空襲の恐怖でも娯楽を求める昭和二十年二月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)264
空襲の恐怖でも娯楽を求める昭和二十年二月
 この年の冬は室内の水が凍るという寒さ、食料だけでなく燃料も不足、清沢洌は八日、「三十年の東京生活で知らない。炭はなく、本年の寒さは誰にもこたえる。本年の冬を通じ、先頃、一俵の木炭の配給があっただけである」と、当時の状況を記している。
 二月には、東京への空襲が本格的になる。とうとう豆撒きもなくなり、出かけるところがなくなっている中、一日から二十日まで、日比谷公園で「B29機体展覧会」があった。十一日の祭日、古川ロッパは「B29の巨体を見て、『これぢゃあとても敵はない』と言い乍ら、すっかり憂鬱になって帰るわけ。何という愚挙」ともらしている。あまりにも大勢の市民がB29を見に訪れたため、有楽町駅では切符を買うのに二十分も行列しなければならなかった。
 好奇心だけでなく、面白いものを求めているのだ。多少怖くても楽しもうとする市民は、少なからずいる。逆に、恐怖を忘れたり逃れるため、求めるものもある。映画や演劇などは、空襲が迫っている中での逃避として、鑑賞することも否定できない。自分では芸術を堪能するとしていても、深層ではやはり恐怖を無視することが出来ない為である。
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昭和二十年(1945年)・二月、B29約130機空襲で7万人以上罹災(25)、撃墜したB29の野外パノラマを大勢の市民が日比谷公園で見る。
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2月1日Y 日比谷公園で「B29曝し物」
  2日A 「勝利の日まで享楽お預け 停止中のの遊休施設は挙げて戦力化」
  4日T 松阪屋で東京都日用品交歓会開催し盛況
  18日A 大曲観世能舞台で都民慰安能「放下僧・鬼界島」など二十日から三日間開催

 ロッパの日記二日、「・・・外は、ビュービュー嵐のやうな風の音。ブーウと来た。八時前だ。ラヂオ『敵機一機』風が強いのに御苦労な。服着て、オーバ着て、防空頭巾被って茶の間へ。八時半前に、一機は関東東部に爆弾投下して南方海上へ退去ときいて、寝袋になって床へ半身もぐり込む。又空に爆音。・・・」と、空襲への恐怖を記している。
 三日、松阪屋で東京都日用品交歓会。午前九時の開場前から行列ができ、来訪者の多くが中高年の女性、開場と同時に陳列場に殺到という現代のバーゲンセールを彷彿させた。人気は、靴、時計、厚地のモンペになるもの、台所用品、子供の着物などであった。価格は、闇なら五百円する豪華な女物帯が五十円など格安であったが、ゲートルなど必需品は安くはなかった。
 四日、高見順の日記によれば、「映画館街にはやっぱり人が出ている」と。
 戦局は日増しに悪化、流言が増加してきた。また、このまま戦意向上を押しつけるだけでは行き詰まりを感じたのか。二日付の新聞には、「勝利の日まで享楽お預け」と出しておきながら、ロッパの七日の日記には、「娯楽の変貌は又甚しく、最近、警視庁の寺沢が、軽演劇のシミ金などを呼んで、時局がかうなったから、アチャラカを許す、大いに辷ったり転んだりしろと申し渡したと言ふことである。」
 ロッパの九日の日記に「弁当を食って、次のセットへ行かうとしてると、プーウとサイレン。然し、芝居と違って、撮影は平気で続行。」と、空襲を無視している。そして、翌日の日記では、「・・・九時四十分、プーウー。でも驚かず、オープーンへ・・・青空に、ブーンブーンと、銀色に光るB29一機、高射砲の射撃を浴びつゝ、悠々と通る。何うにもならねえのか。と皆空を仰ぐ。僕、B29といふものの姿を見たのは初めて。撮影にかゝると、又一機、今度は逆のコースで、西から南へ向って飛び行く、友軍機が追ってゐたが、悠々と去りぬ。」と、空襲を悠長に構えている。
