娯楽番組や映画・演劇などであった。その日の食べ物にことを欠く毎日、着の身着のままの生活ではあるが、焼け残った映画館には長蛇の列ができ満員と、市民が大勢出かけている。特に、戦況の悪化がハッキリとしてくると、これまでの娯楽禁止が緩和され、市民のレジャー気運は高まったようにも見える。
 年が変わっても、レジャー関連の新聞記事は減少し続けた。戦果の記事は、事実をそのまま伝えていない。また、市民生活の耐久を進めようとする記事しかない。そこで、当時の状況を古川ロッパの日記を中心に紹介したい。
注・Aは東京朝日新聞朝刊・aは夕刊
  Yは読売朝日新聞朝刊・yは夕刊
  Tは東京日日新聞朝刊・tは夕刊
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昭和二十年(1945年)・一月、米軍ルソン島上陸⑥、B29白昼東京を爆撃(27)、空襲にも馴れて正月気分を味わおうとする市民。
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1月2日Y 「社頭に誓う“神風”の闘魂」明治神宮の初詣
  2日A 「父さん隠し芸・・防空壕の正月楽し」
  6日A 「禁酒もしよう、旅行も自粛、ビールは二円、入場税大衆向きも総て十割」
  9日Y 陸軍始観兵式精鋭数万、八年ぶりの宮城外苑
  23日A 「ラジオはもっと面白くならぬか」
  26日A 「四日に一度の入浴とする 男湯の日と女湯の日とする」
  26日A 「おいもは立派な兵器」

 元日の新聞Tには、国民の気持ちを引き締めるため、「この上は何れ遠からず帝都の真中に敵の爆弾が落下するであろうから、その時を待つほかあるまい」と書かれている。これまで恒例であった元日興行は、禁止されたようだ。新聞には正月らしさが皆無の中、二日付Aで「藁座敷・父さん隠し芸、工夫一つで 防空壕の正月楽し」との記事がある。正月を防空壕の中で過ごさざるをえないこと、市民の不満はないのであろうか。
 ロツパは三日の日記に、「今日は天気もよし、人出が多い。此の一日二日ブウと来ないので、そろそろ人出だ。人間てものは全く現金なものだ。渋谷から、東横へ。客はもう行列してゐる。・・・これならいつもの正月と変わりなし」と。
 四日も電車が大混雑、ロツパの東横映画劇場は大満員、「江東の新国劇も頗る良好、浅草の各座も大入りとのこと」。
 五日付新聞Aで、「遊閑者なき勤労体制 機動配置に強力な体制」と、「女子も新規徴用」「勤労義勇軍を活用」など、掛け声だけとなりそうな記事がある。
 六日付Aでは、「“戦増税”と日常の生活」「耐乏で“納税一本” 禁酒もしよう、旅行も自粛」と続く。「ビールは二円」など、入場税大衆向きも総て十割と、またも締めつけ。
 七日付Aには何と「日曜朗話集」として、「元日に「防空祝勝常会」「“肥料まき”してくれたB29」との記事。内容は、B29が落とした爆弾が肥溜めに落ち、爆発で飛び散り、肥料を播いてくれたということ。これを朗話とする感覚、ブラックユーモアをどの位の人が受け入れたのであろうか。
 ロッパの九日の日記には、「慣れるということは、全く恐い。近頃の東京都民の、空襲を恐がらないこと、又、敵機が去れば、もう忘れたかの如きのんきさ。我自らも、そうなのだが、まことに馴れは恐ろしい」とある。
 『初春一番手柄』等を公演している東横映画劇場は、九日まで大満員。翌十日は、高見順の日記によれば、銀座通りに夜見世出ており、参詣した虎の門金比羅も健在、「人出がある」と。
 正月気分が抜けたのか、ロッパの日記は、十日からは客足が落ちたことが書かれている。
 なお、高見順の十四日の日記には、「日比谷映画劇場の前へ・・・長い列」とある。
 ロッパの日記十六日には、「・・・ポーウーと来た。あれ、午前十時の来訪とは珍しい。ラヂオ『敵一機は関東地区へ侵入』と言ってる時には、もう高射砲ズドンズドン。食事する。食っていゝ、考へてゐたら可笑しくなり、ふき出した。『敵が上空にゐると言ふのに飯食ってるんだからね。』・・・」
 当時の東京の情景を、「電車が滅茶々々にこわれている。窓硝子はなく、椅子席の布がない。窓は乗客が強いてこわすものであり、布は盗んで行くのである。電車が遅いといっては、無理に破壊するのだそうだ」。十六日、清沢洌は「敵に対する怒りが、まず国内に向かっている」と思った。荒廃しているのは、人心だけではない。市内は、日中の人出はあるものの、夜になると気味の悪いように街中に全く人通りがなくなり、不吉な感じさえするようになった。
 二十三日付新聞Aに、「沖縄に又五百五十機 二日間で百五十機屠る」とある。ほかに「三空母を大破炎上 神風隊 台湾沖に出撃」など、日本軍の戦果などを連日伝えている。戦果に市民は不信を感じ始めているかもしれないと、当局も察し始めたか。そのためか、とうとう、「ラジオはもっと面白くならぬか」との記事A(23)が出る。市民は何となく戦況の変化を感じ、不安を紛らわす面白いものを求めていることは確かであろう。
 ロッパの日記二十三日、「・・・昨夜寝て間もなくである。ブーブーと急しさうなサイレン、やれやれ、ラヂオを入れる、ねむくて半分トロトロし乍らきいていたが、おなじみの『ヒト機』なので、起きる気せず、西方へ行ったといふところ迄で、あと寝ちまひ、解除を知らず。」
 二十六日付Aに、「明朗生活へ当局の配慮」「一等は十万円止まり 賞金代わりに酒、煙草も考慮」と、富籤の記事がある。
 ロッパは二十七日の日記に、「映画館の前には、長蛇の列。目下『勝利の日まで』上映中、大変な当り。だから見ろ、今回の東横は出しものが悪いのさ、いゝものやれば必ずもっと来るのさ」と、書いている。
 二十八日付Aには、「帝都にB29約七十機 重要工場被害なし」との記事。重要工場以外の被害については触れていない。
 ロッパの日記二十八日、「・・・昨日の空襲では、丸の内に大分爆弾が落ち、朝日新聞社も硝子が全部こはれた由、有楽座も危い、山水楼は炎上したとのこと、又銀座方面も被害ありたる模様、驚いたな。・・・はしゃいで、いろいろやると客は笑に飢えてゐて必要以上に笑ふ。でも、底に不安が漂ってゝ妙な気分・・・」
 ロッパの日記三十日、「・・・今日は自腹で二百円ばかり切り、僕が此の慰問を提供する。・・・田浦着、横須賀海軍航空隊へ。加藤司令と会ふ。見た目一万人(五千人といふが)の前で、久々マイクロフォンで歌ひ出す・・・」