 十一日の日記では「二時半プーと来て起される。ラヂオの情報が、今迄の『東部軍情報』をやめて、『東部軍管区情報』と長くなった。折角おなじみになった言葉を更めることもあるまいに、こんなことばかり考えている奴があるんだな。十三分で解除。又寝る。」と、空襲情報を余裕を持って観察するようになっている。
 十二日の日記は、前記したB29について「・・・日比谷公園を抜け、旧音楽堂前のB29の展覧会を見る。馬鹿な話だ。デカバチもないB29の傍に、小さな日本機が置いてある。・・・」だが、何とも言えない心境になったのであろう。
 十三日の日記には、同様な心境であろう「・・・井ノ頭公園を横切って--何と此の公園の森が伐られて、木の根ばかり、樺太の如き光景となり果てゝゐる。・・・」と、記している。
 しかし、空襲の恐怖は十六日の日記に「プーと鳴るので眼が覚める。まだ夜半かと思ったら、七時だ。ラヂオをかける。『敵小型機の数編隊は」と来た。や、それでは艦載機か、ハッとして、子供ら、母上を防空壕へ追ひ込み、僕も入る。・・・又もや、ラヂオは、小型機とB29と両方で何十機とかが来ると告げる。こりゃいかんと、あはてゝ壕へ入る。敵機らしき唸り、それに被せて、高射砲の音、さんざ響くうちに、ドカンバチンと、何処か近くへ落ちたやうな音がした。・・・大庭の伜が伝令。便所を機銃らしいものでやられてしまった、・・・ラヂオは、再び小型機五十機の編隊来ると告げた、いけません、又壕へ入る。・・・」と、やはり身の危険は感じていた。
 さらに十八日の日記では「夜半敵機頭上通過と来ては全く快眠出来ない。八時半頃起きる。壕内に一夜を明した子供ら食事中。新聞の戦果を見る。苦しい苦しい。『読売報知』の如きは、『本土再侵襲は必至、敵機動部隊一応後退か』と、何っちの新聞だか分らない標題を揚げてゐる。くさくさしちまふ。・・・」と、日本軍に対しての不満を、真実を伝えられない新聞に当たっている。
 二十一日の日記「・・・ドカン! と地ひびきのする音、爆弾だ、何処だらう、新宿か、もっと遠くだらうか--然し、もう行っちまった、又寝る。生きた心地はしない。九時まで寝る。新聞には『硫黄島に敵上陸』の大見出しで、何紙も書き立てゝいる。・・・それにしても、敵機もうるさ過ぎるではないか、こんなに、執拗に毎日何人もの人が、命惜しまず来るものだらうか、それがアメリカ国民の気魄だらうか。いやいや、これも或る個人の利益のために躍らされてゐる人々の姿ではなかろうか。敵も味方も、結局は、軍の、政治家の犠牲ではないのか。・・・七時半過ぎ、ラヂオ、海洋吹奏楽団の放送、第一が『硫黄島陸海軍の歌』といふ、呆れたな。上陸された硫黄島の歌だ。・・・」と、やりきれない気持ちを示している。
 空襲の恐怖は二十五日の日記で「ブーウーで目が覚めた。八時前だ。便所へ入り、いきんでると、空襲のサイレン。うわ、いけない。途中打ち切り、・・・外は雪ますます盛、手紙を書いてゐると、『B29らしき数目標、南方海上より東進しつゝあり、その先頭は遠州灘に向ひつゝあり、その本土到着は、約二十分後なるべし』と来た。・・・皆を急かして壕へ入った。・・・B29の五編隊、それに小型機が又別に来て、丁度頭上を、通る。バッバッといふ高射砲の音、一時は全く生きた心地ではなかった。・・・」と、空襲の対応について記している。
 その空襲は、高見順の二十七日の日記に記されている。彼は、二十五日の空襲でまだ煙の上がっている神田周辺を歩き、「焼け跡はまだ生々しく、正視するに忍びない惨状だ」と、「だが、男も女も、老いも若きも、何かけなげに立ち働いている。打ちのめされた感じではない。そうした日本の庶民の姿は、手を合わせたいほどけなげさ、立派さだった」と誉めている。その後に、「日比谷映画劇場の前を通ったが、そこでやっている東宝映画の『海の薔薇』という衣笠貞之助演出の間諜(かんちょう)映画を見ようという人たちが物すごく長い行列を作っていた」と。さらに、二十八日には浅草を訪ねて、「映画を見にきた人々で雑踏している。この、人間の逞しさ。軽演劇のかかっている小屋から、朗らかな音楽が聞こえてきた。この、生活の逞しさ」とも綴っている。